第2章
神秘的操作‥‥‥本当のところ、誰が「神の組織」を運営しているのか。
神秘的操作
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また全地でエホバの組織だけが神の聖霊つまり活動力によって導かれているという事実をも考慮してください(ゼカリヤ4:6)。この組織だけがエホバの目的のために機能を果たしているのです。この組織にとってのみ、神の聖なるみことば、聖書は封じられた書物ではないのです。世の多くの人々は非常に知的で、複雑な事柄を理解できます。彼らは聖書を読むことはできますが、しかしその深い意味を理解することはできません。真のクリスチャンは、「神の
奥深い事柄」を理解している地上の唯一の組織と交わることの価値をどれほど深く認識しているか知れません(「ものみの塔」1973/10/1 P.594 )
「聖霊‥‥‥新しい秩序の背後にある力」は1976年に出版されたものみの塔出版物のタイトルである。使徒行伝のうち、ペンテコステ以来の「聖霊」の働きを調べた後で、この「聖霊」が、「神の建てた王国の良いたより」を伝道する働きを始めるため、1919年に投獄された8人のものみの塔組織の幹部にエネルギーを与えたことを証明しようとした。その本には述べられている。
1919年、「神からの命の霊」が抑圧されていたた証人たちの中に入ったのは、そのような世界的な王国伝道のためでした。(143頁)。
「ものみの塔」によれば、この「聖霊」は組織内の油注がれた者の「残りの者」にだけ、唯一働いてきた。一方、組織外の者は、すべて悪魔にだまされているだけである。この「聖霊」はいまだに現代のエホバの証人の組織の背後に控えている力であるとも言われている。
エホバは終わりの日に聖霊を注ぎ出すことを預言しましたが、その聖霊はまだ働きを終えていません。残りの者たちはその霊の名においてキリストの弟子にバブテスマを施すことを続けているからです。‥‥‥神があらゆる賑なる者の上にご自分の霊を注ぎ出すことに関しその発表された目的は、それを受けた人たちが預言することでした。キリストの油そそがれた弟子たちの残りの者は、神の王国を支持する証しとしてあらゆる国民に対するその預言の業を行なっており、事実がそれを裏づけています。このことからも、彼らこそ神の霊がその上に注ぎ出された人々である、と言えます。その霊が彼らのなす世界的な伝道の背後にあるのです。この点をどうして疑うべきでしょうか。
(「聖霊‥‥‥新しい秩序の背後にある力」145頁)。
どうして疑うべきでしょうか‥‥‥。それはもっともな疑問である。ものみの塔は110年間、存在してきた。その程度の期間であれば、この成長する組織に働きかけている「聖霊」の働きを十分検討できる。さて、その足跡としては何が残っているのだろうか……。
その創草期にさかのぼれば、シオンものみの塔の創設者、C.T.ラッセルは、1799年が終わりの時の始まりであり、1800年代後半の世界の出来事は、まさしくマタイ24:3から14の「しるし」を満たしている、それは1874年、キリストが目に見えない形で復活する、1914年がこの世界の終わりとなるのは明確なである。その聖書研究生たちは、軍隊に入り、誕生日などの祝日を祝い、たばこが吸えて、投票もできて、その全員が天国にあげられていた。こうしたはじめの頃の信条はことごとく、今では「真理」とは思われてはいない。投票、軍隊勤務、喫煙、祝日のお祝いは、今では排斥の理由となる。1799年と1874年に関する預言は捨て去られ、1914年と「時のしるし」は解釈し直されている。「聖霊」は真理を伝えなかっただけだろうか。聖書研究生が正しくこの「霊」を理解していなかったのだろうか。
単一「霊」ではなく、複数の「霊たち」
ものみの塔の2代目会長ラザフォードは、この聖霊はもはや教会の「助け手」としてその必要がなくなったと、実際に主張した。キリストは今や目に見えない形で
臨在し、キリストの天使を通して人間の組織を監督するからだ。
この霊(聖霊)によって、エホバ神は適切な時点に向かって人々を導くきます。「なぐさめ人」が取り除かれるときまでは、そのようにしてきました。組織の「頭」、イエスが神殿に入り、1918年に大いなる裁き手として裁きを始めた時、忠誠さが認められた者を集めたときに、必ずや、起きます。‥‥‥「保護」ラザフォード1932年。193、4頁。
「主」が宮に入り、選ばれた民(2テサロニケ2:1)を集めてしまうと、聖霊は教会のための献身や仲介の働きを止めるだろう。同上46頁
ラザフォードは、遠くから事物を監督している生命力のない「聖霊」ではなく、今や天使(あるいは奉仕の霊)が、組織と直接、交信していると教えた。
エホバは、その人々に指図をするために組織の中で必要な取り決めをしてきました。そして数年間、ものみの塔が神の民に情報を伝達する手段となっていることをすべての人が認めています。ものみの塔に原稿を準備する者たちに霊感がある意味ではありません。そうではなく、天使を通して、ふさわしい時に民に原稿が与えられることを「主」が、分かる意味です。「主」は預言の成就の出来事を手渡します。そして「主」に献身した者が同じことを知るために「
主」のもとに招きます。‥‥‥‥‥「富」1936年、316頁。
ラザフォードもものみの塔も、霊感を与えられていることが否定されている箇所を覚えておきなさい。次の引用に明示されたように、エホバとキリスト・イエスが聖書をすべて解釈する。その解釈は、ものみの塔を作る者を通して、天使によって協会に手渡されると主張している。
忠実な残りの者あるいはエホバの油注がれた証人の社会は、地上での解釈の裁き手であることを表わしていない。聖書解釈とその預言を委任したのだ。いや、キリスト・イエス王は、彼らにその職務を任せなかった。「最高法院が今だに解釈を下している」。神に感謝する。キリスト・イエス(法院の解釈の公的代弁者)は、エホバの「忠実でさとい奴隷」級の頭としてその職務を自からに保留する。キリスト・イエスが解釈を明らかにするまでは、最高法院に従って解釈を公にするために「奴隷」級を用いるに過ぎない。"Watchtower" 1943/7/1
P.203
こうした天使の霊はどのようにしてラザフォードに「解釈」を伝達したのか。
そしてラザフォードはどうやって、それを出版できたのか。
これら天使は人間の目に見えないし、「主」の秩序を遂行するために存在する。まず始めに、天使たちは、「主」が残りの者に出す指図を聞くのは間違いない。そしてこうした目に見えない使者が、残りの者にそうした指図を手渡す。「主」の神殿において、「主」の天使たちが1919年以降、残りの者へ働きかけをしていたのは事実である。(「擁護」。ラザフォード1932年。3巻。250頁)
特定の職務と王国の特定の利益は、「主」から天使たちに伝えられてきた。それは地上の油注がれた民への援助と慰めのために、「神」の油注がれた民への情報伝達がふくまれている。天使がどのようにその情報を伝えるかは分からないけれども、私たちは彼らがそうしていることを知っている。そして聖書と現実の事実から、それがなされていることが分かる。(「準備」ラザフォード1933年。36,7頁)
残りの者は耳に聞こえる音を聞かない。それは必要ないからだ。エホバはその油注がれた者の心に考えを運ぶための良い方法を備えた。エホバの組織の外にいる者にすれば、その組織は隠された組織である。(同上64頁)
もとのままの霊がいまだに管理している
ラザフォードの時代が過ぎると、天使重用は衰えた。単一の「聖霊」が再び重視された。初めの頃からずっと、管理していたのは、はっきりしている。次の引用が明らかにしているように、秘密性と排他性へのこだわりは続いている。
また全地でエホバの組織だけが神の聖霊つまり活動力によって導かれているという事実をも考慮してください(ゼカリヤ4:6)。この組織だけがエホバの目的のために機能を果たしているのです。この組織にとってのみ、神の聖なるみことば、聖書は封じられた書物ではないのです。世の多くの人々は非常に知的で、複雑な事柄を理解できます。彼らは聖書を読むことはできますが、しかしその深い意味を理解することはできません。真のクリスチャンは、「神の
奥深い事柄」を理解している地上の唯一の組織と交わることの価値をどれほど深く認識しているか知れません。(「ものみの塔」1973/10/15 1594 頁)
その神秘的な「聖霊」は、どこかしら間違った進路に向かって操っているように見える。この移り変わりやすさを自白して、上に上げた挿絵にある帆船の絵が、「ものみの塔」1982/3/1号に取り上げられた。そこにはこう、書き留められている。
それでも、一部の人にはその進路が必ずしも一直線でないように見えたかもしれません。エホバの見える組織が行なう説明が、以前の見解に調整を加えるもののように思えたことがあるかもしれません。しかし実際にはそうではありませんでした。このことは、航海の際の「タッキング」として知られる航法になぞらえることができるかもしれません。水夫は帆を操作することによって船を右から左へ、また前後に動かすことができますが、向かい風をついて常に目 的地に向かって進みます。エホバの僕たちが思いに描いているその目的地は、神が約束しておられる「新しい天と新しい地」です。−−−2ペテロ3:13。
もっと詳しく調べれば、彼らが時々、以前の見解に戻ることが分かる。そうした事実を素直に考えても、なぜこの「聖霊」が教義上正しいものを正確に伝えていないのかと、疑わざるを得ない。つまり、彼らは、この終わり時にあって、世界に預言するためにこの「聖霊」が彼らに油注いだと主張する。次の主張に注意しなさい。
その預言者とはだれですか。‥‥‥今日、彼らはエホバのクリスチャン証人として知られています。‥‥‥もちろん、このグループが神の「預言者」として行動していると言うのは容易です。が、それを実証するのは別問題です。そうする唯一の方法は記録を再検討することです。記録は何を示していますか。(「ものみの塔」1972/7/1 407頁)
彼らの記録を見直すと、不吉な底流が見えてくる。その教義の変更の背後に控えている「聖霊」は、突然、考えられないほど知的に出現する。読者も発見するだろうが、この「霊」は、過去の間違いに関し十分な知識をもっている。今でもなお、「霊」が教えようとしているものに対しことごとく、盲目の服従を強制する(排斥の痛みを抱えていながら)。この「霊」は軽率なマインド・コンドロールと詐欺行為にこだわっている。申命記18:20−22に注意をしなさい。
しかし、話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話し、あるいは他の神々の名において話す預言者、その預言者は死ななければならない。そして、あなたが心の中で、「エホバは話されたのではない言葉をどのようにして知るのか」と言う場合であるが、もし預言者がエホバの 名において話しても、その言葉が実現せず、そのとおりにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたがその者に恐れ驚いてはならない。(新世界訳)