閉ざされた心を開く
第2章 忠実さの求め
「忠実さ」にはどのような意味がありますか。神への「忠実さ」には神が用いられる組織に対する「忠実さ」が含まれます。神の組織に対する忠実さは統治体への忠実さがあって初めて果たせます(「概念の囚人」キャメロン)。
カルトの世界では、カルトが成功して存在し続けるかは、信者の忠実さによって決まります。ものみの塔のようなカルトの内部で何が作用しているかを理解するための大事な点を次に書きます。
一般的にカルトは
(1) 決して間違いません。
(2) 常に正しい。
何か問題があると、その責任は常に、外部の勢力に転嫁されます。排斥されるか否かはそれによります。常にほかの誰かが嘘をついています。カルトは常に他人のせいにする営みをします。決して個人的な責任を果たしません。偽りの信頼関係を作り上げます。
(3)信者には常に純粋さを求めます。
信者はまもなく組織の立場を考慮して、自分の考えを批判するようになります。組織が気に入らなくとも、組織を喜ばせようとする強い衝動が生まれます。
(4)決して約束を守りません。
組織が約束を守らなくてもそれは信者が誤解していたためだと言われます組織が失敗しても組織を守ります。指導者は用意周到に準備します。もっともらしい体裁を取り繕うとします。
(5)常に恐れを利用します。信者をつなぎ止めるために情け容赦のない独裁者のようです。なぜ世は信用ならないか、なぜ排斥された者は危険なのか――極端な例を使って恐れを用います。組織にとっては恐れは大事です。
(6)罪を利用します。葛藤を生じさせるために個人的な感情を揺り動かします。罪を避けようと服従するときだけ平安になります。間違いをすると組織は次のように言って難癖をつけます。「悪いのは君だ」。「どうなるか見ていなさい」。
(7)組織の中には唯一の真理があると主張します。カルトは常に否定的な用語を利用して反対者の意見を断定します。世の人は嘘つきとか、背教徒と呼ばれます。それらが信者を道徳的にも、霊的にも、破壊するらしい。例えばものみの塔は、未信者の文書を読むと精神的にも毒されると教えます。まるでポルノ雑誌でもあるかのようです。
(8)家族の絆と友人の絆を絶ちます。たいていのカルトは誕生日と祝祭日の祝いを禁止します。そのときには家族の絆が深まるからです。カルトはカルトに対する愛と献身を信者に求めます。未信者の家族や友人と過ごす時間が残らないほどに忙しくさせます。
(9)常に、条件付の言葉を利用します。「私の話を聞いてくれるなら」とかです。約束や地位や肩書きを餌にして信者に愛の爆弾を投下し、「忠実な信者」に報酬を出します。「愛の爆弾」は世の人が失敗した時に比較できます。人民寺院のジム・ジョーンズは次のように言いました。「私はどんな奇跡でも起こせます。貴方の病気を完治します。もし起こらないことを祈れば……」。
もちろんそのような約束は条件付です。
(10)常に、我こそは神が選ばれた唯一の真の組織だと主張します。世の人はハルマゲドンで神の裁きに遭遇するらしい。
これらには共通点があります。操りです。共通の話し言葉によって統一されます。それがあるから距離を置くようにさせます。このような障壁は証人の心に深く浸透するでしょうか――良いたよりによると、これらのカルトの約束は届きません。無条件の愛こそが良いたよりです。
エホバの証人であったマーチン・ヘルナンデスはまさしく、これらの十の点が顕著だったと書いています。
私たちはものみの塔は地的な神の組織だと確信していましたから、ものみの塔を指導していた不完全な者(統治体)が奇跡を起こすことは明白でした。しかし、もちろん一方では、神の組織は決して誤らないと信じていました。最終的に神からの「新しい光」を得ることは時間の問題に過ぎません。本当の聖書の理解を明してくれる、神から認められたと確かめました。
何か正しくないことを教えられたり、不利な立場に置かれても、「エホバのみ手にゆだねる」とか「エホバを待つ」というのが常でした。置かれた立場に立って調べたり、疑いの芽を持ったりするだけで、そこで考えを停止するだけです。平均的なエホバの証人は心の中でのいわゆる「新しい光」はこの宗教には何かが間違っているとかいう赤信号ではなく、「真理」を愛するエホバ神からの祝福された愛のわざでした。何かをしようとしてはならなかったのです。組織に忠実になって倦むことがあっても、組織のモラルを守り、組織の望むものを行い、支持するのです。十分努力しないと罪を感じるのです。そうして、霊的に病んでいると思わせるのです。結局は愛が欠如しているとか、エホバとエホバの組織に熱狂していると思われるでしょう。神(組織)の求めを満たさないから罪を抱えて生きているのです。神から認められないで防具を失い、明日にも来るかもしれないハルマゲドンに生き残れなくなるのではという恐怖が生じます。
過去の歴史を思い返すと、人心を引きつけるために効果的な手法がとられたことが分かります。例えばヒトラーはヒトラーユーゲントを創設しました。「純粋な人種」に属すると認められた若者はアドルフ・ヒトラーの学校に入学しました。両親からの手紙は捨てられ、子どもは親の目から遮断されました。その目的は段階的に忠誠心を育むことでした。まもなく子どもたちの忠誠心は親から教師(フューラー)に転移しました。
バビロンの民が自分たちの「名」を決めようとした時、神は「彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」と仰ってそれに答えた。
ものみの塔は「純粋な言葉」を使うことが分かりました。ものみの塔は信者にエホバの証人の名を与えました。創世記11章の教訓を忘れないようにしなければなりません。
忘れてはなりません。神は「愛」です。神の愛は愛とは逆の「一致」を壊すために異なる形式を取ります。創世記11章の場面では、神の「愛」は一致していた民を分裂させました。民は自己満足に陥り、神の愛を無視した単一の思考しかできない世に生きていました。
愛はかたくなな心を溶解できますか――できますとも。
刑務所の中で過ごしている囚人は家族から手紙を受け取る時、自分の置かれている境遇を忘れます。ほんのいっときであれ、もはや囚人の身分を忘れます。その手紙は息子とか、父とか、兄弟からの手紙です。囚人である定義はすべて引きます。たった一瞬でも、みごとに愛は威力を発揮します。
エホバの証人やほかのカルトに対するメッセージは、常に辛抱強さと思いやりをもって示すこと――それが大事です。その動機は何ですか。その「ことば」は何ですか。議論に勝つことが目的ですか。彼らが自由になって神との素晴らしい関係を享受することを見ることが目的ですか。
エホバの証人も、その他のカルトも彼らのメッセージに反対する者と話をするときにはイライラします。話をするときにはまず、辛抱強さと思いやりをもって話すのです。それらが人々に及ぼす効果には驚くばかりです。カルトは同じことをしているのです。つまりは新人を勧誘するためであり、人心をあやつるためです。神は、神に従おうとする人たちに罪や恐れを植え付けるでしょうか。神は、神を信じる人には栄光と過分の愛を与え、慈悲と許しと、深い哀れみを施します。