愛する人をものみの塔から救出する方法

ディビッド・リード氏の著作 "How to rescue your loved one from the Watch Tower "の 著作権者からその著作の一部につき、当サイトでの公開が許可されました。


4章 効果的なテクニック

 ヘンリーの場合について考えてみよう。
 ヘンリーは、妻がすでにエホバの証人に深く関わっており、しかももうじきパプテスマを受けて正式 の信者になることを知って、ものみの塔の組織や教義への反証を集め始めた。一ヶ月精いっぱい頑 張った結果、本6冊、カセットテープ12本、トラクト24冊が集まり、メモも100ページたまった。あとは妻に見せるだけだ。妻がそろそろ火曜の夜の聖書研究集会から帰ってくるというころ、ヘ ンリーは、集めた資料を全部かき集めて、玄間を入ってすぐの階段の途中で待ち構えた。妻がドアの 鍵を開ける音が聞こえたとたんに、ヘンリーは資料をぜんぶ両手に抱えた。そして、妻が家に入って きてヘンリーの方をむいたとたんに、ヘンリーははっしとばかりに資料を投げつけた。本やテープが 妻に向かって雨あられと降り注ぎ、そのあとからメモの紙とトラクトがばさばさと降りかかった。 ヘンリーは、「さあ、見ろよ!ものみの塔は、でたらめだ、でたらめだ、でたらめなんだぞ!」と 叫ぶと、妻は大急ぎで車にかけ戻って行ってしまった。
 長老たちが王国会館に鍵をかけて帰って行ってしまう直前に、妻はなんとか間に合って、夫の「よ こしまな迫害」を逃れたいのでどこか泊まるところを世話してください、と頼んだ。

 ヘンリーのこの事件は架空の話だが、実際によくある事例からそれほどかけはなれてはいない。友人 や家族は、本やテープを本当に投げつけたりはしないだろうが、やっきになるあまり、事実や、数字 や、引用や、聖句を、どっと矢継ざ早に信者に浴びせてしまうことが多いのだ。

 救出する側にとっては、いろいろな情報を消化するのになんの抵抗もない。ひとつひとつが、自分 の主張したいことを支持したり、強めたりするものなのだから。しかし、エホバの証人にとってみれ ば、ひとつひとつがショッキングな晴天の霹靂で、大切な信仰を揺るがす恐ろしい脅威にしか見えな い。「独立的な考え」(訳注:自分の頭で批判的に考えることを指すものみの塔的表現)に慣れてい ないエホバの証人にとっては、たったひとつの新しい情報でも、受け入れるのがむずかしい。まして や、いちどきにどっとつきつけられたらたまったものではない。急激になにもかも一度に飲み込ませ ようとしたりすれば、エホバの証人にとつては、信仰を押し流され、宇宙全体を崩壊させられるよう な恐怖に直面することになる。

 カルトのメンバーならばともかく、ふつうの人が一度に消化できる情報量には限りがある。入ってく る情報が、すでに頭に入っている情報と合わなかったり、矛盾していたりすれば、処理できる情報量 はさらに限られる。新たな情報を、分析し、すべての角度から検討し、矛盾するデータのうちで、ど れをとっておき、どれを捨てるべきか決めるには時間が必要だ。特に、よそから他人が情報を与えよ うとする時は、決して無理にせかしてはならない。

 庭が千乾びて死にそうなときは、いきなりどっと雨が降ったら、かえってひどいことになってしま う。どしゃぶりの雨は、土をうるおさずに流れていってしまい、表土を削り、せっかく植えた種まで さらって行く。乾ききった土をうるおすのに必要なのは、穏やかな雨だ。それも、はじめのうちはほ んの小雨がよい。長期間に、繰り返し降ってくる穏やかな雨がよい、と、庭師はだれでも知ってい る。

 親友や家族がカルトの餌食になったら、誰だって、一刻も早く救い出したくなるのは当然だ。すぐさ ま断固たる行動をとりたい、手持ちの証拠を何もかも、一気に突き付けたいという誘惑にかられてい てもたってもいられないことだろう。たしかに、被害者がカルトと関わり始めたごく初期のうちなら ば、そうするのが一番だ。これ以上深入りさせることなく、きっぱリカルトと手を切らせるのには、 こういう劇的なやりかたが最適だ。しかし、もうすでにかなりはまってしまっている人に対しては、 この方法はお勧めできない。被害者はあなたの説得におびえて、あなたから逃げ出し、恐れや不安を いやそうとしてかえってカルトの方へ行ってしまうだろうからだ。

 カルトからの救出は、歯を抜くのとはちがうのだ。人をカルトから引き抜くのは時間が必要なことを 肝に銘じておかねばならない。時間をかけて徐々に実行できるテクニックが必要だ。

 時間をじっくりかけること以外にも、エホバの証人の救出に大切なことがひとつある。それは、あか らさまにものみの塔から救出したいと言ってはならないということだ。ものみの塔は、信者に対し て、必ず誰かがものみの塔の信仰を捨てさせようとするだろうと警告し、誰であれそのような者を避けるように教えている。前にも述べたが、ものみの塔では、悪魔サタンが友人や家族を使って「聖書 を調べるのをやめさせようと」するだろうと、家庭聖書研究のごく初期から教えている。 (「あなた は地上の楽国で永遠に生きられます」22−23頁)だから、エホバの証人との聖書研究をやめさせよ うとすれば、(1)あなた自身がエホバの証人の「預言」を実現したことになり、エホバの証人をあ たかもほんとうの預言者であるかのように見せることになってしまう。(2)あなたは、悪魔サタン に支配された、神に対する敵対者と見なされるようになる。ものみの塔では、友人や家族の説得の効 果をなくすために、このような考えを意図的に信者に植え付けているのだ。

 ものみの塔に反対するものは悪魔の手先だ、という考えが、1冊目の本の第二章ですでに植え付けら れるのだ。ましてや、何十冊の本、何百冊の雑誌、そのうえ毎週5時間の集会で、何年もかけて教え 込まれた信者だったらどうだろう。あなたの後ろにサタンが立っていて、あなたを操り、あなたの声 でしゃべっているのが、目の当たりに見えるように感じられても不思議ではない。

 放火魔が建物に火をつけて、物や人に被害が出たというような事件が、よくニュースでも報道され る。放火された建物の中にいた人々は、たいていは、火災報知器のベルや、近所の人の叫び声に気が ついて、無事に逃げられることが多い。しかし、ここで、もっとずるがしこい放火魔がいたらどうな るか考えてみて欲しいのだ。きちんと背広を着て、ホテルとかマンションのドアをひとつひとつ、穏やかにノックして、こう言うのだ……「ライフル魔がうろついていますから、絶対外へ出ないでくだ さい。ライブル魔の手口は、まず火災報知器を鳴らしておいて、廊下やベランダに人が出てきたとこ ろを撃つのです。ですから、何が聞こえても、絶対にドアを開けないように。撃たれるといけません からね。」そして、放火して、立ち去る。火災報知器が鳴り出すが、人々はドアを閉めきって、出て こない。たまたま非番の消防士が煙を見つけて、消防車が来る前に建物に入る。消防士はドアをバン バン叩いて、「火事です !避難してください!」と叫ぶが、中の人は、じっとだまっているか、 「あっちへ行け!」とどなるだけだ。警官もやってきて、窓からこどもの姿が見える家のドアを蹴って開ける。ところが、家族を守ろうとしてあせった父親が、ドアに向かってライフルを発射する。警 官も、自分の身を守ろうとして撃ちかえす。すると、逃げた方がいいかもしれないと思い始めていた 人たちも、やっぱり絶対外には出ない方がいいと思い込んでしまう。さっきの男の警告は本当だった んだ。ほんとうにライフル魔がいるんだ。あの銃声がそうだったんだ。

 友人や家族をものみの塔から救い出そうとしている人は、人々を火事から救おうとして救えない消防 士や警官と同じ状況にいる。懸命に助けようとすればするほど、信者はかたくなになり、なんとかし て救出したいと頑張れば頑張るほど、信者はますますサタンに迫害されていると信じ込んでしまう。 だから、エホバの証人に対して、ものみの塔から脱会させるのが目的だと言ってはならない。もし言 えば、あらゆる努力が無駄になる。

 悪魔が友人や家族を使って信仰の妨害をするだろうとすでに教えられてはいるが、まだエホバの証人 と一緒に聖書研究を始めて日が浅い信者に対しては、次のように言ってみるとよいだろう。

 神様について知りたい、神のご意志を行いたいと、あなたが真剣に考えているのはすごくいいこ とだと思うし、わたしだって、同じ気持ちでいる。もちろん、特定の宗教に入信するのは、重大 なことだから、重大な決心をする前に、わたしだったら絶対の確信を持ちたいと思ってる。それ で、わたしもエホバの証人のことを調べてみた。両方の側面をね。つまり、エホバの証人には、 いい点もいろいろあるけれども、組織の歴史を見てみると、気をつけたほうがいいんじゃないか と思うようなところもあるんだ。エホバの証人の話を聞いているといいことづくめみたいだけれ ど、どうも物事の片面しか言ってないんじゃないかと思うんだ。それに、ものみの塔をやめた人 が書いたものは一切読んじゃいけないって教えているところを見ると、何か隠しているとおもわ れてもしかたがないと思うんだ。実はね、この本(テープ)でおもしろい情報を見つけたんだ。 ほら、これだよ。あなたも読んでみたいと(聞いてみたいと)思わない? ものみの塔からの情 報以外一切何も聞くなと言われてそれを鵜呑みにするほど深入りしないうちに、事実を全部知っ ておきたいと思わないかい?

 このようなアプローチは、エホバの証人と聖書研究を始めたばかりの初心者にはたぶん効果があるだ ろう。しかし、もうすっかり信じ込んでパプテスマをうけた信者や、長期間ものみの塔の教えを叩き 込まれた信者には効き目がない。以下のような警告をさんざん吹き込まれているからだ。

 自分自身の反対意見を押し出そうとする人には用心しなければなりません。(「ものみの塔」1986/3/15 P.17)

 あなたは、エホバの組織に対する厳しい批判に耳を傾けないようにしますか。耳を傾けてはなりません。(「ものみの塔」1984/10/1 P.28)  

 独立的考えを避けなさい。

 ………こうした独立的な考え方はどのように表わされていますか。ごく一般に見られるのは、目に見える神の組織が与える助言を疑問視することです。(「ものみの塔」1983/4/15 P.22)  

 独立的考えとの闘い。

 ………西暦1世紀に真のキリスト教の組織が一つしかなかったように、今日でもエホバは一つの組織だけを用いておられます、(エフェソ4−4と 、5、マタイ24:45−47)それでも一部の人々は、この組織がこれまで幾つかの調整を行ってきたことを指摘し、「この点からすると、私たちは何を信じるべきかについて自分で決定しなければならない」と論じます。これは独立的考えです。この考え方が非常に危険なのはなぜですか。この考えは誇りの証です。(「ものみの塔」1983/4/15 P.27)

 エホバの証人は、これらが神の命令だと信じているので、他の宗教の信者を訪問して伝道し、ものみ の塔の本や雑誌を配ろうとするが、他の宗教の伝道には一切耳を貸さないし、本や雑誌を受け取ろう ともしない。だから、「物事の別の側面」を聞かせようとしても無駄だ。ものみの塔の教えに反する ことに実際に耳を傾けることばかりではなく、耳を傾けようと思うだけでも悪いと真剣に信じている ので、「物事の別の側面」など聞きたいと思うはずがない。 (たとえ、批判的意見に耳を傾けるのが 悪だとは内心では信じていなくても、審理委員会の懲戒がこわいし、掟に反する行動を見つかると家 族や友人から切り離されてしまうのが恐ろしくて何もできない。)

 それでは、こうまでがっちり囲い込まれた信者に、どのようにして新しい情報に触れさせたらいいの だろうか? 一番効果的な方法は、エホバの証人があなたに伝道しようとするのを逆手に取ること だ。エホバの証人は、あなたに伝道されていると思ったら警戒して逃げてしまうような話題であって も、自分があなたに伝道しているつもりなら逃げないでのってくる。エホバの証人に対して、いかに して適切な質問をするかが鍵なのである。

 たとえば、ものみの塔の創立者のチャールズ・テイズ・ラッセルが、エジプトのピラミッドについ て、聖書と同じように神の霊によつて造られたものだと信じていたとか、ラッセルの偽預言のいくつ かはピラミッドの各部の寸法を計算して割り出したという事実について、あなたがエホバの証人に対 して強硬に論じたとしよう。すると、エホバの証人はあなたを敵対者とみなし、あなたが証拠書類を 見せようとしても拒否するのは確実だ。ところが、もしあなたがエホバの証人の生徒の立場で、たま たまそういう資料を見つけたのでそれについて質問したいと言ったら、エホバの証人としては、伝道 者としてあなたの理解を助ける義務を感じるだろう。こちらが証拠書類を突きつけて、エホバの証人 の信仰に挑み、論破しようという態度に出れば、エホバの証人はそんな書類など見ようともしないだ ろうが、自分の生徒の理解を助けるためとあらば、その資料を自分の目で見て読まなければならなく なる。

 だから、ものみの塔が長年行ってきたたくさんの偽預言や、描の目のように教義が変わってきたこ と、ワクチンや臓器移植を禁じていたのに後には態度を変えたこと、その他聖書には書かれていない 奇妙な教義について質問しよう。どうしても納得のいかないいろいろの教義について聞いてみよう。 そうすれば、そのうちに、エホバの証人自身、自分がほんとうに「神の組織」にいるのかどうか疑問 がわいてくるはずだ。エホバの証人の信仰をゆるがすための反論としてかかげたら、信者は讐戒して 殻に開じこもってしまうが、感情的にならずに、善意の質問として示し、答を教えて欲しいと頼め ば、信者は、知らず知らずのうちに、とうてい無視できない、圧倒的に説得力のある証拠に直面しな ければならなくなる。

 偽預言などの、外間をはばかるものみの塔の秘密のほかにも、聖書についての論点を質問の形で持ち 出すことができる。聖句のリストを作つて、「これについて『教えて』ください」と言ってみてもい いし、 「あなたの意見を聞きたいんです」といってもいいだろう。要は、信者に反対したり、信仰を すてさせようとしたり、やりこめようとしたり、あなた自身の聖句の解釈を押し付けるような態度を 厳に慎むことである。

 たとえば、ヨハネ20:28を示して、「ほらごらん。使徒トマスはイエスを『わたしの主、わたしの 神!』と呼んでいるじゃないか。これはイエスが神だという証明だよ!」とは言わないで、そのかわ りに、信者にその部分を読んで説明してもらうほうがずっと効果がある。信者の説明がピントはずれ だったら、うまく質問して誘導しよう。たとえば、信者は次のように説明してトマスの言葉の意味を 骨抜きにしようとするかもしれない……「これは、イエスが復活したのを見て、おどろいてこういう 言い方をしたんです。びっくりしたとき、『ああ、神様!』って言うじゃありませんか。トマスは文 字どおりの意味で神って言ったわけじゃありませんよ。」そういう場合は、イエスの答は何を言おう としているのか聞いてみよう……「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いであ る。(ヨハネ20:29、新共同訳)。 トマスは何を信じたのか、 トマスの言葉は、 トマスが信じているこ とをどう表しているのか、もしもトマスが「主」や「神」という言葉を驚きの表現として使ったとし たら、涜聖にはならないのか、もしなるとすればイエスはトマスを叱るはずではないのか、なぜイエ スはトマスをほめたのか。トマスが告白したどのような信仰が、将来同じ事を信じる人に祝福をもた らすのだろうか、もしどこかのエホバの証人の王国会館に行って、そこの長老たちにむかって、わた しがイエスを「わたしの主、わたしの神」として受け入れると言ったら、長老たちはわたしの信仰を ほめてくれるだろうか、などの質問をするとよい。

 これらの質問の目的はふたつある。第一に、聖書がもとの文脈の中で実際には何を述べているかをエ ホバの証人に理解させること。第二は、聖句の意味することについて、ものみの塔の指導者から教え 込まれたお仕着せの解釈とはちがう解釈に目を開かせること。

 この聖句の意味はこうだよ、と教えこもうとしても、もう一つのお仕着せの解釈を押し付けることに しかならない。信者は、ものみの塔のお仕着せか、あなたのお仕着せか、二つに一つを選ぶことがで きるだけだ。一方、適切な質問によつて、信者が自分の頭で考えて、自分で正しい結論に到達できれ ば、あなたがおなじ結論を押し付ける場合よりはるかに効果が大きい。

 信者が自分で正しい答を出せるように、適切な質問をする方法は、イエス・キリストにならって身に つけることができる。イエスは、地上でもっとも偉大な教師であり、質問を通じて教え導く名人だった。イエスが罪を許す権能を持っているのかどうか疑っている人々に対して、イエスはこう言った………「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、 『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、ど ちらが易しいか。」カエサルヘの税をおさめるべきかどうかをたずねて罠にかけようとした敵に対し ては、銀貨を持ってこさせて、このように言った……「これはだれの肖像か、またこの銘は」 (マル コ12:16、フランシスコ会訳)安息日の癒しに反対するファリサイ派に対しては、「あなたたちの中 に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいる だろうか。」(ルカ14:5、新共同訳)どの例でも、聞き手は、心の中では、強力で疑問の余地のな い、正しい答を認めざるをえなかった。

 エホバの証人は他からの教えを受け付けないようにマインドコントロールされており、こちらが質問 して教えを乞うのでなければ対話が成立しないので、質問を通じて間接的に教える方法が効果的であ るわけだが、たとえそうでなくても、もともとこの方法は、教える手段として、直接答を教え込むよ りずっと強力なものなのである。人から与えられた答より、自分で考えてたどり着いた答の方が、心 にずっと深く刻まれるものなのだ。小学校の教師は、このことをよく知っているので、授業でこの方 法をよく使う。エホバの証人に対しても同じようにできる。たとえば、ものみの塔の教義とは反対に イエスは体ごと復活したのだ、と主張しても、エホバの証人に対してほとんど効果がないだろうが、 ヨハネ2:19-21の「『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』……イエスの言われる神殿 とは、ご自分の体のことだったのである。」という節を読ませ、「イエスはご自分の体に何が起こる とおっしゃったのでしようね?」と聞けば、エホバの証人は、たとえ答を口に出す勇気がなくても、 心の中では正しい答に直面しないわけにはいかない。

 妻がエホバの証人になって、ずっと教義のことで夫婦で論争していたある男性は、このテクニックに ついて説明を聞いてこう言った……エホバの証人の鼻先でちっちっちと指を振るかわりに、頭の中 で振れさせるようなものですね。

 議論の中で聖句を突きつけられるのではなく、質問を通じて聖句を示されたとき、信者の頭の中で振 れる指は、他でもない、信者自身の良心だ。心の底では、何が正しいのか気がつかないわけにはいか ないのだ。……「彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、 同じことを示しています。」(ローマ2:15、新共同訳)

 この段階では、エホバの証人自身の良心の働きを信じて見守ることが大切だ。たとえ信者がものみの 塔への疑間をおそるおそる口に出すようになっても、大げさにそうだそうだと騒いではならない。信 者の疑間に賛成するのはかまわないが、「だから言ったじゃないか」式の態度は絶対にいけない。信 者は反発して、せっかく開きかけた心を閉ざしてしまう。


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