第13章
異教でなければ何なのか。
前の章で、私たちは重要な質問をした(そして答えた)。「西暦三世紀、あるいは四世紀の間に、クリスチャンギリシア語聖書からテトラグラマトンが取り除かれたのか」。
私たちは、最も古いクリスチャン・ギリシア語聖書写本の中のKyriosの存在を徹底的に記した。霊感を受けたクリスチャン書記者がテトラグラマトンを用い、その後に、取り除かれた可能性はない。
最も古いクリスチャン聖書写本や教父の書物のどちらにも異教が結託してクリスチャン聖書にKyriosを挿入することを命じた証拠はない。10章で見たように、もしテトラグラマトンの除去が三つの大陸を挟んでいる異教的な企てだったのなら、初期の書士から、論争を知ることができるのは当たり前であろう。
一方、ユダヤ人のためのヘブライ語聖書のギリシア語翻訳の写しにテトラグラマトンが用いられた事実上の証拠がある(それにはアキュラやテオドシウスの翻訳だけではなく、セプトゥアギンタも含まれる)。さらにクリスチャンがその写しの中で故意にをKyriosに変えた明白な証拠がある。
は明らかに、同一視できるセプトゥアギンタ版の中で用いられた。同じ引用は後代のクリスチャンの写しの中ではkyrios として出現する。
ヘブライ語聖書翻訳におけるからKyriosへの変更が異教の証拠でないのなら、何が異教なのか。
私たちは信用できるのか。
この本を通してセプトゥアギンタとクリスチャン聖書を区別してきた。にもかわらず、セプトゥアギンタは、初代教会の「聖書」であったし、霊感を受けたクリスチャン書士の書物によって補われた後も残った。クリスチャン・ギリシア語聖書が加えられたときでも、セプトゥアギンタは初代教会の間で繰り返し写され、流布された。古代の異邦人社会の中でヘブライ語聖書の広い範囲にわたる普及を負っていたのは初代教会であり、ユダヤ教ではなかった。
多くの読者にとっては、私たちがクリスチャン聖書の中でのこの変化を割り引いて聞くとき、ヘブライ語聖書のうちの特定のギリシア語翻訳の中でテトラグラマトンがKyriosに変化したことをまるで否定しているのかのように思える。さらに、を用いている数多くのセプトゥアギンタ聖書には確かに二世紀から三世紀の間に、変化が起きていた(もっと正確に言えば、今日見ている変化は、残存したが書かれている数多くの写しの中にあった。これから見るように、西暦四世紀には、ギリシア語で書かれたヘブライ語聖書を破棄しようとするユダヤ人による一致した企てがあった)。
まったく単純に言って、クリスチャン・ギリシア語聖書がテトラグラマトンからKyriosへの変化の証拠を示していなかったことと、ヘブライ語聖書のセプトゥアギンタなどの訳文がテトラグラマトンからKyriosへの変化を示したことを区別しないなら、私たちは信用されないだろう。
ユダヤ人のセプトゥアギンタ
この本の中では、セプトゥアギンタやその他のヘブライ語聖書ギリシア語訳を突っ込んで研究しないようにしてきた。従って、私たちは早い世紀の教会でテトラグラマトンがギリシア語Kyriosにしばしば変えられたと断言するにすぎない。
この過程は、参考となる標準的な百科事典と「聖書理解の手助け」の記述を比較することによって示される。その説明は、西暦二世紀初めに完成したヘブライ語聖書のアキュラの翻訳に関わっている。「新シャフ・ヘルゾグ百科辞典」には、こうある。
古ヘブライ文字で書かれたテトラグラマトンを示している(アキュラの)翻訳の連続した部分が、1987年、初めてカイロ・シナゴーグの羊皮紙で明るみになった。アキュラが二つの版を書いた(二番目の版はヘブライ人が「正確なもの」と呼ぶ)とするヒロエニムスのことばは正確に思える。
そして「聖書理解の手助け」の886頁では、ヘブライ語聖書のアキュラのギリシア語訳にはめ込まれた古ヘブライ語文字(文中で二回出現する)の明確な挿絵が書かれている(しかし、その挿絵は、写真複写版ではなく、活字体であり、聖書的な箇所は識別できない)。
「聖書理解の手助け」の同じ頁で、編集者は次のように語っているカーレ博士を引用する。
ギリシア語の聖書本文[セプトゥアギンタ訳]は、ユダヤ人がユダヤ人のために書いたものである限り、神の名はキュリオスに書き替えられはおらず、そのような写本にはヘブライ語やギリシア文字で書かれたテトラグラマトンがあるべき場所に保たれたいちことを今や我々は知っている。ヘブライ文字で書かれた神の名がもはや理解できなくなった時、テトラグラマトンをキュリオスで置き換えたのはキリスト教徒であった(「カイロ・ゲニザ」222、224頁)。
独自の調査に取って代わり、私たちは上に引用された資料を認めるだろう。しかしヘブライ文字のテトラグラマトン(または)は、ヘブライ語聖書のギリシア語訳のユダヤ人の写しにの中で正式に使われた。これはセプトゥアギンタのクリスチャンの使い方に対応する反キリストの立場に立つユダヤ人のなりゆきとしては、特に事実通りである。
従って、ある変化が古い世紀の教会に生じたことは明らかである。翻訳されたヘブライ語聖書はかつてない規模で異邦人教会で筆写された。しかし、彼らには、ヘブライ語を理解できなかったし、書かれた神の名も理解できなかったので、を(kyrios)と翻訳した。
ギリシア語圏内での教会の聖書
西暦41年と98年の間に、27の書が聖書に加えられた。しかし、それらの書の生産工程が完了するまで、西暦一世紀の教会には満足な聖書が不足していたと暗示することにはならない。
イエスは自ら、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」(ルカ24:27)
ペンテコステの祭りの日、ペテロの説話は、ヨエル2:28−32、詩篇16:8−11及び、詩篇89から132章を参照するサムエル記第二17:12からのものであった。
「使徒の働き」を通して、パウロはヘブライ語聖書からユダヤ人と異邦人に教えた。プリスキラとアクラがアポロを「招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した」後、アポロは「聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破した」(「使徒の働き」18:26、28)
パウロはテモテに思い起こさせた。「学んで確信したところにとどまっていなさい。‥‥‥また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」。さらにパウロはこう主張する。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです」(テモテ第二3:14−17)
これはすべて、ヘブライ語聖書の参照である。教会は聖書を保有する前、マタイ、マルコ、ルカ、パウロ、ヤコブ、ペテロ、ユダ、そして最後にパウロが書くまでは待たなかった。彼らは教会の歴史の極めて早い時期に聖書を所有した。
教会がエルサレムに残っていた間、聖書はヘブライ語、あるいはセプトゥアギンタ訳のどちらででも手に入った。確かにギリシア語のセプトゥアギンタを用いた多くのユダヤ人は、ギリシア語テキストにと埋めこまれたテトラグラマトンの存在に慣れ親しんでいた。しかし、ステファノが石打ちに遭った後、「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」(「使徒の働き」8:1)。「使徒の働き」10章では、ついにエホバは異邦人によいたよりを伝えるためにペテロを公式に用いた。「彼らにこう言った。『ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。そこで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです』‥‥‥」(「使徒の働き」10:28−29)。
教会が異教の異邦人世界に広がったとき、クリスチャンはセプトゥアギンタを手に携えた。「エホバは次のような言葉で‥‥‥『わたしはあなたを任命して諸国民の光とした。地の果てにまであなたが救いとなるためである』」(「使徒の働き」13:47)と命令を課された後、パウロとバルナバは次々と訪れたであろうアンティオケア、イコニアなど全ての都市に住む人々にとっては、ギリシア語テキストは理解が可能であった。ギリシア語テキストの中に神の名を目にした(理解さえした)「異邦人」がいたことは、疑う余地がない。しかし、それは異教の異邦人と接触をしていたユダヤ人ではないとはもはや言えなくなった。「異邦人」たちは、故郷の仲間の人々によいたよりを宣明する働きを始めた。彼らは、ユダヤ人の遺産を持っていない「異邦人」であり、ヘブライ語を理解していなかった。
『聖書理解の手助け』887頁に次の箇所がある。
西暦384年にローマで書いた1通の手紙の中で、ヒエロニムスはこう述べています。セプトゥアギンタの写しの中にテトラグラマトン()のヘブライ語文字を目にすると、「一部の無知な者たちは、文字が似ているため、習慣的に、それをPiPi(ギリシア文字ΠΙΠΙの間違い)と読んでいた」。
ユダヤ人聖書の様式
『聖書理解の手助け』やその他のものみの塔協会の注解書は、パウロ・I・カーレ著の重要な書、「カイロ・ゲニザ」をしばしば引用する。カレーは、ヘブライ語とギリシア語の両方でヘブライ語聖書を慎重に研究した。
オリゲネースの著名な『ヘキサプラ』(その中で彼は六つの欄から構成されるセプトゥアギンタの研究書を作った)には、ギリシア語で書かれたヘブタイ語聖書テキストの字訳をした二番目の欄が含まれていた。その本の158頁でカーレは次の観察をする。
この作業(ヘブライ語テキストをギリシア文字に字訳すること)は、幼少のころから聖書を読んでいて、ほとんど暗記していたユダヤ人が行った仕事であろうことは間違いない。そのユダヤ人は、母音のないヘブライ語テキストを読めない仲間の信者のためにこのテキストを作った。
そして162頁でカーレはこれを当てはめる。
ヘブライ語原文を読むために、ギリシア語文字の筆写は、確かにすべてのクリスチャンと数多くのユダヤ人には都合がよかったであろう。この理論は、ギリシア語で筆写したテキストの存在するというのには、もっともらしい理由にもなる。礼拝の時間にヘブライ語の旧約聖書からの教訓を読むことは、ユダヤ人にもクリスチャンにも許された。それは、なぜ筆写されたテキストがそれほど慎重に組み立てられ首尾一貫していたか‥‥‥を説明する「ヘキサプラ」に集められたほかのすべてのテキストを同じく、このテキストはオリゲネースがユダヤ人から採用した。その明白な証拠は、事実上、保存された五つの欄すべてに神の名がヘブライ語の四角い文字でテトラグラマトンと正式に書かれていると分かることである。
西暦二世紀にユダヤ人のために作られた重要なギリシア語訳の一つは、テオドシウスが書いた。254頁で再びカーレが次の意見を述べている。
テオドシウスのテキストの特質の一つは、ギリシア文字で書かれたヘブライ語の字訳である。‥‥‥西暦二世紀にテオドシウスが字訳されたヘブライ語で立派なギリシア語訳を置き換えたり、あるいは、新しく作られた字訳は「セプトゥアギンタ」のどこかの箇所でギリシア語の代わりに使われたかなどと、どうして期待できるだろうか。明らかに字訳されたヘブライ語はユダヤ人のために作られた翻訳の中で用いられていた。ギリシア語を話すユダヤ人は、たとえふつうにヘブライ語を話せなくともそうしたヘブライ語に慣れ親しんでいた。‥‥‥テオドシウスはユダヤ語圏内のための改訂版を作った。ユダヤ人はヘブライ文字を理解できないだろうかと心配する理由はなかったから、ギリシア語訳による字訳されたヘブライ文字を置き換えなかった。
一方、クリスチャンが使用するために書かれたギリシア語聖書の写本には、そうした字訳されたヘブライ語文字が取り除かれ、ギリシア語の同意語で代替されたはずであることは明白である。
明らかに、カーレは「セプトゥアギンタ」の始まりの期間(紀元前およそ280年)から西暦二世紀までの間にユダヤ人のために書かれたギリシア語翻訳の重要性に注意を向けている。パレスチナの外に住んでいる多くのユダヤ人は、ヘブライ語を知らなかったし、ヘブライ語の話しことばを認識してもヘブライ語文字を読めなかった。
セプトゥアギンタとその当時のギリシア語翻訳の研究では、ユダヤ人の言語文化と社会的な文化との関係を考えなければならない。多くの場合、こうした翻訳はユダヤ人聴衆のためにユダヤ人によって行われた。そして私たちは、ユダヤ人のために書かれたヘブライ語聖書のギリシア語訳の中に神の名(あるいはとして)の筆記を予想できる。
再びカーレは、こう述べる。
クリスチャンが発生する以前の時代、ユダヤ人のためにユダヤ語で書かれた聖書のギリシア語訳はすべて、神の名としてヘブライ文字でテトラグラマトンを使ったはずであり、クリスチャンLXX(セプトゥアギンタ)コーディックスの中にあるようなやその短縮形ではなかった。
字訳なのか、翻訳なのか、複製なのか
神の名を扱うとき、聖書翻訳者ならだれでも逡巡を経験する。それは確かにセプトゥアギンタの初期の翻訳者や編集者が直面した問題であった。ユダヤ人の読者にどのようにその名が伝えられたか、ヘブライ語を理解できなかった読者へどのようにして運んだのか。どちらが重要だったのか、様式なのか意味なのか。それは新世界訳聖書翻訳委員会がヘブライ語聖書の作業を始めたとき、直面した逡巡でもあった。
ヘブライ語テキストからの神の名を扱うとき、翻訳者が取りえる選択肢は多かった(次の説明では英文だけを用いるだろう。明らかにセプトゥアギンタの翻訳者たちもギリシア語テキストでも同じ疑問に遭遇していた)。もっとも安直な選択は、単にヘブライ語四文字を筆写することである。目的の言語に用いられる文字よりもヘブライ文字を翻訳者が使うことになる。この選択だと、詩篇7:1、3、6、8の聖句を次のように訳すだろう。
O my God,in you I have taken refuge.Save me from all those persecuting me and deliver me‥‥‥
O my God,if I have done this,If there exists any injustice in my hands.
あるいは、古ヘブライ語様式を用いて
Do arise,O ,in your anger;Lift yourself up at the outbursts of fury of those showing hostility to me‥‥
himself will pass sentence on the peoples.
Judge me,O ,according to my righteousness‥‥‥
言うまでもなく、筆写は、翻訳者がテキストの見方から選択できるもっとも正確な行為である。ヘブライ語が新しいテキストの中に手付かずに移入されるから間違う可能性がない。他方、筆写は読み手が書かれたヘブライ語を理解しない限り、意味がない。
翻訳者に開かれている二つ目の選択肢は、読者が親しんでいる文字を使って視覚的にを複写することである。Π(P)とΙ(I)の文字が書かれたセプトゥアギンタの特定のギリシア語写本がそれである。このギリシア文字を複写することによって、読者はΠΙΠΙ(まれにはπιπιも)を目にした。英語の文字はこの選択肢に十分適していない。けれどもnin’のようなものが使われるかもしれない。しかしそうした象徴は神の名を保存するため何の役にもならないのことは明白である。このもくろみは試みられたのだろうか。ギリシア語でPipiとなったように、英語の神の名が、単にNinになるだけだ。これは詩篇11:1を極めて不満足なものに変える。
In nin’ I have taken refuge.
翻訳者はの文字を目的の言語四文字に字訳しようと選択するかも知れない。それは、現存するセプトゥアギンタのギリシア語写本では明らかに行れなかった。しかし英語ではときにはYHWHを使って行れる。それは四文字のヘブライ語文字の正確な表現ではあるが、母音がないから、発音のための合理的な指導が欠けている。加えて、その機能を知らない読者には無意味だろう。詩篇15:1はこうなるだろう。
O YHWH ,who will be a guest in your tent?
そのほか、翻訳者が目的の言語に発音上の複写をする可能性もある。セプトゥアギンタの写本には、ギリシア語の文字の組み合わせΙΑΩを用いてこの方策を採ったものがあった(まれには、ギリシア語を書くときに息つきの印をイオータに加えた。そのことばは、’ιαωであり、名に二つの母音の響きを加えた)。ギリシア語で読むとき、推定されるの発音をYahoに近く複写した。英語での発音上の複写は、神の名がYahweh(あるいは、第一章にあるようにYahvahとして)と書かれた時に達成された。こうした発音上の複写によれば、詩篇18:2−2はこうなるかもしれない。
I shall have affection for you,O yahweh my strength.Yahweh is my crag and my stronghold and the Provider of escape for me.
翻訳者は神の名を「翻訳」しようとするかもしれない。このとき、その人は「逐語」訳または「動的」な翻訳を選ぶだろう。「逐語」訳は目的の言語との関係では母国語の言葉の組み合わせの意味を考慮しない。単にそれぞれの語を語彙(辞典)の定義に従って訳すだけだ。英語でのの「逐語」訳は単なる「He is」である(もし翻訳者が解釈的に翻訳しようとするなら、ヘブライ語の動詞の時制の感覚を反映する英語を加えるかもしれない。その場合、翻訳された名は”He causes to Becomo”「彼は成らせる」となる)。一方、動的な翻訳では、母国語でのことばの結合の感覚を考慮するだろうう。目的の言語で同じ意味を表現しようとしてことばを選ぶだろう。セプトゥアギンタが翻訳されたとき、ギリシア語でのの意味は、(kyrios )またはLord (至高の主の意味を持つ)であった。もし翻訳者が詩篇20:1の逐語訳を選ぶなら、こう読む。
May He Is answer you in the day of distress.May the name of the God of Jacob protect you.
(もし翻訳者が逐語訳をしない道を選ぶなら、ほかにも複雑な問題がある。モーセの時代のイスラエル人は、が語られるとき、たった一つの名を聞いてはいなかった。もし、神の名が『参考資料付 新世界訳聖書』に記述されていることに由来するなら、聞き手は第三人称単数形男性形活用"he is"を耳にするだけだ。が普通に用いられる動詞形としてではなく、神の名として定義されると言っているにすぎない。
「エホバ」(へ語、,YHWH)、‥‥‥神のお名前は動詞の一形態、すなわちヘブライ語動詞(ハーワ、「なる」の使役形、未完了態と同じ形をしています(1753頁)。
もし翻訳者が動詞の時制を考慮し、翻訳の技量が増したなら、詩篇26:1の逐語訳はこうなる。
Judge me,O He Causes to Become,for I myself have walked in my own integrity, And in He Causes to Become I have trusted,that I may not wobble.
もし動的な翻訳を選べば、詩篇21:1はこう読む。
O LORD,in your strength the king rejoices;and in your salvation how very joyful he wants to be!
最後に、翻訳者は変更された人称を選ぶかもしれない。第一章で見たように新世界訳聖書翻訳委員会は正確な発音上の複写としてよりも、「よく知られている形」を用いる道を選んだ。『洞察』第一巻391−394頁でこう言っている。
神の名の英語の発音としては、大抵のヘブライ語学者は"yahweh" のほうを好みますが、‥‥‥ とはいえ、この問題に関する学者の意見は決して一致を見ておらず、中にはさらに、「ヤフワ」、「ヤフーア」、「エフーア」など他の発音を支持する人もいます。確実な発音は今のところ分からないのですから、提案されている他のどれかの発音を支持して、英語でよく知られている"Jehovah"(日本語では「エホバ」)という形を捨てるべき理由があるとは思えません。
もし翻訳者が「よく知られている形"Jehovah"」を選ぶなら詩篇27:1はこう読む。
Jehovah is my light and my salvation.
言うまでもなく、上に上げた翻訳における神の名の翻訳のやり方には、それぞれ他よりもましなものもあるし、利点もあり、難点もあった。。
この章では、私たちはセプトゥアギンタや同様の古代ギリシア語の翻訳者や編集者にとって可能な選択を考えている。彼らの選択は翻訳の受け皿によって決められる。もしユダヤ人の読者を向けて翻訳がされたのなら、ヘブライ語文字の使用は完璧に理解できる。彼らはギリシア語文の中にを埋めることができた。一方、ユダヤ人の遺産や言語がほとんで知られていなかった異邦人世界の中でセプトゥアギンタが用いられたときは、神の名のギリシア語の様式がふさわしかった。それは単純な選択ではなかった。
新世界訳聖書翻訳委員会にとっても、それは単純な選択ではなかった。同委員会は最終的にテトラグラマトンを複写したり、字訳したり、発音上に複写する道を選ばなかった。むしろ、一般的な認識の基準に立って選択をした。
同じ様な種類の決断に直面して、クリスチャンのセプトゥアギンタ写本の編集者(写字生)は、神の名としてkyrios を用いたときには「動的な翻訳」の基準に立って選択を下した。
写本の模範はあったのか。
神の名の異なる様式が同時に用いられた証拠はあるのか。と kyriosの両方が一冊の古代セプトゥアギンタ写本の中で用いられた例を指摘できるだろうか。もしも、実際にセプトゥアギンタ写本の中でkyrios の出現が古代の世紀における異教や分裂の結果であるなら、一冊の写本の中に神の名が競合している様式を発見することは望めないだろう。
この書を通して、私たちは新世界訳聖書翻訳委員会が1949年クリスチャン聖書の翻訳を終えた後に入手可能となった写本資料に関心を持ってきた。公表されたこの種の写本そのものが直接的に関係する分野には、興味深い事例がある。
1894年、ジョバニ・マルカッチは西暦13世紀または14世紀のギリシア正教会の奉仕の書物を研究していた。その写本は比較的古い書が削除され、不明瞭な古代の写本の上に教会の典礼のテキストが書きなぞらえた重ね書き用羊皮紙であった。初めに羊皮紙の上に書かれた資料を注意深く復元した後、詩篇のおよそ150の聖句を含んでいるオリゲネースの「ヘキサプラ」の重要な実例を発見した。その発見物はついには、1958年、出版された。この写本(『アンブロシアナエ』−O39として知られる)の中にオリゲネースが『ヘキサプラ』の中で広くを用いた明白な証拠がある。しかし、おもしろいことに同じテキストの中でオリゲネースが,, , ΠΙΠΙ を使ったことも分かる。その他の書物では(詩篇2篇の彼の注釈のような)オリゲネースが神の名の箇所で広くkyrios を用いたことも分かる。
オリゲネースはセプトゥアギンタのテキストの中でテトラグラマトンも(あるいはその変形)も用いたらしい。もし一つの様式やその他の様式が異教の結果として認められるなら、そうしたことは起こりえなかっただろう。比較的古いテトラグラマトンが知られなくなっていたなら、異教ではない。
(推定される西歴3世紀、4世紀における異教のテーマとして重要であるから、オリゲネースの『ヘキサプラ』、詩篇2篇のオリゲネースの注釈およびマルカッチの著作は、すべて付録Jで評価される)。
もっと大事な問題
この書の中で、セプトゥアギンタとクリスチャン・ギリシア語聖書は別々の書物であると、私たちは繰り返し強調してきた。テトラグラマトンの翻訳に関してもくりかえしてそれを強調しなければならない。ギリシア語のセプトゥアギンタを話すにしろ、あるいはヘブライ語聖書の現代英語訳を話すにしろ、翻訳者はテトラグラマトンを翻訳するのに当たっては、特別な注意を払わなければならない。しかし、もしも霊感を受けたクリスチャン書士がクリスチャン・ギリシア語聖書の中にテトラグラマトンを置かなかったのなら、翻訳者はクリスチャン・ギリシア語聖書の中にテトラグラマトンを持ち込む資格を持たない。
ヘブライ語聖書の翻訳者は、目的とする言語の読み手にの意味や発音を伝えるための最善の方法を決めなければならない。しかしどの単語であれ、適切に意味と発音の「両方」を伝えないだろう。そして翻訳者はそれぞれ、意味と発音のうち、どちらを強調するのか、選択を迫られる。
セプトゥアギンタはヘブライ語聖書のギリシア語への翻訳であった。現存するセプトゥアギンタ写本のうち、大多数はギリシア語を含むが、を使う古代写本も明らかに多数、残されている(クリスチャン・ギリシア語聖書はまったく違う事柄である。かつて霊感を受けたクリスチャン書士がテトラグラマトンを用いられたと示唆するテキスト上のデータも、歴史的なデータも、存在しない)。
以前の章からの資料を繰り返すつもりはない。それでも、クリスチャン聖書の問題は霊感の問題であることに気づかなければならない。翻訳の議論は、霊感を受けたクリスチャン書士が実際に書いたものに限定されなければならない。ヘブライ語聖書の中でテトラグラマトンが際だった地位を占めていたというだけで、それをクリスチャン聖書の中に持ち込むことはできない。
異教なのか、翻訳者の選択なのか
私たちはこの章の中心となる疑問に立ち戻らなければならない。現存するセプトゥアギンタ写本におけるから Kyriosへの変化は、どのように説明されるか。
私たちはかつて西暦四世紀にテトラグラマトンをKyrios で置き換えていると同定される異教があったとする証拠は見いだせない。教父たちの書物はこの件に関し、まったく沈黙を守っている。
同時に、現存するセプトゥアギンタ写本とギリシア語のヘブライ語聖書写本の中で用いられる神の名には、少なくとも七つの異なる表記があったとする十分な証拠が発見される。
1.(英語ではLORDと訳される)のようなテトラグラマトンの動的な翻訳は、もっともよく使われる神の名の表現である。
2.の変形は、と書かれた神の名の代用語(または短縮形)である。
3.わずかな頻度で見つかるもの(しかし重大である)は、ギリシア語テキストの中にが埋め込まれた写本である。
4.四角いヘブライ語文字で書かれた神の名の変形は、ギリシア語テキストの中に古ヘブライ語文字が埋め込まれた写本の中に見つかる。
5.現存するセプトゥアギンタ写本には、ギリシア語の視覚的な複写様式、ΠΙΠΙ(PIPI)が見られるものがある。
6.時には、ギリシア語の発音上の複製様式ΙΑΩ(IAO)に遭遇する。
7.最後に、代用の様式ΙΑΩ(まれにはιαω)をと書いたものにも遭遇する。
しかし、ある様式からほかの様式へと進歩することがあっても、一つの時代にあって限定された様式が一つもないことは驚くほどである。オリゲネース自身、『ヘキサプラ』の中で五つの形式(、、、、ΠΙΠΙ)を用いた。ほかにまさるしきたりを論じるために厳しく対比をして、オリゲネースは特定の文脈でそれぞれ五つの語を使った。詩篇2:2の注釈で、次のようにして六番目の形式、古ヘブライ文字に言及した。
もっとも正確な写本では、その名はヘブライ文字で見られる(今日のヘブライ(文字)ではない)。しかしもっとも古い時代のものだ。
それで十分でないなら、死海洞窟からのΙΑΩ(IAO)の表記をしているエゼキエルのスクロールがある(そのスクロールは西暦69年以前に書かれたであろう。なぜなら、それらは69年に始まるローマ帝国の侵略の前に埋没したからだ)。クムラン共同体は、神の名を多いに崇めていた厳格なエッセネ派の閉じられた集団であった(少なくとも、クリスチャンではなかったことは確かだ)。これらのスクロールのひとつは、欄外にのギリシア語による発音的な複写として稀な例、ιαωを用いている二つの注記を伝えている。
簡単な結論が残されている。を取り除き、それをKyriosで書き替えた異教は、いなかった。それを保証する議論はなかった。むしろ、独自のセプトゥアギンタの写しの読者は、翻訳された神の名の様式を書き取った。セプトゥアギンタの写しがパレスチナの土地において、あるいは国外に住むユダヤ人共同体のために企画されたとき、(あるいはも)が用いられたかもしれない。異邦人の土地奥深くにセプトゥアギンタ写本があるなら、(あるいは)が使われたのだろう。それらの中間的な土地、ユダヤ人の影響がまだ及んでいるところでは、ΠΙΠΙ(あるいはΙΑΩや、も)の様式も見られるだろう。
を使用する現存している三世紀以降のセプトゥアギンタ写本での使用頻度は、なぜ少なくなったのだろう。
ローマ帝国は二つの戦役でパレスチナを打ち破った。包囲攻撃は西暦69年、ベスバシアヌスによって開始され、その子チスツによって70年に終結を見た。ユダヤ人は132年に最後の反乱を試みた。ローマ帝国はユダヤ人の反乱にひどく立腹し、ためにパレスチナでのユダヤ人共同体の生活の跡をほとんど完全に破壊した。神殿礼拝はことごとく解散させられ。
西暦70年まで(そして確かに西暦132年の後も)ローマ帝国に対するユダヤ人の敵意はユダヤ人のクリスチャンに対しても向けられていた。シナゴークとユダヤ人のクリスチャンのきずなは、とりかえしのつかないほど断たれた。
ユダヤ人のクリスチャンはひどく憎まれ、ために彼らのヘブライ語聖書は侮辱さえ受けた。クリスチャンであるためにセプトゥアギンタはユダヤ人共同体から排除され、もっぱら、異邦人」の書となった(このため西暦二世紀にアキュラとテオドシウスがヘブライ語聖書のギリシア語訳二つを作ったことがはっきりしている)。
アキュラの翻訳でテトラグマトンを再び導入したクリスチャン教会とセプトゥアギンタが関係を持つようになった理由はそのためである。ギリシア語テキストの中に埋め込まれた(そして比較的古い形式も)を持つアキュラの翻訳の写しが現存するのろ見ても、驚くに値いしない。
「カイロ・ゲニザ」の中でカーレは、セプトゥアギンタの少数の現存する写しや、他のヘブライ語聖書のギリシア語訳がテトラグラマトンをふくむ有効さがあるのか、その理由を洞察して書いている。246頁でこう言う。
コンスタンチン帝の治下、キリスト教が国教となった後、ユダヤ人がギリシア語のすべての文献(聖書のギリシア語テキストを含め)を系統的に成公裏に破棄するように努力したことをふつうは理解できないのだから、実際の状態を正しく試みることはたいそう難しくなった。ギリシア語の聖書テキストがクリスチャンによって引き継がれ改訂される限り、ユダヤ人が書いたギリシア語の聖書テキストだけが保存されてきた。
なぜセプトゥアギンタが、もっぱら「異邦人」教会の中で流通していたクリスチャンのテキストとなったかが理解できる。「異邦人」読者にだけ意図されたセプトゥアギンタは、そのテキスト中に外国のヘブライ語を字訳する理由はほとんどない。
異教だからといって、初代教会の指導者がテトラグラマトンからKyriosへの変更を了解した兆しはない。どんな著者であれ、この問題について争いを報告してはいない。
もっと古い時代には、単に意図された読者の文化的遺産に基づいたヘブライ語聖書の中にKyriosを選ぶか、テトラグラマトンを選ぶかは、翻訳者(あるいは編集者)の選択であると見られたらしい。後になってが書かれたユダヤ人の写本が大きく取り除かれた後の西暦三世紀、四世紀の間、ユダヤ人の遺産とは分断されたユダヤ人信者を内包していた「異邦人」教会の間ではKyriosだけが書かれたセプトゥアギンタが、流通し続けた。
新世界訳聖書翻訳委員会にとって英語の読者にヘブライ語文字の箇所でなじみが深い語を使うよりも、西暦三世紀や四世紀にギリシア語の読者に対しなじみ深い語によってヘブライ語聖書(セプトゥアギンタ)からを代替することは、異教であるか、陰謀であるかたといった問題ではなかった。
興味ある展望
神の名を翻訳の中でどのような形式で用いるか、その決定は翻訳者に許されているのか。初めの答えは「違う」だ。しかし翻訳者がどこから選ばなければならないか、選択肢に着目しなさい。彼には二者択一はない。読んでいる読者にどのようにして神の名をもっとも上手に伝えるられるか、決定しなければならない。
ギリシア語の聖書にが埋め込まれた時、初世紀の「異邦人」読者はを理解したと、私たちはしばしば仮定する。しかし、もし新世界訳聖書が次のように詩篇113:1、2を表現するなら、どんなに家の主人がヘブライ語聖書を不快に読むだろうか、考えてみなさい。
あなた方はを賛美せよ!の僕たちよ、賛美をささげよ。
のみ名を賛美せよ。
のみ名が
今より定めにない時に至るまでほめたたえられますように。
新世界訳聖書翻訳委員会は別の選択を下しただろう。古代ヘブライ語写本から文字を保存したかったのなら、詩篇113:3−5はこのように続くだろう。
日の昇るところから沈む所に至るまで、のみ名は賛美されるべきもの。
はすべての国の民の上に高く上られた。
その栄光は天の上にある。
だれがわたしたちの神のようであろうか。
神はその住まいを高くしておられる。
もし神の名が読者の言語で読まれなかったら、興味を持った個々の人にヘブライ語聖書の神を示すことは困難であっただろうと、私たちも同意する。
しかし翻訳者は単に神の名を「転写」しないように選択したら、翻訳者はさらに込み入った選択に直面する。もしギリシア語翻訳者が神の名を「字訳」したのなら、彼はΙΑΩを使っただろう。英語の翻訳者はYHWYを使っただろう。しかしそのどちらも正しく発音できなかった。だからギリシア語翻訳者はまれにしか使われない文字で息つきの印を加え(’ιαω)、英語の翻訳者は名をYahweh にするために母音を加えることができた。
あるいはギリシア語翻訳者はと同じ意味を表現した既知のギリシア語を選び、神の名を(Kyrios )と翻訳してきた。英語の翻訳者は、Master やLordが使えた。英語の翻訳者は、神の名がの翻訳であることを示すために、大文字も使えた。英語の翻訳者はその名をMASTER やLORD と書くだろう。
一方、代替えの選択もなされただろう。時には、ギリシア語翻訳者はΠΙΠΙを用いた。新世界訳聖書翻訳委員会は、字訳も翻訳でもない「よく知られている形式」のエホバを選んだ。
どちらの場合にも翻訳者は選択をしたが、等しくすべてが満足のいくものではなかった。
もしこうなら、どうだ
霊感を受けたクリスチャン書士がテトラグラマトンを用いたのならどうなるだろう。多くの場合、それらの箇所は「異邦人」に向けて書かれた(ルカ書と「使徒行伝」はテオピロに宛てて書かれた。パウロの手紙の大部分は、「異邦人」の土地深くにあった教会のために書かれた。黙示録は七つの「異邦人」教会に宛てられた)。もしが「異邦人」に向けたこれらのギリシア語テキストで用いられたら、神はこの風変わりなヘブライ語の形式で神の名を伝えようとしたと、力強く論じられるだろう。
ヘブライ語が分からない「異邦人」(そして確かに書かれた文字を読めなかった)に名を書くときに霊感を受けたクリスチャン書士がそんな前例を作ったのなら、クリスチャン聖書の英語の翻訳が英語の文字でなんらかの語句を用いることは今日、許されないだろう。だけが許容されるだろう。
この章のまとめ
教会の西暦一世紀以降からの最良の写本の物証がクリスチャン・ギリシア語聖書からテトラグラマトンの除去に関係する異教を示していないことを立証した後、セプトゥアギンタと同じ時代における変更の説明を余儀なくされた。
初代のクリスチャンの時代には、セプトゥアギンタ(及びヘブライ語聖書の同様のギリシア語訳)で神の名を表現するのに七つの方法が使われた。ギリシア語 (Kyrios)への翻訳、 や のような代用語、ギリシア語テキストへの(あるいはやや古い形式 )の埋め込み、視認できる複写形式ΠΙΠΙあるいは発音上の複写形式ΙΑΩをテキストに挿入することが含まれている。
このような多様な様式が包含されているのは、この時期、特殊なことではなかった。一冊の写本の中にさえ、表現されていたかもしれない。一般的に、ヘブライ語聖書のギリシア語訳で神の名を表現する唯一の方法として、ほかの方法を除外していたのではなかった。
この、公然の(ときには置き換え可能な)ギリシア語の使用が反対に会ったとは示されていない限り、初代教会は受容可能なヘブライ語聖書の翻訳(あるいは編集の)表現としてこの多様な様式を受け入れたと結論する。そしてから の変更に異教の印は見いだされない。むしろ、Kyriosはヘブライ語を話さない「異邦人」にとって適切な翻訳を表現したと理解する。
私たちの結論は、二つの古代の情報源からの物証で一層、補強される。一番目は、ギリシア語テキストに古ヘブライ文字が書かれているアキュラの翻訳の現存する写しである。アキュラの翻訳は、ユダヤ人のためにセプトゥアギンタを置き換えるためのギリシア語訳を作るはっきりした目的で書かれた。この訳の写本は、今日 、、 が含まれていることが知られている。二番目には、西暦三世紀後期にオリゲネースが、「ヘキサプラ」の中で明確に五つの様式(、、 、 、ΠΙΠΙ)を用いた。さらに別の書では、六番目の様式に言及している。
初世紀のクリスチャン教会は、はっきりと異なる読者を意図したヘブライ語聖書のギリシア語訳を有していた。ユダヤ人の遺産が分かっていたギリシア語を話すユダヤ人を意図したヘブライ語聖書では、自由にや、 が使えた。ヘブライ語聖書のギリシア語訳は、Kyrios を使っていた「異邦人」の読者に向けたものであった。