第7章 自殺の問題
ものみの塔協会の内部では徐々に自殺の問題が考えられるようになった。自殺の数の数量化とそれを比較検討するに当たって障害となっているものは、米国の国内の自殺の平均値が10万人当たり約11人という数の低さである。米国では70万人という活発な証人がいる。一州当たり14000人である。もしその自殺率が平均並みであったとしたら(1%から2%の自殺率)、一州当たり毎年、一人か二人の証人が自殺する。1992年5月のものみの塔の総数は866千人、十年前にさかのぼれば、もっと少ない数字になる。レイモンド・フランズは、次のような支部からのメモを引用して自殺に結びつく出来事をいくつか話している。「1975年という日付を知ると、多くの者が開拓を始めた。学業の時間を削ったり、正規の職業を辞めたり、もっと多くの収入を手にする機会があってもそれを避けたり、健康を度外視してきた」。「期待に反し、ハルマゲドンが来なかったとき、多くの者は失望し、幻滅を感じた」。
フランズ自身も1975年の主張を信じたためにひどく傷ついた大勢の証人を目にしてきた。極度の精神的なストレスを経験した証人、何年間も重い経済的な負担にあえいでいる家庭、まともな仕事を放棄した証人、新しい仕事にあり就けない苦しみから逃れるようにアルコール付けになっている証人、あるいは年金の掛金を早まって解約したために悲惨な暗い前途に直面している年寄りの証人がいる。「手術や治療をしなかったために病気を重くさせた証人」がいる。フランズは、ものみの塔なら「肩をすくめるかもしれないが、そのすべての責任はその偽りの希望を考え出した者にある。その者が人の心を動かし、幻の期待をしかけ始めたのだ」。フランズはさらに、憂鬱や精神的な不安定をせき立てる要素、すなわち、証人に「もっともっと組織的に命令された活動をするように、絶えず圧力をかけている」ことが重要だと付け加えている(『クリスチャンの自由を求めて』606頁)。「もっともその影響を受けた者はもっとも感受性があり、良心的な人たちだったと断定している。もし「増し加えられた奉仕」に奮闘する組織の「暗示」や「忠告」に従わなかったら、その者は罪であると巧妙に暗示する論法は、十分に努力していないのではないかとか、ふさわしくないのではないかといった不安を常に起こさせる。それはあたかもトラッドミル(懲罰用の踏み車)のようで、達成された感覚は起きてこない。起きてくるものといえば、実行しろという命令に毎月、毎月応じ続ける必要があるという感覚だ。それも決して表立って公にされない命令である。もしそれに応じなければ信仰が不足している、愛や熱心さが不足していると思わせるやり方で話される命令である」。それは神の前にいるものみの塔協会、特にその指導者が欠陥の烙印を押している弱い者や傷ついた者、落ち込んでいる者に対して配慮が足りないからだと、強調している。エゼキエル34:4,15から21といった聖書の箇所を多数引用してフランズは次のように協会を非難している。「すでに属している現代の世界での日常生活に存在するストレスや緊張を分かろうとしないから、実際の状況や必要に覆いをしているのである。精神的に「急き立て」たり、情動的に「急き立て」て、そうした実際の状況や必要に配慮しなかったり、あるいは必要な精神的な休息や霊的な休息を与えなかったなら、すばらしい牧者イエス・キリストから否認されるだけだ」。そうして彼はレーヌ・グレウトマンの話を詳しく引用する。
レーヌの妻は最後には自殺をしてしまった。 レーヌはいい加減な証人ではなかった。スイス軍への軍隊勤務を拒否して刑務所で過ごした過去を持つ。皮肉にもレーヌには精神病患者を扱った経験を持っていた。看護士として訓練を受けて、一時はチューリッヒの精神病院で働いていた。そこに働いていた当時も協会への忠節は際立っていた。「患者に与えた食物の中に血漿が含まれていた」ために仕事を辞めている。証人として22年過ごした後にも精神病の問題に敏感になっていたから協会に手紙を書いている。「とても良心的な兄弟姉妹の間にはうつ病患者や自殺者がとても多い」と強調していた。もっとも悲惨な事件は妻クラリーズの身に起こった。クラリーズのものみの塔に対する熱心さは早くからその開拓奉仕に表れていた(生活のために彼女は日中は秘書の仕事をして働いていた)。必要に迫られてスイス支部のドイツ語班に通ったときもあった。割り当てられたへんぴな地域に着くためにたいてい一時間以上も自転車を走らせた。彼女はそうした仕事には問題があると早くから長老に相談していた。それはことごとく反対されり、無視された。以前と同じように働きを継続するようにと忠告を受けた。魅力的な若い女性ではあったが、まもなく会衆内の既婚者から嫌がらせを受ける羽目に陥った。訓練を受けていた方法でそれに対処しようとした。即ち、それを長老に報告してしまった。その行為は自分の身に降りかかってきて、自分の責任にされた。初めてノイローゼを経験した。そうして割り当てを受けた土地を離れた。挫折感のためにうつを経験したのは確かで、さらに組織内での経験から著しい不一致と怒りを経験していた。4階建ての建物の屋上から身を投げて自殺するまで悪化していた。命は取り留めたが、両足と骨盤の骨折の傷は深く、右足の膝から下を切断しなければならなかった。明らかに彼女はものみの塔協会の教義を信じていたし、それにまじめに対応していた。挫折したとき、それが誤りのある教えのためではなく、身から出た錆だと決めつけていた。彼女の間違いの論理はこうだ――開拓者として失敗したから、神の定めた目的に従って生きていなかった。
だいたいこの頃にレーヌはクラリーズと出会っていた。まもなく二人は結婚し、その3年後に三人の子どもが授かった。それでも彼女はまだ過去の影を引きずっていた。レーヌはカルフォルニア州へ妻と移住する道を選んだ。その土地でもう一度二人の生活を立て直せるようにと、或る一つの証人の会衆を見つけた。不幸にもレーヌは未だに本をよく読む知的な人格であったので地方に住む証人や協会が教えようとしている考えのいくつかに異論を唱えてしまった。米国への移住は賢明ではなかったのかもしれない。クラリーズはスイスの家族と友人を失ったから、判断が間違いだったと後悔するだけだった。精神病の治療を受けていたが、1975年10月、ゴールデンゲートブリッジから身を投げて自殺をした。サンフランシスコ湾の水面に死体が浮かんでいるのが発見された。乗っていた自動車はロックされた状態で橋の近くに駐車されていた。
34年の間、彼女は悩んでいた。明らかに傷つきやすい性格だった。その一つがものみの塔であった。ものみの塔が主張している通りのことであったら、それを敏感に感じ取り、それにふさわしく反応しなければならなかった。夫のレーヌのことばによれば、「落ち着きのない人や感受性のある人には大会出席を勧めます。それでも人を殺すのに等しいストレスを与える宗教を勧めるなんて良心が許しません。私はそれが妻たちの悲劇の最大の原因だったと確信してます」。ものみの塔の冷酷さは、クラリーズの葬式には参加しないようにとの態度に如実に表れている。「ものみの塔」1975/10/15号 639頁では長老は「会衆の名声」を保たなければならないと教えている。また葬式を例に出して彼女の罪を許している。もちろんレーヌが認めているように、葬式は人間の生活スタイルとして是認できないが、「励ましとなる行為であり、残された家族に対する愛である」(『クリスチャンの自由を求めて』610頁)。
こうした事件が続くと、協会への憤慨は強まった。規則が生んだ怒りや疑問の規模は大きかったから、わずか2年後の「ものみの塔」1977/6/1号では、長老は自殺で亡くなった人の葬式を取り決めることが許されていた。しかしそれも「極度の失意や精神錯乱」の時に限っている。心理学のトレーニングを受けていない長老がどうやってそれを判断するかは書かれていない。この新しい見解を出す聖書的な拠り所はサウル王を誉め称えるダビデの葬式であった。サウル王は自殺をしていた(サムエル後1:7-23)。 妻の悲劇的な最後からまもなくして、レーヌは子どもたちとスイスへ帰った。証人は人を殺したくないから軍隊に入らないのだと語るエホバの証人に対して一つのおもしろい感想を語っていた。「時にはものみの塔自身もその言葉で人を殺す。なんて皮肉なものだ」。その無神経さの例は、1977/11/14の日付でレーヌが書いた手紙に対するものみの塔の返信にも見られる。ものみの塔の返事はそのほとんどすべてを組織の方針の正当化に費やされているし、それもものみの塔の内部にいるある種の特定の人とその幸福に対する心配を書く者に対する開き直りであるとフランズは結論付けている。本部の職員が書いた手紙にはわずかに慰めをしていると思える箇所はせいぜい一箇所しか見つからない。レーヌは次のように冷静に書いている。「その返信は私にとって励ましにはならなかった。むしろ自分の疑いを深め、真理と愛を求める気持ちをくじけさせた」。本部書記局のフレッド・ラスクが書いた手紙はレーヌの主張に対して図々しさを露わにしている。
……エホバの民が集会に出席したり奉仕に出る方法を通して、エホバの民に期待を持たせることがかえって重荷となり、欲求不満の原因になり、果ては精神病につながると言っているが、君はそれではエホバの証人に恥をかかせようとしている。……グレウトマン兄弟、はっきり言っておく。どのようにしてエホバが民を導き、教えているか、エホバからの恵みをどれほど受けているか認識しないといけない。君は規則正しく集会出席したり、よいたよりの伝道に加わるようにと励ましている行為が原因だとしている。エホバの民にとって理にかなうこと以外が書かれていると感じられる。……組織は洗脳しようとしているとか、兄弟姉妹の考えを統制しようとしているという君の主張は全く根拠がない。
妻の死後、レーヌは精神的には重度の精神的な問題を経験したけれども、祈りを通して、また組織を離れて徐々にそれを乗り越え、今ではすっかり安定している。著者が受け取った彼からの手紙からは、とても知的で、はっきりした意見を持っている賢明な人柄が読み取れる。協会は護教する有能な奉仕者を必要としているが、レーヌは煙たがれるイプでもある。それでも協会は自殺の問題を鋭く感知すべきである。著者はベテルの只中で起きたたくさんの自殺例を知っている。フランズも書いている。
私も同じく証人の間で起きた自殺例を知っている。国際本部にいたときにその事件が起きた。そこでは協会の工場の建物の屋上から一人の職員が身投げをした。ほかにも1990年にはベテランの職員、それと幹部会の元メンバーが協会の住宅区の三階から投身自殺をした。さらに数多くの自殺者の名前が書かれたリストを受け取っている。……ほかの国でも、特に先進国ではその数は間違いなく相当な数に上る。その件に関してはふつうは不問にされ、決して公開されない。
次に引用した例は基本的な範囲の中での代表的なものであると断っておこう。著者のノートには彼の自殺例のほかにもたくさんの書き込みがしてある。自殺は重要な問題であるし、平均と比べて証人の自殺率は二倍から三倍高いのだから、自殺を起こしている状況に対するものみの塔の反応を調べてみるのは有益である。以下に述べる二つの事件は典型的な例である。
ジム・コステルニクは協会に不満を持ち、ものみの塔から離れた。最終的に排斥され、結婚は破綻した。ものみの塔の教えに従い、妻は二人の子どもに対する夫の訪問権を巡って裁判をした。最終的にものみの塔のほかの証人と再婚した。1985年、コステルニクの元妻と二人の子どもは再婚相手の夫によって殺された。ものみの塔の葬式の席ではコステルニクは姿の見えない者として扱われた。誰からも話かけられなかった。葬式の説教の中で、証人のいるところでは慰めのことばもかけないようにと言われた(「ウィニペグ・フリー・プレス」1987/2/10)。 カルフォルニア州サウサンド・オークに住む元証人、ロンダ・ペンランドは、次のような経験をした。「エホバの証人は家族と仲良く暮らしていると主張します。それでも私の兄弟は自殺をしました。母は自殺をしようとしました。私の二人の妹と弟と祖母は私に語りかけようともしません。おばあさんはおじいさんが亡くなるというのにおじいさんを私に会わせなかったのです。彼ら、証人は私の家族と仲良くさせません。家族を壊したに等しいのです」。
1983/4/30付けのジェームス・ペントン教授宛の手紙にはイダ・ブラウンの息子の自殺例が描かれていた。
前回私はこう書いてました。……その当時、夫と私は集会に戻っていると言いてました。そこでは何も見つけられなくて私たちは霊的に非常に物足りなさを感じました。私たちは交わりを避けました。ものみの塔の教義にはたくさんの嘘があり、不安を覚えるのですが、一度信じたものをもう一度得ようとしています。
もちろんうまくいきませんでした。三ヶ月間は、すべての集会に出ました。ひどく冷たく扱われました。今までになく冷たいことばが演壇から伝わってくるのが分かりました。私たち、即ち「背教者」、「サタンの追従者」、「裏切り者」に向けられることばを混じらせた別のものみの塔がありました。……子どもが組織を離れてしまったおばあさんの記事を思い出します――それがためにその信仰のある姉妹はもはやおばあさんには会えないのです。思い切って教義への疑いを口にする者とは、たとえ友人や親族、子どもあるいは親であっても、交わりを絶つよう、常に言われてます。そうした背教者はいつもユダに比べられます。……初めにつまずいてしまった教義を受け入れるなんて、今でも確信が持てません、それが問題なのです。――「144千人」、組織内の「よい働き」の不足、輸血問題、ほかのすべての宗教を批判することばなどです。
長老たちが私たちを或る集まりに呼んだとき、或る考えが頭に浮かびました。疑いと嫌悪の目で見られていました。ある長老からの注意は、次のようなものでした。「あなたがあんな行為をしたのですから、誰かあなたと一緒に奉仕に出たいと思いますか。あなたの意見が聞きたいと言う人はいますか。誰があなたと交わりを持ちたいと思うのですか」。何があったかは薄々分かっています。霊的に悪いことはしていないのです。しかし協会を疑うことは許されない罪なのがはっきりしています。どこの教会とも交わりを持たなくなって長い年月が過ぎていました。
私たちの子ども、チャールズとその妻は証人のままでした。モントリオールで開拓をしてました。私たちが組織と交わりを絶ったとき、二人は私たちを完全に離れました。まだ証人でいたころ、チャールズが最後に訪ねてきたときには、自分の疑いをたくさん私たちに話していたの。あの当時、私が抱いていた組織の嘘を私たち以上に分かっていたんです。しかしチャールズの妻はとても頑固で、一途な二世だったのです。
二月の下旬にチャールズは毒薬を一瓶あおりました。そのために残された命は後三週間になってしまいした。チャールズの妻はもちろん輸血をしないと言い張りました。従って体の損傷を治そうにも手術はできないと思っていました。3月10日、食道にある動脈が破裂して出血を起こして亡くなりました。当時、チャールズの妻は集会に出ていました。……亡くなる最後の数週間、彼は明らかに協会の解釈についての疑いを口にしてました。ある時、彼はかごに卵をしまい込んでいると言いました。それを取り出す気にはなれないんだと思ってました。その妻は火葬にしてその遺骨を私たちに送ってきました。……私たちとものみの塔の関係はすべて終わりです。もちろん私たちには彼を助けられませんでした。もしチャールズが私たちの元に戻れると思っても(あり得ない話ですが)私たちのところへは戻れないと思っていたはずです。彼は24才でしたが、17才の時から開拓をしていて、協会のために尽くし、協会無しでは何も始まりませんでした。
今でも骨片を取り出してはその恐ろしい廃物の意味を理解しようとします。私は宗教学を専攻してウィニペグ大学に通っていました。考えを整理する助けとなりましたし、それで肩の荷が軽くなりました。何かの熱中する必要性を感じて春と夏の学期にも行こうと決心しました。夫にはそんな逃げ道もなく、チャールズの死をひどく重く受け止めています。弟のエルニーもひどく動揺してます。今では大学の近くのアパートで自活してます。
排斥されたために、過剰な罪責を感じて自殺する場合も多い。
ハイファット・レージンシービルの屋上から飛び降りようとしていたフロリダ在住の一人の男性が自殺を思いとどめようとした警官から説得を受けた。その警官は3時間半、男性につきっきりだった。その26才の男性はその教会から破門されたために落ち込んでいるのがはっきりしていたと、その警官は語っていた。……かれは昨日ハイアット・レージェンシーホテルにチェックインしたあと、午後7時に屋上に行き、端に立って今にも飛び降りそうなそぶりをしていた。
サンフランシスコ市警の婦人警官、マリー・スタスコ(31)は中央署で徹夜の勤務を終わるところだった。彼女は現場に駆けつけた一人で、思いとどまるよう、説得をした。その男は一人のエホバの証人の伝道者を依頼した。二人のエホバの証人を呼び出して連れてくるとその二人は45分間、話しかけていた。……何か「恐ろしい」ことをした、そして「自分の魂を亡くした」と、その男は語っていた。
最終的には十時半に警官が彼を保護した。その後、サンフランシスコ中央病院に連れて行かれて観察を受けた。ステスコ巡査は警察に八年勤務しているが、そうした場面に遭遇したのは初めてだと語った。「何はともあれ、良かったわ」と語った。その現場では「アドレナリンが高じていたわ。彼らは屋上は冷たくて雨に濡れていると言っていたけどそれも気にならなかった」と語っている(「サンフランシスコ・エグゼミナー」1986/2)。
なぜ証人が自殺したかがはっきりしない場合がないわけではない。監督の息子に関する次の記事はその典型的な例だ。
コロンバスの大学病院でのスワントン在住の若者が死んだ原因は、自分で頭部に銃弾を撃ち込んだためである。ハワード・クーンは来月結婚するはずだったが、土曜日の晩に姉の家で銃を撃って自殺した。その若者の死体はアテネ・カウンティの家の外で父親によって発見された。父親は甥の誕生日パーティに出ていた。父親はネルソンビル近くの病院に自動車を運転していった後、コロンバスに行った。クーン夫人は、息子はひどい頭痛を訴えていたが、なぜ銃を撃ったか原因は分からないと、ルーカス・カウンティの保安官代理に語った(「トレド・ブライド」1956/7/24)。
この自殺が起きた背景には誕生日のパーティに出たために罪責感を覚えたことがあるかもしれない。全体像がよく分からない事件もある。
検死官は一人のエホバの証人の自殺の原因を疑っている。その証人が服用したシアン化合物は最初、ツレル連続殺人事件で調査の対象となった。テモテ・グリーン(32)は、死亡する数時間前にシアン化合物一ポンドを購入していた。「確かに可能性としては自殺は目の前に迫っていた」と薬物検査官チャールズ・ハルランが語った。グリーンは歌手になるためにミネソタからナッシュビルに来た。地元のエホバの証人の会衆と交わった。2月18日、地元の商店からシアン化合物を買ったと警官が語った。日曜日、友人は彼のアパートで死体を発見した。ハルランは大量のシアンを飲んで死んだと判断した。……食物薬物管理局はカプセルにはシアン化合物が含まれていると語り、ナッシュビルの当局者は、容器には毒物の臭いがしていたと語った(「サンフランシスコ・エグゼミナー」1986/2)。
次の「ツルナール死亡事故」は公式に自殺と裁定された。
薬物検査官は、「ほとんど空になった薬瓶を手にし、シアン化合物を大量に飲んだ戸別伝道者の死因は自殺だった。薬瓶には強力なツレノールのカプセルが入っていた」と判定した。彼は「その手口からして自殺のだったと判断できる」と語った。その裁定は、グリーンの経済的な理由とグリーンがシアン化合物を買った事実に依っていた。警官はグリーンが宝石を磨くために使おうとして死の二日前に一ポンドのシアン化合物を買ったと言っている。 薬局から毒物を買ったとき、グリーンは偽って宝石保管の会社の名前を使った……。 グリーンはジョンソン・アンド・ジョンソン社を裁判に訴えるためにツレノールのカプセルを使ったかもしれないとも、警察は考えている。ジョンソン・ジョンソン社の子会社は処方箋不要の痛み止めの薬を製造している。エホバの証人開拓者即ち、戸別伝道者であったグリーンの死体は友人によって彼のアパートから発見された。友人は最近グリーンの姿を見ていないから心配していたのだった。警察はグリーンが4日から5日まえに亡くなったと語った。グリーンはセントポールからナッシュビルに転居してきたが健康がすぐれなかったと友人は語っていた。 ジョンソン・アンド・ジョンソン社の広報担当者のジェームス・ムラリー氏は、グリーンの死の公式な判定について、「入手できるだけ証拠があるのだから、もっと早くから信じてもらえたと思う」と語っている。(「アリゾナ・レパブリック」1986/3/8)。
この事件についてはほかにも報告が出ている。
ナッシュビル署の副署長シェルマン・ニッケンは、グリーン氏の事件で発見された証拠物件は自殺を示している、その事件を担当した部署は調査を終わらせたと述べた。「グリーンはツレノールのために国内で何が起きているかを知っていた。そしてカプセルの中にシアン化合物を入れたことはあり得る。彼は裁判を起こす準備ををしようとしていたのかもしれない」と語っている。ほかの誰かがカプセルの中にシアン化合物を入れることは「理論的にあり得る」としながらも、グリーンが生きていた最後の日の周りの状況を考えると自殺が妥当だと、ハリソンは付け加えている。
まとめ
自殺は証人にとって深刻な問題だ。彼らの教義のいくつかがそれに深くかかわっている場合が多い。協会がそれに対して適切に人情味ある対応をしていないのが問題だ。自殺を引き起こした原因を調べたり、やれる限りの解決策を実行しようとしないのが問題なのだ。追従者を犠牲にしてでも、ものみの塔の目標追求に懸命になっているのだ。その人災のために起きた結果の重大さは人命の貴さからも分かる。最低限の関心さえ払われていない。