第12章:主、エホバと霊感


 この本の中で言ってきた事柄すべての基底には、霊感の問題がある。聖書の霊感に高い価値を置くなら、翻訳者には霊感ある著者にエホバが書くように命じた事柄を正確に、忠実に再現することが求められる。

霊感と翻訳者の義務
 できるだけ正確な聖書を求めることには誰もがまったく同意するだろう。霊感を受けて著者が書いた正確なことばを理想的に読みたくなるのだ。しかし、私たちのしゃべっている言語は聖書にあるヘブライ語やギリシア語ではなく、現代の英語なのだから、読者を原文から切り離す段階が二つ、存在している。
 第一の段階は正確なテキストの再現である。第2章で見たようにそれは正文批判の仕事である。そうした人々はヘブライ語聖書とクリスチャン聖書の両方のテキストを再構築するために古代の写本の証拠を注意深く検討してきた。ウエストコットとホートの正文批判は、クリスチャン聖書の『王国行間逐語訳』で用いられているギリシア語テキストを再現した。
 第二の段階は翻訳者の著作である。現代英語の読み手は、ヘブライ語テキスト、あるいはギリシア語テキストから再構築された写本を読まない。むしろ双方のテキストからの英語訳を使うはずだ。
 聖書からエホバの真実を求めている英語の読者には当然ながら、期待を二つ、持っている。最初の期待は、原作者の著作を忠実に再現するヘブライ語テキストやギリシア語テキストからの著作であり、第二の期待はヘブライ語テキストやギリシア語テキストの原文の正確な意味を運ぶ分かりやすい英語訳を作り出す翻訳者である。
 神学的な偏見に合わせるためにテキストを変更するため元々の言語のテキストの分野で働いている者あるいは、翻訳者自身のどちらをも、読者は誰一人と与えられていない。それをするのは、エホバの霊感を受けた書物を偽造するテキスト研究者や翻訳者にだけ許されている。

「旧約」の当てはめ
 第一章では、大文字で書いた語LORDを支持して神の名を省略する「旧約」の翻訳の問題を記した。これは重大な省略であり、それが議論の出発点となる。
 神の名に対するLORDの置き換えの場合、正文批判の間違いが問題なのではない。現在では、大部分の「旧約」翻訳は、ルドルフ・キッテルの「ビブリカ・ヘブリカ」に基づいている。新世界訳聖書のヘブライ語聖書の部分もこれと同じテキストに基づいている。もし読者が「ビブリカ・ヘブライカ」のコピーを見るなら、yhwhvowel.jpgのような母音のドットを持つ神の名はすぐ明らかになる。
 なぜたいがいの英語の翻訳の中で神の名が省略されされてきたのか。翻訳の過程に間違いがある。(現実には、翻訳者と出版者両方が分かち合う責任である)。
 新アメリカ標準聖書1971年版には、「神のふさわしいみ名」の見出しの下に前書きがある。

 至高者である神に対するふさわしいな名称を考えないで霊的な事柄を考えることはありえない。神に対するもっともありふれた名称は「神」(原文のエロヒムの翻訳)である。しかし、神の特別の名、ふさわしい名として特別に神に定められた名がほかにもある。YHWHの聖四文字である。その文字は神の名の神聖さを大いに冒涜するからとユダヤ人が発音した名ではなかった。それは常にLORDと発音され、そう訳された。
 長年、YHWHはYahwehと字訳されたと知らされている。‥‥‥しかし私の教会の信徒たちと接触をする大勢の人々は、その名が宗教的なニュアンスも、霊的なニュアンスももたらさないことを感じている。それは不可思議であり、尋常ではなく、十分に宗教的ではなく、献身の基礎とはならない。どのような学者の論争も、この物足りなさをいささかも克服してはいない。だから翻訳の中ではその名の使用を避けるように決断がなされた(9頁)

 上述の文には「編集部」の署名がある。
 まず第一に、すべての証人が知っているように「神」は神の名ではない。その固有の名はテトラグラマトンで表現される。そうして、テトラグラマトンはヘブライ語で発音されるか、ほかの言語で翻訳れされなければならない(あるいは、字訳されなければならない)。
 それは上述の文でもっとも頭を悩まされる発音の問題ではない。
「編集部」の言っていることを考えてみよう。
1.まず、ヘブライ語テキスト(ビブリア・ヘブライカ)には識別可能な形式yhwhvowel.jpgでYHWHが書かれていることを彼らは了解している。神の名を認識できないとは、いささかも暗示してはいない。
2.長年知られてきたものとして字訳された形式Yahwehを彼らは区別している。
3.彼らはその名が宗教的なニュアンスも、霊的なニュアンスももたらさないことをここで教えている。それは不可思議であり、尋常ではなく、十分に宗教的ではなく、献身の基礎とはならないと言っている。(王国会館で神の名は不可思議であり、尋常ではなく、十分に宗教的ではないのだろうか、「否」と断言する)。
 上述の文の本当の論点は何なのか。私たちをもっとも悩ます聖書の霊感に対する侮辱だ。
 「編集部」は、その霊感を十分に了解していた。ヘブライ語聖書の書士はテトラグラマトンを書いた。しかし信徒たちは神の固有の名を認識していなかったから、「編集部」は代りの語を挿入するための権威を専有した。LORDという語が単にyhwhvowel.jpgの代りの発音に過ぎないと論じることはできない。霊感を受けた書士が用いた語とはまったく異なっている。LORDという語は、エホバ自身がヘブライ語聖書の著者に書くように命じたことを書き替えるために「編集部」(あるいは翻訳者)が意識して用いた語である。
 なぜその決断が下されたかの問題とは少しは異なるものにさせる。セプチュアギンタやジェームス王欽定訳そのほかの多くの現代の聖書の翻訳の中で一致して定めた慣例だからと訴えて歴史的な辻褄合わせでそれを擁護する者がいるかもしれない。
 悲しいことにそうした聖書翻訳が商売上の配慮から偏向を受けてきた。もし顧客がYahwehではなくLORDを望むんであれば、聖書の拡販のため、その願いは叶えられる。
 差し迫った問題が、きわめてあっさりと述べられているが、重大な示唆に富んでいる。どんな翻訳者(あるいは「編集部」も)であれ、いかなる理由でれ、聖書のことばを代える自由を持たない。それが神学的な立場を守ると言う非常に高邁な理想であれ、単に聖書の販売を上げようとする願望であれ、受け入れられない。翻訳者は聖書の原文の著者が書いた書物の正確な意味を伝達する義務がある。
 聖書の感覚を伝達するためには、翻訳者は現代ことば使いを使用できないなどとは意味してはいない。一つの言語からほかの言語に翻訳をする過程は、いつも不明確な分野を孕んでいる。それはヘブライ語やギリシア語のテキストの感覚も読者に伝えられるべきであるとか、翻訳者には、決して原文のテキストの意味を意識して変更する自由がないなどと言っているのではない。
 「旧約」では神の名よりもむしろLORDを用いる慣例は、長い間の聖書英訳の伝統である。長命な伝統だからといって継続的な使用法が正当化されるわけではない。現代英語の翻訳者(ならびに編集者も)は、この誤りに正面から取り組み、必要な修正を加える時が来ている。神の名を取り除き、LORDでそれを置き換えることは、聖書の霊感に歯向かうことである。
 新世界訳聖書翻訳委員会は、ヘブライ語聖書の中では適切に神の名を用いてきた。彼らのその努力は誉めたたえられるべきだ。

新世界訳聖書とクリスチャン聖書
 上述の「旧約」の例は容易に理解できる。翻訳者がヘブライ語聖書やギリシア語聖書のテキストのことば遣いを知れば、別な目的で辻褄を合わせるために翻訳のことば遣いを変更する自由はなくなる。
 同様の要件が新世界訳聖書のクリスチャン・ギリシア語聖書にもあてはまると暗示してもいいだろうか。
 もう一度、正文批判の実績に立ち返らないといけない。すでにウェストコットとホーオの著作を十分、検討をしてきた。彼らのギリシア語テキストは『王国行間逐語訳』の基礎になっている。『王国行間逐語訳』ギリシア語テキストでテトラグラマトンを使っている例は一つもない。繰り返し指摘したように、信頼できる古代ギリシア語写本に当たって、ギリシア語のKyriosはエホバへの言及237回のうち223回が追跡されている(残りのうちtheos を使用する一例があるがテトラグラマトンではない)。新世界訳聖書のクリスチャン聖書の中でエホバへの変更は、『王国行間逐語訳』のギリシア語テキストの証拠に反抗して新世界訳聖書翻訳委員会が実行した業績である。
 テトラグラマトンが書かれている新しいヘブライ語訳を基礎にしてそうした変更が行われされたと確信するのは、特に警戒すべき事柄である。テキストに何を選ぶかによって、翻訳者たちはクリスチャン・ギリシア語聖書自体の持つ霊感を尊重するよりも、比較的新しいヘブライ語訳を尊重する態度を露呈している。
 すでのこの本の別項でこの変更を検討してきた。これ以上付け加える必要はない。
 その章での関心事は、Kyriosからテトラグラマトンへの意識的な変更の下に横たわっている大事な問題に注目することである。西暦二世紀から三世紀にかけてセプトゥアギンタの中でテトラグラマトンが変更されたことが問題なのではない。セプトゥアギンタの写本の中で使徒たちがテトラグラマトンを読んだことが問題なのではない。マタイがヘブライ語で福音書を書いたことが問題なのではない。どれほどたくさんのヘブライ語訳がテトラグラマトンを用いているのかが問題なのではない。霊感を受けた書士が神の名を用いたヘブライ語聖書を引用したことが問題なのではない。こうしたことはすべて真実であり、検証が可能だ。
 これらすべては、神の霊感を受けてクリスチャン・ギリシア語聖書の作者たちが実際に書いたことばである。翻訳者たちは全員、霊感を受けた作者たちが実際に書いたことばを忠実に再現しなければならない。もしギリシア語聖書の書士がテトラグラマトンを用いたのなら、神の名はそれぞれそれらの箇所で用いられないといけない。もしもギリシア語聖書の書士がKyriosを用いたのなら、その箇所はLord(主)と訳されるべきなのだろうか。
 古代の写本自体からの物証に代えて、起きたのかもしれないといった憶測は用いられない。新世界訳聖書のクリスチャン聖書では、エホバが237回用いられるのか、Lordが用いられるかの論争全体への答えは、単にもっとも信頼できるギリシア語写本で見つかるだろう。
 この本を通して記したように、クリスチャン・ギリシア語聖書の中でテトラグラマトンが使われたと示している写本の物証は存在しない。

驚くべき並行
 証人であろうと、福音派であろうと、読者はこの章の「旧約」の例と新世界訳聖書のクリスチャン聖書の中にある神の名の紹介に並行があることに驚かされるだろう。
フィルポ・カーは、その著「神の名の無盾」の17頁で次のような情報を書いている。

 1530年にウィリアム・ティンダルがモーセの五書を出版したとき、聖書の英文テキストに神の名を初めて復元した。エホバの名が数回使われたが、ティンダルはその版への次の注記をしている。
 「イエホバは神の名‥‥‥加えて大文字のLORD(印刷で誤りがある場合を除いて)はヘブライ語でのイエホバである」。
 ヘブライ語でテトラグラマトンが出現する箇所でLORDやGODで置き換えている翻訳者の先がけであった。「エホバ」はほとんど使われなかった。


 ティンダルの翻訳は1611年に初めて出版されたジェームス王欽定訳を含む後続の英語訳聖書の編集に大きな影響を与えた。引き続いた「旧約」でのLORDの使用は、そのおかげでその正当性を擁護され、セプトゥアギンタでのKyriosの存在に基づいてもいた。
 「旧約」からの神の名の除去と新世界訳聖書クリスチャン・ギリシア語聖書への神の名の追加に並行があることに注意をしなさい。
1.ヘブライ語テキストは、すべてAdonaiではなく、yhwhla.jpgが書かれている。
  ギリシア語聖書テキストはすべてyhwhla.jpgではなく、matt2710.gifが書かれている。
2.英語訳聖書の伝統ではyhwhla.jpgにLORDを代用する。
  新世界訳聖書翻訳委員会はmatt2710.gifに yhwhla.jpgを代用した。
3.英語訳聖書の伝統は、ギリシア語訳(セプトゥアギンタ)で代用を正当化した。
 新世界訳聖書翻訳委員会は多数のヘブライ語訳で代用を正当化した。
4.「旧約」の翻訳者たちはyhwhla.jpgにLORDを代用するとき、霊感を受けたヘブライ語テキストよりも、むしろセプトゥアギンタを尊重した(英語訳聖書の伝統も同じ)。 
 新世界訳聖書翻訳委員会はmatt2710.gifyhwhla.jpgを代用するとき、霊感を受けたギリシア語聖書よりも、むしろヘブライ語訳を尊重した。

聖書翻訳の土台は、伝統でも、憶測でもない
 「旧約」の翻訳者たちは、ヘブライ語聖書から神の名を取り除く責任を取るにあたって、伝統(および読者の反応)に依存してきた。yhwhla.jpgではなくイエスを指しているからといってヘブライ語聖書を誤って理解することへの一般の読者に大文字のLORD(主)の意味の注記をすることからは程遠くさせてしまった。
 新世界訳聖書翻訳委員会はクリスチャン聖書に神の名を加えて、危険なセクト主義的な悪習の可能性に道を開いてきた。クリスチャン・ギリシア語聖書でテトラグラマトンを用いる写本は現在、一冊も存在しないことは、組織も認めている。単なる憶測に立って、同委員会はギリシア語テキストよりもヘブライ語訳に霊感を受けた高い位を喜んで与える責任がある。
 聖書翻訳はすべて検証可能なヘブライ語テキストとギリシア語テキストだけに基づくべきだ。それがエホバがその霊感を与えた聖書を通して伝達した真理を保存するための唯一の方法である。

この章のまとめ
 翻訳上の選択のために故意に古代聖書写本にある検証可能なことばを省略することは、霊感の品位を下げる。霊感を受けた書士がどの語を使うかを決めるために、翻訳者たちは古代写本の物証を客観的に評価する。もし翻訳者や編集者がその箇所で違う意味を持つ別な語を使おうとしたら、霊感を無視している。その目的が個人的な興味を突き詰めるのか、神学上の偏見であるかによって違ってくるが、結果として堕落した聖書テキストがもたらされてしまう。
 正反対の結果(それも間違いの)をもたらしてきた二つの説明を評価した。最初の例では、大多数の「旧約」翻訳者はヘブライ語聖書テキストにあるテトラグラマトンを無視し、LORDの語がより広範囲に知られているからといってLORDで代用してきた。その結果、たとえ霊感を受けた書士たちが名付けたとしても、神のアイデンティティを取り除いた聖書になってしまう。
 二番目の説明は、新世界訳聖書のクリスチャン聖書の中になあう。その翻訳者たちはKyriosに対して神の名を好んで代用することを正当化するため、セプトゥアギンタに関する検証可能な情報を使った。それは、クリスチャン聖書の原作者から100年以内におけるKyriosを検証をしている最善のギリシア語写本の証拠を無視して実行された。その結果、霊感を受けた書士たちが使わなかった箇所で神の名を付け加えている聖書になってしまっている。

目次へ戻る