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Understanding Mind Control Among Jehovah's Witnesses/Randy
Watters
JWのマインド・コントロールの理解/訳:相川英一
第1章 ものみの塔のマインドコントロールの理解
私は知っている。エホバの証人の親族や友人がものみの塔の誤りについてエホバの 証人に語りかけようとするとほぼ間違いなく、全く証人に話せないことを。ものみの塔の神学を熟知しているかもしれないが、証人はただ単に事実に基づく資料が 不足している、あるいは真実をひとたび見せつければ証人は光を見いだして組織 を離れるだろうと無邪気に仮定して事に当たっているだけだ。事は決して簡単に は運ばない。
そのようなやり方の根本に存在する前提を考えると次の通りになるであろう。
(1)その人は単に正確な情報に不足しているだけだ。(2)ひとたび真実を見 せてもものみの塔を離れる知的な決断を下すことは大いに「やっかい」なのだ。これ だと大概、二つの偽りの前提を作り上げている。一つ目はものみの塔に批判的な情報 を聞いていないこと。二つ目は証人自身が、客観的にものみの塔の真理性を重視して いることである。
ものみの塔の不正直さを曝け出している情報を見たり聞いたりしていない証人を探 すことは並大抵のことではない。なぜ証人は疑いを見つめないのか。明らかにそ のほかの原因で真実の情報を客観的に分析することが妨げられてきた。証人たち の心は、組織を疑うことを素早く切り上げるように訓練させられている。「遠く に行ってもいいけど、そんなに遠くに行かないよう」効果的に語りかけて、壁が 矜立される。その人がマインドコントロールの被害者であり、またものみの塔がエホ バの証人の心に植えつけた偏見や憶測はことごとく、実際に物事を客観的に見な いようにさせるであろうことを、友人や親族たちは十分認識していない。
とても愛している母親が法廷で第一級殺人犯の尋問に立たされているのを目の 当りにする子供の姿にだぶらせることができるかもしれない。人間の性格と人格 の複雑さを理解しうるほどの成熟さに達していないため、その子供は圧倒的に母 親に対する感情に従って動かされるだろうし、母親が殺人犯と確信する努力を間 違いなく拒絶する(現実的な根拠もなしに)。
上に上げた例は、実際にエホバの証人の心の中で起きていることからかけ離れ てはいない。エホバの証人は組織が「母」であり、エホバが「父」であると教え られる。エホバは直接、エホバの証人に語りかけないのだから、証人は導きと命 令のために組織に頼らなければならない。エホバの証人はどれほど「母」が信頼 が置けるか、母親がいなければ暮らしていけだろうかと、繰り返し、繰り返し、 思い出す。エホバの証人に手を差し伸べようとする外部の者は、悪魔とみなさ れ、危険人物と思われる。エホバの証人は、ふつう考えられるほどの兄弟関係と 集い(週5回の集会)を持つ同じ家族の一員であり、安心していられ、かつ「愛 されている」とさえ思える感情を持つことは、「母」のことばを更に強める。サ タンの本だからと言って、「母」はエホバの証人が客観的に考えることを妨害 し、自分に批判的な本を読まないようにと証人に教えてきた。そうした書物は証 人に強烈な反応を生じさせる。エホバの証人は、「母」の真意や真実性を疑わな いだけだ。実際、挑戦もしないだろう。母の養育の能力やその主張を信頼しなく なる(そして感情的なつながりを断ち切って)場合にだけ、客観的に考え始める だろう。
実際には何が働いているのか
どうすれば証人の心の中にものみの塔の真実性と養育能力について疑問を植えつけ られるのだろうか。聖書のギリシア語原典が本当に述べていることを示したり、 組織が何年にもわたってどのように解釈を変えてきたかを示しながら、ものみの塔が 誤って解釈している聖句を用いることで疑いを植えつけようと考えてきた人もい る。しかし、この方法には2つの落とし穴がある。1つ目は、会話の中で顔を出 すいかなる疑問であろうと、事実上、ものみの塔はその答えを持っていることを証人 は知っていることだ。その組織の教えの正当性に疑問を感じたりしないよう、「 母」が答えを持っていることで満足することだけを訓練させられている。だか ら、たとえ証人が玄関口で困惑しても、本と雑誌を取りに戻り援助を得られると 知っている。そしてその場で答えがないために生じる不快な感じから抜け出す。 実際、自発的に答えを携えて戻ることがしばしばある。合間合間に、ものみの塔に挑 戦してくる人は本当は真理に興味があるのではなく、実際は「真理の反対者」で あるとほかの証人は、彼に納得させるだろう。だから、実際にわずかの証人さえ も、ものみの塔の批判やその解釈の疑問に答えるために家に戻る。
証人が聖書を客観的に論じる用意があると感じられるまで、事実上、証人に対 して全く聖書を用いない立場を採用する人もいる。大勢のクリスチャンにすれば それは驚きであろうが、一旦、証人のマインドコントロールの複雑さを理解すれ ばそれは大きな意味を持ってくる。
ものみの塔の嘘預言を指摘してものみの塔組織の「母親関係」について疑問の種を植え つけようとする人たちもいた。一般的には、ある事柄について述べている古いものみの塔の出版物を証人たちに示し、現在のものみの塔組織が述べていることと比較する形式 が取られる。またはものみの塔の政策の変わりやすさを指摘することもある。数年前 のアフリカのマラウィの1万人の証人の財産と生計の喪失の黙認(なぜなら25 セントの政党証を購入しなかったから)、メキシコでのエホバの証人による贈賄 と軍隊勤務の黙認など。
その人が証拠としてあなたが用いるものを実際に喜んで判断する状況にあるな ら、「彼らに彼ら自身の文献を用いる」方法は採用できる。エホバの証人の多く はものみの塔に批判的なものは調べないだろう。そして多くの場合、このやり方は効 果があることが証明されていない。ものみの塔の古い文献を用いて成公するのは、多 くの場合、証人の心が開放的で、すでに客観的な尺度を身に付けている時に限 る。そうした時にはどんなものでも用いよ。重要な障害物は打ち倒された。
しかし、大勢の人は知るだろう。『ものみの塔』が肯定的な耳を持たない限 り、証人との会話は直接、『ものみの塔』に関係してはならない。そうでなけれ ばずっとあなたに耳を傾けないだけだろう。それなら、我々には何ができるだろ うか。
議論から閉ざされた心を開く
偏向した人に到達してその偏向を穏やかに明らかにする最善の方法(その人の エゴを攻撃しないで)は、マインドコントロールのものみの塔の不名誉な評判ときわ めて類似した例について論じることである。特定の身に付いた関心を持っていな い評判についてである。たとえばエホバの証人はモルモンや統一教会をカルトと 考える。しかし、その方法論よりもむしろ彼らの教義の根拠に対してである。エ ホバの証人たちはカルトの用いるマインドコントロールに親しんではいない。 言って見なさい。統一協会の方法を伝えると驚きの目で迎えられるだろう。統一 教会の成員に対する協会の思考統制、感情統制、欲望と情報に対する統制の4つ のマインドコントロールの影響を論じると、証人は魅せられた聴衆に過ぎないの が分かるかもしれない。あなたはエホバの証人や組織を脅しているのではい。全 くそうではない。しかし、もし彼らがあなたを怪しむとなると、あなたはものみの塔 も統一協会と同類だと言おうとしていることになる。
だから、エホバの証人に対するときと同じようにできるだけさりげなく装い、 攻撃的であってはならないことが大切だ。エホバの証人が訓練していることは、 ものみの塔に批判的なものに抵抗することであるから、彼らの心の中に平行したもの を引き出そうとするとき、ものみの塔を論じないようにしなければならない。たとえ ば、もし統一協会が用いる情報統制を説明しようとするなら、同じ時にものみの塔と 比較しようとしてはならない。エホバの証人に結論を出させよう。時には類似性 を十分に感じとれるほどに利口ですねと、疑問から生じる利点を伝えなさい。彼 らには時間が必要だ。経験から言って、問題を把握し始める前でも、エホバの証 人の前にマインドコントロール手法を論じる形式ばらない話し合いの期間を何回 か設けても良い。マインドコントロールを主題とした映画を一緒に見なさい。彼 らに猶予を与え、自分の結論を出させなさい。
会話の機会を用いる
カルト成員を専門とする救出カウンセラーに用いられるとてもよく実証された 方法は、エホバの証人とよく計画された会話を設定することである。そうすれば 証人は脅かされるとは予想しないだろう。会話がさりげなく始められるなら、ふ つう、バス停や飛行機の中や行列待ちで、あるいは雑貨店でエホバの証人の隣に 居る人に怯えることはない。
その一例。ある人の妻がエホバの証人だったとする。妻と論争することが無意 味であり、偽預言に映るものみの塔の古い資料を見せることが価値のないことだと 知っている。旅行の途中で妻の隣に座るよう元モルモン信者あるいは元統一教会 の成員と取り決める。元信者は彼らが経験した事柄についてさりげなく会話を始 める。その時、証人にたくさんの質問をしたり、大げさに奇妙なことを尋ねない ように取り決める。
よく計画されたこの種の会話は、緊張した議論に向けた土壌を用意するかもし れない。それも前もって計画される。家族の者あるいはものみの塔からエホバの証人 を救出するクリスチャンは、元カルトの一員(元エホバの証人ではなく)と親交 を持ち、食事に招く。エホバの証人が脅かされないことが大切である。だから伝 道はしないこと。会話は次のような目標に向けて演出されること。
・以前属していた宗派で用いられる操りの技巧。
・彼らにはなぜそれが「真理」と思われたか。
・どのように課されている統制に目ざめたか
(宗教上の議論を避けなさい)
・元信者はどのようにそれに対処したか
なぜそれを異教的と感じたのか。
・属していたグループはどのように教義を変えたか
またなぜ、偽預言をしたのか
(もう一度言う。聖書の議論を避けなさい)
・カルトで育まれた恐怖と罰
・カルトで吹き込まれた偽の信頼。
・カルトで育まれた巧妙な自己義認。
・歴史的なクリスチャニティに対するカルトの無知。
読者は、まず始めに聖書を用いない考え方にとまどうかもしれない。聖書を取 り上げることは、証人思考「様式」に火を付けることを理解しなければならな い。本当は、エホバの証人は文脈の上で聖書をよく知らないけれども、そうした 議論に居心地の良さを感じている。目標は居心地の悪い領域に引き込むことであ り、無意識に立ち入らない考えの領域である。彼らが都合よく無視し、決して考 えたことのない問題についての考えを進めている。不都合なときに聖書を持ち出 すと、彼らのもの悲しい思慮深さ(あなたが骨折って作っているもの)をさらり と忘れさせ、彼らだけが聖書をすべて知っており、あなたが「真理」の外にいる とする十分な自信を回復させるだけであり、彼らに教えようとする職分には与ら ない。クリスチャンが「聖書議論」に引き入れて、証人と分けあおうとする努力 を難破させてきた例が多い。悲しいことに、実際、そのクリスチャンは特定の聖 句や証人が答えられないはっきりとした論点を持ち出して証人と意志を交わそう とする。本当の結果は、エホバの証人が二度と話しかけなくなったときに明らか になる。そうした場合、勝利はまったく無い。「証人が聖書を知っていて、真理 を持っている」とまだ、信じている。
エホバの証人の心の内側
証人が批判的な調査の危険水域に入ろうとするのを妨げる強力な動機にはどの ようなものがあるか。その動機は恐れである。心の中に横たわっている疑問に は、誤って保身が与えられる。超自然の神を信じるクリスチャンの概念は、もっ と視認できる象徴、文字通りの組織(神の組織)に置き換えられる。組織に奉仕 することは神に奉仕することに等しいと証人は学んでいる。組織は「お母さん」 であり、神は父である。証人は「二人の親」に従うべきである。証人は神との真 の相互関係を知ることができないし、経験できないから、証人と神との唯一の結 びつきは、目に見える組織を通さないとありえない。だから、それが証人にとっ ての「神」である(証人はそれを認めないし、それに気づいていない)。もし実 際に組織が神から命令されていないなら、証人はほかに進むべき具体的な安全対 策はない。証人は「ほかに行くところがあるだろうか」と言う。ものみの塔体制全体 の墓石を削っている大量の現実的な情報を無視し続けながら、歳を重ねるほど、 体制の中にしがみ続ける。証人は現実を無視すればするほど、証人は心狭くな り、絶対に変わらないぞと頑固になり、真理を持っているぞ、と以前よりも確信 する。証人は敵にはあらゆる精神的なバリケードをそびえ立たせて(それは虚構 ではあるが)自ら塹壕の中に身を沈める。現実を用いて証人に近づこうとする人 には信じられないだろうが、証人が安全保障の感覚を喪失させるトラウマを与え ない。それが保護回路にすぎない。偽預言と組織の矛盾を合理的するためには、 結果として、証人は組織の中には実際に矛盾がないと考える思い違いをしなけれ ばならない。
背教の恐怖
背教徒はしばしば利己心に訴え、聖書を自分なりに解釈する自由を含め、幾 つもの自由が奪われてきた、と主張します。(創世記3:1−5と比較してください。)汚れをもたらそうとするそれらの人たちが提唱しているのは、実際 には「大いなるバビロン」の、胸の悪くなるような教えに戻ることにほかなりません。(啓示17:5。ペテロ第二2:19−22)賑に訴え、家から家を 回って証言するつまらない仕事は「不要である」、もしくは「聖書的な根拠がない」ので、”のんきにやる”ことを以前の友に勧める人たちもいます。(マ タイ16:22、23と比較してください。)確かに、滑らかな話し方をするそのような人たちは、表向きは身体的にも道徳的にも清く見えるかもしれませ んが、内面では誇り高い独立的な考えに屈し、霊的に汚れています。彼らはエホバについて、‥‥‥‥‥‥学んだ事柄をすべて忘れてしまいました。
元エホバの証人なら、上に引用した雑誌「ものみの塔」1987/11/1 P.19,20 の の引用をこう評するだろう。「『ものみの塔』のページに見られる典型的なものの言い方だ」。「不明確であり、あてこすり」はまったくのところ、偏見と閉ざ された精神のしるしである。ものみの塔組織を離れる決心をしたエホバの証人のほとんどは、なぜ組織を離れるのか、問題は何だったかについての嘘を組み立てる証 人を会衆内に持っていた。去る者は確かに誇り高かったり、戸別訪問を軽蔑したり、ホモセクシャルだったり、売春をしていると考えて自分を慰めているはず だ。素直に言い表す者もいる。「この組織のほかに尊敬すべき道はない」。 ものみの塔の執筆委員会がその年代計算にひび割れを発見したことが漏れたとき、 即ち、1979−1980年に私は、統治体のあるブルックリン本部に存在していた明確な精神に気がついたことを思い出す。これはラップに隠された情報だっ た。‥‥‥それを語ることは、兄弟たちの心に嘘を吹き込むと言われた。時々、工場監督が口にすることばを聞いた。「君たちは兄弟たちを信頼することはでき ないはずだ」。恐怖心から職場を捨てるだろうから、彼らは監視され、治安維持の対象であるべきだった。情報の流れは統制されるべきはずであった。それは、 彼らのちっぽけな心がそれを誤解したり、賑的に新しい自由を発展させるといけないからだ。ものみの塔の三代目会長ナザン・ノアが何年間にもわたり、土曜日ごと に半日をベテル奉仕に費やしたことを思い出す。なぜなら一度、3人か4人の兄弟たちが長い週末の旅の途中、自動車事故で亡くなったからだ。。
何年ものベテルの生活で心地よくなると、すべての証人への生活様式へ統制が 増した。証人は自分たちで大きなパーティや特別な会合を開いたり、公に話し合 いを始めたり、今日のものみの塔の代弁者として活動することはなかった。常に増し 加わるしめつけは、ものみの塔が成員を徐々に信頼しなくなっていることを明言する にすぎない。どうしてこうなったのか。
顕著な類似性
聖書に基づくカルトの多くは、似たような移り変わりの段階をくぐりぬける。 彼らは教会の伝統や偽りの教義や偽善からの自由を約束してスタートする。時を経るにつれ預言は失敗し、人々の関心は離れる。体制は新しい規律と新しい要求 (集団のエリート的な状態を要塞化するために設計される)を使って維持される。結局は、唯一の真のクリスチャンになる上では良い格好が求められる。その 階級の理想主義が減退すると、律法主義と共同体精神に置き換えられねばならない。結局、恐怖が人々を繋ぎ止める動機付けの力となるはずだ。悪魔、未信者、 宗教的な表象物、祝日、メディアの番組、特に元成員を含む集団外の者を恐れる。「背教者」は、成員の心の中に恐怖を呼び起こすことばだ。ハルマゲドンの 死、地獄への墜落、そのほかの恐ろしい運命が成員を待ち受けていると言われるからだ。「背教者」は聖書では別のいわゆる「真理」ために、キリストの教えを 離れることを意味するけれども(2ヨハネ9、10)、カルトの中では、その集団の出版物の中で明確に示されるようにカルトの複数の教えを放棄することを意 味するようと、歪曲される。統一教会やアームストロング主義者たちもそうであるように、疑いを持つ証人は、疑いを持つ数千人のモルモン派に気づいていない (同じ理由から、不具にされる恐怖と苦闘している)。自分たちだけが唯一の真の宗教だとカルトは信じているから、組織を離れることは神自体から離れること だと信じている。神がその宗教を去る者を見捨てないと彼らに希望を伝えることがなぜ重要なのか、それはここにある。
第2章
神秘的操り‥‥‥本当のところ、誰が「神の組織」を運営しているのか。
神秘的な心理操作
宗教的カルトの中では、神はその組織の動きの中に常に存在している。ある人がなんらかの理由で離れると、その人に降りかかるかも知れない事故や病気は神 の罰と思わせる。その組織の中で神が言っていることはを知ることは神秘とはほど遠いけれど、神の代理人として組織に服従すべきだ。
また全地でエホバの組織だけが神の聖霊つまり活動力によって導かれているという事実をも考慮してください(ゼカリヤ4:6)。この組織だけがエホバの目的のために機能を果たしているのです。この組織にとってのみ、神の聖な るみことば、聖書は封じられた書物ではないのです。世の多くの人々は非常に知的で、複雑な事柄を理解できます。彼らは聖書を読むことはできますが、しかしその深い意味を理解することはできません。真のクリスチャンは、「神の 奥深い事柄」を理解している地上の唯一の組織と交わることの価値をどれほど深く認識しているか知れません(「ものみの塔」1973/10/1 P.594 )
「聖霊‥‥‥新しい秩序の背後にある力」は1976年に出版されたものみの塔出版物のタイトルである。使徒言行録を経て、ペンテコステから「聖霊」の働きを後づけた後に,この「聖霊」が、「神の打ち立てた王国の良いたより」を伝道す る働きを開始するため、1917年の投獄されていたものみの塔組織の8人の支配者にエネルギーを与えた。その本は述べている。
1919年、「神からの命の霊」が抑圧されていたた証人たちの中に入ったのは、そのような世界的な王国伝道のためでした。(143頁)。
「ものみの塔」によれば、組織の外部の者すべては悪魔にだまされている存在であるとしても、この「聖霊」は組織内の油注がれた者の「残りの者」の上にだけ、唯一働いてきた。この「聖霊」は現代のエホバの証人の組織の背後にある力 であるとも言われている。
エホバは終わりの日に聖霊を注ぎ出すことを預言しましたが、その聖霊はまだ働きを終えていません。残りの者たちはその霊の名においてキリストの弟子にバブテスマを施すことを続けているからです。‥‥‥神があらゆる賑なる者の上にご自分の霊を注ぎ出すことに関しその発表された目的は、それを受けた人たちが預言することでした。キリストの油そそがれた弟子たちの残りの者は、神の王国を支持する証しとしてあらゆる国民に対するその預言の業を行なっており、事実がそれを裏づけています。このことからも、彼らこそ神の霊がその上に注ぎ出された人々である、と言えます。その霊が彼らのなす世界的な伝道の背後にあるのです。この点をどうして疑うべきでしょうか。(「聖霊‥‥‥」145頁)。
どうして疑うべきでしょうか‥‥‥、それは適切な疑問である。ものみの塔は110年間、存在してきた。その長さはこの成長する組織を働かせている「聖霊」の働きを再検討するのに十分な期間だ。その足跡には何が残されているのか。
創草期に戻ってシオンものみの塔の創設者C.T.ラッセルは、1919年が
終わりの時の始まりであり、1800年代後半の世界の出来事は直接マタイ24:3−14の「しるし」を満たしていた。それは1874年、目に見えない形でキ
リストが復活し、1914年に世界の明確な終わりとなるだろう。彼らは軍隊に
参加し、誕生日などの祝日を祝い、喫煙ができて投票もできて、全員が天に昇っ
ていた。それでも、こうした初期の信条のいずれもが、今や「真理」と考えられ
ず投票、軍隊勤務、喫煙、祝日のお祝いは、今や排斥の根拠となる。1799年
と1874年に関する預言は放棄され、1914年と「その時のしるし」は再び
自分の意志で演出されてきた。「聖霊」は真理を伝えなかっただけでなく、正し
くこの「霊」を理解していなかった。
< 「霊」よりもむしろ複数の「霊たち」 >
ものみの塔の2代目会長ラザフォードは、実際にキリストは今や目に見えない形で臨在し、キリストの天使を通して人々の組織を監督するから、この聖霊はもはや
教会の「助け手」として必要なくなったと、主張した。
この霊(聖霊)によって、エホバ神は適切な時点に向かって人々を導く。「 なぐさめ人」が取り除かれるときまでは、そのようにした。組織の頭、イエス が宮殿に至り、1918年に大いなる裁き手として裁きを始めた時、忠実さが 見い出された者を集合させたときに、必ず起きる。‥‥‥「擁護」ラザフォー ド1932年。193、4頁。
「主」が宮に至り、選ばれた人々(2テサロニケ2:1)を集合させると、 聖書は教会のための献身や仲介の働きを止めるだろう。同上46頁
ラザフォードは、遠くから物事を監督している生命力のない「聖霊」よりも、天使(あるいは奉仕の霊)が、今や組織と直接、交信していると教えた。
エホバは、その人々に指図をするために組織の中で必要な取り決めをしてきた。そして数年間、ものみの塔が神の民に情報を伝達する手段となっていることをすべての人が認めている。ものみの塔に原稿を準備する者たちに霊感があることを意味しているのではない。むしろ天使を通して、情報がふさわしい時に人々に与えられることを「主」が、知ることを意味し、「主」は預言の成就の出来事をもたらす。そして「主」に献身した者が同じことが起こるのを知るために「主」のもとに招く。‥‥‥‥‥「富」1936年、316頁。
ラザフォードもものみの塔も、霊感を与えられていることが否定されていることに注意しなさい。次の引用に明示されたように、エホバとキリスト・イエスが聖書の全ての解釈を行い、その解釈は、ものみの塔を備える者を通して天使によって組織に渡されると主張している。
忠実な残りの者あるいはエホバの油注がれた証人の社会は、地上での解釈の裁き手であることを表わしていない。聖書解釈とその預言を委任したのだ。いや、キリスト・イエス王は、彼らにその職務を任せなかった。「最高法院が今だに解釈を下す」。神に感謝する。キリスト・イエス(法院の解釈の公的代弁者)は、エホバの「忠実でさとい奴隷」級の頭としてその職務を自からに保留する。キリスト・イエスが解釈を明らかにするまでは、最高法院に従って解釈を公にするために「奴隷」級を用いるに過ぎない。Watchtower 1943/7/1 p.203
こうした天使の霊はどのようにしてラザフォードに「解釈」を伝達したのか。そしてラザフォードはそれを公にできたのか。
これら天使は人間の目に見えないし、「主」の秩序を遂行するためにある。天使たちが、まず、「主」が残りの者に公表する指図を耳にするのは疑いない。そしてこうした目に見えない使者が、残りの者にそうした指図を手渡す。「主」の神殿において、「主」の天使たちが1919年から残りの者へ公表する働きをしていたのは事実である。(「擁護」。ラザフォード1932年。3巻。750頁)
特定の責務と王国の利益は、「主」から「主」の天使たちに委ねられてきた。それは地上の油注がれた人々への援助と慰めのために、「神」の油注がれた人たちに情報を伝達することがふくまれている。天使がどのようにその情報を伝えるかを理解できないけれども、私たちは彼らがそうしていることを知っている。そして聖書と現実の事柄が、それがなされていることを示している。(「備え」ラザフォード1933年。36、7頁)
残りの者は耳に聞こえる音を聞かない。それは必要ないからだ。エホバはその油注がれた者の心に考えを運ぶための良い方法を備えた。エホバの組織の外にいる者にとっては、その組織は隠された組織である。(同上64頁)
< 原初の霊がいまだに管理する >
ラザフォードの時代が過ぎると、天使重視は衰退した。「聖霊」が再び重視された。明らかに初めからずっと、管理していた。それに応じて、次の引用が明らかにしているように、秘密と排他性が強調されている。
その神秘的な「聖霊」は、どこかしら間違った進路に向かい操っているように見える。この移り変わりやすさを自白して、上に上げた挿絵にある帆船の絵が、「ものみの塔」1982/3/1に取り上げられた。そこで彼らが書き留めているのは‥‥‥。
また全地でエホバの組織だけが神の聖霊つまり活動力によって導かれているという事実をも考慮してください(ゼカリヤ4:6)。この組織だけがエホバの目的のために機能を果たしているのです。この組織にとってのみ、神の聖なるみことば、聖書は封じられた書物ではないのです。世の多くの人々は非常に知的で、複雑な事柄を理解できます。彼らは聖書を読むことはできますが、しかしその深い意味を理解することはできません。真のクリスチャンは、「神の奥深い事柄」を理解している地上の唯一の組織と交わることの価値をどれほど深く認識しているか知れません。(「ものみの塔」1973/10/15 1594 頁)
それでも、一部の人にはその進路が必ずしも一直線でないように見えたかもしれません。エホバの見える組織が行なう説明が、以前の見解に調整を加えるもののように思えたことがあるかもしれません。しかし実際にはそうではありませんでした。このことは、航海の際の「タッキング」として知られる航法になぞらえることができるかもしれません。水夫は帆を操作することによって船を右から左へ、また前後に動かすことができますが、向かい風をついて常に目的地に向かって進みます。エホバの僕たちが思いに描いているその目的地は、神が約束しておられる「新しい天と新しい地」です。−−−2ペテロ3:13。
もっと詳しく調べれば、時には彼らが以前の見解に戻ることが分かる。その考えに素直になってさえ、なぜこの「聖霊」が教義上正しいものを正確に伝えていないのかと、疑わざるを得ない。つまり、彼らは、この「聖霊」がこの終わりの日に世界に預言するため彼らに油注いだと主張する。次の主張に注意せよ。
その預言者とはだれですか。‥‥‥今日、彼らはエホバのクリスチャン証人として知られています。‥‥‥もちろん、このグループが神の「預言者」として行動していると言うのは容易です。が、それを実証するのは別問題です。そうする唯一の方法は記録を再検討することです。記録は何を示していますか。(「ものみの塔」1972/7/1 407頁)
彼らの記録を見直すと、不吉な底流が現れるだろう。その教義の変更の背後にある「聖霊」は、突然、予想した以上に知的に出現する。読者も発見するように、この「霊」は、過去の間違いに十分な知識をもっている。今もなお、現在、「霊」が教えようとしているものに対しことごとく、盲目の服従を強制する(排斥の罰を受ける条件で)。この「霊」は軽率なマインド・コンドロールと詐欺行為に熱中している。申命記18:20−22に注意をしなさい。
しかし、話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話し、あるいは他の神々の名において話す預言者、その預言者は死ななければならない。そして、あなたが心の中で、「エホバは話されたのではない言葉をどのようにして知るのか」と言う場合であるが、もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、そのとおりにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたがその者に恐れ驚いてはならない。(新世界訳)
第3章 ものみの塔の反対者はどのように見なされるか
たぶん、この点についてあなたはこう言うだろう。「ものみの塔は神を愛すると思える不完全な男たちから成り立っている。しかし彼らは間違いを犯す。なぜその間違いに悩まされるようになったのか。少なくともものみの塔は間違いを認めているのに」。それに変わるシナリオを差し上げよう。私、ランドル・ワターにこう言わせてもらいたい。「神は直接、私に『真理』を明らかにする。今日のキリスト教会への神の唯一の伝達経路である。真理の中にいるため、あなたは私の文書の中に書かれたものはなんであれ、受け入れ、信じなければならない。私は霊感を受けた者ではない。だから、ときには間違いをしていることに気づかなければならない。私の教えと私の預言が真理でなくとも、私と仲違いしたり、私を偽預言者と呼んではならない。真理である神の選ばれた経路を困らせてはならない。モーゼに対し反抗したとき、コラの身に起こったことを見なさい」。
上記のシナリオでは、友人たちのように私に信を置いた者が私の身辺には存在するだろう。その人は私の非難に対して不公正だと思うだろう。彼らは私を善良な動機を持つ「りっぱな人」と見なすだろう。しかしその人は客観性(起きていることの真相を見ることができるような)を失っている。
一方、優しく、賢明な人々は、私の主張にぞっとさせられるだろう。カルトの指導者であり偽預言者として、社会から非難されるだろう。幾度もこの世の終わりを予告したブルックリンの組織がある。何度も、何度も、成就されない出来事の日付を設定してきた。はなはだしく頻繁に教義を変更してきた。それでも自分たちが神の選ばれた経路だと主張する。経路は霊感を与えられていなくとも、「神秘的霊」が経路の出版物のために直接、組織に真理を伝達するのだから、経路の言うことは何であれ、受け入れなければならない。
この点について、エホバの証人の統治体は誠実さを有していて、神の指図を有していないけれども誤導したのは信者のためを思って善意でしているのだと人は言うかもしれない。ある程度まで真実なのは疑いの余地がない。私が塔本部にいたとき、統治体は政治ゲームを演じる基本的には、正直な男たちであることを知った。
エホバの民の隊伍の中から、初めのころのサタンのように、独立的な態度や粗捜しをするような態度を取る人々が時折でました。彼らは世界中の規模の兄弟とのきずなを保ちつつ「肩を並べて」奉仕したいという気持ちを持っていません。むしろ、エホバの言葉に対して「かたくなな肩」をそびやかします。(ゼカリア7:11、12、新)それらの傲慢な人々は、エホバが過去1世紀にわたってご自分の民に非常にやさしく、親切に教えてこられた「清いな言語」の型をばとうし、イエスが地上に集めてこられた一つの国際的な「群れ」から「羊」を連れ去ろうとします。(ヨハネ10:7−10、16)。彼らは疑いをまいて、それを疑わない人々を、エホバの証人の王国会館で出される霊的食物の豊かな「食卓」から、本当に「何も乏しいものはない」ところから引き離そうとします。(詩23:1−6、新)一人であるいは小さなグループに分かれて家庭で聖書だけを呼んでいれば十分だ、と彼らは言います。ところが不思議なことに、彼らはそのような”聖書朗読”を通してキリスト教世界の僧職者が著わした100年前の聖書注釈書に教えられている背教した教理に逆戻りし、‥‥‥。「ものみの塔」1981/12/15 25頁。
いかなる意義申し立ても許されなかった。その以外の動機でも、疑う者と認識されることはなく、よこしまな動機、悪魔の動機と認識された。
今日の神の民を誤導するために用いられている別の「曲がった事柄」をいくつか考えてみましょう。反対者たちは、エホバの民が共通に奉じるいろいろな考えに疑問をはさむ場合もあります。1世紀の場合と同じように、それはしばしば言葉をめぐる論争となります(1テモテ6:3、4)。神の民の考えて導くための組織の必要性についても疑問をさしはさむかもしれません。指示を与える中央の組織体がなくとも、神の霊が各個人を導くというのがその人たちの見方です。人にとって必要なのは聖書を読むだけだと、その人は断言するでしょう。(ものみの塔1983/6/1 25頁)
ものみの塔の外を見ることは、毒を食らうこと。主には唯一の彫り板があることを思い出すのは良いことだ。最上の食物の十分な供給は、そこで備えられ供せられる。こうした霊を知るなら、主の備える賢明な家令に反対する者はだれか。彫り板にかじりついているのはなぜか。彼らの食物は神権的に試練を受けていないから、霊的な毒をもられるかもしれない。主の家で消化するものが豊富にあるとき、神の忠実な家の者以外の貧弱な皿にかかわろうとするのはなぜか。外にいる者は「ものみの塔協会」と協力しないし、あなたに手をさしのべることはできない。彼らは主の恵みを有しないから供給者、すなわち神の名誉をけがしている。Watchtower(英文) 1950/8/1 P.231
なぜ組織の中ではものごとが特定の方法で行れるのか疑いを持つ者でさえも、おごれる者という理由で非難される。
主の霊的な食物の備えよりも価値あるものであるかのように、私たちに嫌な考えを初めに記述し、私たちへの非難と意見をこじつけたり、口外するよりもむしろ、私たちは、主の神権組織とおとなしくともに進み、浄化を待たねばならない。神権的な人々は、主の目に見える組織を評価し、エホバの経路に対し 人間的な論理と感傷と個人的な感情を対抗するような愚かなまねはしない。
Watchtower(英文) 1952/2/1 P.80聖書を研究し、わたしたちはエホバが常にご自分の僕たちを組織的な方法で 導いてこられたことを学びます。そして西暦一世紀に真のキリスト教の組織が一つしかなかったように、今日でもエホバは一つの組織だけを用いておられます(エフェソ4:4、5、マタイ24:45−47)。それでも一部の人々はこの組織がこれまでいくつかの調整を行なってきたことを指摘し、「この点からすると、わたしたちは何を信じるべきかについて自分で決定しなければならない」と論じます。これは独立的な考えです。この考え方が非常に危険なのはなぜですか。
この考えは誇りの証拠です。そして聖書はこう述べています。「誇りは崩壊に先立ち、ごう慢な霊はつまずきに先立つ」。(箴言16:18)自分は組織よりもよく知っていると考え始める人は、こう自問してみるべきです。「自分は最初に真理をどこで学んだだろうか。組織の導きがなかったとしたら自分は真理の道へ行けただろうか。実際に神の組織の指導なくしてやっていけるだろうか」。確かにやってゆけません。(「ものみの塔」1983/6/1 25頁)
次に示した一連の言葉によれば、輸血の立場や排斥処置に反対する者は、ただちに怠惰のとがめや神への不忠実のかどで沈黙させられる。
それだけにとどまらず、エホバの証人の統治体や他の責任を持つ兄弟たちは、良心の自由と、聖書を解釈する個人の「権利」を侵害していると主張する人もいるかもしれません。しかし、「解き明かしは神によるのではありませんか」というヨセフの謙遜な言葉を思い起こしてください。(創世記40:8)
また、イエスは、この末の日に、時に応じて霊的な食物を与える仕事が、油そそがれた者たちからなる一つの組織、つまり「忠実で思慮深い奴隷」にゆだねられる、と予告しておられたのではないでしょか。(マタイ24:45−47)自分自分の反対意見を押し出そうとする人には用心しなければなりません。‥‥‥
血を食べることを非とする聖書の禁令は本当に輸血に当てはまるだろうか、という疑問をある人が口にするのをたまに聞くことがあるかもしれません。しかし、その考え方の背後には何がありますか。それは恐れ、現在の自分の命や愛する家族の命を失うのではないかという恐れでしょうか。復活の希望が薄らいでいるのでしょうか。忠実なクリスチャンは神の律法に関して妥協したり、水で薄める方法を探し求めたりはしません。‥‥‥
批判的な態度を取る人の中には、排斥された人たちとの社交的な接触を断つことについて、エホバの組織は厳しい見方をしすぎると主張する人がいます。(2ヨハネ10、11)ではそれらの批判をする者たちはなぜそのように考えのでしょいうか。密接な家族のきずなや友に対する誤った忠節心があり、エホバとその基準やご要求に対する忠節よりも、それを優先しているのでしょうか。‥‥‥‥
最後の点として、年代について協会がこれまで公にしてきた事柄を考えることができるでしょう。エホバの証人は偽預言者だと主張する反対者たちもいます。それらの反対者たちは、日付が定められていたものの、何も起きなかったと言います。その点について私たちは、それらの批判をする者の動機は何かと尋ねます。彼らは目ざめているよう神の民を励ましているでしょうか。それとも、再び眠気を催して無活動の状態に陥ってしまった自分たちを正当化しようとしているのでしょうか。(「ものみの塔」1986/3/15 19頁)
多くの場合、この章に引用したようにものみの塔の教えに対し起きた疑いに答えようとすることはない。証人は増し加わる浄化を待たずに、それを受け入れるべきで、組織はあとになって浄化すると決めるかもしれない。確かなことは一つ。ものみの塔の教義はいつも変わるものであり、ものみの塔への批判はいつも信用されることはなく、否定されるだろう。
第4章 ものみの塔のフォビアの理解
[フォビア]名詞。特定の事柄や特定の状況への継続する恐怖、不合理で過分な恐怖(ウェブスター・新ユニバーサル要約辞典)
フォビアを闘ってきた人たちは、そうしたフォビアが論理的な分析に対してどれほど免疫を持っているかを理解している。おぞましいモンスターから逃避する夢の思い出に似て、そのモンスターが存在しないなどと心にしみ込ませることは、決してありえないようだ。
悪夢が束の間の出来事であり、たいてい朝になると忘れられるのであるが、(それが強い場合がある)目覚めたときにも人々の意識の中に横たわっている。高所恐怖、犬に対する恐怖、閉所恐怖などは、生活様式に働きかけて、規則正しく人々の心を傷つける。
しかし、それに比較して、宗教上の恐怖に注意が払われることはほとんどない。恐怖や罪や自責の念、そしてヒステリーの感覚を作り出すために、欺瞞の心から聖書を歪めることは、今や明白である。ジム・ジョーンズの信者たちは、そのことを証言できる。犠牲者たちがその偏執の病にしばしば気がついていて、それがいかに破壊的であるか分かっているが、それを克服するのに無力であるかを感じていることは驚くほどである。
これは、特にエホバの証人の中でも真である。聖書のみでは満足できずに、ものみの塔は、規律の「タルムード」を含ませ、喫煙・祝日などを伴う禁令を含ませて、聖書の解釈に多くのものを付け加えた。それが不従順の不要な恐怖を創出し、ついには罪を作り出す。
なぜに、その信者の行為のほとんどすべての事柄を徹底して解釈するなどと、ものみの塔が主張するのか。さらに、規律が神から出ているなどとする不確かなことを塔が抱いている恐れがあるときでさえも、なぜに証人たちはすべての規律に応じるのか。塔は信者に悪意はないつもりであっても、塔は最善の利益を求めていると信じている。明白に定義された行為の規格に囲まれた400万以上の証人の生活に注文を付けることにより、規格が神に喜ばれ、神が永遠の生命を賜るであろうと信じている。
律法主義を身に着けていると、フォビアは巧みな操作の一つの形態である。ベットでお漏らしをする子供の上に起きる恐い話をして、おねしょの子供を恐がらせる親と同じように、信者に愛と恵みを話すよりも、むしろフォビアの教え込みを手段とする宗教団体がある。フォビアの教え込みが用いられる理由は、主として他者の行動と態度を統制しようとするからだと説明されるけれども、犠牲者の病状は、理解しにくい。
律法主義的な宗教カルトを求める人たちは、ずっと前に心の中に植え込まれたフォビアの犠牲者であることがしばしばである。両親から人生、人々、結婚や出世を恐れるように教えられる子供は、この世の終わりの日を伝道し、成員に迫害のコンプレックスを生じさせる宗教に慰めを見つけるだろう。アルコール中毒を慰めあう仲間のように、その子は邪悪な型式を逃れるために必要なものを求めるのではなく、すでに心地良くなったものを求める。信じられないだろうけれど、長い間親しんでいるために、フォビアとマインドコントロールは常習者には心地良く感じられる。フォビアは目標を達成することで治癒されるかもしれないが、犠牲者にはフォビアが認められるはずだ。大抵の場合、犠牲者はカウンセリング
を必要としている。
ものみの塔のフォビア
疑いへの恐怖
初めのうち、証人たちがしばしば疑いと現実の苦悶を潜り抜けるが、ものみの塔に反する情報は押さえつけなければならない。まもなく、証人たちは疑問を忘れることを学ぶ。しかし心の中で矛盾を解決することは稀である。そしてなにかがもう一度、疑問の引き金を引いたり、信仰の仕組みが脅かさるるときはいつであれ、怯えてしまう。それはイエス・キリストとの関係よりも、むしろ、教義に基づいている。疑問は強い不安を生じさせ、疑問が生じる恐れのある状況に身を置くことを避ける努力をするだろう。
組織を離れる恐怖
おそらく、すべての証人においてはもっとも深刻な恐怖であろう。徹底的な変化であるために、それは精神的な幸福、社会的な幸福となるだろう。証人は重大な罪、重大な恥、自滅的な感情に悩まされるのではないかと考えるばかりか、すべてのエホバの証人の友人を失ったり、組織の親族が話しかけを避けるだろうことを知っている。自身についての最悪の疑い深さと先天性の堕落行為が確かになるだろう。証人が排斥されている間にハルマゲドンが起きるかもしれない。エホバの証人にはどこにも行くべきところが無く、みじめに、孤独のうちに残りの生涯を過ごすだろう。
「世」の人たちへの恐怖
ハルマゲドンで「エホバの民」が救われるのであるから、そのほかの人々は、ことごとく滅ぼされる。どれほど宗教的で、どれほど神を恐れる外部者が現れても、彼らは「この世」の「邪悪な交わり」である。外部の者はエホバの証人の善良なモラルを堕落させ、組織に疑いを持つエホバの証人の心の中に侵入させるために、悪魔に用いられ、証しの働きを弱めるさせるだろう。
「出世」の恐怖
エホバの証人は、この世の事物にあって生涯の仕事を追い求めることが危険であると教えられている。それはあらゆる娯楽の類(主に金銭への愛のため)に支配されるであろうためだ。時間の過ごし方としては、この罪ある古い体制の終わりの前に「残された短い時間内」に戸別訪問をすることが次善の策であるから、証人は高等教育を求めることにしばしば罪を感じさせられる。
もしあなたがすでに財産や良い教育を有しているなら、あなたの会衆の精神に則って、その二つのうちのいずれかが、あなたにはっきり示されるだろう。「物質主義的」であると軽蔑されたり、この世の権力を持ち、「真理」の中で繁栄している立派な見本として敬われるかのどちらかだ。その「見本」は、組織の外部の者には決定的に良い証しでもある。多くの二重規格がある。
「学ぶこと」への恐怖
証人は「書かれたものに入らない」ように注意を受ける。それは、エホバの証人の統治体が今だに考えていない思考や、ものみの塔の教義や政策に反する恐れのあるものを考えさせないための意味と解釈される。疑いを増したり、エホバの証人の内部の不調和を増す考えを避けるために思考停止技巧が用いられる。
より高度な教育を求めることは、ものみの塔の真理への「より高度な批判」、あるいは組織の権威の拒絶に終わるだろうと教えられている。ものみの塔の出版物以外の本を読むことは、よその邪悪な信仰に影響される危険にさらすことになり、エホバの民によって語られる「清い言語」を汚すことになるであろう。
悪魔の恐怖
悪魔は意外にもエデンの園で神の目的を妨害しようとした者である。神にコンプレックスを与えることに成公した。みつかいたちは、悪魔の動機に関わっているから、神は悪魔を滅ぼすことはできない。みつかいは盲目であり、悪魔の計画を達成するがままに従う。神は悪魔に制限されるのだから、悪魔はエホバの証人の上に威力をふるうと考えられ、しばしば恐れられる。
親密な友情の恐怖。
エホバの証人の人間関係の悲しい特徴は、他の兄弟のスパイをするよう指導者から励まされることであり、もし見苦しい生活をしている者がいるなら、長老たちと向かいあったり、長老に足を運ぶ事になる(普通、それは両方同時にだ)。組織には「小言を言う秩序」がある。頂上に統治体があり、ベテル労働者、地域監督、巡回監督、地方の長老、開拓者、奉仕の僕、そして底辺に「奉仕者」(少なくとも気に入られた婦人)がいる。秘密は公式には保たれないため、また、個人的なあがきは、懲らしめや「忠告される」重大な危険にさらされるだけだ。証人は自信を持てない、しかし皮賑なことに、秘密を守るために未信者に変わる。
「背教者」の恐怖
組織を離れる者は、もっとも恥ずべきことばで語られる。その者は誇り高く、エゴイストで、権威を嫌っていて、嘘つきで、詐欺師で、姦通者であり、エホバの証人からは恐怖の的になる。エホバの証人は、元証人と目を合わせることさえ避ける極端な手を使うだろう。住所を変えるかもしれない。
あなたがかつて会ったことのないもっとも親切な人々と会うとき、かつて会ったことのある人々のうちで、もっとも愛がある集団として紹介する。そして指導者がもっとも霊的で、よく世話をし、もっとも情け深く、会った人々をもっともよく理解している者として認める。集団に着いていくことは、達成される可能性があり、あなたが決して思ってもみなかったことであることを学ぶ。そのすべては真相として、とても善良に聞こえる。自分の教育をあきらめてはならない。虹に続く希望と大きな望みを持て。 ジーン・ミル。(人民寺院の元成員)
注記:次のフォビアは、あなたの健康にとっては危険であるかもしれない。
神への恐れ
ものみの塔はその出版物のなかで、神の絵を優しく彩るかもしれない。しかし、一度、バブテスマを受ければ、実践面では、神は厳しく、厳格である。救いは決して確かではないし、証人はいつ起こるか分からない根拠の上に立って、救われると信じているに過ぎない。キリストとの関係は促進されないし、聖霊が住んでいることは教えられないから、信者には神との真の触れ合いの喜びはない。個人的な誇りと組織的な達成とエリート主義の精神がその隙間を満たしている。
ハルマゲドンの恐怖
死はものみの塔によって絶滅されると思えるけれども、終わりの日には、サタンの活動に十分没頭していない者には特別の侮辱が加わる。その者の目は眼窩からえぐり取られ、神の手の上で生けにえになる。ハルマゲドンはこのニュースレター(「失楽園から復楽園まで」1958年、208−9頁)の表紙の絵にあるように心の中に真に迫ったままである。証人は死ぬけれども、一方では証人の友人たちが生き延びているのを目にしているから、きっと経験するであろう深い恥辱と絶望の中心には、恐怖が多く存在する。
他宗教の恐怖
他宗教はすべて大いなるバビロン、偽りの宗教の世界帝国の一味である。神は大いなるバビロンとその「愛人」(教会に行く者とその同調者すべて)をすぐに滅ぼすであろう。すべての宗教上の目的や儀式は、悪魔的であり危険であると見なされ、その物理的な接触はことごとく宗教的理由で忌避される。エホバの証人が教会での結婚式や葬式に出席することは許されず、伝統的な祝祭日を祝ったり、クリスマスの贈り物にも与れない。新世界訳聖書以外の聖書はキリスト教世界の学者によって汚されたものと見なされる。エホバの証人が他の宗教に近づいたり、他の宗教の人々と仲間になるときには、悪魔の攻撃がいつも待ち構えている。
典型的なものみの塔の罪への旅立ち
ある人々は、献身を目指して進歩した時期があったものの、その後は尻込みしているように見えるもしれません。心の中にある神への愛が、神に無条件の献身をするようほどに強くないとしたら、それでも自分は祈りのすばらしい特権を持っているかどうか、自問してみるべきです。おそらくその特権はないでしょう。神へ近づく者たちは、神と義と柔和を真剣に求めていかなければならないからです(ゼバニア2:3)。本当にエホバを恐れる人は皆、神へ献身し、その象徴としてバブテスマを受けた信者です(使徒8:13、18:8)。また祈りによってとこしえの王に近づく無制限の特権を得ているのは、バブテスマを受けた信者だけです。‥‥‥「ものみの塔」1990/5/15 P.12
第8章
< 脱会 なぜそれほど難しいのか >
なぜ、あなたはその宗教からおさらばできなくなるばかりか、なぜに、二度と戻れなくなるのだろう。彼らが、あなたにしがみついているのではないのだ。
カルト教団、あるいは操りをする教会から離れようと格闘している人に、かつてあなたが話しを言ったことがあるだろうか。もしそうなら、カルトがその成員に対し、感情的に、心理的に統制する術に気づいていないのは間違いない。彼らにとって、離れることがなぜ、それほど難しいのか。彼らは宗教についての重大な不正をいつになったら分かるのか。ひとたび彼らが離れるとき、「まとも」になって、他の誰でもするように、教会に行くことが、どうして難しいのか。
雑誌「長寿」の1991年6月号は、非常に信心深い母親に育てられた若者の宗教上の証しを書いていた。母親は息子に、生涯誇りにできる唯一の道は、決してセックスをしないで、カソリック聖職者になることであると、きわめて若い年頃から言い聞かせてきた。
ヨシュア・バトラーは、世俗の道にひきずり込む恐れのある友人たちから離れて学校では孤立させられていた。その母親は、毎日5時間も祈り、夜毎、ヨシュアとその父親にロザリオの祈りを朗読させた(客の前でさえ)。ヨシュアが8歳の時、暮らしの中では映画とテレビは全て禁止された。彼は語っている。「母は『正装で簡素な連盟』の創設者であり、唯一の成員であった。父と私が毎日ミサに行くよう無理強いしていた」。
9歳までにヨシュアは、厳しい生活様式にもがき、その苦しみを父親と共有した。二人はある計画をひねり出した。「母が、毎週土曜に公園に行きプラネタリウムを訪ねることを許したとき、父と一緒にポピュラー・ミュージックを聞いたり、映画を見に行こうとした。しばしの間、母が二人に課した生活を完璧に忘れ去っていた。ヨシュアとその父親は、外界の世界の現実性の感覚と健全性を維持するためのコピー機を見つけ出そうとした。「映画は私の魂の救いだった。人生はストーリーであり、興味をそそるものであり、複雑で意義深いストーリーだと語っていた。私はそれが私の生活にも当てはまることが分かった」。
ヨシュアが11歳のとき、父子は母親の宗教に不信感を持ったため、母親と対決した。彼女は別居し、後に宗教上の熱狂を共有した16歳も年下の男と結婚した。「まもなく、彼女は私が地獄に行くだろうとほのめかす手紙やテープを私に送ってきた。祝日が近くなると、訪ねてくるが伝道するだけで、何も変わっていないと語らせるだけだ。」
ヨシュア(現在17歳)と父親は、カルトの犠牲者の一人だった。操りの道具は、神への恐れ、罪、そして、家庭の平和を守る必要性であった。ヨシュアが自分の生活にはっきりした現実への健全に進歩した感性を持たないようにするため、隔離が用いられた。ヨシュアが当たり前の欲求を楽しむことに罪を感じさせるため、純粋性の要求と告白の道具が用いられた。
かつて律法主義的教会やカルトに関係を持たなかった人々は、おさらばするだけのものに繋ぎ止める強力な要素を評価できない。健全に発達した現実感覚を持ち、さらにわずかな自信を持つ者にとっては、人々がカルト集団の犠牲者になるかもしれないとは、信じられないらしい。最近の「サリー・ジェッシィ・ラファエル・ショー」(6月5日)は、かつてカルトの罠に陥った後、デプロミングされた3人の若者にインタビューし、さらに子供を取り戻すために苦労した母親たちにインタビューした。
関係を持った宗教の中では、彼らは総体的に異なった人となり、強力な教会指導者によるマインドコントロールの犠牲者になったと、これら3人の若者は満場一致で同意した。若者たちは親の敵になることさえ、命令された。
< ものみの塔を去るとは >
もし、あなたが「ベテル・ミニストリー・ニュースレター」、あるいは「フリーマインド・ジャーナル」の読者からの手紙を読んだなら、あなたはものみの塔組織で多くの年月を過ごした人たちからの似たようなストーリーを耳にするだろう。彼らのうちの何人かは最終的に脱出するまで、長い時間を要した。そのわけは、恐怖と罪と不安である。‥‥‥神を拒否することで神から罰せられるのではないかという恐怖心(組織を去ることは神を去るに等しいとみなされる)。脱会の考えを抱く罪。「母」の組織から離れての生活に対する不安。エホバの証人はものみの塔が唯一の真の宗教であり、悪魔はそこから抜けださせ誤導しようと狙っていると教えられ、最初から隔離されている。エホバの証人は、他の宗派の文献や聖書の見解を読むことは許されず、とにかく、ものみの塔に批判的なものを読むことは許されていない。隔離形態は、効果的に、かつて保有していた現実のはっきりした感覚に予防線を張る。「我々と彼ら」の世界があり、そこではエホバの証人は考え方の唯一の安全地帯を課し、他人は、すべて潜在的な脅威と関係している。なぜエホバの証人が組織を急いで去らないのか、それは驚くべき事であるのか。
ものみの塔にいる家族も強力な要素である。多くの証人にとって、王国会館にいる 家族と友人だけが交わりである。もしある人が宗教を離れると、ふつうは、家族の者も同じように避ける。両親と兄弟姉妹、その子供たちを愛する私たちにとって、去った者に会ったり、語ったりすることが二度とできないと考えるのは、極めて痛ましいことだ。しかし、これはものみの塔を去るエホバの証人が直面する決定的な出来事だ。
< 手を差し伸べるためにあなたにできること >
三位一体、地獄などを彼らが信じていると主張することで、それらの教義を無理強いしてはならない。彼らがそれほど怯えていないときにその論点に取り組むのが次善の策だ。
教会出席を彼らに強制してはならない。教会は悪魔の安全地帯であり、虚偽の教義の避難所だと信じるように教えられているからだ。彼らにわずかな空間を与えなさい。結局、彼らは元気になる。
彼らの心の痛手を過少評価してはならない。ものみの塔を去る証人にとっては、恐怖と危険に至る、完璧な世界の崩壊に思える。もし、あなたがそれに鈍感なら、彼らはあなたを信頼しない。
休暇を取ったり、映画を見に行くような、当たり前の「楽しい」事柄をするよう、彼らを励ましなさい。非カルト行為がが多くなればなるほど、彼らは良くなってくる。
彼らが直面しているのと同様の試練をくぐってきた他のカルトの元信者のビデオを見せなさい。これはすばらしく役に立つ。そうしたテープの情報の多くを「フリーマインド」に求めなさい。あるいは対話のために他のカルトの元成員に会わせなさい。
彼らの行動にかかわりなく、愛されているとか、受け入れていると思わせなさい。あなたの態度と行動によって神の愛を示しなさい。