オリゲネースの詩篇二篇の注釈
『聖書全体は神の霊感をうけたもので、有益です』の310頁の引用には、こうもある。
詩篇2編2節に関する注解の中でオリゲネスは、セプトゥアギンタ訳についてこう書きました。「最も正確な写本には、み名がへブライ語文字で書かれている。しかし、それは現在のヘブライ語[文字]ではなく、最も古いヘブライ語文字によってである」。
原作者の個人的な文通では、ものみの塔の執筆委員会は、この引用が記された源泉についてのくわしい情報とその著者を上げた。J・P・ミグンの編集した”Patrologiae Cursus Completus ”(『教父の書物全巻』)と題するラテン語のうち、12巻目、カロリとカロリビンセンティ・デラルエによって編成され、1862年に出版された”Origenis opera Omnia”(『オリゲネースの著作全巻』)に出現する。以下の引用は、その1104頁からのものである。オリゲネースが残した著作全巻は、ギリシア語で書かれていたごとく、その巻に残されている。
オリゲネースが何を言っているか、綿密に理解するために『聖書全体は神の霊感を受けたもので有益です』が引用したテキストとその前後の内容を次に書く(各々の翻訳の部分は、詩篇第二章のオリゲネースの本来の注釈からのギリシア語テキストに従う)。ギリシア語テキストは、直接”Patrologiae Cursus Completus ”から選んでいる。書かれている息つきの印は、現在の使用法とは異なっている。鍵となる語彙は、各々のギリシア語の脚注に書かれている。『聖書全体は神の霊感を受けたもので有益です』の310頁からの引用と対応するギリシア語テキストは・・_・・のように二重の錘の符号で囲まれている)。
これらの事柄は、「主(Kyrios)と、主に油そそがれた者とに逆らう」と言われている。人がヘブライ語の「アドナイ」ではなく、ギリシア語でKyriosとその名を発音することは秘密ではない。神はヘブライ語で10の名前で呼ばれた。その一つ、「アドナイ」はギリシア語では"Kyrios"と発音された。
ヘブライ語で「アドナイ」または、ギリシア語で"Kyrios"と言うとき、両方とも聖書に書かれたことばであることを示す。このことばは、ラエ(の書物)にもあり、「主をほめたたえよう(詩篇146:1)」にあるように、そこでは、"Kyrios"の名はギリシア語で発音され、ヘブライ語では発音されない。だから、著者ラエが詩篇を「ハレルヤ」のヘブライ語で始めるよりももっと前から、「詩篇」では"Kyrios"が用いられている。
発音されない名前「テトラグラマトン」が口に出されることはなかったけれども、高位の聖職者の金の冠の上にも書かれていた。その名は「アドナイ」と発音される。テトラグラマトンは決して発音されなかったが、ギリシア語で語られるとき、"Kyrios"と発音された。・・最も正確な写本には、み名がへブライ語文字で書かれている。しかし、それは現在のヘブライ語[文字]ではなく、最も古いヘブライ語文字によってである・・
本来のものとは異なる性格が伝達されたと、エズラは捕われの身で語った。しかし"Kyrios"としてのテトラグラマトンは「主("Kyrios")のおしえを‥‥‥」(詩篇1:2)や、「主("Kyrios")は、正しい者の道を知っておられる‥‥‥」(詩篇1:6)や、現在のテキスト、「主("Kyrios")と、主に油そそがれた者とに逆らう」(詩篇2:2)に見られるのだから、忘れてはならないことがある。
それは、セプトゥアギンタとテオドシウスに見られる。過去には、昔のアキャア、次のシムマカスは、すべて年代順に編集した。
広い範囲にわたる引用から、オリゲネースが次のように語ったとき、ヘブライ語聖書のギリシア語テキストの中での発音できる訳としてKyriosが十分、受容できたと了解したことは明らかである。
人がヘブライ語の「アドナイ」ではなく、ギリシア語でKyriosとその名を発音することは秘密ではない。神はヘブライ語で10の名前で呼ばれた。その一つ、「アドナイ」はギリシア語では"Kyrios"と発音された。
あるいは、再度、彼がこう言ったとき、ヘブライ語で「アドナイ」または、ギリシア語で"Kyrios"と言うとき、両方とも聖書に書かれたことばであることを示す。
あるいは、最後にこう言ったとき、
テトラグラマトンは決して発音されなかったが、ギリシア語で語られるとき、"Kyrios"と発音された。
そう言える。
一方、こう語ったときのオリゲネースの注釈の重要性を過少評価しようとは望んでいない。
最も正確な写本には、み名がへブライ語文字で書かれている。しかし、それは現在のヘブライ語[文字]ではなく、最も古いヘブライ語文字によってである
神の名をもっとも著しく尊重していたことと、オリゲネースが「もっとも正確な写本」として区別していた書物の中で神の名が古ヘブライ語の文字で書かれていたた事実に対し、オリゲネースは、はっきりと読者の注意を喚起していた。こうした例では、神の名はヘブライ語の よりも、むしろ古ヘブライ語のとして出現したのだと、オリゲネースは私たちに伝えていた(ヘブライ語のではなく、古ヘブライ語のを用いていた死海で出土したヘブライ語聖書のスクロール七巻と、外典のスクロール二巻から確証できる)。もっとも信頼できる翻訳は古ヘブライ語のと読むべきだと言っているとして、この引用を解釈してはならない。オリゲネースが古代のヘブライ語テキストの中、あるいはヘブライ語聖書の比較的新しいギリシア訳の中で古ヘブライ文字を区別していたのかはっきりしないのである。この二つのヘブライ語聖書写本の中に実例がある。
テトラグラマトンが特定のセプトゥアギンタのテキストにはめ込まれたとオリゲネースが認めたことは、その記述から明らかである。しかし、私たちは、組み合わせによる識別を間違えないよう、特に気を付けるべきだ。詩篇第二篇のオリゲネースの注釈からの短い引用を文脈から外れて選択はできないし、クリスチャン聖書の最も古い写しは、古ヘブライ文字でテトラグラマトンを用いたと、オリゲネースが言っていたと信じ込むことはできない。
ともあれ、テトラグラマトンがクリスチャン聖書の「もっとも正確な写本」の中に発見されたとオリゲネースは報告しているのでは決してない。それがオリゲネースの趣旨ではなかったと悟るためには、ヘブライ語聖書の箇所を論じているこの引用の前後関係を読まなければならないだけだ。へブライ語聖書自体がギリシア語に翻訳されたとき、オリゲネースはテトラグラマトンの適切な訳としてKyriosを完全受け入れたことも意外なほど分かる。
興味深い対比
オリゲネースの『ヘキサプラ』を扱っている第一の節では、オリゲネースが四角いヘブライ文字でテトラグラマトンを書いたと結論を下した。しかし、この詩篇第二篇のオリゲネースの注釈では、彼は、はっきりと述べている。
本来のものとは異なる性格が伝達されたと、エズラは捕われの身で語った。しかし"Kyrios"としてのテトラグラマトンは「主("Kyrios")のおしえを‥‥‥」(詩篇1:2)や、「主("Kyrios")は、正しい者の道を知っておられる‥‥‥」(詩篇1:6)や、現在のテキスト、「主("Kyrios")と、主に油そそがれた者とに逆らう」(詩篇2:2)に見られるのだから、忘れてはならないことがある。それは、セプトゥアギンタとテオドシウスに見られる。過去には、昔のアキャア、次のシムマカスは、すべて年代順に編集した。
エズラが古ヘブライ文字を参照したにもかかわらず、ここの箇所でオリゲネースはセプトゥアギンタ、テオドシウス、アキュラ、シムマカスにおいてテトラグラマトンを置き換えているものとしてギリシア語Kyriosを識別している。
二者択一から、明白な矛盾点を調和できる。初めに言うと、アンブロシア写本の中にあるヘブライ語文字は、オリゲネースの著作ではなく、後に書き写した者によって挿入されたことが議論できた。しかし、今知られているテキストの来歴に照らして、それを説明するのはありそうもない。異邦人が異邦人のテキストにを持ち込んだのは、もっともらしい。むしろ、ヘブライ語聖書写本でをKyriosに変えたのは、異邦人だったことを知っている。
私たちが引用した箇所においてのオリゲネースの注釈は、初めは、ヘブライ語文字のテトラグラマトンで書かれていた(そう言及している)と説明することで、この明白な矛盾を調和しようとしてもできなかった。オリゲネースは、明らかに、同一のヘブライ語聖書の箇所で、テトラグラマトンとギリシア語Kyriosの対比をしていた。もし、これらの箇所がだけで書かれていたなら、これらの注釈が書かれた合理的な理由はありえないだろう。
つまり、アンブロシア写本(オリゲネースが『ヘキサプラ』の中を使用したことと、Kyriosがことごとく書かれているとしてテオドシウス、アキュラ、シムマカス、セプトゥアギンタへの言及している)の二番目の調和(唯一の合理的な調和)が残されている。オリゲネースはギリシア語に訳されたヘブライ語聖書の複数の写しを持っていたことは、大いにありえる。が書かれていたものもあったし、同じ箇所にKyriosが書かれていたものもあっただろう。詩篇二編の注釈にあることばに照らして、『ヘキサプラ』原本でオリゲネースがを用いたと認めさせられるに過ぎない。
入手できる写本からの現在での知識では、二番目の結論を立証できる。少数とは言え、テトラグラマトンが書かれているヘブライ語聖書の翻訳は、今、明るみになっている。テキストの中にはめ込まれたを有する写本のほかに、、それとは別にKyriosの翻訳がある写しをオリゲネースが所有していたと確信を持って想像できた。
二つの世紀におけるオリゲネースの見解
クリスチャンが発祥した最初の二つの世紀にテトラグラマトンの用い方に変化があったと報告するためには、オリゲネースほど良い立場にいた者はほかには、いなかった。
初めに、オリゲネースは、当時の時代に生き、その議論を報告していた。その個人的な立場にかかわらず、テトラグラマトンの弁明も、Kyriosへの変化を支持する論議のどちらも、オリゲネースの書物にはっきり見分けられる。オリゲネースの『ヘキサプラ』でのわずかのの量の著作と、彼の注釈を一つだけを試して、そのどちらへも論じられていないことを発見する。ヘブライ語テキストで記述するときには、自由にを用いた。一方、ギリシア語で書くときには、邪魔立てされることなく、(Kyrios)とそこから派生した形態、とΠΙΠΙ(PIPI)を用いた。詩編の注釈でオリゲネースはテトラグラマトンをKyriosに翻訳する穏当さを公式に認めた(この本の研究をしているとき、ギリシア語の執筆が書かれていたオリゲネースの頁の多くは、J・P・ミグンの”Origenis Opera Omnia"(『オリゲネースの著作全巻』)から検証された。直接得た観察から、ヘブライ語聖書からの注釈と説教において、オリゲネースがあまねくKyrios(ではなく)を用いたと述べられているかもしれない。詩編二編での注釈で、彼がKyriosを使用していることは例外ではない)。
なおかつ、オリゲネースはいい加減な傍観者ではなかった。彼は、セプトゥアギンタの正確さを熱心に弁護した。ギリシア語によるヘブライ語聖書の忠実な翻訳を伝える者を援助することになるテキストの道具の発達のために生涯を捧げた。その強い熱意にもかかわらず、三世紀の早い時期に(Kyrios)がを適切に表現したことに満足していた。
『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』の記述によるとこうなっている(310頁)。
オリゲネス編さんによる6欄の「ヘキサプラ」のセプトゥアギンタ訳の箇所にも神の名がテトラグラマトンの形で出ているのは興味深い事柄です。
これはまったく正しい。しかし、この記述は、神の名の別なギリシア語の形式を排除するためにオリゲネースがテトラグラマトンを使ったと暗示するために使われてはならない。オリゲネースが行ったセプトゥアギンタの字訳(ほかの三つの訳の表現もそうだ)は、神の名を表現するため代用形式、(Kyrios)(まれには、ΠΙΠΙ)をはっきり用いた。
『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』ではさらに詳しくこう記述している。
詩篇二編二節に関する注解の中でオリゲネスは、セプトゥアギンタ訳についてこう書きました。「最も正確な写本には、み名がヘブライ語文字で書かれている。しかし、それは現代のヘブライ[文字]ではなく、最も古いヘブライ語文字によってである」。
これははなはだしく、不明瞭である。引用の中身において、(Kyrios)を用いているとして、オリゲネースははっきりとセプトゥアギンタを区別した(テオドシウス、アキュラ、シムマカスも同じ)。そして、オリゲネースは、エズラによって支持された古代写本は古ヘブライ文字を用いたと注解した。しかし、こう言うとき、テトラグラマトンはKyriosとして、記憶されただろうと、直接、読者に気づかせていた。
「しかし、"Kyrios"としてのテトラグラマトンは、主(Kyrios)のおしえを」とか、「主(Kyrios)は、正しい者の道を知っておられる」や、現在のテキスト、「主(Kyrios)と、主に油そそがれた者とに逆らう」の箇所に見られるのだから‥‥‥
最後に『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』ではこう言っている。
証拠によれば、セプトゥアギンタ訳には四文字語の代わりにキュリオス(主)やセオス(神)という語が用いられて、早い時期に不正な変更が加えられたことは疑問の余地がないようです。
これは、『ヘキサプラ』での詩篇二編のオリゲネースの注釈からは受け入れられない。オリゲネースは、テトラグラマトンからKyriosへのゆっくりした変化の過程には注意を払ってはいない。「疑問の余地がない」唯一の証拠は、オリゲネースがテトラグラマトンとKyriosの両方を認め、かつ用いたことである。ヘブライ語で書くときには、オリゲネースはを用いた。ギリシア語で同じ箇所を記述(あるいは翻訳する)ときには、を用いた。ギリシア語の読者に対するの適切な翻訳としてのにオリゲネースは何の不満も起きなかった。
すでに見てきたように、オリゲネースはだいたい西暦182年から251年まで生きていた。使徒ヨハネは西暦96年に黙示録を書き、98年に福音書を書いた。確かにオリゲネースは、ヨハネの書物の本来の内容を知っていただろう。『ヘキサプラ』の目的は本来のセプトゥアギンタの正確なことば遣いを保証するためであったのだから、オリゲネースがセプトゥアギンタの言葉遣いを変更するためにクリスチャンの異端が行っていた努力を知っていたのは間違いない。
テトラグラマトンがKyriosととTheos が置き換えられた点で、どんな根拠があって、ものみの塔協会は、「証拠によれば、セプトゥアギンタ訳には四文字語の代わりにキュリオス(主)やセオス(神)という語が用いられて、早い時期に不正な変更が加えられたことは疑問の余地がないようです」と言えるか。オリゲネースは、「セプトゥアギンタの不正な変更が加えられた」と思ったと示そうにも、詩篇2:2のオリゲネースの注釈には、いかなる種類の証拠も発見されない。反対にオリゲネースは、の適切なギリシア語訳としてKyriosの使用を進んで証言していた。
西暦2、3世紀に、国民的遺産や言語上の遺産への調節が起きたことはありうるだろうか。ユダヤの遺産を相続する者に対して、テトラグラマトンをヘブライ文字 と字訳したセプトゥアギンタが作られ、異邦人読者に与えるセプトゥアギンタでは、テトラグラマトンをと訳した。この変更が、単なる字訳や翻訳の選択としてではなく、読者の文化的背景に従った仲違いや異教として、ユダヤ人や異邦人のどちらからも認識されなかったことはありえるだろうか。クリスチャンの教会が成長したとき、テトラグラマトンが書かれていたセプトゥアギンタ写本は入手が難しくなってきた。それを相続した世代にあっては、異邦人教会はだけが書かれたセプトゥアギンタを所有した。パレスチナでのローマ帝国による戦役の後(メシアのユダヤ人たちは、シナゴーグでの礼拝から追放され、結局は異邦人教会と融合したとき)ユダヤ人のためだけのセプトゥアギンタ写本は存続しなくなった。
自分の行動を説明したり弁護することもなしに、なぜ書物の中でオリゲネースがとの両方を用いたのか、このほかに説明できる手だてはあるのだろう。