第10章
脱会者の心の中の聖書的な罪をうまく処理するには

 大事にしていた信仰を捨ててしまった人を見るとそれがひどく悲惨に思えるのはなぜだろうか。エホバの証人と元証人とのつきあい方を見れば、四六時中、その痛みが見受けられると思う。神聖な信仰を保っていたがその信仰は生涯にわたり大変強い影響を及ぼしてきた。残りっている人生を戸別訪問に費やそうと、おそらくは早い時期から教育さえあきらめたり、結婚をしなかったり、子育てをしなかったりし、まともな職業に就くことをあきらめてきた。信仰の枠にひびが入り、それにひどく動揺し、生きる希望がなくなると、ランドール・ワターのような者についてくる。特にエホバの証人はそうだが、少なくともそういう経過があるからこそ、私の書いたものに感じ入る。それでも元証人は心の内をすべてさらけ出すことはできない。新しい研究生を獲得するために戸別訪問をするといった似たような作業に従事しているのだし、訪問に行った先の家の人はそれぞれの持っている宗教が偽りの宗教だからすべてそれを捨てるはずだと確信している。

 しかしたいていのエホバの証人はものみの塔の真理が正しいどうか、疑おうとはしない。ひとたびかかわっているその宗教を吟味してしまうと内部の葛藤が始まる。そしてすばやくその疑いの目を心の中から追い出す。ジョージ・オーウェルの「1984年」に見られる思考停止と同じだ。

 一人の証人がものみの塔の真理を追究して数日、私たちが言おうとしている資料を求め、もっと知ろうとしている。宗教も、聖書も捨てる用意をしている人もいる。用心深い人もいる。聖書をものみの塔と道連れにして捨てるのを喜ばない人もいる。その人は、クリスチャンになる前、元証人と話をしたかもしれない。見たり聞いたりした話は、彼らを怖がらせ、組織の体系に戻らせる。「神々しい」生活をしていない脱会者を目にしたときは特にそれが当てはまる。もし証人が組織を出るなら、神や聖書から離れてしまって、十分理解できなくなる。死ぬような恐怖を覚えるから、その「良心」がものみの塔にとどまるようにと、働きかける。

 強制的に、無鉄砲にものみの塔から脱会させたらどうだろうか。証人などのカルト信者の良心をどう尊重すればいいのだろう。それを望んでるのに、霊的な援助をしないなら、証人を傷つけないだろうか。倫理や罪を吟味して、こうした疑問をよく考え、答えを出そう。

 

良心と判断

 すべての人には良心がある(心の内面で正邪を証している)。人が道徳的に見てどれを真でどれを偽と考えるか、それぞれの人によってひどく違ってくる。娯楽や服装の嗜好といった問題は、個人のえり好みにまかせておけばよい。何が正しくて何が間違いか、言う必要はない。しかしどっちが非難に値するか、あるいは何が勧められるのか、いくらかなりとも人の良心を動かしていて、人間が生まれつき持っている基本的な良心が存在する。

 

良心を尊重すると

 誰もがこの普遍的な「良心」を持っているのだから、他の人と同じくカルト信者にもそれが働いていることが分かる。道徳的な原則が欠けているとすれば、罪となる。同様に、カルトの独特の命令に従って生きていないと罪になる。カルト信者はふつう、外部のカウンセリングがなければその違いを認識しない。ひとたびカルト信者がカルトを疑い始め、脱会する決断をすると、くすぶっている罪を軽くしてやるといった援助を求めるかもしれない。そうした罪の発生メカニズムをすべて取り除こうとすると、カルト信者の自尊心を危険にさらすおそれがある。カルトを脱会しようとしている者にカウンセリングをする専門家は、それを深刻に重く考える必要がある。神と伝統的な道徳心を信じさせられている者をカウンセリングするときには、良心を説明しないと、患者が足を運ばなくなるか(もしもうまく良心を無視できても)人間の尊厳を踏みにじるか、そのいずれかの危険を冒してしまう。

 カルト信者の罪の主な源泉は次の二つである。(1)カルトの求めに従って生きていない、カルトの理想と信者の考えが十分一致していない。(2)神自身を失望させたのではないかと言った気づき。カルト脱会者全員が罪を経験するわけではない(私は確かに断言しなかった)。しかしその大多数がそうなのであり、この罪は認識されなければならないし、真の罪か偽りの罪か、見分けなければならない。カウンセリングの専門家はカルト独特の教義やマインドコントロール技法によって引き起こされた偽りの罪を取り除くだろう。しかし個人の「本物の道徳心の欠如」から生じる罪は宗教的に尊重する必要があるかもしれない。言葉を替えて言えば、その人にはその不足分を見分ける必要があり、それを認め、神の恩寵を受ける必要があるかもしれない。

 ものみの塔の欺瞞にうすうす気がついていて、妻あるいは夫を騙している自分が分かっているエホバの証人の場合には良心が欠如しているとは決して断言できない。そうした人は自発的に組織を脱会するか、組織から排斥される。そして徐々にではあるが、ものみの塔を非難している情報がすべて明らかになる。完全にではないが、重い大きな重荷を肩から下ろせる。姦淫に等しい行為に罪を感じ続ける。

 そうした人たちが道徳心を捨て、これから生きようとする自尊心を捨てるとすると、良心のとがめを受けるし、もはや良心は彼らに働かない。ほとんどそんなふうにはならないけれども、罪の意識は残る。その罪は精神科医にかかっても治癒しない。罪を犯し、良心に背き、自尊心を失ってしまったのだ。それをうまく処理しない限り、罪は残る。その人が罪を赦そうと理屈を付けても無駄だ。信者が祈りと神の許しがいかに大切か分かっているのはそのためだ。良心の働きを無視してもいいが、それほどそれは強力なのだ。

 幸いにも、クリスチャンでない専門家はすべてが良心と道徳心を軽視しているわけではない。ウィリアム・グラッサーヤガース・ウッドのような行動療法の専門家は、道徳心を捨て快楽主義の道を求める者が罪だけではなくその自尊心が足りない故にその行く末を悩んでいる事実を分かっている。淫行や嘘がいつも邪悪とは限らないと納得をするよりも、神がいないとか、神を考えないと納得する方がたやすい。なぜそうなのか。常に良心のとがめがあるからだ。ことごとく人を変えることがいかに難しいかは、良心が証明している。心理学者ガース・ウッドは、次のような興味深い観察をしている。

 

 あなたのカウンセリングを誂えるとすると

 証人と生活を一緒に過ごしキリストを知ってもらおうと手を尽くしているクリスチャンは大勢いるし、証人をカルトから脱会させ幸福な人生を送らせる手伝いをしようという非クリスチャンもわずかながら、いる。その中には心理学者やカウンセラーであって、精神衛生の専門家が含まれる。私は次のような方にアドバイスをする意味で書いている。(a)聖書や神には興味を持たないが生涯をもっと良いものに調整されるように望んでいる元カルト信者に働きかけをするクリスチャンのカウンセラー。(b)宗教に興味を持っている元カルト信者に働きかけをするクリスチャンのカウンセラー。(c)と(d)上記二つの環境を有している非クリスチャンのカウンセラー。

宗教を持たない人をクリスチャンがカウンセリングする場合

 キリストへ導かなかったら、全く助けになっていないと思っているクリスチャンもいる。どうしてそう思うのだろう。こうした態度は聖書のすばらしい性格に反している。イエスは、「救われた」か否かには気にも止めずに貧しい者や飢えた者を養ったからだ。正しい人にもそうでない者にも神の慈悲深さを見習うよう、イエスから求められている。ある人が泣いて助けを求めているなら、そのときその人にとって最善を尽くすのがクリスチャンの義務である(マタイ5:44-48)。

 カルトを脱会する者には回復の時間が必要だというのが分からないようなクリスチャンを目にすると、私は大変ないらだちを覚える。元カルト信者が再び神の事柄に興味を覚えるようになるまでにはたいてい1年から5年はかかる。元信者にとっていままでどんなふうに過ごしたかをクリスチャンに話すのが初めてだったら、「戻るか、燃えてくるか」という元信者の要望に説教をしてしまう立場になる。元信者は二度と神に立ち帰らないかもしれない。神に戻らなければ大変な苦労が待っている。私が相手をした10人の元証人のうち、4人は現在神に関心を持っていない。10人のうち2人は、全体としてほかの教会やキリスト教に合わせるのに何の問題もないようだ。残りの4人は説教されるのではないかという恐れを持たないでクリスチャンと話をできるかとても疑い深くなっている。そうした人たちにとって新生のクリスチャンは別なタイプのカルトであり、元信者がカルトの「鉄砲の音」を恐れているのがよく分かる。

 私がカウンセリングするときは、その人の内面で何が進行中かをまず決めようとする。何はともあれ、元信者が私を信頼する必要がある。私が元信者を操ろうとしていないし、ほかの宗教に引き寄せようとしてはいないと思わせないといけない。私はなんのためにそこにいるのかといえば、クリスチャンになる気があるかどうかに関わりなく、彼を助けるためだ。

宗教を持つ人をクリスチャンがカウンセリングする場合

 証人がどこかのカルトを脱会したあと、すぐに正統派の教会にはいるように話をするのは、全く正しいように思えるかもしれない。明らかにそうした方向に進む用意がある人に関しては、それは正しい。しかし元カルト信者が神の事柄に興味を持っているだけだったら、宗教組織に行く用意が終わっているとはいえない。たいてい、それは天に唾する行為になりかねない。その人がしばらくは教会に加わっても、カルトで経験したような偽善、偽りの教義、教義の不十分な証明、偽預言などといった似たような問題を「再発見」する。そうなると、その人は聖書の信仰を続けても、二度とよその教会には足を踏み入れないかもしれない。

 元カルト信者がほかの教会や教派と関わりを持つ前にいくつか話し合っておかなければならない問題がある。まず、第一。マインドコントロールとは何か、どうやって宗教組織がそれを使うのか。彼らが関わった宗教組織以外ではどうなのか。二番目に、キリストとの関係と教会との関係は同じではないことを知っておく必要がある。人間でも、組織でも、いつも欠点を持っていて、人はそれに対して失望感を覚える。しかし私たちの中には聖霊が住んでいる。教会に満足しないときでも生活を導いている聖霊がいる。クリスチャンはカルトだったらたいてい見られるような強い仲間意識を持っていないかもしれない。それは思い詰めたような思考や排他的な思考の枠組みといったものを持っていないからだ(それがあるからこそ、兄弟意識や仲間意識の感覚が増幅される)。カルトでの教義は統一されているが、教会はそれほど教義は統一されていない。カルトのような思考の強制がないからだ。でももしも努力したならば、教会の中ででも真の友情を受け入れられる。三番目に、元カルト信者は経験してきたことを振り返る必要があることに気づかなければならない。自分の経験を考え、同じ経験をした人ともつきあいを持つことは大事だ。そうすれば後になって出現するおそれのある疎外感から逃れられる。元カルト信者が、教会には過去を話せる人がいないと分かると、元カルト信者は自分はここに来たけど場違いではないかとか、ずっと孤独なんだと思うようになるからだ。ほかの教会にしばらくがまんするとか、同じ経験をした人と特別な時間を過ごす意味ではない。どちらの場合でも、将来を考えて自分の考えで一人の時を過ごす時間も必要だ。その人の前には未来が残されている。以前は考えを変えるために決断をしていただけなのかもしれない。今は自分の決断をする術を学ぶため、悪気がなくとも、元カルト信者についての情報が不足している他人の刺激から離れて、今、何をするかを学ぶ必要がある。これはその人の成長にとって大事な時間だ。 

  

宗教を持たない人を非クリスチャンがカウンセリングする場合

 いいほうに向かっているかのように見えるかもしれない、元カルト信者にとって居心地のいいものだったら何でもやらせたほうがいいと思われるかもしれない。しかし、世の中の考え方ら見てもそれは賢明なやり方ではない可能性がある。元カルト信者は騙されていた上に、無駄な年月を浪費したのだからたいてい自尊心に欠けている。自暴自棄になるのではなく、自尊心を強化させる生き方を求めたほうがいい。ガース・ウッドがこの件について適切な意見を述べている。

 宗教とは縁のない人にとっても、立派なモラルには意味がある。幸福は自分に真実であるからこそ幸福が生じる。自暴自棄になったり、偽善者として行動するからではない。

 

宗教を持つ人を非クリスチャンがカウンセリングする場合

 たいていの場合、非クリスチャンのカウンセラーでも、神と聖書の信仰を続けるために、聖書を基盤にするカルトから脱会する人の欲求を理解している。元カルト信者は、クリスチャンの組織はカルト的な傾向を持たない安全なところであり、そのうち訓練を授けてくれるところだと考えている。元カルト信者にとって居心地の悪い、一般的に言って、もっと狂信的で、分派の集団である教会も多い。非クリスチャンのカウンセラーは、聖書を基盤にするカルトから脱会した人のモラルをもっと世間一般に合うように変えようとすることはよくない行動だと認識しないといけない。その脱会者は自尊心を無くし、不幸な状態が続いているからだ。自殺しようとする人もいるかもしれない。良心をぐちゃぐちゃにされ、一人では生きていられないからだ。非クリスチャンのカウンセラーはマインドコントロールと精神的回復と感情的な回復を話し合うほうに時間をかけるのがよい。

 罪それ自体、本当は悪ではない。私たちが正しいと思う方向に生きていないとき、私たちの内面では罪に気がついている。何が善で何が悪か、なぜそうなのか。良心が正しく教育されているなら、カルトの中にいる人生よりも、正しい道を歩むほうが実際は易しい。 

 



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