jw.org(ものみの塔)特有の神学 解説
「統治体」とは何か
聖書には「統治体」は書かれていないのに
「統治体」はエホバの証人を騙すために、「忠実で思慮深い奴隷」、即ち「統治体」の概念を利用する。ものみの塔は「キリストが,目に見える統治体として,奴隷級の少数の男子をお選びになった」と主張している。
油そそがれたクリスチャンすべては,集合体として神の家の者たちを構成しますが,キリストが,目に見える統治体として奉仕させるために,奴隷級の少数の男子をお選びになったことを示す証拠はたくさんあります。……遅くとも西暦49年までには,統治体の規模は拡大され,残っている使徒たちだけでなく,エルサレムにいる他の幾人かの年長者をも含むようになりました。(使徒 15:2)それで,統治体の構成は厳密には定められていませんでしたが,神はご自分の民の状況にかなうものとするため,その構成が変わるように物事を導かれたと言えるでしょう。キリストは会衆の積極的な頭としてこの増員された統治体を用い,ユダヤ人でないクリスチャンが割礼を受け,モーセの律法に従うべきかどうかという重要な教理上の問題を解決されました(「ものみの塔」1990/3/15 P.10-14)。
使徒行伝によれば、使徒パウロはキリストの啓示を受け、アンティオキアから伝道を開始した。エルサレムに根拠を置く使徒の集団からの指示を受けないで実行した。数次にわたり宣教をしたが、すべて自主的に(独立的に)アンティオキアから出発し、アンティオキアに帰っている。エルサレムには三度、出かけたがそこには使徒から成る中央集権的な組織はなかった。一人の使徒と主の兄弟がいただけだった。エルサレムの会議では出席者全員が一致して決議を決めた。ブルックリンにいた「統治体」が投票で問題に決着をつけていること自体、キリストが「統治体」を用いていないと統治体が自覚している証拠である。「統治体」はキリストから独立しているし、独立的に重要な問題を解決している。
使徒行伝によれば、西暦一世紀には明らかに各地の会衆はそれぞれ独立して行動した(アンティオキアでも、エルサレムでも、ガラテアでも、コリントでも)。誰かからの指示も受けないで独自に伝道した(パウロも、バルナバも、ヨハネも、マルコも、シラスも、ステファノも、フィリポも)。
「統治体」や中央集権といった概念の話になると、使徒行伝にはその根拠が見出せない。
パウロは大祭司のところに行き、キリスト・イエスの名を呼び求め始めたユダヤ人の信徒を捕らえる権限を与えるように頼み、それをダマスカスの大会堂に送るように依頼している。パウロは一度たりともエルサレムの誰かあるいはほかの地の誰かに依頼していない(使徒9章)。
パウロは回心して以来、エルサレムの兄弟たちに連絡をしていないし「異邦人の使徒」の権限を与えてくれるようにとも頼んでいない(使徒9:15、ローマ11:13)。使徒9:25の事件から3年後にパウロはエルサレムに着いた(使徒9:26、ガラテア1:17-19)。その間、エルサレムの誰一人とも交渉もしていない。
キリストは一度なりともパウロに対しエルサレムに行けとは指示していない。パウロが居たエルサレムに戻るのではなく、諸国民や王たちにイエスの名を運ぶためにパウロを送り出した(使徒9:15)。そしてアナニアを介してアンティオキアに行くようにとパウロに指示した。パウロはエルサレムに根拠地を置く「統治体」らしきものがあったとしても、明らかにそれとは無縁であった(使徒9:1-17、22:5-16)。
アンティオキアに選ばれた者を送るとの使徒15章の決定は@使徒A年長者たち、B全会衆が決めた(使徒15:22)。「少数の男子」が決めたものではなく、大勢の人たちが「全会衆」とともに決めた。これは「全会衆」が解決策に同意したことを意味する。
使徒行伝15章の会議は割礼という特定の問題の解決を目的にした、一度限りの会議だったし、新約聖書にはこのような会議はこれ以外には見つからない。
統治体成員だったレイモンド・フランズは前記、「ものみの塔」1990/3/15の記事を次のように評していた。
クリスチャン会衆がエルサレムやユダヤを越えて広がった後、そうした統治体が一世紀のすべての会衆にエルサレムから命令を発し、中央集権化された権威として組織的に運営された主張している。統治体が一世紀のすべての会衆にエルサレムから命令を発し、中央集権化された権威として組織的に運営されたというものみの塔の主張は、聖書の歴史にも、宗教の歴史にも、主張を裏付ける証拠は発見できなかった。「ものみの塔」誌があっさりと言及している「豊富な証拠」は、そこには存在しなかった。ガラテアへの手紙に書かれた、使徒パウロのするどい、力強いことばから、全地球的規模で全会衆の活動にとって、エルサレムが神から定められた行政の中心部であるとは考えていなかったのは間違いない。そうしたキリストが定めた「統治体」が存在していたとしたら、パウロは回心の後、即座にその指導と命令を素直に求めて、エルサレムと接触していたはずだ。特に「異邦人のための使徒」になるべく、キリストから重い責任を授与されていたからなおさらだ(使徒行伝 9:15、ローマ 11:13)。もし、そうした「統治体」が存在したなら、パウロはきっとエルサレムの成員と働きを調和させるよう配慮をしたはずだ。パウロがキリストの定めた「統治体」と調整をしないで活動したり、その指令に従わないなら、重大な「神権秩序の規律違反」になる。
しかし、キリストはパウロにエルサレムに赴くようにとは、一言も言っていない。キリストは、エルサレムへ戻らせるどころか、パウロが来たエルサレムからダマスコに送り出した。ダマスコの居住者、アナニスを介してダマスコに行くよう、パウロに指示を与えた。「統治体」の成員のいるエルサレムを介してではない。ガラテアへの手紙の冒頭から、パウロの使徒としての資格も霊的指図も、人から発するものではなく、人を通してではなく(特にエルサレムの使徒たちをふくめた)、人からのものではないと、大きな苦労をしながらも明確にしていた(ガラテア 11:10、11)。パウロは回心の後、次のように語って、人間の権威の座には戻らなかった事実を強調した。血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。(ガラテア 1:16、17)
それから三年間、パウロはエルサレルムには出向かなかった。特に、その後、彼が会った者は、ペテロとヤコブだけであり、15日間滞在してもその他の使徒はいなかったと書いている。彼は「統治体」が監督する、毎日のある種の会合で指示を仰ぐための「本部の会議」には出なかった。どのくらい深刻に問題を捕らえていたかだけは、「神のみ前で断言しますが、うそをついているのではありません」(ガラテア 1:18、20)ということばから分かる(「クリスチャンの自由を求めて」P.43-)。
さらに「統治体」の会議でフレデリック・フランズは下記のように論じていたのに統治体成員は聖書に基づかないで理解していたと指摘している。
エルサレムの幹部長老団という過去の出来事は(使徒行伝15章に書かれている)どこにでもいるクリスチャンの全てを総括する権威を有している統治体の存在証明とはならないとフレデリックは明確に示している。フレデリックはアンチオケアがエルサレムに相談したり、その承認を受けずに活動したから、会社「ものみの塔」とその会長は、統治体に相談したり、その承認を受けずに活動できると論じた…… 私は、取り上げられた聖書的な根拠の意義深さを多くの統治体成員は認めていたのだろうか、心の底から疑っている。そのあと、統治体成員たちの話しを聞いてみても、すべての会衆とそれを形成するクリスチャンを完璧なまでに管理する統治体の概念全体を副会長が実際に覆した点について、成員たちがはっきり理解していないことは明らかである。今やものみの塔会長になったデレデリック・フランズがはっきりと話しの中で論じた立場は棚上げされ、捨てられてしまった。聖書上の根拠から反証されたわけではない。協会が決めた道筋と聖書がそれほど適合していないだけだ。聖書的な根拠は曲げる必要があるし、権力者が決めたものと一致しなければならない。(「クリスチャンの自由を求めて」P.47-48)。
上記の記述でも分かる通り「統治体」の概念は統治成員がよく聖書を理解しないで人間の想像に基づいて作られたフェイク(僭称者)であり、聖書的であるとは到底、言えない。