第二章
霊感とクリスチャン聖書

 テトラグラマトンの研究を進める前に、聖書の霊感を考えないといけない。この研究では、主にクリスチャン聖書に関心を向ける。
 聖書の霊感がもっとも大事であることは、論を待たない。論理的に、もし聖書に霊感がないのなら(そして誤りがないなら)、クリスチャン聖書の中のテトラグラマトンは学者たちにとって興味を引く歴史的な話、テキスト的な話題に過ぎなくなる。しかし霊感を受けた書士が用いたそれぞれのことばに神が目的を持っていたと了解する霊感の考え方をする者にとっては、聖書自体の霊感はクリスチャン・ギリシア語聖書におけるテトラグラマトンの研究を打ち立てる土台となる。クリスチャン聖書の原文のそれぞれの語に神が霊感を与えたとする見方では、著者もものみの塔も一致している。
 聖書の霊感の研究は白か黒かの論議ではない。一方では深く霊感を信じる者、他方では人間の書いた書物「聖書」に神からの介入はまったくないのだとする者とにすっきりと分けられるものではない。キリスト教世界は、偏った霊感、偽りの人間の作った権威などに関する議論を引き起こして霊感の議論の中に多大の混乱を持ち込んだ。
 著者は霊感と誤りのない性格に関するものみの塔の立場をよしとする。前に進む前に聖書の霊感の意味を吟味する必要がある。それは目下のギリシア語テキストを特徴づけるからだ。この議論の大部分は、『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』の本の中で検証できる。

 霊感の意味
 「霊感」の語は、聖書に関してしばしば用いられる。その本の中ですでに記述されているように(7頁)。

 聖書全体は神の霊感を受けたもので(す)。テモテ第二3章16節のこの言葉は、エホバという名を持たれる神が聖書の著者であり、それに霊感を与えた方であることを示しています。‥‥‥神のみ子イエスは、「あなたのみ言葉は真理です」と述べて、神のみ言葉を最も価値あるものとしました。


 それほどしばしば、名指しされてはいないが、霊感の研究における基本的な疑問は、神の性格である。自問しなければならない。「エホバはその本のどの箇所を書いたのだろうか」。誤りとはまったく縁のない書物であろう。加えて子々孫々にわたり、その書は読み継がれてきたのであり、「著者」は注意深くこの書を守ろうとしたのだから、できる限り正確な形式で読まれるかもしれない。
 その残存する性格について、「聖書 神の言葉、それとも人間の言葉?」で語られている。

  聖書はその点にも答えて、「エホバのことばは永久に存続する」と述べています。(ペテロ第一 1:25)聖書が真に神の言葉であるならば、いかなる人間の力もそれを破壊することはできないはずです。この20世紀に至るまで、まさにそのとおりになってきたのです。(24頁)

 『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』はこれに続けて

 その益はどのようにしてもたらされるでしょうか。テモテ第二3章16節と17節の使徒パウロのことばを終わりまで読むと、その答えが得られます。「聖書全体は神の霊感を受けたもので、教え、戒め、物事を正し、義にそって訓育するのに有益です。それは、神の人が十分な能力を備え、あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです。」それで、霊感による聖書は、正しい教理と正しい行動を教え、わたしたちの思いと生活の中で物事を正し、わたしたちを戒めまた訓育して、真理と義にそって謙遜に歩ませるのに有益です(7頁)。

 聖書の源はエホバご自身であると分かっているのだから、誤りのある聖書は望むべくもない。しかし聖書には誤りが無いと言うときに意味するものを正確に理解しているか、慎重になる必要がある。原文は誤りとは縁はない。原文の写し(そしてその翻訳)には、誤りが含まれているのだろうか。それは発生していると、歴史が証明する。聖書は信頼を置けないと言っているのではなく、誤りが無いと言うときには、ヘブライ語聖書とクリスチャン・ギリシア語聖書の原文を語っていることを忘れてはならないと言っているのだ。
 この点に関しては、「著者」としての神は誤りはないのだろうとする霊感の「結果」についてだけ語ってきた。。しかし霊感と呼ばれる「過程」を説明してはいない。「霊感」ということばの定義を学ぶ時、「過程」を分かっている。前に引いた書を引用すると「『神の霊感を受けた』という表現は、「神が息を吹き込んだ」という意味のギリシア語「テオプネウストス」の翻訳です(前掲書9頁)。どのように神がその啓示をそれぞれの原作者に与えたかをその大部分は、知らされていない(しかし著者がそれを語っているときもある。ダニエルはどのようにして神がダニエルにさまざまな啓示を伝達したかを説明している聖書著者のおもしろい一例である。ヨハネも「啓示」(黙示録)の中でその過程を記述している「イエス・キリトによる啓示、‥‥‥そして、[イエス]は自分のみ使いを送り、その[み使い]を通して、しるしにより[それを]自分の奴隷ヨハネに示したのである)。

霊感と記述上の誤り
 1456年のグーテンベルグの活版印刷機が発明される前は、書類はすべて手で写された。言うまでもなく、筆者のテキストに誤りが入り込んでいた。
 現在の私どもには、とても手の届かない古代写本の再現につき、役に立つ経歴がある。けれどもそうした歴史を研究すると、差し出されている写本を残すことやそれを書いた写字生を平凡に一般化にさせる不適切さが目に見えてくる。テキストを筆写する過程の中では、並々ならぬ注意を払ってもささいな叙述上の誤りが残されることもある。ヘブライ語の聖書を写したユダヤ人の著述家は、たぶん行数を数え、写された節の文字を数えて正確さを保つための高い水準の規格を発展させた。しかし注意を集中した労作であったから、今日、研究のために入手可能なテキストの数は減っているとはいえ、わずかな数の古い写本が残された。一方、頻度の高い記述上の誤りを残して、異邦人によるギリシア語写本が大慌てで頻繁に写された。それらはどこか正確ではないけれども、研究のために可能な大量の写本がある。
 記述上の誤りばいつもうっかりした偶然によるものとは限らない。写本の誤りは、たぶん原稿が誤っていたためであろう。でも神学上の偏向を招き入れたり、それを取り除くためにテキスト中に意図的に挿入された誤りもある。オリゲネース(182-251)は、初代教会時代の指導的な著者であった。当時の写本の意図的な変更について書いた。

 今日では、さまざまな写本の間には、特定の写字生の怠慢のため、あるいはテキストを訂正するうちに誰かが示した強情なずうずうしさのため、あるいは、訂正する者を演じながらも、だれかが喜ぶように長くしたり、短くして誤りを作り、あからさまな偏向が明らかに生まれている。


 書かれた神のことばを愛し、尊敬する者として、聖句を変更する企てを強く非難したい。古い世紀における写字生にも、別な言語にテキストを訳す現代の翻訳者にも、神の啓示を忠実に再現することが、正しく必要とされる。

 霊感と正しいテキスト
 聖書は神の霊感を受けたものと信じるのなら、神が聖書の著者たちに書かせた正確な言葉を知りたくなる。そのためには、記述上の誤りや修正のない聖書の写本を願うばかりだ。完璧な文書をいつでも維持していけるだろうか。
 望みのないジレンマ状態から離れて、クリスチャン聖書テキストを人間である聖書著者が最初に書いたように再構築する見込みは高い。そして事実上、それはすでにほとんど完了した。古代のクリスチャン・ギリシア語聖書写本の大部分が発見されてきたのだから、本当だ。しかし、まず初めにいわゆる正文批判という学者の研究分野を簡単に振り返る必要がある。原作者にもっとも似たことばづかいを決定するためのテキスト(書かれたことばそのもの)の研究である。そうした学者は入手可能な最古のギリシア語写本を携えて活動している。
 正文批判を『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』は、その318頁でもっとも簡潔に定義している。著者は「本文批評とは、聖書の原作文を再建し、復元するために用いられる方法のことです」と語っている。
 (「正文批判」と「高等批評」との違いをはっきりさせなければならない。すでに示したように、正文批判は本来のテキストの再構築と関係している。正文批判は、聖書の字句の研究を記述する高等批評という同じような響きのある述語とははっきり異なっている。高等批評は、異常に投機的であるのがしばしばであり、聖書の信頼性と霊感を疑う者に用いられた。しかし正文批判は聖書を愛し、エホバが初めに人間に伝達したことを知りたいと願う者にとって大事な味方である。
 正文批判は、たぶん次の説明を使えばもっともよく理解できる。たとえば重要な歴史上の文書の原版が壊されたと言ってみなさい。それが損なわれる前には印刷する版がなかったと想像してみなさい。そして、その文書のコピーのみ(あるいは写したもののコピー)が試みの対象となる。予想したように、写筆の過程で間違いが生じるだろう。もし原作の文書をもっとも正確に再現する責任を押しつけられたら、それを負えるだろうか。きっと負うだろう。最初は、見つけられる限りのコピーをたくさん探すだろう。その次に、もっとも古い写本を探そうとして、それぞれのコピーが作られた日付を確定しようとするだろう。次にそれぞれのコピーの信頼性を定める指針を作ろうとするだろう。最後に原文を再構築するために、写したコピーすべてをお互いに比べてみるだろう。
 コピーと原作の中にもコピーが挟まっているのだから、もっとも古い写本がたぶんもっとも正確であろう。きわめて古いコピーは原文のコピーから作られたコピーであろう。もしもきわめて古いのなら、原文そのものから作られたコピーであろう。しかし、比較的新しいコピーであるなら、原文との間にはたくさんのコピーが存在するかもしれない。コピーと原文の間に存在するコピーが多ければ多いほど、間違いの可能性は大きい。同様に聖書のどこかの箇所の写本が古ければ古いほど、その正確さは、もっともらしくなる(例外があるのだろうから、「もっともらしい」と言っているのだ。たとえば、もしきわめて古いコピーから比較的新しいコピーが作られたと言われたら、そのほかの比較的古いコピーよりもその新しいコピーのほうが正確であるかもしれない)
 聖書写本の問題に立ち返ると、ギリシア語聖書の古代の写本がたくさん現存していることがわかる。重要な一部分は、西暦三世紀の日付を利用できる。新世界訳聖書の中の脚注参照に記され、『王国行間逐語訳』できわめて重要な参照である写本もある(古代ギリシア語写本の正確な写本は付録Fを見なさい)。
 現在では聖書学者は西暦201年から300年の間に作られたクリスチャン・ギリシア語聖書の写しを現に所有している。原作者は、西暦41年(マタイ)と98年(ヨハネの福音書と書簡)の間に著わした。もっとも古い、現存する写しは、クリスチャン聖書の執筆から比較的接近した年のうちに(長くても150年以内に)作られたことを意味している。西暦125年ころに写されたヨハネの福音書の写本の断片が利用できる場合もある。それは原文が書かれてから25年ほどであった。
 上述の説明をもう一度考えてみよう。考古学的に写しを収集したあと、どのように写しを比較するのだろうか。原文が語ったことを実際に決められるのだろうか。もう一度「その通りです」と言おう。たとえば、写しはそれぞれ10の誤りがあったとしよう。するとそれぞれの写しには共通性のない誤りがあることが分かるだろう。それぞれの写しの誤りは、不規則であるのだ‥‥‥それぞれの写本の中で同じ語句が常に誤っていたり、配置関係が常に間違っているのではない(一方、一連の写本の中に繰り返し同じ誤りが見つかるのなら、同一の誤りを持つ共通の源泉から写されたことが当然と思えるだろう)。原文のもっともありうべき読み方を決定するために一致の頻度がもっとも高いことを表にしよう(書かれた文法や語句が同じ写しが複数あるのだ)。ここにも例外がある。大多数の写しが、間違いを持つ古いコピーから写されるときに、一致の頻度が高くなる例もある。 
 言うまでもなく、間違い捜しの問題をあまりにもあっさりと片づけてきた。実際には、ギリシア語写本の中での異本の権威を定めるために取らなければならない多くの段階がある。その過程をおろそかにしたり、何気なくやったりしてはいけない。しかし、確実性が高い頻度で得られるかもれしれない。
 このように、聖書学者(ウェストコットとホートあるいは、『王国行間逐語訳』で用いられるギリシア語テキストを作った正文批判者)は利用できる写本を比べ、驚くべき正確さを持つギリシア語聖書原文の内容を決定できた。今日、入手可能なギリシア語の原文の古代写本の断片が五千以上もある事実が手助けとなっている。ギリシア語テキストの信頼性が極めて高いことは引用した参照にまとめてある。 

 ウェストコットとホートの本文の共同刊行者であるF・J・A・ホート博士はこう述べています。「新訳聖書の大半の言葉は差異を見分ける批評のどんな手法も及ばないほどしっかりしている。なぜなら、それらの言葉には異文がなく、ただそのままお転写すればよいからである。‥‥‥比較的ささいな点を‥‥‥別にすれば、我々の見地から見てなお疑問視される言葉は新訳聖書全体の 1,000分の1を超えることはまず考えられない」。(『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』319頁)

霊感と今日の聖書
 霊感の問題を終わる前に、現在所有している聖書に霊感の真理をあてはめる必要がある。全体の流れでは、霊感の問題は、エホバ自身の仲介を認めるざるを得ない。霊感を受けた聖書書記者にエホバのたよりを啓示しただけでなく、信仰への信頼できる導きとして、各世代にその有効性を確保するため、歴史を通して備えをした。
 霊感を受けた書記者に書かせた後も、聖書とエホバの関係は止まなかった。我々は、保存するためのイスラエルへの過剰なる心配りをあまり認めなかった。偶像崇拝とエホバを軽視する時代にあっても、それでも彼らの聖書の間違いなく保全した故に、燃える情熱を保っていた。今日我々が所有しているヘブライ語聖書は、自分の命を犠牲にしたユダヤ人の歴史を通した無数のユダヤ人のおかげである。神自身がその過程で仲介したのだから、イスラエルの流浪、軍事的敗北、捕囚、政治的混乱の時代にあっても、みことばは失われなかった。
 エホバは、クリスチャン・ギリシア語聖書の完成以降も、霊感を受けた書物の伝達に仲介を続ける。初代教会の歴史、ローマの政治的教会の登場、欧州での中世の暗黒、そして我々の文化的な歴史における世俗の学問と宗教上の学問による覚醒を通して、神は聖書を保存してきたのだから、現在では本当に神を知ることができる。
 エホバは、聖書のテキストの正確な伝達を確保するためにさまざまな召し、さまざまな関心を持った人々を用いてきた。彼らは、貴重なスクロールを隠すために、喜んで自分の命を賭けようとして殉教に会った。セクト主義的な独善を支えるために「聖書」を作ろうとする政治体制や宗教機構の圧力に屈せず、聖書を正確に再作成しようとして生涯を捧げた無数の写字生がいた。もっと古くて、もっと正確なギリシア語聖書の写本を常に求めて、古代写本に向けてシナイ半島や北アフリカの僧職者の書庫を徹底的に探した学者たちがいた。
 保存の方法と同じほど重要なのは、聖書の著者自身を決して見過ごしてはならない。聖書に霊感を授けた神は、確かにそれを保全するための必要な警戒をするのである。
 そして二千年前にペンを取った使徒的な筆記者のことばそのものの忠実な複製を私たちが有していることも確かだろう。『聖書から論じる』 268頁にこう、書いてある。

 フレデリック・ケニヨン卿は、自分の編纂した、「チェスター・ビーティー聖書パピルス写本」、全7巻の序文に次のように書きました。「これら[パピルス写本]の調査から得られた最初の、かつ最も重要な結論は、現存する本文が基本的に確実なものであることをそれらが確証しているという、満足のゆくものである。旧約および新訳のいずれにおいても、衝撃的もしくは根本的な異読は認められない。重要な意味を持つ語句の削除や挿入はなく、大切な事実や教理に影響を及ぼす異読もない。本文の異読は、語順や細かな言葉遣いといった小さな点に影響を及ぼしている。‥‥‥しかし、それらの持つ基本的に重要な価値は、これまで利用できた写本よりそれらが古いという事実によって、現存する本文の忠実性を確証していることにある」−−(ロンドン、1933年)、15ページ。

ギリシア語聖書テキストは信頼できるのか
 この章の結論として、『聖書‥‥‥神のことばですか、人間のことばですか』の59ページと60ページにある「その本分は信頼できるものか」の見出しの下にある短い引用よりも上手に書かれているものはないだろう。

 これら目撃者による証言が正確に記録されたとしても、後にそれが改変されるようなことはなかったでしょうか。別の表現をすれば、原本が完成した後に神話や伝説が持ち込まれるようなことはなかったでしょうか。すでに見たとおり、クリスチャン・ギリシャ語聖書の本文は、古代の他のどんな文学書より良好な状態にあります。聖書のギリシャ語本文の学者であるクルト・アーラントおよびバルバラ・アーラントは、古代から今日まで保存されてきた約 5,000に上る写本を挙げており、その中には西暦2世紀のものさえあります。このような膨大量の証拠から全体的に言えるのは、伝えられてきた本文が基本的に確かなものである、という点です。加えて幾つもの古代訳があり−−もっとも古いものは西暦 180年ごろ−−それらも本文の正確さの証明に役立っています。
 ですから、どのように見ても、原筆者がクリスチャン・ギリシャ語聖書を書き終えた後、伝説や神話がその中に入り込むようなことはなかったことを確信できます。わたしたちが手にしている本文は、元々の筆者のペンになるもとと実質的に同じであり、その記述の正確さは、同時代のクリスチャンたちがそれを受け入れていたという事実によって確証されます。

この章のまとめ霊感への疑問とクリスチャン・ギリシア語聖書のギリシア語テキストはこの章の核となる関心事である。
1.聖書の源泉は、エホバ自身である。神は誤りがある聖書を書かないだろうことは確かだ。それは、原文には誤りがなかったことを意味する。
2.霊感の過程は言葉の定義から最もよく理解できる。神の霊感は、神が息を注いだを意味するギリシア語The-op'neu-stos に由来する。エホバは、人類に伝達しようとした言葉を書いた方法で自分の考えを原作者たちに与えた。
3.現在のクリスチャンギリシア聖書のギリシア語テキストは、基本的に誤りがない。それは検証できる。なぜなら、
 多数の古代写本を有している(原文が書かれたときから100年以内の日付のものもある)。
 研究のために夥しい数(五千以上)の古代ギリシア語写本がある。
4.霊感は、人類へのエホバの書かれた啓示への不変の忠節さにエホバの仲介をも考えないといけない。聖書に霊感を授けられる神は、保存を確固たるものにもできると信じている。

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