第9章 

証人の生き方

 ほとんどの証人が抱えている問題は、生きている間、常につきまとっている要求や情動、自制心である。最低、週に5回の集会に出席するほか(もし自発的にやるなら、ほかに何時間か追加される)、個人的な研究、偶然起きる証し及び戸別伝道や再訪問への参加が求められ、聖書研究が求められる。足りなければたいていほかの証人から組織的な圧力が加わる。極端に不足すると長老の訪問が待っている。週に3回から4回の王国会館への出席するために移動する時間は相当考えないといけない。もし場所が遠ければ田舎に住んでいる者には、週に4時間以上の時間が必要となる。
 入信して間もない信者には、参加するようにと極端なまでに求められる。それはこの組織の特徴となった。たとえば、証人を辞める前に20年以上、活動家であった人が書いた次の文章に注目してみよう。

 私がとても活発な証人として生きていたとき以来、特定の生き方を学んだ。いつもいつも、とても忙しかった。いつも自分は何のためにこうしているんだろうと目的を自問していた。証人はとても目標を持って働いており、意識して自分の時間をすべて利用する。少なくとも私はそうだった。すべての集会に規則的に出席するなら週に10時間から12時間必要となる(週に5時間。往復の時間と終わってから義務となっている交わりの時間を含む)。ほかに週に5時間の準備の時間が必要だった。また別に奉仕が週に6時間、合計12時間、必要だった。わたしの会衆は労働や勉強にベストを尽くすように力説した。それは家業や家事などの仕事を勤勉にこなすことを意味していた。
 これを全部やると自分に残された時間は少ない。スポーツやレクレーションの時間は抑えるよう強く迫られた(少なくとも規則的な参加はだめだ)。私はレジャーにも、読書にも時間を割かないようにした。映画はたまに見るだけ。テレビさえ見なかった。そして証人を辞めるととてつもない真空の時間ができた。前にあったような強力な指示や目的はもはやそこになかった。今では別の活動に参加しなければならなかった。そして同じようにした。正気を保つなら、今でも一日のほとんどを、忙しくしていないといけないことが分かった。さもないと目標を無くし、無力感などを感じ始める。私が証人になったとき持っていた生きがいをほかで見つけるのは困難であった。

 上に挙げたように、組織を離れた証人が抱える深刻な問題は、新しい一定の目標に向かって行くのが困難だと大半の者が認識していることだ。その多くはものみの塔にいたときに非証人的な目標をわずかにしか発展させなかった結果として、低い程度の動機付けしか持たない。現役の証人はその生活全部が組織への勧誘活動と組織の目標達成の試行錯誤に向けられている。いったん組織を辞めると、それらの目標はすべて消えてしまう。その結果、元証人はたいてい、人生における目標が無いことにとまどいを覚える。たいていは何ヶ月あるいは何年も何にも手が付かなくなる。生きるために何をするか、価値のある活動に自ら参加したいのに難しさを覚える。若いときには人生の目標が形成される。証人として育てられる者は、成長の重大な期間に非常に程度が高く成長する可能性はない。後になってからの新たな目標の形成は非常に難しい。  
 一方、現役の頃は、ものみの塔の中での証人の熱狂的な活動は基本的に決して新しいものではなかった。いつもしなければならない研究があり、読まないといけない雑誌があり、出席すべき集会があり、しなければならない「再訪問」がある。目標を完成させる予定表を停止したり考え直したりすると、こうするようにと、継続的なプレッシャーが上から加わる。いつまでも目標に達しないから、活動は浮き沈みがいつもある。しかし、その通りにやってもごくわずかの報酬しかない。たとえば作家は継続的に働き、いつもある仕事にいそしんでいる。いつかは仕事を完成し、最終製品を手にする。ほかの本の仕事に取り組んでいるとしても、その作家はとりあえず、くつろいで労働の報酬を味わえる。それが短い記事だろうと、本であろうと、雑誌の中の簡単な注釈であろうと、労働の果実は実体のある製品に結実している。ものを書くにはいくつかの違った段階がある。調査、データの収集、背景となる資料の読み込み、聞き取り調査、執筆、ゲラ刷りの校正、ネーミング……これらの段階を踏んで達成感が生まれ、進歩と変化の感覚が生まれる。
 しかしたいていの証人にはこうした感覚が全くない。証人が浸っている活動は実際はかなりうんざりさせられるものであり、直接の報酬はほとんど与えらない、非常に繰り返しの多いものであるから、潜在的に有害である。どこに行っても、場所が変わっても、年月が過ぎても、同じ概念や同じ考えが聞こえてくる。証人は次から次へと集会に出て、根本的に同じような、オウム返しの考えに耳を傾ける。毎年、毎年、一年に48回、「ものみの塔」と「目ざめよ!」の同じような情報を読む。同じ引用が繰り返し、繰り返し使われる。ふつう証人が一年に12回も耳にする引用が分かりにくく記述してある。「国連は地上における神の王国を政治的に表現した」と言われる。国連は、小さな、現存しない宗教組織であると言う。この記述は「ものみの塔」と「目ざめよ!」にも、集会のスピーチにも引用される。1914年(歴史の分水嶺)、証人(聖書研究生と呼ばれる)は神の側に立ち、すべての教会はサタンの側に立ったと言う。有名な元証人は次のようにして、熱狂的な証人活動の問題を集約する。

 精神衛生に対する協会の態度や精神病医師や心理学者へに対する嫌悪感を考えると、伝道や集会にすべて出席する証人の間に精神衰弱が見られることをどう説明するつもりなのか。私は精神衰弱をきたしている全時間開拓者や巡回して奉仕している大勢の人を知っている。これらの人たちの抱える問題の主要な要因として、狂信的な証人活動への圧力が考えられるというのが私の意見である。兄弟はこうした活動で健康を維持できるとする協会の考えとは反対に、信者を狂気に追い込んでいる(元証人で元長老であるクリス・クリステンソンの手紙1976/9/6)

 非常に活発に野外奉仕をしたり、すべての集会に出席した大勢の証人が、精神的な病気になることは外部の者にも証人内部にも知られている。「ついに彼は重い病気になってしまった。精神衰弱を経験し入院する羽目になった。同じ例を何度も目にしてきた。こんなに多くの伝道活動が精神衰弱の原因と結びついている」と結論を出すかもしれない。しかし上に上げたように、ものみの塔活動へ証人が忙しく働くことだけで重い精神的な問題を引き起こすのではない。「精神衰弱」に結びつくおそれのある要因は多い。内面的な不幸な状態を包み隠すことに過度に注意を払ったかもしれないし、ものみの塔に熱中した後になって証人の信仰の問題を発見し、以前の熱中さを後悔するのかもしれない。関わりが深くなると、活発な証人は組織に都合が悪いことがらを知る機会が必然的に避けられなくなる。失うにしてもかなりの投資をしてきたから、熱く燃えた証人ほど内面的な争いがあるかもしれない。証人は事態が悪いほうにころがるいう恐怖心を認める。関係が浅ければ浅いほど、たいていは傷が浅くて済む。
 確実な事実から不確かな結論にたどり着くまでの一歩は、とてもささいな動作である。ときにはとても分かりにくい。二つの要因が関係すると言っても、一方が他方の原因となるとは限らないからだ。 精神的な機能不全が活発な証人の活動の原動力となるときもあるし、証人の活動に深く関与しているといっても、ほとんどは情動的な不適応を起こさないかもしれない。「原因」として見なした要素が、実際の原因となる要素とはきわめてかけ離れているのが本当かもしれない。精神衰弱になった非常に活動的だった証人にはそれが偶然、全く一致するかもしれない。関係があるかもしれないが、我々の個人的な経験によって十分に証明することはできない。AもBもたいていは別の要素Cの結果である。この一例には、重要な人物(この場合、ほかの証人)を喜ばせようと、劣等感を克服してまで、とても一生懸命に尽くす危険な人物の例がある。狂気の沙汰で対応しても克服できない者は「精神衰弱」を患っているかもしれない。この反応はエゴの欲求に見合う能力がないのが原因である。活発に活動しているからではない。そしてエゴの欲求が活発的な活動の原因となる。それがないと感情的に落ち込む。この研究者の結論によると、この後者の関係は、証人の間ではごく当たり前であり、ものみの塔の報酬の仕組みがこれを妨げているから、証人が活発に活動しているのにも関わらず、正常な自我の欲求が妨げられる。
 前に注記したように、たとえ相当に名声を上げた者であっても、名誉を達成した個人ではなく、「すべて神に帰す」ようにと、協会は証人を励ます。名声を得た証人がけなされるのはよくある話だ。成功をした者が評判を落とされるのは当たり前である。成功は個人の能力の故ではなく、神のおかげだと、常に言われる。逆説的に、証人はほかの証人に感情的な不適応をきたす道具となりうる謙遜さのつまずきを突き出す(「ジョン兄弟! 雑誌を9冊配ったからと言ってでかい顔するんじゃないよ!」)。私生活において成功しないよう邪魔をするのはその枝分かれである。公式なものみの塔活動には、最優先してすべての証人が参加するよう、常に協会は忠告する。証人の活動で成功するかしないかは、神の前において人間として成功するかしないかに密接に関連している。人はものみの塔活動にすべての心を奪われるべきである、証人の活動は証人の唯一の正業であると協会は主張する。たとえ全時間奉仕をしても、世俗の仕事はすべて副業であり、二の次である。
 ものみの塔への奉仕を怠ると、感情的な苦痛を伴う個人的な過失となる。自然の流れとして証人の仕事は、衰退する傾向にある。数千回の戸別訪問の前には聖書研究を始めなければならない。一人の活発な証人となる前には、長い時間をかけて研究を始めていなければならない。1991年、たった30万人(そのほとんどが子どもや友人や親族)がバブテスマを受けるのに約10億時間、証し活動に要したと報告されている。その全員が改宗するとして、一人が証人に改宗するのに3163時間というとてつもない時間が費やされている(1992年年鑑)。人が活発な証人になるとその大部分がドロップアウトする。活発な証人になり、ドロップアウトしない者の大半は、遅かれ早かれ、幻滅を感じる。大部分は付き合い上の理由や家族の問題や個人的な問題でとどまるけれども、その期間はどうあれ、一握りの者だけが、深く関わり、整えられ、献身した証人となる。証人は過失に縛られ、その結果、落胆を覚える。証人の集会での共通の話題は「落胆」の克服である。証人は常に「励まし」と達成することを話し合うように勧められる。証人の口先だけの共通の誉め言葉はいくつかあるが、それが「励まされます」あるいは「できた兄弟ですね」だ。
 この不可避の失敗にはいろんな形の仕打ちが加えられる。落胆を減らすための不可欠な方法は、証人が失敗を予想するよう、条件付けをすることである。大勢の住民が証人の目前で扉をぴしゃりと閉め、耳を貸さないことを証人は予想している。失敗を予想して、多少は失敗へ調整をする。少しでも耳を貸しそうな人と話すために数百回も扉を叩くよう期待されていると学習する者もいる。たいていの人は行儀良く人の話を聞いているけれど、ごく一握りの人だけ興味を示すという事実に調整を学習する者もいる。人は証人との関係を深めないように決心するのだという事実を学ぶだけに新人(いわゆる聖書研究生)と6ヶ月間研究するのだと予想する。多くの聖書研究生がバプテスマを受け、正規に野外奉仕をし、ドロップアウトすることを予想する。それを学習する。証人たちがそれを全部予想して当然だとしても、多くの証人にとって失敗はとても辛いものだと考えさせられる。失敗が予想されても、それでも失敗があり、失望がある。
 報酬や自己満足を得られるいろいろな活動をしないし、それに関心を払わないで証人たちは全人生を一つの目的(ものみの塔への奉仕活動)に投資する。それを神への奉仕と考えている。その活動分野における失敗や失望は悲惨である。証人は唯一の活動(証人活動)に参加するよう強く勧められる。そのほか、趣味(写真や絵画など)は、ひどくけなされる。もしも証人がこうした「世的な仕事」に浸ると、常に「あなたの趣味に時間を取られないよう気を付けなさい」と戒められたり、「趣味に自己本位の努力を傾けるなんて。本当は時間を犠牲にしていると思いませんか」と尋ねられるか、「私なら、自己満足に浸らないで、人々に差し迫った滅びを警戒させ、エホバのために私のすべての時間を捧げるように選びます」と言われる。


一致のために罪を使うのです


 一致させるために用いられる技巧はシンプルだ。証人はものみの塔の命令を守らないと罪を感じさせるように作られている。当然ながら、仕事や家族と証人の活動が重なる時に時間のやりくりができなくなる問題が生じる。その場合、常にものみの塔が優先するのだ。次の会話に注意してみなさい。

トム:この夕方、集会に来てくれますね。
ビル:それがまずいんです。すぐにかたずけないといけない仕事があります。そのために報告書を作っているところなんです。
トム:集会に行かないと言っているんですか。
ビル:ちょっとでも集会を欠かしたことはなかったけれど、今度はこの報告書を仕上げるように迫られているんですよ。
トム:エホバがエホバの民を愛して民のために備えられた霊的な宴会を拒んでいるのですか。
ビル:しかし、私は家族を養っていかないといけない。
トム:エホバは私たちの前に、驚くべき慈愛を示し、私たちが感謝をして食事に与るべく、霊的な宴会を整えられた。あなたは天の父からの愛を大胆にも拒み、エホバが愛を示して民の前に備えられた慈悲深い恵みに代えて、わがままな物質的な仕事を追い求める道を決意をしたと言っているように、私には聞こえる。エホバのもっとも愛する者は、なんてすばらしいことか! ビルよ、あなたにうまく言えない。かし民に対し、また私に対して整えられたエホバの霊的な食物を味わう。エホバが私たちに現した慈悲に背を向けられない。もし私があなたの立場なら、選ぶ道を注意深く考えよう。優先的に肉的な仕事、世俗的な仕事を追い求めると必ずや、エホバの不評を買うだろう。
ビル:もし4時から5時に起きられるなら、仕事をする前にこの報告書を書き終わせられると思います。

 こうした常に変わらない手順を踏んだ会話が、証人個人に感情的な衝突を引き起こす。仕事や家族としての義務に正しい関心を払うことと、さらに自分の良心とものみの塔への「義務」である集会出席をするようにとの他の証人からの圧力……。こうして証人に葛藤が生じる。その両方に十分な時間を割く余裕はほとんどない。
 そうした葛藤からは虚偽の動機が生じる。協会に差し出されたいわゆる、「全知全霊を尽くした」献身が常に証人活動に参加するといった建設的な要望から生じているとは限らない。ある程度までは、罪と恐怖から生じるのだ。圧力から生じる罪の要素とその作用については、次のようにハリソンが描いている。

(ものみの塔本部で生活し、働いていたときには)(いつも)夜になると祈りをしようとしたけれども、(いつも)それができなかった。毎朝5時30分まで祈っていて瞑想に耽る姉妹の注文を所々で目にしていた。そこには、真夜中過ぎの暗い時間に行われる騒ぎを控えなさいと書いてあった。眠れないときにはそのことを考えていた。たいていその時間だった(私の心の中で尼僧はみだらでバチカンの邪悪の代表であると教えられていたから、長いこと悶々としていた。しかし、私が考え始めていた方法では何も良くならなかった)……。自分の体の上に自分の体が浮かんでいるようにベッドで横になっている。わたしの皮膚は薄いようでいて、外側が堅く、どこか危なげで、火山の火口を横切ってデリケートに伸ばしているようである。私の体は巨大な割れ目に引き裂かれるかと思われ、皮膚は鎧にするには不十分であり、全く頼りにならないかのように思われた。 
 (誰かが私のためにできる最善のことといったら、私が狂気になっていると私に伝えることだっただろう。私は狂人を妬んだ。なぜなら、狂人は気狂いのように行動し、彼らにも病名があったからだ。私は自覚していた痛みに名前を付けられなかった。笑みを絶やさなかった。私の高校の英語の教師、アーノルドとの集まりの時、私は先生に私の悩みを打ち明けなかった(誰にも打ち明けていなかった)。先生は、悲鳴を上げたり、そこら中を叩き回ったり、やたらと物を壊していた暴れん坊集団のことを話した。私は泣けてきた。先生は私がその子どもたちを思って泣いていると思ったようだ。しかし、私は自分を思って泣いていたのだ。その子どもたちは幸せだと思った。私の悲鳴は決して悲鳴として受け取られない。私の怒りは上手に抑えられていた。

 私は寝ているときには夢を見た。いつも同じ夢だった――私は塀で囲まれた庭園にいる小さな少女だった。古めかしい形をした花でいっぱいだった。フリージア、スウィート・ウィリアム、つるばら、やぐるま菊、(季節はずれの)白いライラックや紫色のライラックなどがあった。庭園の台の端には、性別不明の動物がいた。まばゆいばかりに金の衣を着て、母親のようでいて、上品な身振りで私に手を伸ばしている。威厳があり、しつけるようであった。私の意志とは無関係に、私はその動物に引き寄せられる。嘆願するようであり、命令するようでもある口調で私を呼んでいる。その動物の胸の内に抱かれると、その声は触覚で分かる(その声は懐かしくもあり、恐ろしくもある)。その声は私の内から出るようもあり、体の外から出るようでもある。血管からあふれる溶けた銀のようになる。麻痺させられ(血の気が失せ)、抵抗もできず、その動物に吹き飛ばされる。その動物はいろいろな外見を持っていて、敵意を持っているようでいて、穏やかである。氷のように冷たい胸の中に拘束されて、吹き飛ばされる。塀の外に出される。何もない空間に投げ出される。そこにはバラバラになったハンプティ・ダンプティの人形がある。それを空間に投げつける。私の前にはもう、何も残っていない。


謙遜さの躓きと目に見えないタルムード


 「ものみの塔」のページからは、絶え間のない忠告が見られる。一般人向けの主義主張、奉仕に励む証人の紹介、もっと「霊的」に、もっと謙遜して、肉的な物を避けるように、わがままにしないように……などなど。ドアの前あるいは近所の人や友人からの素っ気ない拒絶と相まって、それが一般の証人に共通して見られる劣等感の原因となる。証人は信仰面でほかの宗教に批判的になりがちであるから、ゴシップが非常に共通した問題となる。多くの場合に非合理的な規格に忠実に従って生活している証人はごくわずかしかいないから、たいていの会衆にはゴシップが氾濫している。もちろん、ゴシップはたいていはゴシップを言う人が自分の立場をよくしようとして行う策略である。その者は証人の内情をよく知っていて、気が付いていて、証人の味方であるふりをする。
 長老はふつう、そうした噂や中傷、陰口、酷評やその他の代償行動があるのは、ほとんどの会衆でごく当たり前であるとよく承知している。不幸にも長老は別なルール、文字通り「陰口の禁止」を打ち出してこの問題に対応しがちである。けれども、これは問題を糊塗するだけにすぎない。陰口が起きる感情的な理由を分かろうと、洞察をしたり、教育す長老もいる。その長老の忠告は、長い目で見て問題を難しくさせ、現存している敵意を陰湿化させがちだ。おそらく最も悪い加害者は長老であろう。日頃からふつうの伝道者の話をほかの人よりもよく聞いているからであり、噂される問題をもっともよく知る立場にあるからだ。長老の秘密会で耳にした情報が会衆のゴシップの火種になるのは、火を見るより明らかだ。ホワイトはこう、注意している。

現在のところ、統治体は自分たちが判断を下すことを許しておきながら、現実にはエホバの証人にモーセの律法と同じ型の神の律法を公表してきた(何をしていいか、何をしては悪いか)。戒めの上に戒めを重ねた結果、予想したとおり、イスラエルのモーセの律法と同じ結果となった。会衆の審理委員会でもその審査の対象にもなっていない、神権主義の法に立ったおびただしい量の隠された禁止事項があった。強制力を持たないが、大切な事柄、即ち、隣人への愛、正義、慈愛、信仰が無視される一方、些末なことがらが、事細かにいくつも細分化されている。誰だって法を完全に守れないから、破門と保護観察の数が常に増えてくる。


 上に上げた引用でも触れられているけれども、高い精神病罹患率の主な理由は、「目に見えないタルムード」(クリスチャンセン1976年)の異常な重圧である。ものみの塔によって禁止されたり、忌避された事項には、際限がない。その中でも重要なものには次の事項が含まれる。

忠告を受ける行為禁止される行為

理由

1.国旗に対する敬礼、
 女王や国の表象物に対する敬意
唯一の権威だから偶像崇拝
2.宗教的な表象、その他の表象物の着用および所有 偽りの崇拝
3.国旗掲揚あるいは国家的な行事  霊的姦淫
4.いかなる形であれ、ほかの宗教への参加
 教会の販売行為、ビンゴ、規則的な奉仕や葬式などのほかの宗教と結びついた組織への参加
霊的姦淫
5.誕生日 偶像崇拝の形式あるいは自己賛美
6.夜のたき火 祝日を祝う宗教的な背景
7.結婚式やパーティなどでの乾杯 偽りの崇拝、偶像崇拝
8.投票 世との交わり
9.防衛庁、工業地帯、工場での仕事 世の戦争へ協力
10.宗教からポルノグラフィーまで疑わしい関連製品の製造販売 偽りの崇拝、偶像崇拝
11.クリスマス、イースター、
 セントバレンタインデーその他の祝日 
異教の実践
12.輸血あるいは献血  血の食用、故に邪悪
13.ほかの宗教からの文書を読む行為 精神的毒物      
14.自慰行為 自己偶像化、過剰なる性への関心
15.不妊(最近、変更された) 妊娠を妨害             
16.臓器移植(これも最近変更された)    聖書的罪
17.若者の課外活動   時間の浪費
18.肥満(これはしばしば無視される) 体は神殿である。体を虐待
19.ギャンブル
(一杯のコーヒーにコインを賭けても)  
労働をしないで収入を得ている。サタン的
20.警察に関与する。
 野犬狩りであれ、市長職であれ公職に就くこと 
世において目立つ場に出ない
21.狩猟や魚釣り(止めさせられる)    生命の尊重の観念が足りない
22.メロドラマを見る(止めさせられる)     証人活動から価値のある時間を奪う、あるいは罪悪な影響
23.「悪い冗談」を笑う   不道徳
24.同窓会役員など、クラスの役員指名を受諾    世において目立つ場に出ない
25.ボーイスカウト、ガールスカウト、カブスカウトへの参加 世間から中立であるべき。
愛国心を持たないように。
教会との関係を避けなさい
26.モーニング服の着用  異教の実践
27.自分を裁こうとする   謙遜さが不足している
28.組合の役員になる。
 あるいは商業的組合に参加する(ピケや投票も含む)
世間から中立でなければならない
29.ポップ歌手やスター、テレビタレントを真似る  偶像崇拝
30.有名人あるいは「人間臭い知恵」に従う      不道徳で非聖書的な価値観を持つ人間に従う
31.付添人なしに生徒がデートで外出する 性的な誘惑
32.結婚式で飯米を投げる 異教の習慣
33.公衆の面前で愛を表現する
 (つかの間の挨拶や別れなら良い)
性的誘惑
34.赤十字その他の慈善団体に金銭を寄付する
 (クリスチャン団体であるかどうかは問わない)
いかなる宗教団体でも支援することは邪悪
35.公的な政党  世への過度の参加
36.良い立場にあるバブテスマを受けた男性の証人が指導していない祈りへの参加            

証人だけが本当のクリスチャン

37.性交が認められている時に結婚相手と
 「自由に情交」をする
性的な不道徳
38.冒涜をする言葉または非証人的な用語の使用   

不道徳。聖書はいまわしい会話を非難する

39.長老が「卑猥」と解釈するポピュラーダンスを踊る あるいは配偶者以外とのダンス 性的な誘惑
40.補習授業への自発的な参加              証人活動の時間を奪う
41.喫煙 自己虐待、体の神聖さを汚す
42.治療目的以外の薬物使用  体を自ら虐待する
43.ポッピーデー(軍人救済デー) 参戦を志願する者は応援できない
44.非証人的な出版物や
 時代遅れのものみの塔の出版物を読むこと 
罪を犯した者や世の人との付き合いをしない
45.裁判員になる 世の争いでは中立であるべき
46.軍隊あるいは軍事力を持つ団体、防衛軍の一員になる 世の戦争に参加するのは邪悪
47.自己防衛のために好戦的な技巧を研究する 

軍事的な起源

48.クリスマス、新年、セントバレンタインデーの製品を販売する 異教の実践
49.集会を欠席する。あるいは奉仕を怠る       神に不忠実
50.運、幸運、掲示板、「おや」、「あれまあ」の ような言葉を使う。「Good Luck」と言う。     偽りの神である運の神Luck、即ちサタンを指している
51.精神病医師や心理学者に会う
(現在は反対に遭うだけ)
ものみの塔を離れるように証人を感化する恐れがある
52.大学進学(強く反対される)
 世との交わり
その時間があれば神に奉仕すべき
禁止される科目もある
53.否定される社会運動や自救活動            時間の浪費
証人の活動に使うべき
54.協会を疑う    神への反逆
55.チェス、カード、チェッカーなどの
ゲーム(否定されるだけ)
軍国主義的
56.残業       証人活動の時間を奪う
57.ロックコンサート鑑賞 罪深い感化
よけいな時間の浪費
58.結婚するつもりがないのにデートする デートの目的は結婚
59.隣の家人と友人になる 世との交わりは邪悪
60.集会で婦人用スラックスを着用する     不適切な服装、ひどく男らしく見える
61.風変わりな髪型、洋服 人の注意を自分に引きつける
62.(過去の、あるいは現在の)政治的あるいは宗教的な指導者を誉める        邪悪な政治への関与
63.スポーツ活動  証人活動の時間を奪う
競争は邪悪

           
 これらの禁止事情をすべて慎むのは非常に難しい。これらの事項のうち、いくつかは回避すべきだろうが、上に上げた行為にはどこにも悪いところはないじゃないかとたいていの人は思っている。また、ものみの塔は昔から、その立場を逆転したり(時には急進的なやり方で)、公式な政策を変更したりしている。ときおり、ものみの塔の規則のいくつかに違反しなければならなくなったり、あるいはその誘惑にかられる。こうした立場に置かれると、たいてい「やろうか、やるまいか」の葛藤が生じる。それが共通した証人の状態である。
 リメルトは少数派の宗教団体は、特定の信仰や考えのほかにも、実践の面で過剰に一致を求めたがると注意をしていた。社会的に認知されていない状態を避けたがったり、あるいは伝統的ではない行為を楽しむ団体や証人がやっているように現状の社会のルールを攻撃する宗教団体が、注意を引こうとしたがっているためであると、リメルトは指摘している。こうした集団の空想的立場を攻撃するのは時には難しいけれども、言われている性的不道徳や地域共同体の規範からの逸脱を攻撃するのは簡単だから、カルトは信者の行為に目配りするに当たっては異常なほど敏感である。従ってカルトは異常なほど警戒している。(エホバの証人の教義に反しない事柄にさえ)証人は協会の律法と規則への一致に関しては並々ならぬ関心を表している。ものみの塔は証人に対して、でき得る限り、ちょっとでも協会の規範に反しないで程度の高い道徳や模範的行為などを表に出すよう、常に励ましている。そのため証人は控えめな洋服にこだわり、できるだけ「尊敬すべき」ビジネスマンを真似ようとする。
 もしも、会衆の中に一人でも上に上げた罪の一つに違反しても懲戒を受けていない者がいるなら、その会衆は「神の霊を失う」だろうと信じているから、個々の証人は滅びる。証人がなんらかのあいまいな罪の意識に悩んでいるなら特にそれが強い。ほとんどの会衆で問題を多く抱えているから、なんらかの罪を感じている者は会衆内では神の愛を失わせてしまうと信じこんでしまうかもしれない。おびただしい量の罪があるから、ものみの塔が信者に求めてきた多くの規則とわずかながらも抵触しているかもしれない。組織の外にいる者にとっては、証人が守らなければならない規則や律法の量と範囲は信じられない。上に上げたリストがそのすべてではない。一例に過ぎない。「細分化された」規則を次に示す。

私が会衆の宣教学校の監督であったとき、新しく改版されたスピーチの指示書が配布された。その版にはスピーチの要点には以前とは異なる番号を付けていた。それは古い版と同じ順番でリストに上げられていた。会衆のほとんどの者は古いスピーチ用のメモを持っていたから、私は従来の古い番号を相変わらず使った。まもなく、私は「エホバが忠告する組織に従っていない」として、厳しく批判された。スピーチの助言をする古いメモはほとんど古い番号であると説明すると、「こと細かにエホバの組織から出されるエホバの律法に従っていない」と非難された。その忠告を裏付ける意味で、長老たちは聖書の箇所を引用した。「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり、ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です」(ルカ16:10)

 証人にとって、従うように求められるおびただしい量の命令を守り、それに従うことがどれほど難しいかは十分に強調されていない。予想されることではあるが、すべての禁令を守れないと罪は内に込められ、外部への攻撃となり、証人と未信者人の間のいざこざとして表面化する。上に上げたように陰にこもると憂鬱になり、神経質になる。罪の結果、組織から追放されと自殺さえする。
 専門家が見ても裏付けがあり、個人的な証人の良心にとどまると確信しても、小さな食い違いにも一致への強い締め付けが適用される。たとえば芸術的、あるいは音楽的な才能のある者はたとえ自分の楽しみでやるにしても、会衆でほとんど批判されなくても、おおっぴらにそれを演じるのは難しい。芸術才能、それ自体が、時には、罪となる。しかしたいていは主に自分の才能を表わそうとする欲望があるからこそ、罪が生じる。それを抑えると、証人が組織に対して全体として潜在的な敵意を発展させる結果を生むかもしれない。しかし、たいていは芸術的な創造や創作課程を楽しむ欲望という罪を覚える、しかし、自分の才能を楽しんだり、才能を伸ばしてはいけないと反対する組織の教義に対する敵意ともなりうる。そして才能を持っていると分かっていてそれを伸ばしたいと思っている証人は、その決心に関わらず、一般的に心の動揺を覚える。一致、強い忠誠心、特別な厳正さや妥協しないといった協会の押しつけている独自のものはその多くが、葛藤を生む際立った性質を持っており、精神病を進行させたり、特に自殺行為に発展するほど強力である。宗教的な禁令を刑務所にいる多くの証人がかかえている故に、証人が、反対の手紙を当局に書いている事例がある。

ハリウッドカウンティーの自称エホバの証人受刑者に対し、テネシー最高裁判所は、宗教的な信条よりも公共の利益と安全が大切だと宣告してAIDSテストを受けるように命じた。受刑者は9月にアーカンソー州で逮捕された後、テネシー州の検疫官事務所に対し、AIDSに罹っていると告げた。しかし血液サンプル採取は宗教信条に反しているとして検査を断った。最高裁は次のように宣告した。「刑務所自体の運用、保安官と刑務官の安全、そしてそのほかの囚人たちの安全と幸福も関係する。控訴人の訴えた宗教信条や宗教的な確信は、公共の安全と福祉に劣後する。証拠から明白に確かめられた」。

 同じような事件はほかにもある。

グレイターフォード刑務所の囚人からの請求(エホバの証人から発行された聖書と文書を研究する許可を当局に要求する請求)は、米国地方裁で却下された。請求はチャールズ・ジェニングから提出されていた。そこには刑務所当局は自由に崇拝する根源的な権利を奪ったと述べられている。ジェニングは満了まで5年から10年服役している。連邦判事ハリー・カロドナーは昨日、以前、ペンシルバニア最高裁が却下し請求については、地方裁が裁く権限はなく、米国最高裁に訴えるべきだと裁定した。

 非常に厳しい信条と品行が求められるから、別な面では不利に働く。多くの証人が文字通り、無邪気で、責任感が無いのはそのせいである。ほとんどの判断はすでに組織で決められているから、証人はふつう、多くの道徳的な判断や倫理的な判断などをする必要はほとんどない。何が正しいか発見してそれを受け入れ、それに従うだけだ。人生の目的は何かを細かく考える必要はない。あらかじめ与えられている。聖書を深く考える必要はない。すでに協会には分かっている。必要なのは、聖句の意味をものみの塔に尋ねるだけだ。道徳的にいろいろな選択を評価する必要はない。ほとんどがすでに協会で作られている。仕事のことで心配する必要はない。協会に奉仕するほかにやることはない。祝祭日にはどこに行けばいいか、何を買えばいいか、心配する必要はない。祝わないことになっている。情報は無視するのだから、情報の氾濫を心配する必要もない。カルフォルニア州イングルウッドの大会でシュロッダーは証人が非証人の出版物をすべて避けなければならないと強調した。非証人の出版物を読むとものみの塔の出版物を読んだり証人活動に参加する時間より時間がかかる。もし「世的」な本の中に立派な本があるとすれば、協会は「それを抜き出して、要約し、数分間の内にそれを読めるような形で兄弟に読ませる」とシュロッダーは述べた。1992年、ものみの塔に反対して書かれた文書を読む行為は公式に禁止された。事件の経過は次の通り。

しかしものみの塔の指導者が賛成しなかった文書を個々のエホバの証人が書いたり発行したり配布したりすると、どうなるだろう。組織は新聞の自由の事柄については自分たちの自由を考慮することとは異なった見方をする。「友だちからのよい便り」の編集者として私はその性格を証言できる。わたしは1981年1月と2月に「友だちからのよい便り」の第1号と第2号を出版したため、ものみの塔の「審理委員会」にかけられ、1982年初頭に排斥された。

その当時、まだ私は立派な立場にあった一人の証人であった。私の文書は、教義の面ではものみの塔の教義とはそれほどかけ離れたなかった。むしろ組織が自らをローマカソリックほどの権威を我が物にしていることに疑問を呈していた。

ある晩、私は妻と聖書研究から帰る途中だった。すると二人の長老が駐車していた車から足を踏み出し、私の自宅の前で私の側に寄って話しかけてきた。私が次の号を発行するつもりがあるのか、教えるよう、命令した。前号、前々号のどういった箇所に異議があるのか質問したが、内容はとやかく言えないと主張した。彼らは、私に発行を続ける意図があるかどうかを探るために送られてきただけだった。そのつもりだと答えると、彼らはきびすを返して離れて行った。

数日後、「審理委員会」は私たちを欠席裁判にかけ、排斥にした。その行為は少数の田舎の長老にしては高圧的だと思う人もいるだろうが、長老は私の立場についてブルックリン本部と連絡を取っていたと指摘できる。さらにそれ以来、協会は認めていない文書を信者が所有したり、流通させないようにするため、厳しいガイドラインを定めた。「ものみの塔」1984年5月1日号(英文)は、31頁で「読者からの質問」の見出しの下に次の誘導尋問をしている。「人々が出会う宗教的な文書のための聖書研究の手引きを交換することをエホバの証人が断るのはなぜですか」に対する公式な答えの一部を抜き出すとこうなる。「貴重な時間の浪費であるのはもちろん、エホバの証人にとって人を騙すように企てられた偽りの宗教の文書を受け取り、それを露わにするのは、無謀なことです。間違いや背教的な考えを広める宗教的な文書のために聖書に基づいた真理が書かれている価値のある聖書研究の手引きをエホバの証人が交換しないのは、知恵であり、神の忠告を尊重するためです」

協会は宗教的な全体主義を思わせるように強く警告して印刷しようとはしない。協会は証人が常に組織の外部からの文書を読まないようにとの忠告を地域監督や巡回監督にやらせている。しかし、「ものみの塔」1986年3月15日号は、郵便集配人がある婦人の家屋を離れる前に、ゴミ箱に郵便物を捨てている婦人の写真を掲載していた。その説明文には、「あなたは背教に関係するものを賢明に破棄するだろうか」とある。さらにその文章は、「背教的な出版物を読むことはポルノ文書を読むことに似ている,となぜ言えますか」(14頁)と続け、「自分自身の反対意見を押し出そうとする人には用心しなければなりません」(17頁)とエホバの証人に警告している。「ものみの塔」1987年11月1日号は「ある人々はラジオやテレビの宗教番組にダイヤルを合わせ,霊的な汚染をもたらすものに自分をさらしてしまいました」証人がいる事実を嘆いていた(19頁)。この文章は続けてこう言っている。「偽りの宗教の宣伝は,どんな源から出たものであれ,毒物のように避けなければなりません。実際,わたしたちの主は,「永遠の命のことば」をわたしたちに伝えるため「忠実で思慮深い奴隷」を用いてこられたのですから,どこかほかのところを見たいなどとどうして願うべきでしょうか」(20頁)。

 統治体が作っているおびただしい決定事項は典型的な証人を絶えず子どもの時代の状態に保っている。協会はいろいろな方法を用いて、群にいる者が成長することを決して許さない。何とかして、自分で深く読んだり、深く研究したり、聖書的な調査をしようとする者に共通している不満は、「ものみの塔はいつになったら、私たちに「牛乳」だけの給食を止め、「肉」のある給食を始めてくれるのだろう。「真理」の中では誰だって赤ん坊じゃない。深遠な事柄に飢えている者もいる。協会はそれを決して供給くれそうもない」。
 もし、ものみの塔協会が言っているようにそれが神の組織であるなら、全員がしなければならないのは、注意深く協会のことばに耳を傾け、しっかりとそれに従うことだ。人間は人間の理屈によっては神の意志を見い出せない。自分で宗教的な結論には至らない。私たちは堅く従い、頼り、強く依存する。すると幼児のような状態では創造性といった高等な人間の性質(そして特に人間たらしめる個人の成長と闘争)を妨げたり、激しく衰弱させる。依存性の強さは、証人の間でしばしば見られる独立的な思考の欠如から明らかだ。創造性はどんな人生の局面においても、すべて否定されるから、たいていは成長が停滞してしまう。


なぜ証人はものみの塔を離れるのか

             
 証人を辞めたたくさんの人たちの体験談を見直すと、その共通した理由が精神衛生に関係していることがだいたい分かってくる。例えばドハエンは、こう述べている。

会衆内の一人の姉妹がレイプされた上で殺されたために、誰もが実際に魔女狩りの標的となり、さまざまな言いがかりが全員に浴びせられた。私もほかの人と同じく、猜疑をかけられ、お互いに全員がスパイとなっていた。会衆内にはただ単に表沙汰にするために、悪口や陰口をたたく最悪の時間が流れた。犯人が捕まり、裁判にかけられたとき、誰の顔にも安堵の兆しが見られた。誰もが「これで一件落着だ」と思った。それでは済まなかった。全員が過去のすべての過失をあぶり出され、……私は排斥された。事件が落着したとき、まず、私が排除された。しかし実際、私はねらわれたのだ。

世界のどこにも友人はいなかった。一年間とても辛い思いをした後、復権のために長老に近づいた。涙を流して泣いても、はっきりと拒絶された。私は1トンの煉瓦で打たれたようだ。投げ出され、冷たくされた。……とても辛い状態に逆戻りし、家でも、職場でも誰にでもとなり散らした。……排斥の前にも、その後でも、ひどい精神的な落ち込みを経験し、精神はぼろぼろだった。一日に4錠の精神安定剤を服用した。 証人の時は、たいていは眠れない夜を過ごした。証人を辞めた今では、エホバの証人からのいわゆる排斥のため、組織を離れてからは妻と子どもとの付き合いは全くない。(証人を辞めたとき、精神病は治ったからもう錠剤の世話になっていない)


 自分の問題を処理した後では、多くの証人はもはや同じ見方で証人を見ることはない。証人との治療が成功すると、ものみの塔への忠誠心はほとんどのクライアント(患者)には見られない。一人のセラピスト(治療者)がその経験を次のように要約している。

証人を治療した私の経験では、もし治療が効果を現し、元気になると、一般的に証人はこの宗教にはもはや必要を見いだせなくなり、たいていは脱会する。たとえクライアント(患者)の大多数が証人を脱会したとても、意識して脱会するように影響を及ぼそうとはしないし、代案を示そうともしない。実際、私はたいてい、クライアント(患者)を助けるために証人に有用な考え方を利用しようとする。明らかに元気になる過程が証人の脱会に大きな効果を及ぼす。興味深いことに、私が手伝えできなかったが元気になったクライアント(患者)は、証人の信仰体系に頑固にしがみついていた者であった。

 次の事例はこれに関して別な考え方を発表している。

物心付いたころから証人だったと述べている43歳の男性は軽い統合失調症にかかっていた。彼の両親は彼が幼児の時に入信していた。彼は結婚して3人の子どもをもうけ、自動車整備の仕事をしていた。若かりし時には協会は結婚を勧めなかったから、結婚は遅かった。終わりの時が差し迫っているから、ものみの塔の命令よりも自分の必要を優先することは、自分本位で我が儘だと教えていた。結果的に数年間「開拓者」になった。戸別訪問の時にどう猛な犬に襲われたために開拓を止めた。このトラウマを経験する前には犬にはっきり恐怖を抱いていた。しかしこの事故で、開拓する気を失くすほどの明白なフォビアが強化された。今になって、止めようとしていたまともな仕事をしようと思った。それから家を購入して機械の会社の仕事を始めた。 彼が働いていた会社の中では彼は作業机の側でイスに座ってときどきあちらこちらをじろじろ見ていて、「彼にやる気を起こさせる」ことが難しくなるときがあったと雇用者が不平を言っていた。妻もそうした彼の行為に不平を語っていた。自分の世界に引きこもろうとしてどんどん世間と没交渉になっていった。ついに、外の世界から完全に孤立した。

治療の過程で彼のわだかまりは、主に証人の「新しい事物の体制」が原因だと分かった。現在の世界の世俗的な事件を避けて自分の夢の世界を考え出した。その中心に「新しい体制」の考えがある精巧な空想の生活を作り上げた。彼のその想像図の一部は、「新しい体制」を表現するために用いられるものみの塔の出版物に基づいていた。彼はこの「罪深く、古く、腐敗した事物の体制」下で暮らすのはひどく不幸であり、「古い世界」での生活を楽しめないと語った。不安を抱きながら、唯一、生きる価値があると信じていたものを待ち望んでいた。そう信じたために現在の体制の元で適切に責任を全うできなくなっていた。

治療が進んで彼は「『新しい体制』についてだんだん考えなくなり、ものみの塔の集会に出ようとする気がしなくなった」と言っていた。ものみの塔に対する敵意が徐々に表面化してきた。治療の結果、「もはや奴らは必要ない」と言ってすっかり証人から離脱した。


 この事例には重大な関心事をいくつか示している。たいていの場合、証人は空想的な世界に隠遁して住もうとする傾向がある。上の事例のクライアント(患者)は、自分の持つ空想への道を整え、そこに熱中するために、証人の「新しい体制」への信仰を用いたようだ。証人は協会が常に強調しているためもあって、「新しい体制」に心を奪われている。正常な活動を抑圧し、精神的な逃亡を促進するといった類似性が見られる。一例を挙げると、「神の栄光ある新しい事物の体制に永遠の命を満足するような、価値のある喜びの時がありますか」、あるいは、「実にエホバの証人はとても幸せな人たちです。なぜなら、痛みも、犯罪もない、神の栄えある楽園に永遠に生きることを待ち望めるのですし、そこでは子どもたちはすべての野生動物や野獣と一緒に遊べるし、そこでは病気になって苦しんだり、老いたり、死んだりしないし、永遠に毎日、エホバを誉め称えられるのです」。このような類似性は、ものみの塔の出版物にも、ものみの塔協会が提起するスピーチにも共通して見られる。
 聖書には人間の永遠の状態が詳しくは記述されていないのだから、証人はそれを邪推するためにかなり大量の時間を費やさないといけない。それの一例は、「氷に触ると痛みが残りますか」(ものみの塔協会は、身を守るために痛みは残ると教えている)。あるいは、「コートを着ないで寒い日に外出したら『冷たく』なるでしょうか」(完全な体は体温を調整するだろうから、地上のどこかの適切な温度のままでいるだろうと、協会は教えている)。証人は「新しい体制」での生活について邪推をひどく張り巡らせるから、協会は証人が思いつかないことを好んでいると、時には証人も思ってしまう。だから、ものみの塔の教義に従ったとしても、この夢想のほとんどが薄弱な根拠に基づいていると、ものみの塔も承知している。そのため、協会は、「私たちは新しい世界は完全な楽園だろうと知るだけです。エホバは細かいところまで私たちに教えませんでした。限度を超えないようにしましょう」と強調して、注意深く推測するように、何度も何度も証人に警告している。


協会は神学を深く考えさせない


 証人を助けようとしても、証人がものみの塔についてはっきりと疑いを持ち、その結果、新しい情報を聞こうとしない限り、ものみの塔の神学的な正当性、あるいは理性的な信念の正当性を話し合おうとしてもふつうは実を結ばない。セラピスト(治療者)あるいは証人を助けようとする者は神学の論争を避けるのがもっともいいのだが、無意識のうちの欲望をどのように満足させているかを知るために個人的な信仰を調べることが必要になるときもある。けれども証人が道理をわきまえており、合理的な考えをし、セラピスト(治療者)がものみの塔の神学と伝統的なキリスト教神学の両方をよく把握しているなら、神学論争も適切な手段だ。証人と論争したり、働きかけたりするのがなぜを難しいというと、教義の問題の論争が始まると、決まって強い守りの姿勢を誘い出すからだ。もし証人が自分は間違っているのではないかと気が付くと、それに狼狽してしまい、精神的に守りの姿勢を取る。論争したり、極度に分別をなくさせたり、理性をなくさせたり、あるいはこれ以上話し合いたくないと拒否させたりすることは、問題を抱えた人を助けるためにはしてはならない応答だ。
 もし証人がその無意識の欲望が特定の信仰で満たされていかどうかを知る一助となるなら、証人が信条を用いるやり方を変更するよう促せるかもしれない。証人自身の信仰を変更する必要はない。例えば、上記の事例では証人は一種の「新しい事物の体制」(たいていの宗教に見られる変形された信仰)をまだ信じていたが、「新しい事物の体制」の現実性(未来の明確な現実性)を考えさせて、現在の体制と折り合いをつけるように促すのがいいかもしれない。どうにかしていつか文字通りハルマゲドンが起きるかもしれないと言った人の信仰を変えられる望みがあるなら、証人に簡単な質問を与えて、クライアント(患者)が洞察できるように働きかけられるかもしれない。例えば、協会はハルマゲドンの前に特定の出来事(出版物によると、4つの出来事)が起きるはずだと現在でも教えているが、それをクライアント(患者)が深く考える一助となるかもしれない。それらの出来事が起きるまでには、何年もかかることは明白であり、ハルマゲドンの始まりから終結まで何ヶ月も、あるいはそれ以上かかるだろう。
 時には年上の証人と話をさせたり、次のようにして、動機付けをさせるのは効果がある。「ハルマゲドンが迫っていると証人がいつも思っているのは、不思議でならない。あなたなら年上の兄弟に聞いてみれば、兄弟の言い分も分かるでしょう」。これで過去100年前から(実はその発足時から)協会はハルマゲドンが差し迫っているとか、数年以内にハルマゲドンが起きると教えてきた過去を証人に考えさせる一助になる。50年以上も証人をしていた人と話し合うと、証人が様々な出来事が1914年、1925年、第二次世界大戦、そしてもちろん1975年に起こるという期待が、非常に待ち望まれていた過去が分かってしまう。1992年の時点で最初の予言から180年経っており、最後の間違った予言からほぼ20年が過ぎた。「新世界」はまだ来ていないし、キリストも再臨していない。
 証人の歴史の中での一時期、期待はそれほど強かった。1940年代には結婚も学業も遅らされた(例えばラザフォード著『子ども』を見よ)。特に際だっていたのは1914年、1925年、1975年であり、多くの証人が確信を持って終末を待ち望んだ。大勢の人が仕事を辞め、「終末の日の前の最後の日」と見積もっていた日を生きるためだけのわずかな金銭を手にして家屋を売り払った。現実的な根拠に乏しく、大多数の人から支持されないなら、その考えはふつうは妄想にしか思われない。証人の教義を受け付けない人なら、ごく近いうちに起こる「新しい事物の体制」への期待を信じるのは妄想だと結論を下すだろう。しかしそれが大多数の人から支持されているのなら、ほとんど集団的な妄想となる。
 宗教信条の研究、中でも宗教信条についての心理学的な質問は、多くの証人にとっては脅威的だ。反対のための研究をすると信仰の価値と効力を否定すると考えるからだ。けれども患者を救っているセラピスト(治療者)にとっては、信仰が有効かどうかは関係ない話だ。セラピスト(治療者)の主な関心は、信仰を保っている人の心理に信仰が及ぼしている効果にある。証人が言うように新しい体制が人類に用意されているかどうかは別問題だ(「新しい事物の体制」は神が仲入して起きると思う者もいるし、人間の力あるいはいろんな政治的あるいは経済的な勢力が引き起こすと考える者もいる。しかし、いろんなグループがそれを信じている)。信仰が正当かどうかに関わりなく、信仰する者に影響を及ぼす。その考えが正当かどうかではなく、その効果が試されるべきである。血に関する教義のように証人が信じている信仰の多くは、疑う余地のないほど間違いだと多くの人が信じている。しかし国の侵略戦争をどう扱うかといった場合に見られるように、現実を正確に知覚したり、どれほど強く機能しているかを考える人もいる。この章で論じた問題のいくつかはハリソンがうまく書いている。

1944年にバプテスマを受けてから数年間、私はとてもつまらない疑い(それと絶え間ない罪の確信)を持っていた。疑うことに恐ろしさを感じていた。すべての信者が疑っているのにおかしいとか、自由に考えても論理的におかしい結末を迎えるとか、神秘主義者でさえ崇拝する神から見捨てられる時があるとかを、今がかつて誰も私に教えてくれなかった。誰かが私にそういうふうに教えたなら、私は苦悩から救われた。しかし証人たちは、私にそう教えられなかった。それが真理だとは、彼ら自身も了解しなかったからだ。証人にとって、信仰は命にかかわるほど大切なものであり、疑う余地がなく、批判できない、揺らぎのない、厳しいものだ。自分の短気な理性は、人を食い物にする獣のように思えた。もし、しっかり手綱を締めないと、それが私に飛びかかって攻撃し、滅ぼしてしまう。
 すべてを疑うのは、心が狭いからであり、可能な唯一の解決策は、疑問の完全消去(自分で消す)であった。生きたまま、エホバに食いつかれ、むさぼられ食べられてしまおうとした。エホバへの奉仕にもっと時間を割こうとした。私の曲がった心、くじかれた心、疲弊した心がもはや疑いに不平を言う暇がないと言えるほどに‥‥。女性は心細さを進歩的なものに転換するのが得意である(あるいは女性にとって進歩的なものに)。私がベテルに行ってやる仕事は、新しい生活に死を招いて、不安状態を鎮め、霊的な絶望感から逃れ、霊的な元手を手にするためだった。


 なぜ人々が脱会するか、その理由の一つには自分の経験を話し出そうとする情動がある。大勢の人が怒りを覚え、ものみの塔に反対して事件を社会に訴えたり、法廷に訴えようとさえしている。

証人の王国には、ほとんど平穏さがない。しばらくの安定状態と時折見られる急激な成長の後、エホバの証人は激しい内紛、元信者の訴訟、そして前例のないほどの大量脱会と断絶に悩まされてきた。覚醒した信者によると証人の艱難は1975年に始まった。そのとき証人の出版物が約束したような世界の終末は迎えなかった。さらに幻滅を覚えた米国とカナダに住む大勢の信者が訴訟に訴えた。カルトには圧制的な策略と指導者の独裁的な姿勢があったと主張して、ものみの塔に脅威を与えた。

そうした挑戦をした人たちは闘いに慣れていなかったけれども、ものみの塔の信仰を世間の人の面前にさらした。元信者の小集団がプロビデンスとシアトルで昨年、地域大会を催し、さらにこの本を書いている一週間前には大会を開催した。そこではカルトの幹部を非難したり、その教義に挑戦するプラカードを手に持ってデモ行進をした。……その信仰に再帰するかのような異色の表現がある。大会のテーマは「王国の忠節」であり、度重なる説教では、「闘いの時に共に群がる」とか、「真理の反抗者に対する立場は何か」といったタイトルを伝えている。

元証人リチャード・ロウ(48)は電話によるインタビューで次のように語った。1976年以降、毎年10万人以上の信者が脱会した。その大きな理由は、1975年10月にはものみの塔幹部が予告したように地上にキリストが再臨しなかったからだ。

予告した通りに世界が終わりを迎えなかったとき、指導者は以前の予告を軟化させた。20年以上も証人の大会を監督していた大会マネージャーのコンジリスは正確な日付は予想できないと説明していた。「私たちは日付を特定できない。聖書がこの世代に終わりの時が来ると考えている時点を生きている。この体制がいつ終わるかを探し求めている」と語った。しかし1975年の終末を考えた者は「自分の家を売り、生涯の蓄えを手放し、医者にかかることを延期し、とても返しきれないとしか思えない金銭を借りた」とロウは語った……。ロウは妻フランシーズと一緒に4度断絶してきた。彼は、1980年3月に証人の出版物に「間違いを犯したと言っている」一つの記事があったとも語った。現実に何かが始まったようだ。彼らは毎年大量の断絶を出している。そんなこと起きないだろうと人々は一層疑い深くなった。不満がゆっくりと燃え上がりだした。

彼はこう語った。指導者が後にうまく言い抜けをしなければならなかったハルマゲドンの預言の最初の日付は1975年ではなかった。1870年、ペンシルバニアで発足したときから、カルトはキリストがすぐに再臨し、証人が休息する地上の楽園を建てるだろうと教えた。証人ではない人々は滅ぼされるとカルトは教える。戸別に行う改宗運動と聖書冊子を渡す活動として、おそらく証人は米国で一番知られているグループだろう。証人は神の最終的な王国のために生きると信じている。人間の作った制度や政府のためではない。国旗に敬礼したり、投票したり、戦争に参加したり、輸血を受ける行為を拒絶し、生命の危険がある救急医療の現場でも拒否するよう教えられている(「紛争の只中にいるエホバの証人」より)。

 ふつうの証人は生活のいろいろな面で情動的な問題の原因が生まれる状態の中で生きている。その重要な理由はほとんど次のような事項から構成されている。

(1)形式的で、うんざりするほど冗長な活動、また報酬のない活動に参加するために生じる極端な忙しさ

(2)余暇を楽しむ時間、仕事や副業に精神的な充実を覚える時間が不足している。

(3)たびたび「目に見えないタルムード」に違反しているのに、平均的な証人が夥しいほどの規律や律法を厳守るのは難しい。「律法よりも重要な事柄」をあまり強調しない。

(4)低い自尊心。いくら努力しても、あるいは客観的に見てどれほど努力が実っても、いずれ失敗するんだと思い込む絶え間ない苦悩。


 このほか、繰り返される教義上の変更、首尾一貫しない教義から生まれる論理的な矛盾、よそと比べて論理的でなかったり、矛盾している信条が原因として考えられる。こうした懸念に気が付くと、たいていの場合、証人に疑問が生まれる。特に分析家で、情報が豊富で、知識の多い信者にはそれが顕著だ。


目次のページに戻る