第11章 テトラグラマトンなのか、主なのかの逡巡(Quandary)

 『ウェブスター新大学辞典』によると、Quandaryを「当惑あるいは、疑惑の状態」と定義する。この章では、潜在的に反対意見があり、矛盾した答えもある五つの話題を扱う。しかし私たちの差し迫った逡巡は、霊感を受けて誤りのない聖書がクリスチャン・ギリシア語聖書の中でテトラグラマトンの保存について矛盾した答えを許さないのか、である。テトラグラマトンは本来の書物に用いられ、そしてその出現する各所でテキスト上で検証の対象にもなるのか、あるいはそうではなく、翻訳されたテキスト中に挿入されたのではなかったのかだ。

 しかし私たちは、エホバ神が私たちに目下の逡巡を導き入れたのではなかったんだと認めざるを得ない。その書かれた内容について当惑や疑惑を含んだ聖書を私たちに与えるつもりは、さらさらなかった。写本を維持する過程で、霊感を受けたクリスチャンの書記者が用いた本来の語に不確かさをもたらそうと許したのでもなかった。今日、私たちが逡巡しているのは、現在、所有している歴史的なギリシア語写本の内容につき、矛盾した報告があるためである。霊感を受けたクリスチャン書士のテキスト中に思惑的なことば遣いが導入されたときに困惑が生じるだろう。テトラグラマトンが本来の書記者によって用いられたと示している写本あるいは歴史上の証拠がないという困惑させられる結果を見ないでは、クリスチャン・ギリシア語聖書テキストにテトラグラマトンを書き加えることはできない。

yhwhla.jpgなのか、matt2710.gifなのかの逡巡

 この本の目標は、クリスチャン・ギリシア語聖書の原本の中でテトラグラマトンを裏づけている歴史的な証拠やテキスト上の証拠を評価することにある。1940年代後半に新世界訳聖書のクリスチャン聖書が完成して以降、光が当てられるようになったテキスト上の情報に特に関心がある。この試みの中では、私たちは首尾よく、聖書や神の格に関する神学的論争や主観的論争を避けてきた。

 しかし目標への見透しや客観的な接近法を見失うことなく、結局は最初の場でのテトラグラマトンを研究する理由に直面せざるを得ない。クリスチャン・ギリシア語聖書の中にテトラグラマトンが存在するか、しないかは、古代ギリシア語写本の無関係なことば遣いを決定するためには不毛な実践ではない。むしろテトラグラマトンが存在するか(あるいは存在しないか)によっては、私たちの信仰は、重大な含蓄に直面させられる。結局、テトラグラマトンなのか、Kyriosなのかの議論(固有の逡巡が含まれる)のためには、五つの話題を評価しなければならない。

第一の逡巡‥‥‥翻訳の食い違い

 ものみの塔が出版した二つのクリスチャン・ギリシア語聖書が矛盾しているから、最初の逡巡に出会う。Kyriosの語はギリシア語テキストの選択であり、ものみの塔のギリシア語テキストの逐語訳の部分ではLordと訳される。一方、新世界訳聖書は同じ箇所で神の名、「エホバ」を用いる。二つの矛盾する主張については、同時には是認されないかのようだ。『王国行間逐語訳』のギリシア語テキストからの最初の主張によると、原作者はテトラグラマトンを用いなかった。次の主張によると、新世界訳聖書がテトラグラマトンを237回、適切に保存したことである。

 もし、ものみの塔の出版したギリシア語テキストが真正なら、適切な語は、Kyriosである。一般的に、Kyriosはイエス・キリストを指してLordと訳される。Lordは新世界訳聖書では好んで406回選択された翻訳である。一方、新世界訳聖書は、神の名「エホバ」を237回、用いる。もし「エホバ」が実際に真なら、ギリシア語テキストは誤りである。

 一つの箇所においてKyriosを用いることとテトラグラマトンを用いることの矛盾は、ただ一つの食い違いである。そして、妥協しないでは共存不可能な三つの主張に遭遇する。

@まず、私たちは『聖書全体』の著者が次のように引用するとき、その意見に同調する。

 わたしたちが今、持っているギリシア語聖書はそれが書かれたころのものと実質的に同一のものである。‥‥‥(次のようにフレデリック・ケニヨン卿が引用されている)。『したがって、原文が作られた時期と現存する最も初期の証拠との隔たりは、実際には無視できるほど小さくなっており、聖書は実質的には書かれたとおりに我々のもとに伝わってきたということに対する疑いの最後の根拠は今や取り除かれた』(319頁)

A使用されたギリシア語はKyriosであり、その記述の根拠となる写本は、西暦二世紀のものであり、決して四世紀以降のものではないと、『王国行間逐語訳』に明確に示されている。『王国行間逐語訳』に書かれている写本による証拠では、原作が書かれたときから104年ほどで(301年以上経ってからではなく)、クリスチャン教会にKyriosを完全に受容したことが明確に示されている。

B一方、テトラグラマトン(新世界訳聖書では「エホバ」と訳される)の使用の根拠となる「J」脚注には、霊感を受けたクリスチャン書記者が yhwhla.jpgを用いたと書かれている。けれどもその根拠は、その時代からかなり後のものである。書かれた最も新しい日付は、1385年である。もしBの主張が真なら、@の主張は辻褄が合う。Aの主張は、前に見たように非常に疑わしい。Aの主張が真なら、@の主張は真のままであるが、Bの主張は無効である。

 私たちは、はなはだしい矛盾と格闘している。ギリシア語テキストが信頼できるなら、そのことば遣いは、そのすべてが信頼できるはずであり、14世紀に作られたヘブライ語訳で書かれたテトラグラマトンがいくらすぐれているからといっても、正当化されない。

 1940年代遅くになって入手可能となったテキストの情報に翻訳者が直面した限界がわかる。しかし、現在さらに入手可能となった写本の情報により、私たちは上述の矛盾の調和のために格闘しなければならない。もし満足できる解決に達しないなら、そのほかの点でまったく信頼できるギリシア語テキストを手にするであろう。テトラグラマトンを伝達する一つの段階で一貫して誤りがあったのだろう。ギリシア語のKyriosは正しい読み方として重んじられ、イエスの人間の立場に言及するすべての場面では Lord と訳されるべきなのだ。その箇所が神の属性に言及している特定の場面では、ギリシア語Kyriosは、ある誤りと関係しているのだろう。

 さて、私たちは、最初の逡巡に答えなければならない。クリスチャン聖書のギリシア語テキストは信仰する価値のあるもものと教えられている。私たちは『王国行間逐語訳』の中に公表されたような聖句を受け入れるだろうか。あるいはギリシア語テキストに優先するのだからと言って、237例において変更された『新世界訳聖書』の言葉遣いを了解するのだろうか。

 私たちが遭遇する最初の逡巡は、聖書から生涯の「エホバ」の導きを求めている私たちのような者にとって特別に困惑の種である。『王国行間逐語訳』の中のKyriosの存在と新世界訳聖書の「エホバ」(ヘブライ語訳のテトラグラマトンに由来する)の存在は、単なる翻訳のことば遣いの問題ではない。Kyrios、あるいはテトラグラマトンの存在は、神聖さには二つのテキストの間で不均衡があることを示している。二つのテキストのうち、一つは権威があるものと受け入れられるべきであり、他者はその237例で邪悪なものとして排除される。その両方ともが、真ではありえない

逡巡その2.どちらのテキストが霊感を受けているか。

 一番目の逡順では、私たちは二つの矛盾するテキストの問題に遭遇した。今やテキストにある霊感が何を暗示するか、重大さに遭遇する。

 神の霊感を受けた啓示として、受け入れる聖書的なテキストをどのように描くのか。クリスチャン聖書の神の啓示はもっとも役に立つギリシア語テキストに限られるのか。あるいは、14世紀以降に作られたヘブライ語の本のような最古のギリシア語写本以外の源泉が上位の権威をもたらすと了解してもいいのか。

 真正として受け入れようとするテキストは、本来の霊感を受けたクリスチャン書士の実際の語句をもっとも忠実に再現すると、私たちは一致している。さらに、霊感を受けた聖書が価値があることは、歴史的に検証可能なテキストから示される。

 まず、『王国行間逐語訳』のギリシア語テキストを評価しなければならない。『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』の本の中で、著者は『王国行間逐語訳』をこう描いている(610頁)。

 同じ頁で『王国行間逐語訳』を語って「クラシカル・ジャーナル」のトマス・ウィンターが引用されている。

 クリスチャン・ギリシア聖書を通して、『王国行間逐語訳』のギリシア語テキストがギリシア語Kyrios(matt2710.gif)を714回使っていることには争いはないだろう。これには『新世界訳聖書』がKyriosを「エホバ」と訳している全部で223の例が含まれている。

 どんな基準があって、神の名が新世界訳聖書ギリシア語聖書に復元されるのか。どんな翻訳の選択が受容されるか、唯一の弁明が存在する。霊感を受けたクリスチャン聖書は、原作者が書いた記録であるから、その原作の中で使徒自身がテトラグラマトンを用いたとする明白な証拠が必要になる。加えて、その証拠はもっとも権威のある現存のギリシア語写本の中にテキストから検証されることができる場合に限り、許容されるだろう。こんな使い方もありえるだろうという可能性から生じた思惑は、エホバの霊感を受けた聖書を変更するためには用いられなかった。

 そうして、私たちは二番目の逡巡に直面する。237箇所のエホバの記述について、霊感を受けた神のことばは、『王国行間逐語訳』のもっとも信頼できるもっとも古いギリシア語写本の中にもっとも正確に再現されているのか。あるいは14世紀以降のヘブライ語聖書に見出されるのか。

 二番目の逡巡は押しつけである。ギリシア語聖書にとって最善のテキストの物証の一部の真正さを否定するとき、そしてその箇所で同じギリシア語テキストに基づいたヘブライ語翻訳の一群のことば遣いを代用する時、私たちは霊感を再定義してしまった。私たちは237回、ギリシア語テキストの霊感を否定してきた。特定のヘブライ語版に書いてある特定のことば遣いに神の霊感の最上の地位を与えてきた。本来の霊感を受けたクリスチャン書物にテトラグラマトンのテキストの証拠がない状態で霊感を再定義する自由があるのか。

逡巡3:冒涜とヘブライ語聖書

 冒涜を禁じている律法に支配されたヘブライ語聖書の引用を霊感を受けたクリスチャン書記者が用いることにより、三番目の逡巡に遭遇させられる。その禁令は、ギリシア語聖書の作者に対しては、エホバだけにあてはまり、その聖句を一貫して単なる被造物に当てはめているヘブライ語聖書の聖句の引用をさせない。霊感を受けたクリスチャン書記者がエホバだけにあてはまるヘブライ語聖書の聖句を引用し、続けてそれをイエスにあてはまめた例をクリスチャン・ギリシア語聖書の中でしばしば目にする。 エホバの聖なる名を偽って用いることは冒涜であり、重大な仕打ちを受けた(申命記5:11、レビ記24:15-16を見よ)。クリスチャン・ギリシア語聖書の書士は、それを知っていた。『聖書理解の手助け』は、もしエホバの特質がほかのものに帰するなら冒涜に値すると教えている。その239頁で「クリスチャン・ギリシア語聖書の時代における冒涜」の見出しの下で著者はこう言っている。

 神の名を用いているヘブライ語聖書がクリスチャン・ギリシア語聖書の中で引用され、イエスに当てはめられる例すべてにおいて、霊感を受けたクリスチャン書士は次の三つのうちのいずれかに相当する(私たちは、原作者について語っているのであり、後の書記者や写字生ではない)。

a.彼らはギリシア語の中にヘブライ語聖書の箇所の逐語的に写し、その中に神の名があるときにはギリシア語テキストの中にテトラグラマトンのヘブライ文字を挿入しただろう。

b.神の名をKyriosで置き換え、エホバに言及した箇所を複写したために、原作者ははなはだしい冒涜を侵した(この可能性は明らかに受け入れがたい)。

c.最後に言えば、本来の書記者たちは、ヘブライ語聖書の箇所を写したのであり、その行為が適切であり、冒涜に当たらないとした初代教会の十分な理解を得て、テトラグラマトンの箇所にKyriosの称号を意図的に挿入したのだろう。

 私たちは、二番目の可能性には反対せざるを得ない。聖書において人類へエホバの啓示を愛し、それに敬意を払う者にとって、二番目の可能性はエホバ自身にとっても、人類に対しエホバのたよりを運ぼうとした書記者にとってもふさわしくない。「聖書全体は神の霊感を受けたものである(テモテ第二3:16)」と信じる。神の選ばれた書記者たちがテキストを故意に操ったとは、決して認められない。

 私たちには、二つの可能性が残されている。まず、本来の書記者がテトラグラマトンを用いた可能性。次に(後代の書士や写字生による意図的なテキストの操作あるいは不注意によって)イエスを直接当てはめようとしてテトラグラマトンをKyriosに変更した可能性である。二番目の可能性は、筆記者たちが自ら、意図的に(そして初代教会の深い認識と是認があって)テトラグラマトンの箇所でKyrioの称号(しばしばイエスと同定される)を用いたことである。そうすることで書記者たちはエホバのみ名の特性をイエスに帰属させた。

 これら二つの可能性の重大性を考えてみなさい。まず第一の可能性‥‥もし原作者がテトラグラマトンを使ったのなら、古代のギリシア語聖書の中でテトラグラマトンを用いている写本の強力な証拠が見つけられるはずだ。エホバが、間違いを正すための十分な根拠もなしに、単なる被造物である称号とその神のみ名を混同させるとは、想像もできない。一方、もし原作者がテトラグラマトンの箇所でイエスの称号を用いたとしたらどうだ。それはもっとも重大な冒涜の現れであり、ありえるのは、イエスがエホバと全体的に等しく、かつ唯一であるとするもっとも説得力ある記述がありうるのである。

 最後にある変更の重要さは、はっきりさせるべきだ。例えばイザヤ45:21-24を考えてみなさい。そこでは、こうある。

 もし、使徒パウロがその引用でテトラグラマトンを用いたのなら、ローマ14:11は、新世界訳聖書にあるように読むだろう。

 一方、もし、使徒パウロが称号Kyriosを用いるときに(それは『王国行間逐語訳』の選択であった)、イエスを指していたのなら、ローマ14:11は、こう読むのだろう。

 もしもパウロ自身、イエスの称号Kyriosを用いたのなら、涜神の罪に値する。神の霊感の元で、イエス(Kyrios)をエホバと同定していたのだ。

 論理的な疑問はこうなるであろう。「原作者がヘブライ語聖書を引用するときにテトラグラマトンを用いようとしたのか、あるいは故意に、神のみ名をKyriosで置き代えたのか、私たちには、分かるだろうか」。書記者自身の記述、あるいは信頼できる歴史的な文書がないのだから、記述するときに書記者たちがどう決定したか、その過程については何も分からない。しかしその著作の中に見つかる物証によって、書記者たちが決断した事柄を推し量れる。もし、書記者たちがテトラグラマトンを使用しようとしたのなら、クリスチャン・ギリシア語聖書の原文の中でテトラグラマトンを使ったことを実証するためには、ギリシア語写本の中に豊富な証拠が期待できよう。一方、もし書記者たちがテトラグラマトンを用いるつもりがなかったのなら、Kyriosの称号(もっとも頻繁にイエスに当てはめられた)を書記者たちが用いた明確な証拠を発見する可能性が期待できる。もし、原作者がその聖句の配置の中でKyriosを用いたとする証拠が示されるなら、テトラグラマトンに代えてイエスの称号を意識的に挿入して書記者たちがヘブライ語聖書の箇所を写した事情が分かる。煎じ詰めれば、霊感を受けたクリスチャン書記者が書いたものは、すべて霊感を受けたものであり、初代教会の十分な理解を受けたものであり、その行為は涜神とはならなかった事情が分かる。

 簡単に言えば、霊感を受けたクリスチャン書記者は、書こうとした事柄を正確に書いたまでだ。名宛人が本物の手紙を受け取ったとき、スクロールに書かれていたそれぞれのことばは、明らかに、書き手が教会や個人に読ませようとしたことばであった。テキストが書かれた過程は著者の意図を論じてはいない。原文の記述を復元することだけが目標である。原文の内容を正確に再現したときに、著者が言い伝えようとしたみことばを私たちが決定したことを確信できる。

 読者は、問題の重要性を完全に把握するため、付録Bの「神のみ名を用いるヘブライ語聖書の引用」と「神のみ名を参照しているヘブライ語聖書引用」の二つの欄にある参照をそれぞれ注意深く読んでみなさい。まず初めに、ヘブライ語聖書からの内容全体にある箇所から読んでみなさい。さらに『王国行間逐語訳』を用いて、英語の逐語訳の部分と新世界訳聖書にある聖句を読んでみなさい。この節で書かれたいくつかの例から、ヘブライ語聖書の神のみ名がどれほど大規模にこれらの聖句の中で不適切に書かれているのかを発見するだろう。

 クリスチャン・ギリシア語聖書の書記者が引用したヘブライ語聖書の聖句を注意深く試みないといけない。それらの聖句は多く、エホバ神にだけにあてはまる記述を含んでいる。霊感を受けたクリスチャン書記者たちがKyriosにあてはまるからと聖句を引用するとき、もし、Kyriosが被造物であるなら、霊感を受けた使徒たちは、涜神に深く関わっていた。霊感を受けて、使徒たちが、エホバ神だけに当てはまる特性を他者にもあてはめて冒涜したのではないだろう。ヘブライ語聖書の引用を用いるとき、霊感を受けたクリスチャン書記者に冒涜を生じさせる状態にあったと紹介する場合には、はなはだしい困惑に直面する。この本全体で見てきたように、もし本来の写本にテトラグラマトンを用いられたなら、この疑問は軽減されない(排除されることがあっても)。しかし、もし本来の写本にテトラグラマトンがあるとする証拠がテキストにないのなら、本来は書かれていなかったテキストの中にテトラグラマトンを挿入することに頼らずに、逡巡の異常な衝撃を解決しなければならない。 

逡巡の4:問題は「神、‥‥‥全能者」と同定される。

 「神‥‥全能者」と指しているたくさんの箇所の内容が第4の逡巡の対象になっている。もし霊感を受けたクリスチャン書記者がこれらの聖句でテトラグラマトンを用いたのなら、「神‥‥‥全能者」を同定することは易しい。しかし、霊感を受けた書記者がKyriosの語を用いたのなら、Kyriosが「全能なる神」として同定されるという逡巡に直面する。

 パトモス島にいたとき、使徒ヨハネは、今日では黙示録として知られている幻を見せられた。ヨハネはその書を通して、何度も何度も神的な存在者を誉めたたえた。黙示録1:8 で次のように至高者を引用する。

 再び、黙示録11:17 でヨハネは書いている。

 これら二つのテキストの選択の間にある著しい対比を知る必要がある。新世界訳聖書にある聖句と『王国行間逐語訳』にある聖句の感覚の違いを比較できる(『王国行間逐語訳』からの引用は、逐語訳の部分に直接、由来する。つまり、語順はギリシア語テキストの語順と同じ)。

新世界訳聖書 エホバ神はこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。今おり、かつており、これから来る者、全能者である」。啓示1:8

『王国行間逐語訳』 I am the Alpha and the Omega,is saying Lord,the God,The (one) being and the (one) was and the (one) coming,the Almighty.
 「わたしはアルファであり、オメガである」。「主」、神、は語っている。今おり、かつており、これから来る者、全能者である」。啓示1:8

新世界訳聖書 「今おられ、かつておられた方、全能者なるエホバ神、わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大いなる力を執り、王として支配を始められたからです。」啓示11:17

『王国行間逐語訳』 We are giving thanks to you,Lord,the God,the Almighty,the (one) being and the (one) was,because you have taken the power of you the great and you reigned.
「今おられ、かつておられた方、「主」、神、全能者、わたしたちはあなたに感謝します。あなたはご自分の大いなる力を執り、王として支配を始められたからです。」啓示11:17

 もし、ヨハネがこれら二つの聖句においてテトラグラマトンを用いたのなら、神と全能者は、エホバであることは、明らかである。一方、もし、ヨハネがギリシア語Kyriosを用いたのなら、この二つの聖句の主題は、Kyriosの称号を当てはめている者である。首尾一環してヨハネは黙示録を通して、イエスを指すためにKyriosの称号を用いたのだから、ヨハネが主(イエス)に対し「神」と「全能者」を区別していたと理解するのが当然だ。黙示録1:17-18 で「アルファであり、オメガである方」の称号(これはギリシア語の最初の文字と最後の文字である)を意味していたことに等しい「初めであり、終わりである方」とイエスを同定しているのだから、黙示録1:8 についてはことさら、それがあてはまる。

 このほかに黙示録には、同じ例が見当たる。新世界訳聖書と『王国行間逐語訳』から引用された次の聖句に注意しなさい。

新世界訳聖書 また、わたしは祭壇がこう言うのを聞いた。「そうです。全能者なるエホバ神、あなたの司法上の決定は真実で義にかなっています。」啓示16:7

『王国行間逐語訳』 And I heard of the altar saying Yes,Lord,the God,the Almighty,true and righteous the judgment of you.
 また、わたしは「そうです。「主」、神、全能者、あなたの司法上の決定は真実で義にかなっています。」と祭壇が言うのを聞いた。啓示16:7

新世界訳聖書 「あなた方はヤハを賛美せよ。全能者なるわたしたちの神エホバは王として支配を始められたからである」啓示19:6

『王国行間逐語訳』Hallelujah,because reigned Lord the God of us,the Almighty.
 ハレルヤ。わたしたちの神、「主」、全能者が君臨されたからです。」啓示19:6

 同じ例は、(Lordなのか、エホバなのかの)問題が神と関係している黙示録のほかの箇所にも見られる(4:8、11、15:3、18:8、19:6、19:22、22:5-6を見なさい)。同種の形式は、このほかにもクリスチャン・ギリシア語聖書のほかの箇所にも見つかる。大事な点は、‥‥‥もし引用された聖句で原作者がテトラグラマトンを用いたのなら、エホバを指しているのである(ヨハネが「神‥‥全能者」と呼んでいる者である)。かたや、もしも使徒ヨハネがギリシア語のKyriosを用いたのなら(『王国行間逐語訳』のギリシア語テキストや五千余りの古代ギリシア語写本にあるように)、主イエスは、「神‥‥‥全能者」と同一視されていた。

 ギリシア語聖書の原作者がテトラグラマトンを使ったかどうかは、いずれにとっても非常に重大な問題である。観察した例の中で、もしヨハネが黙示録1:8 と11:17 の箇所でテトラグラマトンを使わなかったのなら、霊感を受けたヨハネは、イエス自身が「神‥‥全能者」と呼ばれる者のうちに数えられると言っていたのだ。「救い、その真の意味」(「ものみの塔」1997/8/15 P.6 )は、これら聖句のギリシア語テキストからかけ離れた結論に達したけれども、彼らはこう言ったとき、確かに問題の重要さを理解したのだ。

 四番目の逡巡は、使徒が原書においてテトラグラマトンを使用した可能性を裏づけるテキストの証拠がなかったためである。称号Kyriosはイエスの格と深い関係がある。その上、黙示録のヨハネのような著作者は、称号Kyriosを「全能の神」と同一視する。

 

逡巡の5:特定の箇所は、神ご自身に従属する特質があてはまる。

 「神、‥‥‥全能者」が書かれている聖句の問題を同一視している箇所が一段落したようだが、「同一視」よりも「特質」にかかわる5番目の逡巡がある。クリスチャン・ギリシア語聖書だけは、多くの箇所で、エホバ神に留保された特質を当てはめて「み父」と等しい対象が書かれている。これらは、Kyrios(「主」)がエホバと訳されるギリシア語聖書の中にたくさん書かれている。これらの聖句はエホバだけがあてはまる対象について語っている。その聖句がヘブライ語聖書からの引用ではないのなら、その箇所はギリシア語聖書においては誰を指しているのかを知るのには注意深く研究しないといけない。なぜなら、エホバ自身に帰属する特質が問題だからである。

 新世界訳聖書のクリスチャン・ギリシア語聖書でエホバの名が出現する237例のうち、引用される聖句やその内容にエホバの名が書かれているヘブライ語聖書からの引用は112箇所しかない。たとえばイザヤ45:22-23にはこうある。「わたしは神であり、ほかにはいない。‥‥‥すべてのひざはわたしに向かってかがみ‥‥‥」。この聖句がローマ14:11 に引用されている「エホバは言われる。『わたしが生きているごとく、すべてのひざはわたしに対してかがみ‥‥‥』」。これは、引用の中にエホバの名がある「直接引用」である。

 かたや、237例のうち、125例はヘブライ語聖書の箇所をいささかも引用しては、いない。それらは、クリスチャン・ギリシア語聖書テキストにおいて、Kyrios(Lord)(あるいはまれにTheos(God))を用いている箇所にすぎない。今ここで関心を持つ、ヘブライ語聖書に引用の源泉を持たない新世界訳聖書のクリスチャン・ギリシア語聖書の中でエホバの名が125回出現する一群がそれである。

 ものみの塔協会の予想によれば、クリスチャン・ギリシア聖書には本来、テトラグラマトンが用いられた箇所がたくさんあるのだ。そうでなく、多くの箇所でイエスにはエホバ神に帰す属性が書かれていたのだ。この章の始めにピリピ2:10-11 を簡単に試してみた。このピリピの箇所は目下の逡巡を同じように説明している。イザヤ45章からの引用では、すべてのひざはエホバにかかがむだろうと明確に言っている。この献身と崇拝はエホバだけに留保されている。この、エホバだけに帰属する献身と崇拝をイエスも受けるであろうとピリピ2章は教えている。使徒パウロは、エホバ神に属する献身と同一の献身をイエスに帰している。

 そのほか、エホバに属する性質の例は、黙示録4:11にも書かれている。テトラグラマトンが用いられていたか、Kyriosが用いられていたかによって、この聖句は全く違って読まれてしまう。

 この聖句に対する『王国行間逐語訳』とその英訳の部分に注目すると、この箇所の固有の食い違いがすぐに分かる。逐語の部分には、こうある。 

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 右欄にある新世界訳聖書では、この聖句を次のように訳している。

 しかし、もし新世界訳聖書の英訳の語順を使うなら、『王国行間逐語訳』は、この聖句をこう読ませたいのだ。

 この最後の逡巡がいかに大事なのか、よく分かるだろう。もし原作者がこうした聖句でテトラグラマトンではなく、ギリシア語の称号Kyriosを用いたのなら、神の霊感の元で、Kyriosはエホバ神自身に帰属する性質を委ねられているのだ。

逡巡を解決する

 前述した五つの話題は、それぞれ霊感を受けたクリスチャン書士がテトラグラマトンを用いたとする見込みから生じた。テトラグラマトンが原文に書かれていたとするテキスト上の証拠がないのでは、緊張状態が生まれる。新世界訳聖書と『王国行間逐語訳』を比較したとき、同一の箇所にKyriosとテトラグラマトンの両方が存在していることから衝撃を受けて緊張関係が生まれるときもある。ほかには、予想された箇所にテトラグラマトンが存在するために緊張状態が生まれることもある。

 どちらの場合にも、神学的な説明や論理的な説明によって、テトラグラマトンなのか、主なのかの逡巡を解決しようとする。けれども、神学や論理で応答するのは正しくない。

 実は、これら五つの話題はたった一つの解決法で解かれるただ一つの逡巡を語っている。歴史的に、あるいはテキストから霊感を受けたクリスチャン書士が用いた正確なことば(それがテトラグラマトンなのか、Kyriosなのか)を決定しなければならない。その結果、それぞれの聖句の主題の理解(それがエホバなのか、主なのか)は、聖書の霊感を受けたことばそのものに基づかないといけない。使徒である作者が私たちの神学上の立場を守るために書いてはいなかったことまでテキストに言わせることはできない。

「テトラグラマトンなのか主なのか」の論争に結論を下す

 この本では1947年版新世界訳聖書の訳者が提起した質問、「本来の霊感を受けたクリスチャン書士はクリスチャン・ギリシア語聖書を書いているとき、237回、テトラグラマトンを用いたのだろうか」と同じ質問をしてきた。

 この質問に答えるために、セクト主義的な聖書解釈や神学的な論議を避けた。適切な情報源(ギリシア語聖書写本そのもの)だけに立ち返った。

 今日入手可能な、最良で最古の写本を注意深く研究した。ウェストコットとホートのギリシア語テキストにあるエホバ脚注のしくみ全体を評価した。ギリシア語聖書原文を書いた者がかつてテトラグラマトンを用いたと表示している最古のギリシア語写本は一冊もない。

 さらに多数のヘブライ語訳の情報源を評価した。これらの訳本でテトラグラマトンが使われたことを発見できたけれども、エホバへの言及237箇所のうちの223箇所でKyriosが書かれていることを示していたギリシア語テキストそのものからそれら訳本が作成されたことがすぐに分かる。多分、使徒自身が書いたのであろうマタイの福音書には、テトラグラマトンではなく、婉曲な言い回し「み名」を書かれていたことも分かった。

 最後に、ギリシア語写本と歴史的な文書に関連する疑問に立ち返った。クリスチャン聖書のギリシア語テキストの一部は、使徒ヨハネによって書かれてから25年以内のものであると検証できることが分かった。たいていは、はっきりとテトラグラマトンが書かれている実際の聖句は、実際には原文が書かれてから100年以内に、Kyriosが書かれていることが検証される。裏づけとなる証拠を試し、古代の教父たちは誰一人としてギリシア語聖書の中にテトラグラマトンを記していなかったことを発見した。異端的に古代のクリスチャン聖書からテトラグラマトンを取り除いたと定めるには、その時間は短かすぎることも分かった。空論による偏見や地理的な偏在は、それを暴露する形跡が残されていなくては、そうした企てを不可能にするだろうことも分かった。

 熱心な研究の末、かつて西暦一世紀のクリスチャン・ギリシア語聖書の写本でテトラグラマトンが用いられたことを示している証拠はギリシア語写本自体(あるいは大量の古代教会の書物)には、ただの一つも存在しないと、結論を下さざるを得ない。

 霊感を受けたクリスチャン・ギリシア語聖書のクリスチャン書士は、テトラグラマトンを使用しなかった。それを否定する証拠のためのギリシア語写本は、一冊も作られていない。

 1950年以降に入手可能となった写本の物証から増し加えられた知識により、新世界訳聖書にあるKyriosに基づく223回に上るエホバへの言及においては、それぞれ、テトラグラマトンではなくギリシア語Kyriosが用いられたと結論を下さざるをえない。テトラグラマトンの存在を確認するためにその他の情報源に頼ることは、ギリシア語テキストの権威と霊感を否定することになるし、それ以上に高いレベルの権威に起因するであろうテキストをほかから探すことが避けて通れなくなる。

この章のまとめ

 テトラグラマトンが出現しないとする証拠と同時に、テトラグラマトンがクリスチャン・ギリシア語聖書に出現するとする主張は、不確かさな特質を持つ五つの分野を作ってしまう。

1.ものみの塔協会が出版した二つのクリスチャン・ギリシア語聖書にある食い違いから重大な逡巡が生まれる。『王国行間逐語訳』は223回に上るエホバへの言及でギリシア語テキストKyriosを用いており、英語の逐語欄では、その語をLordと訳している。一方、新世界訳聖書では同じ箇所に神の名、エホバを挿入する。こうして二つの矛盾した主張の裏づけが同時に存在する。

2.今や、神の霊感を受けた啓示をもっともよく表現している聖書的なテキストを決定しなければならないのだから、次に二番目の逡巡が生まれる。もしも新世界訳聖書の中にテトラグラマトンの存在が認められるなら、古代ギリシア語写本に基づくヘブライ語訳には、ギリシア語写本そのものよりも高度なレベルの権威が生じると認めざるを得ない。

3.エホバの名のふさわしくない用い方を対象にする三番目の逡巡に出会う。特定のヘブライ語聖書の箇所を引用していたときに、霊感を受けたクリスチャン書士がテトラグラマトンではなく、Kyrios(Lord)を用いたとき、涜神の罪に該当しなかったことはもっとも確かなことだ。

4.数多くの箇所の文脈から、「同定」という第四の逡巡と格闘せざるを得ない。特定の箇所では霊感を受けたクリスチャン書士は「神‥‥‥全能者」を指す文脈で、Kyriosの称号(それはイエスを同定する)を用いた。

5.最後に、Kyriosという対象には神だけに留保される特質を帰属させてエホバと同等さを書いている多くのクリスチャン・ギリシア語聖書の記述においては、同じような逡巡に出会う。

 これら五つの逡巡を成功裏に解決する唯一のものは、237 箇所のエホバの記述の各例において霊感を受けたクリスチャン書士が用いた正確なことばを歴史的に、そしてテキスト上で決定することである。ギリシア語写本とそれを取り巻く歴史的な情報を探究したまとめとして、霊感を受けたギリシア語聖書の書士がテトラグラマトンを用いたと表示している証拠は、唯の一つも存在しないと結論を下す。クリスチャン聖書にテトラグラマトンを書き込むには、ギリシア語聖書自体の霊感と権威を否定し、それよりも上位の権威をヘブライ語訳本に求める必要がある。

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