「また仰せられた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て, なお生きている ことはできないからである』」。エホバの証人は, こう言うかもしれない。「人々は, イエス・キリストを見たのだから, イエスは, 恐らく神であるはずがない」。しかし, その理論には欠点がある。「ことばは人となって, 私たちの 間に住まわれた」後だけ, 人々がイエス・キリストを見た事実を無視している。ごく自然にイエスを 見ることができた。しかし, モーセの時代に出エジプト記 22:30のみことばが発せられた時, イエス・ キリストは「神の御姿」(ピリピ 2:6)であり, 人間には見えなかった。後にイエスが「仕える者の 姿をとり, 人間と同じようになられた」時, 違った形態を取られた。ヨハネ 1:18の項も見なさい。
箴言 4:18
「義人の道は, あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」新世界訳では, この箇所をこう読む。「しかし, 義なる者たちの道筋は, 日が堅く立てられるまで いよいよ明るさを増してゆく輝く光のようだ」。証人は, 何年にも渉る教団の数多くの教義変更を 正当化するため, この聖句を使うように教えられる。
今日のバプテスト派やルター派は100年前のバプテスト派やルター派と同じ信仰を受けているから
といって, 伝統的なクリスチャンは本当は暗黒にいるのか。私達が神からの‘新しい光’を見逃して
いるからといって, 私達は暗黒にいるのか。それが本当に箴言 4:18が言っていることか。全くそんな
ことはない。イエス・キリストは「すべての人を照らすそのまことの光」である(ヨハネ 1:9)。
キリストに来る者は光の中にいる。それよりも輝く光はどこにあるのか。箴言 4:18の文脈は,
「悪者どもの道」14節)と義なる者の輝きを増す光と対照をなす。「悪者の道は暗やみのようだ。
彼らは何につまずくかを知らない」(19節)。義なる者が, 真っ直ぐにする為の‘新しい光’を受
ける迄邪悪な指示に躓くことを表わしていない。もし, 「新しい光」が古い教えに矛盾するなら,
‘古い光’は実際には, 暗やみだったはずである。ものみの塔教団が, まだ幼児期にあって, 独自の教義
につぎあてをあて始めるまでには, まだだいぶ時間があったとき, 創始者C・T・ラッセルは, 後に
離れることになるアドベンティスト派の一つの流れとしての際立つ実践を指摘した。彼は明言している。
「私達がある人に疑いも持たずに従うなら, 私達と違ってくるだろう。疑いなく, 人間の考えは他とは
矛盾するだろうし, 一年か二年か六年前には正しかったものが今や暗やみと関係するだろう。しかし,
神と共にいれば, 移り変わりはなく, 変化する陰もない。そして真理とともにある。神から来る知識も
光も, その作者に似るに違いない。
新しい真理の考えは、決して前の真理と矛盾しないだろう。『新しい光』は決してそれ以前の『光』を
消さずに, 付け加えるのである。」(『シオンのものみの塔』1881年2月3頁)。
しかし, 時代が進むと, ラッセルの新しい教団は, 以前のものみの塔の教えと矛盾する‘新しい真理’を
紹介することによって, あの特徴的なパターンの中に堕落した。しかし, 箴言 4:18のエホバの証人の
誤用に反対する最も確かな証拠は, 恐らく以前に否定した考え方に何度も戻る組織の中に見つかる。
たとえばローマ 13:1「上位の権威」は, まず政府と教えられ, その後, これを偽りの教義として否定し, 「上位の権威」を神とキリストである とした。更に後になって, この世の政府と再定義した。その活発な信者に対し, その全員が「聖職者」 であると組織が教え, そしてこれを1970年代半ばに否定し, それに代わり, 油そそがれた指導者だけが 聖職者だと教え, 1980年代初期に活発なエホバの証人は, 聖職者だと宣言して回復させた。行ったり 来たりの同じ様な変更は, マタイ 24:45の「忠実で思慮深い奴隷」の同定に関する教団の教義の中にも 起こった。初めにその「奴隷」は, 集団的なクリスチャン会衆だと言われ, そしてC・T・ラッセル個人 になり, 後に再び集合的な会衆全体となった。とんぼ返りをする, 行ったり来たりのものみの塔の教え は, ソドムの人々が復活するかどうかの問題がもっと徹底している。1879年, 公式に肯定し1952年に 否定し, 1965年に再び肯定し, さらにもう一度, 1988年に否定した。(「Watchtower」 1879年7月8頁, 1952年6月1日338頁英文,1965年8月1日479頁英文,1988年6月1日31頁 )。これらの各号で「ますます 光が増す」のではなく, エホバの証人の光は, 点滅を繰り返してきた(前方の危険な交通を警告する 高速道路の信号灯のようだ)。実際, すべての人は, ものみの塔の道が「義なる人の道」(箴言 4:18) ではないとする警告を選ぶだろう。滅びに至る広い道の数多くの通行車線の一つにもっとよく似ている。 (マタイ 7:13)。エホバの証人組織が数年にわたって経験した数多くの教義の変更は, 実際に聖書に 述べられている。それは, 箴言 4:18ではない。新世界訳の適切な聖句はエペソ 4:14である。 「人の悪巧みや, 人を欺く悪賢い策略により, 教えの風に吹き回されたり, 波に持てあそばれたり することがなく」, 或いは, リビング・バイブルにあるわかりやすいことばで言い替えると, 「そこで, もはや, 間違ったことを教えられたり, うそを真実のように, たくみに見せかけられたり しても, そのたびに, 子供みたいにふらふらと, 信じるものを変えてはいけません。」
箴言 8:22-31
「主は, その働きを始める前から, そのみわざの初めから, わたしを得ておられた。大昔から, 初めから, 大地の始まりから, わたしは立てられた。深淵もまだなく, 水のみなぎる源もなかった とき, わたしはすでに生まれていた。山が立てられる前に, 丘より先に, わたしはすでに生まれて いた。神がまだ地も野原も, この世の最初のちりも造られなかったときに。神が天を堅く立て, 深淵の面に円を描かれたとき, わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め, 深淵の源を堅く定め, 海にその境界を置き, 水がその境を越えないようにし, 地の基を定められたとき, わたしは神のかたわらで, これを 組み立てる者であった。わたしは毎日喜び, いつも御前で楽しみ, 神の地, この世界で楽しみ, 人の子らを喜んだ。」証人の新世界訳は, こう言いたい為に22節をこう翻訳する。「エホバ自身が, 彼の道筋の初めとして 昔の偉業の最初[として] わたしを産み出された」。エホバの証人は, 人間になる前のイエス・ キリストに当てはめてこれを解釈する‥‥イエスが神ではなく, 最初の御使いとして神によって 「造られた」か, 或いは創造された。しかし, 箴言 8:1から9:12で語っている「私」は「知恵」と 同定されており, 他の多くの翻訳は女性形の代名詞が用いられている事実を反映している。8:1では, 知恵は彼女の声を発し, 8:2では彼女は四つ角に立ち, 8:3では彼女が叫ぶ。9:1では彼女の家 を建て, 9:2では彼女の食卓を整えた。イエス・キリストが意図されていたかどうか, 期待できる ことばは一つもない。おまけに, 最も良い翻訳は, 神が初めから知恵を「持っていた」と言って いる欽定訳聖書に同意する。事実, 神がそれを造ったか, 或いは「創造した」ということは, 論理的ではない。全能の神は, 知恵が欠いていた時に先行する時を暗示しているからである。 イザヤ 44:24, コロサイ 1:16の項も見なさい。
イザヤ 44:24
「あなたを贖い, あなたを母の胎内にいる時から形造った方, 主はこう仰せられる。『わたしは 万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし, ただ, わたしだけで, 地を押し広げた。」特に, この聖句は, エホバの証人の神学に反論するのに有益である。証人はキリストは天使ミカエルの 受肉だと信じている。「力においても権威においても主要なみ使いは, み使いの頭である イエス・キリストで, ミカエルとも呼ばれます。(『ものみの塔』1995年11月1日号8頁 )。 恐らく, 神が創造した最初の天使の存在は, 神の子のようであった。
ダニエル 7:13-14
「私がまた, 夜の幻を見ていると, 見よ, 人の子のような方が天の雲に乗ってこられ, 年を経た方 のもとに進み, その前に導かれた。この方に, 主権と栄光と国が与えられ, 諸民, 諸国, 諸国語の 者たちがことごとく, 彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で, 過ぎ去ることがなく, その国は滅びることがない。」「キリストは, 神ではありません」。ものみの塔の信者は, この文章を読んだ後に喜び勇んで断言 することだろう。「エホバ神は『永遠の神』であり, イエスは主権と光栄と国を受け, 神の前に進む人 の「御子」である。神は神自身の近くに来れないのだから, キリストは神ではありません」。