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付録D
ジョージ・ハワードの研究
 塔協会は、クリスチャン・ギリシア語聖書におけるテトラグラマトンの存在を支持するジョージ・ハワードによる研究に強く依存している。興味を持った読者には原稿の全体を評価することが、役に立つ。しかしこの付録の紙幅から見て、そのすべてを再現できない(写しは、ニューヨークの「ものみの塔聖書小冊子協会」から手に入る)。従って、教授の研究の適切な引用と要約だけをここに書こう。引用された資料は異なる書体にした。必要なら、ギリシア語とヘブライ語は、ハワードの論文の中で括弧付きで訳される。

 エジプトおよびユダヤ砂漠における最近の発見によって、キリスト教時代前における神の名の使用を直接に見ることが可能となった。これらの発見は、新訳研究において、とりわけそれらが初期キリスト教文書と文学的類似点を示しており、新訳[聖書]の著者たちが神の名をどのように用いたかを説明するものとなり得るという点で重要である。我々は、つづくページで一つの理論を展開しようとしている。その理論とはすなわち、新訳における旧約[聖書]の直接および間接引用箇所には当初、神の名yhwhla.JPG (および恐らくはその省略形)が記されており、時を経るうちに、それがおもに代用語ks.gif[「主」を意味するキュリオスの省略形]に置き換えられたというものである。我々の見解からすると、四文字[語]がこうして除かれたことにより、初期の異邦人のクリスチャンの思いの中に『主なる神』と『主なるキリスト』の関係について混乱が生じた。このことは、新訳本文そのものの写本伝承に反映されている。(訳者注:以上は『参考資料付 新世界訳聖書』1756頁の引用。以下は訳者の独自訳)この理論の正しさを証明するため、書かれた文書にある神の名の使用についてキリスト教以前と新訳聖書後でのふさわしい証拠を述べ、新訳聖書との関連を調べよう」


観察:読者がハワードの研究の範囲を理解することが大事だ。
(1)研究の原文上の根拠は、クリスチャン登場以前の時代における神の名の使用である。ハワードの研究は、ヘブライ語聖書写本だけを試みるのである(すでに見てきたように、ハワードの原文上の標本は、ヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳したセプトゥアギンタ(LXX)から選ばれている。セプトゥアギンタには、クリスチャン・ギリシア語聖書が含まれていない)。

(2)ハワードの研究には新世界訳聖書におけるエホバの引用237例の全部を扱っていない。むしろ、 ‥‥‥「(彼は)、つづくページで一つの理論を展開しようとしている。その理論とはすなわち、新訳における旧約[聖書]の直接および間接引用箇所には当初、神の名が記されており‥‥‥」、とハワードが言っている。ハワードの理論は、ヘブライ語聖書の直接および間接引用箇所112だけに焦点を当てているのだ。
ハワードの研究の第一節と第二節
 ハワードの研究の第一節で、ハワードは多くのヘブライ語聖書とそれ以外の非聖書的な源泉におけるテトラグラマトンの使用を評価する。この資料の内容は、この節のハワード自身の要約を部分的に引けばもっともよく理解できる。

 新訳聖書以後の時代に立ち入る前に、ここまで集めたデータの簡単なまとめをすることは役に立つ。
(1) クリスチャン登場以前の旧約聖書のギリシア語写本では、ふつう神の名は、今日、知られている70人訳の優れたクリスチャン写本に出現するようなmatt1025.gif(Lord)の形式では出現しない。神の名は、ヘブライ語のテトラグラマトンの形式(アラム語か古代ヘブライ語の文字で書かれた)あるいは音訳されたIAΩ(IAO)の形式で出現する。
(2)ユダの砂漠からのヘブライ語の文書では、聖書の写本の中にテトラグラマトンが出現する。聖書の引用の中、あるいは聖書的な箇所、聖書の釈義にも出現する。
(3)ユダの砂漠から出土した非聖書的なヘブライ語の文書では、「神」にもっとも一般的に用いられた語lamedh2.JPGalef2.JPG(神)(または、alef,lamedh,heth,yodh,mem(神)である)。クムランの注解書では、テトラグラマトンは聖書からの見出しの引用に正式に出現する。続いている注解書では「神」への二次的な記述としてはlamedh2.JPGalef2.JPGが用いられる。
(4)ユダヤの砂漠からのヘブライ語文書では、聖書的文書にテトラグラマトンが出現した箇所では、yo.JPGnun2.JPGres2.JPGalef2.JPG'( My Lord )の語句が発音された証拠もある。
(5)ユダの砂漠からの写本に現れる「神」の名前に対する見慣れない短縮型が二つ存在する。一つは4個または5個のドットの使用、もう一つはヘブライ語の発音alef2.JPGwaw.JPGhe.JPG(彼)の使用である。
(6)フィロンが聖書から引用するとき、テトラグラマトンを書く慣例を修正することはありそうもないけれど、フィロンが説明の中で神の名に二次的に言及するときには、matt1025.gif(主)の語を用いたようだ。
 神の名がさまざまに用いている様式からして、結論できるもっとも重要な意見は、テトラグラマトンがきわめて神聖に扱われたということだ。筆者の個人的な好みによって、非聖書的な資料の中でテトラグラマトンやその代用語を使ったかもしれない。しかし、聖書の文章の写筆では、テトラグラマトンは、注意深く保存された。テトラグラマトンの保存は、聖書の文章をギリシア語に翻訳するときにでも波及した。


 ハワードは、第二節でセプトゥアギンタでのクリスチャンの使用法にある神の名の問題を手短に話しかける(一世紀・二世紀におけるクリスチャン教会のセプトゥアギンタの使用)。
 テトラグラマトンがクリスチャン・ギリシア語聖書で用いられたとする協会の教えに賛成して塔協会によって用いられる情報を読者に示すため、ジョージ・ハワードの資料を伝える。セプトゥアギンタでのテトラグラマトンの研究を細かく調べるつもりはない。読者はこの本のほかの箇所の議論を見直すことができる。
 クリスチャンの文書の中での神の名について、ハワードはこう言っている。 

  70人訳のクリスチャンの写本に至ると、直ちにテトラグラマトンの不在とともに、ほとんど普遍的なmatt1025.gifによる書き代えに衝撃を覚える。クリスチャン宗教運動の始まりと、クリスチャンの70人訳のもっとも古い現存する写本の時期の間に変化が起きたことを意味する。その変化がちょうどいつ起きたのか、絶対的な日付を定めることは不可能だ。70人訳のクリスチャン写本に達するまでには、テトラグラマトンは見当たらなくなる。代わって、matt1025.gif(主)の語(時にはtheos.JPG(神))が神の名を表わし、ks.gifthetas.JPGに短縮された。
 少なくとも2世紀の冒頭までに、クリスチャンの70人訳においてテトラグラマトンは、十中八九、短縮された語、ks.gifthetas.JPGに代用され始めた。私たちの目的にとって、もっとも重要な点は、これらと同一の短縮された語が新訳聖書のもっとも初期の写本の中にも現れることである。これから論じるように、これら短縮形は新訳聖書での神の名の使用を理解する上で大事になる。
 知られている限り、テトラグラマトンはヘブライ人の宗教の中ではもっとも神聖なことばであった。ギリシア語を語るユダヤ人がギリシア語の聖書の中でyhwhla.JPG を書き続けたことは事実として知っている。加えて、初期の保守的なギリシア語を語るユダヤ人のクリスチャンがこの慣例を修正したことはもっともありそうもない。
 短縮されたks.gifthetas.JPGは、異邦人クリスチャンの聖書の写本においてテトラグラマトンを保持する伝統の支えに欠けていた異邦人クリスチャンに遡るのがもっとふさわしい。


観察
:読者は気づかなければならない。
1.テトラグラマトンが書かれている聖書写本にハワードが言及する時には、すべて、その聖句はヘブライ語聖書の聖句である。セプトゥアギンタ(ハワードはLXXと識別する)は、およそ紀元前280年にギリシア語に翻訳されたヘブライ語の聖書である。この本で私たちが歴史的に示し、また原文上で示したように、既知のクリスチャン・ギリシア語聖書写本にはテトラグラマトンが含まれているものはない。
2.「ユダヤの砂漠写本」は、死海文書として知られる1947年に発見されたパレスチナ洞窟の文書である。巻物が見つかったクムラン教団は、テトラグラマトンの意味を宗教的にも、文化的にも理解したイスラエル人共同体(異邦人と対照的な)であった。検証できることだが、パレスチナとエジプトのユダヤ人の教団から出土したセプトゥアギンタ写本には、ギリシア語κυριοσ(Lord)より、テトラグラマトンを使うものがあった。ユダヤ人の読者のためにテトラグラマトンがヘブライ語聖書の中にしばしば埋め込まれたのだ。しかし異邦人の読者のためには、神の名はヘブライ語yhwhla.JPG から、ギリシア語matt1025.gif(Lord)に訳された。
3.クリスチャンの時代の初期において、ヘブライ語聖書(セプトゥアギンタ)写本の中では、代用語(短縮された形)ks.gifthetas.JPGが、matt1025.gif(Lord)とtheos.JPG(God )を置き代えた。
 この本で示した歴史的資料と原文上の資料は、原則としてこの初めの二つの項にあるハワードの結論に賛成する。私たちの本では、細かい点にまでセプトゥアギンタを扱っていないから、この点、ハワードにあからさまに反対はしない。しかし、読者は気づかないといけない。ハワードの意見の主題は、ギリシア語に翻訳されたヘブライ語聖書の写本である。ハワードはその二つの節の中で、この本の主題であるクリスチャン・ギリシア語聖書写本について語っているのではない。
ハワードの研究の結論の節
 ハワードの研究の最後の(そして簡潔な)部分はクリスチャン・ギリシア語聖書に焦点を合わせる。この部分を長く引用するので、読者はハワードが何を言っているか、よく分かるだろう(ハワードの提出した可能性の高さを強調するため特定の箇所に下線を引いた)


 新訳聖書に至ると、同様な型式が発展したと信じられる相当な理由がある。初期教会の聖書はギリシア語聖書の写本であるが、その中になおテトラグラマトンが書かれていた以上、新訳聖書の著者が聖書から引用するとき、聖書本文中にテトラグラマトンを保存したことは当然に考えられる。キリスト教時代以前のユダヤ人の習慣から類推すれば、新訳聖書本文に引用された旧約聖書の聖句中にテトラグラマトンが取り入れられたこと、そして引用に基づいたことばの中で二次的に神へ触れるとmatt1025.gif(Lord)とtheos.JPG(God )が使われたことは想像に難くない。もちろん、これらの引用句の中のテトラグラマトンは、それがクリスチャンのセプトゥアギンタ訳中に用いられていた間は存続したであろう。しかしそれがギリシア語の旧約聖書から除かれた時、新訳聖書中に引用された旧約聖書の聖句からもそれは除かれてしまった。それで2世紀初めごろに、テトラグラマトンは、代用語(神の名に代わって用いられた語)のために新旧約両方の聖書から締め出されてしまったに違いない。まもなく神の名は、代用語の確約された形の中に反映されたり、学者が時おり思い出したりする以外、異邦人の教会にとって全く忘れられたものとなった。
 異邦人教会の新訳聖書においてテトラグラマトンが除去されたことは、明らかに新訳の文章の出現に影響を与えたし、2世紀の異邦人クリスチャニティの神学的な考えに影響を及ぼしたのは疑い得ない私たちが決して知らないだけかも知れない。しかし、新訳聖書の中での本来の旧訳聖書の引用と、テトラグラマトンが除去された後になって、旧約聖書が出現した様式を比較することに目を転じるなら、神学的変更には重い意味があったことが想像できるかもしれない。「神」と「キリスト」の人格がはっきりと区別できる数多くの箇所では、テトラグラマトンの除去は、かなりなあいまいさが生み出されたに違いない。
 二世紀のそうした文章から生じた混乱は、新訳聖書の写本の伝統に反映されることに注意することは意味がある。新訳聖書の写本の様式のさまざまの変化形には、theos.JPG( God )、matt1025.gif( Lord )、Ιησουσ( Jesus )、xristos.JPG( Christ )、uios.JPG( son )の語句とそれらの組み合わせが含まれている。これら数多くの変化形の起源を説明しようとして提案する理論は、引用を巡る論考において人格が参考にされるために新訳聖書での旧約の引用からテトラグラマトンが取り除かれたことが、写筆者の心に混乱を引き起こしたことである(もちろん、すべてがそうではない)。ひとたび引用の中での神の名の変更によって混乱を引き起されると、その混乱は引用がまったく含まれていない新訳聖書のほかの部分にも同じように広がった。別なことばで言えば、一度、引用の中の近傍で「神」と「キリスト」の名に混乱が起こされると、その名はほかの箇所でも一般的に混乱に陥った。
 次の例は、引用の範囲内にある聖なる登場人物に関わる記述上の混乱を描いている。
(以下の箇所で、ハワードはローマ10:16、17、ローマ14:10、11、コリント第一2:16、ペテロ第一3:14、15、コリント第一10:9、ユダ5の簡単な議論を含ませている。ハワードはテトラグラマトンがこれらの聖句に用いられただろうと推論する。しかし、この場合、古代クリスチャン・ギリシア語聖書写本の中でのテトラグラマトンを立証するいかなる原文上の根拠を書いていない)。
(2)結びのことば。もちろん上述の例は、自然のままの探究に過ぎず、ここで経験主義的に述べられている。にもかかわらず、この論文の意見は極めて可能性が高いことを上の証拠が十分、強く示唆している。この急進的な性格の意見のために、たくさんの結論を出すことを控えてきた。今、明確な方法で結論を述べるよりも、詳しい説明の必要性を示唆する疑問を提起するだけで良いだろう。
(a) もし新訳聖書でテトラグラマトンが用いられたのなら、どれほど広く用いられたのか。テトラグラマトンが旧約聖書の引用や旧約聖書を言い換えする引喩に限られたのか、あるいは「神(主)のことば」(使徒の働き6:7、8:25、12:24、13:5、13:44、48、14:25、16:6、32の異文を見よ)、「主の日に」(コリント第一5:5の異文参照)、「神のみこころにより」(ローマ15:32の異文参照)のように伝統的な句に用いられたのか。ルカの初めの二つの章にあるように、旧約聖書のような物語にも用いられたのか。
(b) 三人称単数の代名詞がかつて「神」の代用語として新訳聖書の中で用いられたのか。マルコ1:3、マタイ3:3、ルカ3:4にあるイザヤ40:3の引用は、ευθειασ ποιειτε τριβουσ αυτου(彼の道をまっすぐにせよ)で終わる。写本の中のΑυτου(彼の)はヘブライ文字で「私たちの神」を意味し、大多数の七十人訳の写本ではτου θεου ημων(私たちの神)を意味する。IQS8:13では、引き伸ばされた代名詞、ヘブライ語の「彼の」が正確な句に関係して用いられている事実から、αυτου(彼の)が共観福音書の中での代用語らしいことを暗示する。
(c) 新約聖書からテトラグラマトンを取り除くことの衝撃はいかほどだったのか。すぐ近傍の文脈のあいまいさから、神とキリストが混同されたこれらの箇所だけに働いたのか。あるいは、ほかの箇所(変化が生じた後に低俗なキリスト論に反映した)も、後に高尚なキリスト論を反映して変更されたのか。そうした文章の再構成が教会内での新しいキリスト論的な矛盾を生じさせたのか。そしてこうした矛盾に関係した新訳聖書の箇所は、新訳聖書時代に、はっきりとなんら問題なく作られた聖書の箇所と一致したのか。
(d) 新約聖書の形成時にどんな異教が働いたのか。テトラグラマトンが除去されることがエビオナイトと異邦人教会の間の分裂に役割りを演じたのか。もしそうなら、エビオナイトの運動は、異邦人教会が高尚なキリスト論に向けた新訳聖書の再構成をするようにさせたのか。
(e) 新訳聖書における神の名の使用は、今日のキリスト論研究に対し何を暗示するのか。こうした研究は一世紀において出現したときの新訳聖書の文章に基づいているのか、あるいは、神とキリストの違いが文章の中で混同されたり、教会員の心にぼんやくとしていたとき、教会の歴史のある時期に表された変更された文章に基づいているのか。新訳聖書のキリスト論の現代のシナリオは、二世紀、三世紀の神学からの記述であり、一世紀におけるものでないとは、言えないだろう。
観察
:クリスチャン・ギリシア語聖書(新訳聖書)を扱っているハワードの文献の内容とことば遣いに十分注意しないといけない。
1.読者は、第一節でセプトゥアギンタ(七十人訳)の既知の写本にある検証可能な原文上の証拠を与えられていた。じっくりと注意しないと、ハワードの研究におけるクリスチャン・ギリシア語聖書への視点の変更は、テトラグラマトンの使用に対する原文上の証拠も含まれているとする推測に引き込まれるだろう。それは、真実からはかけ離れている。ここの部分を注意して読むと、テトラグラマトンが使われているクリスチャン・ギリシア語写本が一冊も引用されていないことを示している。
2.どんな原文上の証拠もない中で、クリスチャン・ギリシア語聖書の中でのテトラグラマトンの使用に対するハワードの議論の前提は全体的に次のような句に基づいていることに注意をすべきだ。‥‥‥「信じられる相当な理由がある‥‥‥」「‥‥‥当然に考えられると」。「代用語のために‥‥‥‥締め出されてしまったに違いない」。「私たちが決して知らないだけかも知れない」。「比較することに目を転じるなら」や「‥‥‥と想像できる」−−−経験主義的な根拠の主張としてだけなら、こうした記述はどうにか解釈できる。
3.二世紀のセプトゥアギンタ(ヘブライ語聖書)におけるテトラグラマトンの混乱は、クリスチャン・ギリシア語聖書を写している書字生にも移されたと、ハワードは示唆する。追跡するための正当な調査である。しかし、今まで見てきたように、この疑問は、証拠の歴史的な検証、原文上の検証によって答えを出さねばならない。推論よりも、最も古い現存する写本がギリシア語聖書のすべての節のことば遣いを規定しなければならない。
4.最後に、ハワードの結論はテトラグラマトンの原文上の証拠を要約する記述をしていないことに、読者は気づかなければならない。結論の意見は、五つの疑問から成っているだけにすぎない。実際、それらは関連する疑問だ。それらの疑問には、既知の古代クリスチャン・ギリシア語聖書写本からの証拠から答えられなければならない。そうした証拠がない場合、単なる思惑の疑問に過ぎない。
結論:ジョージ・ハワードによる調査の品位を落とすつもりはない。彼の著作は、クリスチャン・ギリシア語聖書にあるテトラグラマトンの存在の研究に関連した必要なデータを評価している。にもかかわらず、私たちがハワードの研究における証拠の限界に深く注意をする必要がある(十中八、九、ハワードの著作の見方は資料それ自体よりも、塔の解釈によって、相当強く左右されることは間違いない)。ハワードの研究にもっとも強く影響する必須の証拠は、私たち自身の研究でも同じく用いるべき証拠である。ともかく、クリスチャン・ギリシア語聖書での推定されるテトラグラマトンの使用を検証することは、歴史的な証拠や、原文上の根拠に確実な基礎を置くべきであり、セプトゥアギンタの文章に対する思惑やその引喩であってはならない。まとめていえば、
1.クリスチャン・ギリシア語聖書の古代ギリシア語写本にはテトラグラマトンを使用する原文上の証拠はない。
2.ハワードがクリスチャン・ギリシア語聖書の中でのテトラグラマトンの使用を推定するとき、ハワードが用いる箇所は、ヘブライ語聖書引用に言及する聖句である。これらの聖句の使用は研究に益となるが、ヘブライ語聖書の源泉を持たない237回の新世界訳聖書の引用の大部分にある「エホバ」の選択の適切さに関しては全く答えていないままだ。たとえ、ヘブライ語聖書から引用された聖句の中にテトラグラマトンの原文上の証拠が立証されても、黙示録1:8、4:8、11、11:17、16:7、18:8、19:6、21:22、22:5、22:6のような聖句では、その前提が引き継がれることはないだろう。それらの聖句は、ヘブライ語聖書に言及されていない。これら聖句は、すべてmatt2710.gif(Lord)をGod と指し、ほとんどのmatt2710.gifは全能者と識別する。
3.塔出版物がしばしば賛意を示すハワードの研究におけるテトラグラマトンについて、ハワードはあいまいさを差し出す。同じクリスチャン・ギリシア語聖書であっても、議論はしばしばセプトゥアギンタのテトラグラマトンの引用で始まり、発展する。セプトゥアギンタとクリスチャン・ギリシア語聖書は三百年ごろまでに別なものとなり、別々に区分された写本の伝統を示している。初代教会の時代にセプトゥアギンタが使用されたにもかかわらず、正しく言えることは、一方が他方にも必ずしもあてはまらないということだ。同様に、ヘブライ語聖書からの引用の議論は、新世界訳聖書におけるほかのエホバ参照としばしば混同される。原作者が神の名を用いるヘブライ語聖書引用を使用したことについても、適切な説明がなされるだろうが、ほかの237のエホバ参照のための説明の箇所は不正確であう。読者は念を入れて、セプトゥアギンタとクリスチャン・ギリシア語聖書を区分しないといけない。ヘブライ語聖書(とその引用)から生まれた箇所と、クリスチャン・ギリシア語聖書書記者が行なった引用の源泉を持たない記述を区分しなければならない。
4.ハワードは一連の疑問に結論を付ける。そのうちの二つは私たちにとってとても大事な事柄である。 
 「もし、テトラグラマトンが新訳聖書で使われたのなら、それはどれほど大々的に用いられたのか」。‥‥‥これはクリスチャン・ギリシア語聖書を読む者には見逃せない疑問だ。エホバと主イエスの理解は、その答え次第で大きく左右されるだろう。その答えは、たいそう重要だから、聖なる原作者がそのことばの原文上の完全さに十分な根拠を与えることを期待しよう。確かに、もしテトラグラマトンがクリスチャン・ギリシア語聖書で237回も用いられたのなら、それを確証させる古代ギリシア語写本が豊富にあるはずだ。それは全くないのだ。
 「現在のキリスト論的な研究のための新約聖書における神の名の使用は何を暗示するのか」。‥‥‥含蓄が多いのだから、その疑問にはよく答えられる。黙示録での多くの聖句の主題は、はっきりしている。「神‥‥‥全能の神」。もしテトラグラマトンが用いられなかったら、ヨハネは、matt1025.gif(主)は「神‥‥‥全能の神」と、書いただろう。


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