第4章 精神的な疾患の罹患率を高くしている要因

 

 エホバの証人の心理を理解するには、現実に対する証人的見方を調べてみなければならない。よりよく適応するためには、世界に対し、機能的で実用的な何らかの「自我の概念」が必要だが、エホバの証人の世界観は、ものみの塔から与えられる「自我理想像」によってゆがめられる傾向がある。この自我概念は結局人の生き方や行動に影響する。人は、正確な世界観を持っていれば、自分の生き方から満足や生きる意味を引き出せるし、逆に、間違った世界観を持っていると、人生に対して欲求不満を抱く結果になる。

 

 ものみの塔の組織に属さない人々との社会的接触を妨害し、エホバの証人同士の交わりを促すことによって、現実に対するエホバの証人的解釈は絶えず強化される。エホバの証人は、主に、唯一の世界観、つまり、ものみの塔の立場にだけさらされることになる。ものみの塔と一致しない情報はすべて「サタンの世」の一部として排除され、価値のないもの、邪悪なものとみなされる。信仰は「厳格さ」と同義語である場合が多い――ものみの塔の見解や考えをしっかりと維持し、理性や現実に動かされにくい人が、「信仰」を持っていると評価される。しかし、この厳格さは、主に、ものみの塔がエホバの証人にとって宗教上の意味があるとみなしている分野で発揮される。たとえば、38セントの国民識別のためのIDカードの購入を拒否したためにひどい迫害を受けたマラウィの証人の例がある。これは、ものみの塔が、カード購入が偶像崇拝になると主張したためだった。エホバの証人の忠誠は全面的にものみの塔に向けられており、そのために、たとえうわべだけであろうと、他のどんな権威にも同調することができない。厳格さは宗教と関わると考えられる分野に属するから、「信仰」としてとらえられ、評価される(『良心の危機』フランズを見よ)。たとえば王国会館建設のような分野でも、エホバの証人は非常に実際的であり、最新の技術革新も取り入れている。

 

 全体的に厳格さは自殺率や精神疾患罹患率と関係がある(Wolff1970:37)。エホバの証人たちが受けている厳格な権威主義的教育は、常に敵対的な感情を抑えたり昇華しようとさせるものだった(Sprague,1943)。感情をあらわにする人たちは、ふつう組織から叱責を受け、そのため敵対的な感情は内向きに投影させられる。このために抑うつが生じることが多く、時には隠れた攻撃が身体的に現れることさえある。ふつう、敵意が生じる結果、意識されるようになると、罪悪感の誘発が自覚させられ誘発される場合が多い。実際これはいっそう敵意が強化され、その結果予測どおり抑うつを悪化させる。多くの社会集団ではそのような敵意を建設的なはけ口に昇華させることによって効果的に発散出来るが、エホバの証人の場合、普通の実行可能なはけ口のほとんどが妨げられている。以下で論じるように、写真撮影、模型づくり、いろいろな収集活動、ほとんどの運動やスポーツ(特別なリクリエーション活動を除く)といった気晴らしの活動、良質で意義のある参加行為は、ことばの上での注意、社会的な圧力によって抑えられてしまう。少ないながらも気晴らしを自分に許しているエホバの証人がいることはいるが、人によっては何年もかけて築き上げられてきた膨大で強力な敵意を効果的に昇華するには不十分である場合が多い。

 精神障害に対するトランキライザーや抗うつ剤の使用さえ妨害されている。風邪薬とビタミン剤以外、薬をすべて避けようとしている証人もいる。更年期障害に悩む女性の証人がホルモン療法を全面的に拒否するのはふつうである。ある女性の証人は、「目ざめよ!」(1975年7月22日号)でホルモン注射の目的が解説する記事が出るまではホルモン療法を受けるのを拒んでいたため、重症の抑うつ、自信喪失、人間関係の深刻な問題に悩んでいた。「目ざめよ!」のこの記事は、この種の療法を利用することが「必ずしも不適切とは言えない」と述べたのだった。しかし、ものみの塔がこうして許可を与えるまでに、この女性の抑うつは絶望的なまでに悪くなっていた。適切な薬物治療によって、彼女は劇的かつ完全に回復した。夫は長老であるが、この間、妻は望みどおりのことをすればよいという考えで、どっちつかずの態度を通した。

 

 この一件にはいくつかの要点がある。第一は、ものみの塔以外のすべての権威に対する、典型的な不信や疑いである。特に医療や精神医学の専門家に対しては顕著である(Salzman1951;Penton1985)。上記のケースでは、患者は医師によるホルモン療法の勧めを断っている。証人の多くは「自然」療法に頼ろうとする傾向がある。自然療法とは、病気を治療するのに、主として適切な食物、ビタミンまたはミネラル療法と休養に頼ると言うものだ。さらに、ものみの塔がはっきりと許可を与えていないものは「不適切」なのだと考える傾向もある。ものみの塔が特定の治療や行為に対して論評しないうちは、邪悪なものかもしれないと恐れ、疑問のある行動に巻き込まれる前に確認できるまで待つほうがいいと、たいがいは思ってしまう(Rogerson1969)。

 

 上記に加えて「外の」グループ、つまり未信者(ほとんどが医学的・精神医学的な助言をする情報源であるが)すべてに対する全体的不信がある。皮肉なことだが、エホバの証人の医師に対する不信も珍しくない。医療の専門職に着いている数少ないエホバの証人(各州に一人以上はいる)は「外の」グループに属する者に分類されると、ほとんどのエホバの証人は思っている。専門的な職業に着いている証人は、このような理由から、たとえ長老であってもいくらかなりとも、たいていは「世の」者とみなされる。エホバの証人の多数がつましい職についているので(保守や整備の仕事がおそらくほとんどの男性の典型的な職業だろうし、大多数の女性は家庭外のフルタイムの仕事には着いていない)、専門職にあるエホバの証人は、それが付き合い上のものだとしても、それだけでエホバの証人として劣っているとみなされる。これに関連して、よい教育を受けた少数のエホバの証人の間には、自分たちの中の稀有な専門職の人を尊敬する傾向があることも述べておかねばならない。

 

 精神保健の分野で働く少数のエホバの証人がふつうのエホバの証人に対してできることには限度がある(Onoda1979)。精神保健の分野で大学院の学位を取ったエホバの証人に対する一般の反応は、なかんづく、「この人は、神のもっともすぐれた知恵に背を向けて世の知恵を追い求めようとしてエホバの時間を盗んだのに、どうして排斥されなかったんだろう? 心正しい人を神の組織に導くために使えたはずの時間を無駄にしたんじゃないか」というのが珍しくない。このように思われてしまっては、エホバの証人たちをクライエントとした時に、効果的に治療するため必要な信頼感を築くことができるかどうかは、疑わしい。エホバの証人にとっては、証人になるより前に高い学位を取っているほうが望ましい。そうであれば、エホバの証人ではないときに進学したわけであり、それは単に無知のせいでそうしたのだからずっと受け入れられやすいのである。活発なエホバの証人が真理の中にいながら進学した場合は、「自分の間違いを充分知りつつ罪を犯した」ことになる。

 

 クライエントの考えが医学的のみならず神学的にもなぜ間違っているか理解を助けるためには実例を用いることが非常に役に立つ。たとえば、「神は私の心の病を癒してくださり、私を助けて回復させてくださる。だから私には精神科医は必要ない」といった思い込みは、タイヤがパンクして車を路肩に寄せ、車から降りてきた男の例を使って説き伏せられる。この男にはどんな行動が予想されるだろうか? もしこの男が車から降りてその場に座りこみ、タイヤを直して下さいと神に祈ったとしたら、ばかげているのではないだろうか? とりわけ、もしこの男がタイヤの交換法を知っているとしたら、神がタイヤを取り替えてくれるなどと私たちは予想できるだろうか? この男が自分でタイヤを交換することをこそ、私たちは期待するのだ。神は人が自分でできることをなさったりはしない、という考えのとおりだ。「神は自ら助くる者を助く」ということわざのとおりだ。この考えを支持するために、ものみの塔の書籍も利用できる。たとえば、ものみの塔は、よく、「祈りは行動の代りになりません」と述べている。

 

 

罪の許し

 

 歴史的に見ると、ローマカトリック教会の重要な機能の一つとして司祭による罪のゆるしが上げられる。この儀式が罪の感覚を軽減するのに非常に役立つことは研究で明らかにされている(Torrey1974)。尊大な人物から受容されていると伝えられると、自分を許し、自分が価値のある人間だという自己イメージの確立を促す。これらはいずれも、精神的適応のための大きな助けになるものだ。このような理由ゆえに、治療が効果的であるためには、患者は、自分に許しを与えてくれる人が立派で偉い人間だと信じられなければならない。であるから、教会による介入が役に立つのは、基本的に宗教的な人々に対してであり、また、その人々が尊敬している宗教的権威から介入される場合である。ところが、エホバの証人の長老は、このような機能を果たすことができにくい。それは、ひとつには、長老が得てしてエホバの証人に見られる典型的行動についてゆがんだ理解のしかたをする傾向があるためである。ものみの塔は、エホバの証人が極めて道徳的で、公正で、気遣いのある人々である――ひとことで言えば理想的なステレオタイプのクリスチャンである――というイメージを描くことに熱心だ。現実には、多くの証人の行動はたいてい、このイメージから大きくはずれている。

 

 子どものころからこの宗教の中で育ってきた人々や、おおぜいの証人と親しく付き合っている人々は、ふつうのエホバの証人が理想的な証人像とはかなり違っている事実に気がついてしまうようだ。実際には、エホバの証人の大多数は、大人になってから入信しているため、エホバの証人の行動を現実的に理解するために必要な、親密で正直なつきあいをする機会がまったくない。排斥や村八分を恐れたり、がっかりするような経験を重ねながら、彼らはやがて、仲間の証人たちに対して十分に正直になれない場合が多いと気づくようになる。正直にふるまうと、たいていの場合、証人仲間や長老から反動がくる。エホバの証人としての忠誠さは、お互いの近しい親密な友情を育むことが時にむずかしくなるようなものなのである。他の証人と親しくなれば、その人の欠点や不完全さ、そして重要なことだが、その人がものみの塔に対して抱いている疑念に気づくことができる。ほとんどの証人はお互いに対してよりも組織に対しての忠誠心が強いので、たとえ弁護士や医師としての職業上の倫理に反する場合でも「友人」の弱みを長老に報告しなさいという組織の取り決めに従う。その取り決めが破られ、組織を疑いの目で見ていると報告されると、特権の剥奪、うわさ、村八分の対象になり、さらには排斥されるかもしれない。

 

 結果はどうあれ、告げ口をされれば、信頼できる友人だと思っていた相手に対して幻滅の悲哀を感じるのがふつうだ。したがって、エホバの証人たちのほんとうの感情や心配、実際の行動は、もっとよく見せようとするものみの塔協会によって隠蔽されるだけでなく、個々のエホバの証人も隠蔽している。筆者が巡回裁判所の調査員の仕事をしていたとき、同僚の中に地元の会衆の一員であるエホバの証人がいた。そのとき、その会衆の別の証人が殺人罪で告発されたばかりだった。筆者が同僚に「テイラー(仮名)の家族はどうしてる?」と聞くと、同僚は、「もちろん元気だよ。すばらしい家族だ」と答えた。さらに聞いてみると、その同僚は、法廷に勤務している身でありながら、この家族が抱えている問題に気がついていなかった。最近この一家が集会に出てこなくなったことしか覚えていなかったのだ。この同僚は会衆の長老であり、全時間開拓者でもあった。だから彼がこの事件に気づいていなかったのは、当時ずいぶん広く報道されていたことを思うと、驚くべき出来事だった。これはさすがに極端な例かもしれないが、それでもそう珍しいことではないし、平均的なエホバの証人が他の証人の行動(ふつうの証人とそうでない証人の両方の行動)を評価させない一般的パターンが浮き彫りになる。

 

 エホバの証人たちは、ものみの塔を完璧に近い組織に見せたいと思っているので、違法行為があってもめったに口に出さない。事件が広く知られてしまった場合は、加害者とエホバの証人との関係については矮小化される。エホバの証人が犯罪に関わっていた場合には、「その人はその犯罪以前何ヶ月も何年も不活発だった」とか、「こんな殺人を犯したのだから、その人は本当は証人ではないんだ」と言って説明をつけることが多い。ものみの塔の環境で育った人が犯罪を犯して国中にその名を知らしめた事件がいくつかあったけれども、地元の会衆は、「その人たちが本当に真理を受け入れたことは全くなかったのだ――本当に受け入れていたら、告発されているような犯罪を犯せるはずはない」と声明を出すのが常だった。もちろん、これらの努力は、典型的エホバの証人が、証人の「あるべき姿」と一部の証人の「実際の姿」との深刻な不調和と見なすものを合理化しようとする試みなのである。たとえ有名な人でも、ものみの塔協会が抱く理想の証人のイメージに一致しない者は軽蔑の対象になる。協会は、1984年1月12日付けの手紙で、タレントのマイケル・ジャクソンを次のように書いている:

 

…バプテスマを受けたクリスチャン会衆の一員[でした]。しかし、彼がひとりのエホバの証人であったからといって、彼が歌ったり演奏したりしている音楽や彼のライフスタイルのすべての側面を、協会や彼が交わっている会衆が是認したり支持したりしている意味だと解釈するべきではありません……献身とバプテスマの段階に到達した人であっても、中には、脱ぎ捨てるべき「古い人格」を特徴付ける世の習慣や考え方をひきずっている場合があります(エフェソ4:22-24;コロサイ3:7-10)。これらの調整は、人が円熟に達するまで、バプテスマの後も続けなければなりません。クリスチャン的信仰は生活の道しるべであるべきです。私たちは「悪の口実」としてクリスチャン的自由を用いるべきではありません。―1ペテロ2:16

 

 その人が交わっている会衆の長老たちが、あらゆる手立てをつくして、彼が必要な変化を遂げるために援助をできると、私たちは確信することができます。一方、クリスチャン的愛を実践して、私たちは、彼が過去に行なった賢明でない行いを吸収する手伝いができます。一般にすべてのクリスチャンに求められていることは、明らかに、聖書的原則と調和しる彼にも求められているのです。エンターテインメントの世界で大成功を招いたことが彼の賢明でない決定や行動を強化してしまったのは不幸なことですが、これらを人生の手本とするべき例として見なければならない理由はありません。彼がエホバの証人と交わっているからといって、会衆のなにびとも、彼の音楽が協会の出版物に述べられているガイドラインの例外であると思うべきではないのです。そして、もし、若い人々が、エンターテインメント業界の誰かを手本として見上げるような気になった場合は、イエス・キリストが私たちの手本であることを思い出すのが賢明です。パウロは、「わたしがキリストに[見倣う者]であるように,わたしに見倣う者となりなさい」と述べています。これは、会衆の中の成熟した人を手本とするのが賢明であるという原則を示しています。―コリント第一11:1;ヘブライ13:7

 

 品位を下げる音楽を避ける必要については、「ものみの塔」1983年10月15日号の10-15ページを参照してください。流行を追ったり人間を偶像化することの危険については、「目ざめよ!」1964年12月8日号の5-8ページと、「ものみの塔」1968年5月15日号309-313ページの記事で論じられています。……

 

エホバの奉仕におけるあなたたちの兄弟

ニューヨークのものみの塔聖書冊子協会

    

 

 あらゆるところではなはだしい矛盾を目にしつつも、エホバの証人は頑強に信仰を続けようとする。これによって心の中に既に存在している葛藤は悪化するが、結局この葛藤は、理屈を付けたり、あるいは世俗の世界と証人の世界の両方から自分を切り離すことで緩和される。エホバの証人は、どのような扱い方をされているかにかかわりなく、疑念に対して何らかの内的葛藤を引き起こす。

 

 実際に起こった重大な不法行為やその心配を話したりすると、「未成熟」だとか「交わるのにふさわしくない」などというレッテルを貼られることが多く、その結果、村八分にされることも珍しくない。他人の告げ口をして、自分の内面の葛藤を軽くしようとしている。このような疎外がさらに問題を引き起こす。つまり、このような考えや悩みについて話すのを止めるか、あるいは、恐れや疑いについては一緒に研究をした、本当に信頼できる少数の限られた証人とだけ語り合うようになる。

 

 エホバの証人が訴えるもっともよくある精神保健上の悩みは単純な抑うつ、罪の感覚、そして緊張である(Penton1985)。ものみの塔協会は、正常な攻撃を語ったり問題にすることに代わる代替案をほとんど与えないので、攻撃性は心の内面に向けられがちになる。それによって、とりわけ、抑うつ、罪の感覚、不安、そして様々な体の病気が引き起こされる。もしエホバの証人がものみの塔の教義のどれかについての感情や疑いや疑問を口にすると、「弱く、未成熟で、信仰が足りない」とか「エホバの組織に全面的に献身をしていない」というレッテルを貼られてしまうことを思い出してほしい。他人を信用した上で何度か裏切られた経験をすると、エホバの証人は長老や他の証人に自分の悩みを打ち明けるのを辞めてしまう場合が多い。安心して話せる聞き手がいなければ、自分の感情を抱え込んだままでいるほかはない。そのために抑うつがひどくなり、ひいては口頭での攻撃、まれには身体への攻撃を引き起こしてしまう。エホバの証人の教義や教えには問題が多いので、衝突がふつうに生じているのは確かだ(『良心の危機』Franz)。以下にあげる事例で(ここまで極端なものは多くはないだろうが)共通した問題を示そう。

 

 コニーは38歳で、神が愛の神であることを信じたくてたまらなかったが、クリーブランドに住むこの女性の心の中にはいつも母の宗教カルトの警告が鳴り響いていた……。神はいつくしみ深いお方かもしれないと信じ始めたとたんに、動揺してしまうようだった。「こういうことがすっかり染み付いてしまっているんです」とコニーは嘆く。コニーは二度神経衰弱を起こしたことがあるが(一度目は13年前だった)、それ以後、彼女は9歳の時以来教え込まれた厳格な宗教的メッセージから脱け出そうと必死に努力している。9歳というのは、コニーの母親がそれまでとは違う宗教に改宗し、子どもを集会に連れていった年だった。コニーにすれば、子どもとしての生活が突然、週に5回の集会と家庭聖書研究と異教徒への戸別訪問のための訓練といった嵐に変わってしまった。集会では子ども用プログラムは一切なく、大人と一緒に参加させられた。「私たちは、罪と断罪と審判と試練について大人と一緒に同じ話を聞かされました。」コニーはそのすべてが大きらいだった―そしてそうすることに罪を感じていた。

 

 25歳で初めて神経衰弱を発症したとき、コニーは……神の期待にそむいてしまったと感じた。何年も病気が続くうちに、彼女の抑うつはさらにひどくなった。自殺を図ったり、排斥されるのではと、おびえたりした。母親からは、あなたはもっと神を愛さなくてはいけない、と言われた。コニーが数年前流産したことも、配偶者を失ったことも、みんなが忘れてしまっていた。カルトの活動に復帰したものの、コニーは挫折感でいっぱいだった。「私には、神が何を求めておられるのかわかりませんでした。もし私がこれらのことすべてを行なうことができなければ[神の罰を]受けるだろうと恐れていました……あまりにも混乱しておびえてしまって、トイレで吐いたこともあります」。結局コニーはこの宗教団体からドロップアウトし、やがて「悔い改めを見せない」という理由で排斥された。コニーの家族は、コニーと口を利かないようにとも命じられた。

 

 コニーがこの宗教と接触をしてからもう10年たつが、いまだに恐怖におびえて暮らしている。コニーにとって、信仰は虐待的なものになってしまい、しかも、あまりにも人生に影響を及ぼしていて、そこから離脱するのがむずかしいのである。その後、コニーは二度目の神経衰弱を発症、眠ることも、食べることも、水を飲み込むこともできない揺り戻しの症状にも何度か、悩まされた。ある牧師が、コニーの問題は母親の宗教カルトに関係があると示して助けの手をさしのべようとしたが、コニーは、このカルト以外のすべての教派は聖書を誤って解釈していると教え込まれていたために、この牧師は信頼できないと感じた。「誰を信頼すべきかなかなか分かりませんでした。ひどく混乱してしまったのです。色々な人が私に腹を立ててました。私の命は私の信仰にかかっていると教え込まれて育ったんです。信仰を変えるのはなまやさしくはないのです」。入院していた病院の中には誰ひとり、私の問題の対処法が分かる人はいないみたいだ、とコニーは言った。その後、昨年の夏に、コニーは、レオ・ブース牧師をゲストに招いた、宗教的虐待と依存についてのテレビ番組を見た。彼女は、フロリダにある依存症治療センターで働く聖職者と会うことができ、そして、そこで初めて、人々に対する神の無条件の愛について聞くことができた。彼女は、自分の子どもを愛していたから、その考えとの関係が理解できた。おかげで、前よりもっと安心できる気がするし、神は私を滅ぼしたりなさらないとどこか確信できる気にさせられたと、コニーは言っている。……しかし、コニーはどこかの宗教組織に属するという気にはまだなれないでいる。「心が敏感すぎて教会には行かれないんです。私はすごく怖がりなんです。……今でも神を怖いと思ってしまいます。ひしひしと怖さを感じることもあれば、ただ怖れる気持ちがなんとなくあるだけの場合もあります。……神が怖いという恐怖よりもひどい恐れは想像できません。人は、安心するため、助けてもらうために神に近づくんです。でも、私にしてみれば、罰するのを待ち構えてこうしたトラブルをことごとく引き起こします。そういう神がいるんです。」

(Tarjanyi1990)

 

 エホバの証人として留まりやすい人のタイプとは、「否定」、「合理化」、あるいは「投影」といった防衛機能を使える人だ。否定の例としては、心臓が人の感情の座ではないこと(ものみの塔協会の教えとは異なるが)や、べテル(ものみの塔本部)での過度の飲酒の問題など、「当たり前となった知識」に属する情報を、エホバの証人が自分の信仰のゆえに受け入れるのを拒むことがあげられる。この問題には多くの例があるのだが(協会の二代目会長J・F・ラザフォードとヘイデン・コヴィントンは重度のアルコール中毒の問題を抱えていた)、多くのエホバの証人はただ証拠を否定するだけだ(1942年デトロイトにおけるミシガン大会に関する新聞記事、『良心の危機』Franz著、およびPenton1985を参照されたい)。

 

 

エホバの証人と悪霊

 

 投影の例としては、エホバの証人の間の問題を外部の原因に帰する傾向が上げられる。特に、自分たちの敵と考えているもの、つまりカトリック教会や正統派の教会、そして、大なり小なり、世界のすべての国々に原因があるとするのである。そして特に、サタンがエホバの証人の普遍的スケープゴートとして血祭りに上げられている。エホバの証人は、自分たちの多くが非常に不幸せで、その状況に有効に対処できない、という事実に対して、合理化と投影を組み合わせる。それは次のように行なわれる:サタンの目的は世界中のすべての人をエホバに対立させることである(つまり、すべての人をものみの塔組織の外に留まらせることである)。だから、サタンは、組織の中にいる人間を組織の外に出すため、あらゆる手段を使って不幸にしようとする。基本的に、サタンが成功したから人々が組織の外にいるのである。組織の外にいる人々はサタンに捕らえられており、サタンがこの人々を「組織の外に留まらせ」、神の組織に入らせないようにするため、サタンは彼らを幸せにしておくのである。結局、サタンはものみの塔協会の「中に」いる人々をすべて不幸にし、「外に」いる人々をすべて幸福にしようとする。一部の証人がものみの塔協会内部の問題の説明として用いる論法は、概略以上のようなものである。この論法はエホバの証人の教義と完全に一致するものではないけれども、証人がかかえる問題の説明としてよく使われる。

 

 エホバの証人の集会では、できるだけ多くの人々を神の「真理」からそらすためといったサタンの主要な目的が繰り返し強調される(『ものみの塔』(英文)1969年533−536頁参照)。人が「真理」に関心を持ち始めたとたんにサタンの攻撃を受けるようになると、エホバの証人は信じている。エホバの証人と一緒に研究をしている人が、ちょっとでも反対したり抵抗したりすると、それはサタンから来るものだと見なされる(まるで、人間はより高い力にあやつられる将棋の駒にすぎないかのようだ)。エホバの証人は、救われる人間は自分たちだけだと信じており、従って、自分たちだけはサタンが取り込み損ねた人間であると信じている。最近の協会の出版物は、この教義を表に出さないようになり、おそらくは対外的イメージを改善するため、何世紀も昔に組織の外に生きていた人々が救われる可能性があるとさえ述べているが(たとえば『二十世紀のエホバの証人』(英文)1978年27頁)、この排他的な教えは、実際には、依然として教えられているし、信じられている(『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』1982年193頁,255頁参照)。

 

 ほとんどのエホバの証人は、悪霊とサタンはそこに存在しているだけに留まらず、それらが人間に影響を与える力(支配する力さえも)を持っていると固く信じている。しかし、概して、サタンの影響を一番心配するのは、社会経済的地位が低く、ノイローゼ気味で、それほど知性がない証人たちである。ちなみに、悪霊についてそれほど深刻に考えない会衆も(比較的裕福なところが多いが)あることはある。そうした会衆では、頭では悪霊の存在を知的には受け入れているが、それがライフスタイルや行動や振る舞いに大きな影響を与えることはないらしい。そういうものが存在するという以上のことはよく分からないのだから、考えすぎても意味がない、というのが彼らの考えだ。しかし、このようにリラックスした理解の仕方は、一般的ではない。エホバの証人には、サタンや悪霊のことばかり考え、事実上あらゆる病気や望ましくないできごとをそれらのせいにする人が多い。このようなことがどれほど信じ込まれているかを以下に示そう。

 

 クライエントは20歳になる活動家のエホバの証人の姉妹だが、自分には「悪霊がついている」と思って、誰もが極端だと思えるやり方で対処しようとした。少なくとも平均的な知性を持っていて、個人的なメイドとして堅実に働いている女性だ。当時エホバの証人の間ではハルマゲドンが差し迫っていると強く信じられていたために、彼女は11年生(訳注:日本の高校2年にあたる)のとき(1974年)に高校を中退した。彼女は、自分の精神的問題を次のようにとらえている:

 

私は悪霊にとりつかれています。自分で分かるんです。それに、私が自分の症状を話すと、兄弟たちも、悪霊にとりつかれているに違いないって言いました。でも、エホバは私の友、最良の友です。私を助けてくれるでしょう。エホバは私と共にいてくださいます。そうだってこと、分かってます。そして、エホバは私がこれを乗り越えるのを助けてくださっています。私が悪霊から自由になれるように助けてくださっているんです。

 

私がこの奥さんのために家の掃除にとりかかるとすべてが始まりました。ご主人はビジネスマンで、ご夫婦はすごく裕福です。だから奥さんは家事のために私を雇ったんです。奥さんは星占いをするので、物事が「見通せ」ます。奥さんが魔女だってことを私は知ってますし、一度そう言ってやりましたら、奥さんはすごくあわててしまい、それを否定しました。

 

私の今の問題は、真理を離れたある兄弟のことを好きになり始めた時に始まりました。私が彼について話をしたら、奥さんは、彼が考えていることを私に教えてくれるんです。で、それがあとになって、奥さんの言ったとおりだったことが分かったんです。だから、奥さんは魔女だってことがわかったんです。ふつうの奥さんなら、こんなことがわかるはずがないんですから。でも、奥さんの言うことが全部的中してるってわけじゃありません。違ってることもふたつやみっつありました。

 

私は彼のことが好きだったので、彼が私に影響を与えて真理から離れさせました。私は彼の言うことを聞いていたけれど、心の奥底では、彼が間違っていることが分かっていました。彼の言うことを私が本当には信じていなかったことを、エホバはご存知です。でも、彼に対する欲望のせいで、真理から引き離されてしまったんです。これから、私のアパートにある持ち物のうち、奥さんのところで働いていたときの持ち物を全部燃やすつもりです。全部悪霊がついてしまっているからです。服も、車も、新しく買いなおさなくちゃいけません。それに、悪霊から逃げ出すために、この州からも引っ越さなくちゃいけません。悪霊は本当に私の人生をめちゃくちゃにしてしまいました。あの元証人と関わりを持たせたんですから。けれど、私が悪霊の支配から逃れられるよう、エホバは助けてくださいます。きっと助けてくださると分かっています。あら、もう元気が出てきたわ!

 

 エホバの証人の大多数は、ものみの塔の指図をしっかりと守っていれば人はこころの病になど罹らない、と信じている。エホバの証人の信じるところでは、こころの病というのはたいてい霊的な問題であり、主に個々のエホバの証人の「霊的弱さ」なのである。しかし、現実には、こころの病にかかったエホバの証人の多くが、少なくともものみの塔協会に対して、非常に強い信仰を持っている。霊的に強い人々の精神病は、悪霊のしわざとして説明されることが多い。それも、たいていは、病んだ証人は悪霊にとりつかれていそうな物(いつもそうだとは限らないがたいていは古くて高価な物)を、そうとは知らずに持っていたのだろう、というだけの理由で説明される。ノーブル(1982)は次のように述べている:

 

 私たちはいつも悪霊のことばかり考えていたので、私は、悪霊をすごく怖がるようになりました。そして、私が病気で、抑うつ的で、自殺願望を持つようになったとき、悪魔にとりつかれているおそれのあるものを家中、必死で探したものです。あるときは、客間にかけておいた少女の絵を捨てたことがあります。少女の目が「すわった」感じだったからです。浴室をかねたトイレにはインディアン風の飾りがあって、壁には踊っているインディアンの絵柄の飾り板がありました。これはきっと何かある種のインディアンの神なのかもしれないと思って、はずしてしまいました。ある日夜中に目が覚めて、健康食品店で買ってきたハーブが何か有害な薬かもしれない、という考えが急に浮かんできて、怖くなって、アスピリンやタムズ(胸焼け用の薬)や咳止めシロップや何やかやと一緒に全部捨ててしまいました。薬が入っていた箱ごとゴミ箱に捨てました。

 

 私は、亡くなったときにパパが私に残してくれた美しいダイアモンドの指輪を持っています。ひょっとしたらパパに悪霊がついていて、悪霊にとりつかれた指輪を私に贈ったんじゃないかと思いました。一番いい対処法はダイアモンドをフォイルに包んで冷凍庫に入れることだって聞いたので、私はそうしました。ほんとに、私は具合が悪かったし、おびえてたんです。

 

 悪霊主義と霊的な弱さはある程度関連していると信じられることが多い。「悪霊がとりついている」というレッテルは重度の精神病に罹った人や、原因が理解できないくらいに、あまりにとっぴで変わった行動(つまり妄想や幻覚など)を示す人につけられる傾向がある。抑うつ、頭痛、精神的な緊張などは、精神的な病気・身体的疾病よりもありふれているし原因も理解しやすい。「霊的に弱い」というレッテルは、これらの比較的「わかりやすい」現象に対して与えられる。

 

 エホバの証人の間でよく見られるもうひとつの仮説として、精神病にかかった人は創造主を不快にさせたのであって、そのために神の怒りを招いた、というものがある。この考えは、病気はすべて、罪の罰として神から与えられた「呪い」か、サタンの奸智のどちらかだ、といった古代の考え方と同じである。エホバの証人は、このような信条をこのとおりに表現することはめったにないが、エホバを「不快にさせた」人はそのために「エホバの神聖な霊を奪われ」、結果として精神を病む、という言い方をすることはよくある。しかしこれは実質的に、病気と苦しみは罪に対する神からのあからさまな罰である、という考えと変わらない。

 

 エホバの証人の一人の姉妹は、自分から「エホバの霊が奪われるのをありありと感じ」られた、と述べている。その感覚は、「水が頭から吸い取られる」ようであったと言う。彼女は、最初に「声」が体の末端から出てくるのが聞こえ、それが腕や足に移動し、さらに胴体に移ってきて、最後に頭に達したように感じた、と述べている。ちなみに、彼女から聖なる霊が奪われる原因となった「罪」というのは、たまたま証言するチャンスがあったのに、そのチャンスを利用しなかったというだけなのだ! ノーブル(1982)は以下のように述べている:

 

エホバの証人として、私たちは常々、自殺した人には悪霊がとりついていて神の霊を失っていたと教えられて来ました。私は自分の経験から、エホバの証人には精神的な病気や感情の病気や悪霊主義についてほとんど何の知識もないと言えます。新約聖書には、悪霊に取りつかれた人々が『悪人だ』と述べている聖句はひとつもありません。すべての聖句が、この人たちは『病んでいる』と述べているのです。イエスは悪霊にとりつかれた人を『癒し』ました。その中には、七つの悪霊に取りつかれていたのに、のちに献身的にキリストに従ったマグダラのマリアも含まれています。イエスは、悪霊にとりつかれた人を病気とお思いになったのであって、悪人だとお思いにはなりませんでした。

 

 エホバの証人はエホバの聖なる霊を持っていることになっており、何かエホバを怒らせるようなことをするとその霊を取り上げられてしまうのだと教えられる。このような考えがあるから、多くのエホバの証人は、精神的不調を抱える兄弟に対して概して同情や心配を欠いてしまう。精神的な病気や精神的な失調の症状を示す人は、たいてい「何か悪いことをしたから」苦しんでいるのだと見なされてしまう。従って、この人たちは「悪い交わり」だから避けなければいけない、ということになってしまうのだ。人間の弱さによって神の聖なる霊を失ってしまうという考えがあるから、心を病んで苦しんでいる仲間から同僚の証人たちが身を引いてよそよそしく振る舞うといった事態が起こる。これがあるから、精神の病にかかった証人はいっそう調整に苦しむことになる。

 

 エホバの証人の教えによくある精神病についての中世的考えの中には、強迫的な自殺の衝動がその人の「外側」に存在するといった解釈もある。ものみの塔には、邪悪な霊から「自殺をしろ」とか、「悪いことをしろ」といったメッセージを受け取る人についての記事がよく載っている。まるでそういう話が事実であるかのような書き方になっている。その患者の意志とは異質な考えが存在するような感じというのは、精神病にとって珍しいことではないし、多くの症例では、その原因は明らかに患者の抱える問題や病気なのである。ところが、エホバの証人は、たとえ原因がかなり明らかな場合であっても、このような可能性をさっさと捨て去り、悪霊が問題の原因だという結論に飛びつく場合が多いのだ。次のような例がある:

 

病院に連れて行かれたときは、精神的にも感情的にもぼろぼろになっていて、お医者さんの前で何とか言えたのは「あたしは悪霊にとりつかれてる」ということばだけでした。心底、そう思い込んでいました。今になって考えると、私は邪悪な女性だったわけじゃなく、病人だったんだということがわかります。あの時は自分の考えに歯止めが効かなかったんです。止めようとしても汚い四文字語が頭の中で渦巻いていました。「神なんてだいっきらい」という考えが頭の中をかけめぐって、ヒステリックになってしまいました。そしてそれから、一番ひどくて恐ろしい思いがうかんできました――本当は神なんていなかったとしたらどうだろうって。しまいには、神がいないなんて分かったらどうしようってと思うと、怖くなりました。創造主を責めるくらいなら、いっそ死んだほうがいいと思いました。そして、神にそう語り掛けました。自分でも望んでない、こんな恐ろしい考えをする苦しみに耐えられませんでした。

 

自分の心はいわばメリーゴーラウンドに乗っていて、止めることもギアをニュートラルにすることもできないみたいに感じました。自殺をした人たちがこういう種類の考えに悩まされていたのかどうかはわかりませんが、その可能性はあると思います(それに、きっと、あまりにも恥じ入って、あまりにも悲嘆にくれていて、誰にも打ちあけられなかったでしょうし)。私が自分の身に起こった最も恥ずかしい、個人的なこうしたできごとを語るのは、この話が他の誰かの役に立って、その人たちが慰めと理解と、そして、特に、回復への希望が得られるように望んでいるからです。こうした過去の記憶は私にとっては、とても辛いのです。

 

 

 

 

 

悪霊についてのその他の教義と精神保健

 

 ものみの塔執筆者の世間知らずぶりは、時にぎょっとするほどのものがある。悪霊が女性を支配している件をテーマにしている『目ざめよ!』の記事(英文1976年9月8日号、20ページ)にはこう書いてある。「悪霊は、崇拝者に服を脱いだり、胸をあらわにして性行為を行なったりすることを要求することがあります。この理由は…(中略)…倒錯した欲望を満たしたいと悪霊が望んでいるからです」と述べている。この記事で扱われている女性たちの何人かは、悪霊に強いられたとおぼしき性的倒錯について事細かに語っている。自分自身の欲望や感情を人のせいにするのは、通常、精神科医が扱うべき状況である。この場合、投射が「悪霊に対して」行なわれている。このような投射、つまり、「私はやりたくなかったけど、悪霊が私にやらせた」という状況のことを、「統制の外的所在(external locus of control)」という。

 

 悪霊に関するキリスト教の歴史的な立場は、心や行動を制御できる前には人は喜んで外からの影響を受け入れるというものである。エホバの証人は形式的には同じことを教えているが、実際には、あたかも悪霊が悪霊自身の意志と目的に従って「人の心を乗っ取る」ことができるといわんばかりだ。悪霊が生きているという概念を認めているクリスチャンのグループはたくさんあるが、エホバの証人ほど悪霊の影響を強調するグループは珍しい。

 

同じ記事の中で執筆者はこう書いている。「サンパウロ精神病院の医師たちは、現在はエホバの証人となっている元祈祷師を呼んで悪霊を祓わせた。患者は明らかに癒されて病院を退院した」と書いている。この書き方だと、病院に勤務する精神科医は、悪霊の取り付きを精神病の原因として認めたとか、記事に出てくる祈祷師には実際に悪霊を祓う力があって、そうやって患者を癒した、とかいうことを認めている。悪霊が精神的な疾患の重要な原因であり、治療には祈祷が必要だという精神科医の結論も、エホバの証人である執筆者が、このような事件を無批判に受け入れてしまったり、治療者の治療技術に関して無理解である事実が見て取れる。

 

 精神科医が患者の土俵に立って患者と接しようとするのは、精神疾患の治療ではごく普通のテクニックである。もし患者が司祭に大きな信頼を寄せていて、司祭が罪を許すことができると信じているなら、患者を援助する上で効果的なテクニックは、司祭に患者の「罪」を許してもらうことだろう。このような手段を用いれば患者の罪の感覚が軽減され、精神科医は効果的に治療を行なえる。もし患者が、自分が悪霊に取り付かれていると強く信じ込んでいる場合は、患者の悪霊に対するこだわりを変えようとはしないで、自分が悪霊に取り付かれている、祈祷師を呼ぼうという考えをなんとかするのが一番いいと、治療者が考える可能性はある。何か小さな欠点のせいで自分には価値がないと思い込む必要はないんだと患者を説き伏せようとするよりも、こういうやりかたのほうが効果的で手っ取り早い場合が多い。基本的な問題は残るけれども。

 

 他にも同じような例がある。あるエホバの証人(巡回監督)が、医師の診察室で、『魔法・悪霊学百科』という題の本を目にした。この事典の著者は英文学の教授で、本の帯には「学者として著名な人」と紹介されていた。巡回監督は、この本には悪霊がついていると考え(悪霊についての本なのだから、この本は悪霊がついているにちがいない、という理屈だ)、その本があるというだけで、とてつもなく不安になった。医師が、著者のロビンズ博士は「魔女や悪霊や超自然的現象など存在するとは信じてはいませんと言ったところ、巡回監督は、「それこそ、その人に悪霊がついている証拠です!」と答えた。このような場合、この巡回監督の強い思い込みを変えようとするのではなく、本を取り除いてさっさと他のことに取り掛かるのがもっとも治療的な対応と言える。エホバの証人は、悪霊が特定の本を「媒介して」働く、特に、悪霊や魔術に関する本、それも、キリスト教世界の聖職者が書いたものが危ない、と信じている。たとえその本が悪霊信仰を否定するものであっても変わりはないのだ。だから、治療者は、この時点では、この点についてエホバの証人と議論しようとはしなかった。

 

 悪霊に関する宗教的著作は、「二重に」悪霊がついていると信じられているために、とくに忌避される。そのような著作は、まず、宗教界の人間が書いたものであるから悪霊がついている(エホバの証人は、自分たち以外の宗教はすべてサタンのものだと信じている)。そして、悪霊について書いている点でも悪霊がついているわけである。皮肉なことに、悪霊に関する『ものみの塔』の記事は、悪霊が取りついているとは見なされないのである! 心から信じているものが身体的健康にとっても重要な影響を与えることは、次の例からも分かる。

 

 腎臓の障害を持つ、エホバの証人の姉妹がデトロイト在住のエホバの証人医師エンフロイのところに回されてきた。この医師は姉妹のために、無輸血で手術をしてくれる外科医を見つけた。手術が行なわれたが、この姉妹は意識のない間に輸血をされた。その姉妹が健保組合からの明細書を受け取ったところ、明細の中に、輸血の料金が含まれていたので、自分が輸血を受けたことが分かってしまった。その姉妹は、まもなく、容態が急激に悪化して、心臓まひで亡くなった。その原因は明らかに、この姉妹が、輸血を受けたりしたら、必ずといっていいくらい体を損ねるとか、害をうけることがすごく多いのだと、頭から思い込んでいたせいでもあった。

 

 

性的な偏見

 

 性的な偏見は、禁欲的で過激な宗教によく見受けられるが、ものみの塔の出版物にも時々出てくる。「目ざめよ!」誌に掲載される、教義や宗教的主題をいささかでも含む記事は、ふつう、ものみの塔執筆者が執筆する(あるいは、執筆者集団の一員ではない証人が書いた原稿の場合は、ものみの塔の執筆者が書き直す)原稿であり、ものみの塔の公式の教義だけしか書かれていない。したがって、たとえ「寄稿」記事であっても、記事に書かれているのは純然たる教義であり、実際上、世俗の関心事にくるんでものみの塔の教義を示す方便なのである。そして、そのような記事に含まれている教義はすべて、組織から直接伝えられるものとして証人に受け入れられる。ものみの塔の出版物にはそうした例が豊富にある。次の記事の執筆者は、自分の経験をいくつか述べたあと、ブードゥー教の治療師をしている友人について次のように述べている:

 

……彼女が邪悪な見えない力の無力な操り人形になってしまったことがわかりました。霊に命じられて、彼女は、不道徳な女たちが自分の夫を誘惑して姦通を行なうように計らうことを強いられました。それから、霊たちは、彼女が自分の家で行なっている治療の儀式の一部として性的行為を行なうように要求しました。このような手段によって、病人は自分の病気を性行為を通じて霊媒に移すことができ、それによって「重荷を降ろされ」、癒される、という説明でした。また、霊たちは、女性の患者をレズ行為で治療するようにとも命じました。若い人たちについては、霊たちは、「性的コントロール」つまり、マスターベーションを奨励しました。…「これらの邪悪な御使いたちの性的堕落は実にきわめて明らかです」(『目ざめよ!』英文1976年9月8日号、20,21ページ)

 

 上で引用した『目ざめよ!』の記事にあらわされた執筆者の考えや、「悪霊に性的に攻撃されている」たくさんの人たちの主張は、どのように説明できるだろうか? この領域で心理学者は多くの研究を積み重ねてきており、少なからぬ心理学者が(明らかに全員がとは言えないが多くの場合)、上で述べたような現象は、「反動形成」と呼ばれる行動が原因であると考えている。反動形成とは、人が無意識に抱いている願望や衝動と正反対の行動を取るという、無意識下での防衛機構である。事実、これは、最初に使われる、最も不安定な防衛機構で、抑うつと密接な関係がある。抑うつも反動形成も、エゴ(自我)にとって受け入れられない思いあるいは衝動に対する防御である。どういう意味かというと、つまり、ある人が何か特定の衝動や欲望を抱いていたとすると、その人は、自分がそういう欲望を持っているのではないかという危惧を「覆い隠そう」として、それと正反対の方向に行動してしまうということである。臨床に従事しているほとんどの心理学者は、反動形成はきわめてありふれたものであると知っている。たとえば、ポルノグラフィーに対して活発な反対運動をしている人の中には、実際には無意識にこの種のものに惹かれている人がいるし、無神論者の多くは、実際には非常に宗教的な人々で、宗教が自分たちに押し付けてくると思われる求めにいくらかなりのも反発している(Freedman1975:262)。

 

 最も有名な例はキャリー・ネーションで、飲酒・たばこの喫煙や当時の女性のファッション、その他の習慣を激しく攻撃した(訳注:19世紀後半の禁酒運動家。酒場を斧で破壊して回った。)しかし、道徳と善の人として頭角をあらわす以前の彼女自身の私生活は、非のうちどころのないと言うには程遠い。反動形成は、受け入れがたい衝動から、その衝動を抑えるだけでなく実際にその衝動とは反対の意識的な態度や行動パターンを発達させることで自分自身を守ろうとする方法である。この理論は完璧なものではないが、ある種の行動の説明に役立つのは事実であり、精神的な問題を抱える多くの人の役に立ってきた(Coleman1964:100,107,223; Klob1978)。このメカニズムこそ、上に引用した『目ざめよ!』の記事で論じられている異常な現象の原因であると思われる。少なくとも、『目ざめよ!』の執筆者が最初から他の可能性を排除して、この女性の問題は悪霊が原因であると、かなり教条的に決め付けてしまっていることは明らかだ。ものみの塔協会による悪霊に関する教えの影響には、ほかにも次のような例がある。

 

 重度のうつ病、自殺念慮、それに若干の混乱状態があって、親友の勧めで一人の患者が治療者を紹介された。彼女はヒスパニック系で、太めで、不器量である。24歳だが、緊張したり気後れをするとくすくす笑って反応する。友だち付き合いをしている者はほとんどが14歳から19歳である。現在親と同居している。家族全員が献身したエホバの証人であると公言しているが、家庭の中には相当の敵意や不和、陰口が横行し、飲酒や薬物使用の問題もかかえている。

 

 現在、彼女は「非クリスチャン的行い」のために会衆による保護監察下に置かれているが、当人は、保護監察が始まって以来、「以前の悪い行い」からは足を洗ったと言っている。まだ保護監察を解かれていないのは長老たちが他の問題で忙しくて書類を書き込む時間がないだけだとも言っている。

 

彼女は、自分でアパートを借りて一人暮らしができたらずっといいと思っている。いまだにいろんな面で「あたしたち」(親類)の因習に染まっていて、メキシコ土着の色々な「信仰治療師」や踊りとも接触している。そのほとんどは祈祷治療の類いである。また、自分や家族の問題をすぐ悪霊のせいにする。てんかんを患っている自分の父親は、悪霊に取り付かれていると思っている。父親は、医師の診察を受けるのは悪いことだと思っていた。ある日、明らかに飲み過ぎたために、父親はひどい出血が始まった。息子は、他にどうしていいかわからず、父親を病院に連れて行った。父親は宗教的理由で輸血を拒否すると、医師たちは父親が輸血に同意するまでは治療しないと語った。父親は病院のベッドに横たわったまま、出血多量で亡くなった。

 

彼女は父親の死に目に会えなかったことに怒りを覚えている(そのときは仕事をしていて、後になるまで父親が死んだことを知らなかったせいだ)。皮肉なことに、彼女は父親が死んだのは、「悪霊が外に出ようとした」せいだと思っている。父親がある種の心霊術にふけっていたのは明らかであるが、彼女は、それを治療者に打ちあけられないと言っている。彼女のこのような説明は、おそらく、理想的な証人には程遠い家族の行動を合理化するためのものなのだろう。家族の大部分の者が排斥されたり、自ら断絶したりしている(非常に活発な証人もいる。中には長老や奉仕の僕もいるが)。

 

 精神医学の治療を妨げた最大の要因は、おそらく貧困、家族の素性、彼女の論理的な判断能力の貧弱さ、それに、これらの出来事を非常に神秘的で時に矛盾した方法(彼女自身にとっては満足のいくものに思えたかもしれないが、全部が全部そうだったわけでもなさそうだ)で説明をつけようとする性向であろう。治療者にとっては、そうした彼女の迷いを覚ます思考回路を解きほぐすのは非常に困難であった。証人たちは彼女も、彼女の父親も助けられなかったし、長老たちの悪霊に関する思い込みは、この家族が持っていた機能不全的な文化体系を強化してしまった。次の事例にもこうした要素のほとんどが、見られる。

 

 開拓者の生活を支えるため、エホバの証人である若い姉妹が個人宅の清掃の仕事をしていた。この仕事を通じて、彼女は一人の女性と懇意になったが、その女性が彼女や彼女の友人たちについて、「普通」には知りえないことを非常によく知っていると思っている。この女性がある人物の写っている写真を見ると、その人物についてたくさんの情報が分かるのだと彼女は信じている。また、この女性が人に「呪文をかける」こともできると思っている。姉妹はこの女性とは非常に親しい関係だと感じていて、長い時間を共にしてきたが、このところなかなか連絡がとれなくなったことに気が付いた。電話をかけても、他の人が電話に答えて今留守だと言うのだ。しかし後ろではちゃんと声がしているのが聞こえる。何度かその女性の家にも行ったところ、ご主人と話している声が聞こえるのに、誰も玄関口に出てこない。

 

 姉妹は、この女性が、姉妹の写真を見て自分の過去のことで何か嫌なことを発見してしまったために、自分を避けているのだろうと思っている。自分に背を向けることにしたのだと思っている。姉妹は、この女性が自分に呪文をかけるのではないかと非常に恐れていて、この女性にそういうことをする力があると信じきっている。姉妹は、何人かの証人に、そういうことができるものだと思うかどうか聞いてみた。証人たちは、それができる人は確かにいるが、その力はサタンから来るものだと言った。それでも、姉妹は、この女性に言われたことの一部、たとえば好意を寄せている男性(エホバの証人である血縁関係のある兄弟)についての予言などは実現してくれればと期待している。

 

 エホバの証人たちは常々彼女に「占い師」の力について警告したし、彼女もこの女性の力を強く信じている。分かっている限りでは、この女性は、目にした写真そのものや友人から聞いた説明など、与えられた情報から明らかに分かる情報以上、何も語っていない。

 

 おもしろいことに、協会自身、精神的な疾患の唯一の原因は悪霊だけにあるのではないと気が付いている。『目ざめよ!』(英文1969年6月19ページ)の記事は、低血糖が人間の行動やある種の精神的不調に影響を及ぼすという『神経疾患ジャーナル』1967年6月号のアブラハムソン博士の論文を好意的に引用して、次のように述べている。「これは、すべての精神的な病気が低血糖が原因である意味ではありませんが、見過ごしてはならないひとつの要因となる場合もあります」。この記事の18ページと19ページで、統合失調症の症状を訴えたが低血糖症と診断されたある患者の病歴を論じ、さらに、次のように勧めている。

 

低血糖を正確に診断するには、医師の診察をあおぎ、検査してもらうのが一番です。自分の病気を自分で診断しようとするより望ましい方法です。そして、もし低血糖であることがわかったら、その治療に最善の食事療法を医師に教えてもらいましょう。

 

 この記事は、おそらく、医師であるエホバの証人が、エホバの証人によくある態度をいささかなりとも変えようとして書いたものであろうが、残念ながら、多くの証人には、読んでもらえなかっただろう。『目ざめよ!』を丁寧に読まない証人は多いし、よく読んでいる証人はおそらく、ふつうのエホバの証人的な態度とは違う態度を取っている。『目ざめよ!』を読んでいる者はエホバの証人があらわしがちな深刻な問題にはそれほど悩まされていないとさえ言えるかもしれない。私は、エホバの証人に関するある調査で、協会の雑誌の記事をひとつかふたつ読む人が約三分の二、ほとんどの記事を読む人が13%、全部読む人が4%以下であることを知った(標本数:125)。このような読まれ方は並と比べて、悪い実績ではない。ある研究によると、平均的なプロの教師や医師は自分が購読している専門誌の各号につき、記事をひとつしか読まない。ほとんどの専門誌は月二回あるいは四回発行であり、『目ざめよ!』は月二回発行なのだから、多くの証人が、非エンターテインメント系の読み物を、一部のプロの専門家よりもよく読んでいるということになる。ただし、この調査のサンプルによれば、普通の専門職の人々は、一年に約5冊の本を読んでいる。平均的なエホバの証人は未信者の本をめったに読まない。ほとんどの証人は、要求されるエホバの証人の本を、年に二冊か三冊読むだけである。平均して6%の証人が未信者の本を年に一冊読んでおり、その残りはものみの塔の出版物しか読まない。

 

 

未信者からの敵意とあからさまな迫害

 

 エホバの証人の感情面の健全性と精神保健を左右するもうひとつの要因は、その創設以来ほとんど世界中でエホバの証人が味わってきた迫害である。証人は迫害について誇張しているかも知れないが、迫害があることは事実であり、深刻な場合もある。非西洋諸国の一部では動物のように追い立てられ、何千人もが殺された。しかし、ふつう、迫害は精神的なものであり、ものみの塔協会は、証人たちを自分の権威に服させるためにこのような反対勢力を「脅し」として利用している(同じように協会は悪霊主義も利用している。)

 

 信仰の自由の原理にのっとって建国された合衆国内でさえ、エホバの証人は時に厳しい迫害を受けてきた。司法長官は1940年6月16日のNBCの全国放送で次のように述べている。

 

……エホバの証人が何度も襲われ、叩かれています。彼らは何の犯罪も犯していないのに、暴徒はそうと決め付け、リンチを加えています。司法長官は、これらの暴行に対し、直ちに捜査するよう命じました。国民の皆さんは、油断なく用心し、なによりも、冷静に、正気を保たねばなりません。暴徒の暴力は政府の職務をとてつもなく難しくするものであり、許されるものではありません。我々は、ナチスのやり方を真似てはナチスの悪には打ち勝てません。

 

 さらに、『米国公民権連合』(1941:3-4)は次のように述べている。

 

 モルモンへの迫害以降、エホバの証人ほどひどく攻撃された宗教的少数派はいない(特に1940年春と夏はそうだった)。この時期がエホバの証人への攻撃のピークだったが、敵意と差別はここ数年いまだに衰えていない。

 

 司法省で検事がエホバの証人に関連してまとめた文書および『米国公民権連合』誌によれば、1940年には44の州で335件以上の集団暴行事件が起こっている。これらの事件に巻き込まれた大人と子どもは、1,488人に及ぶ。

 

このような極端な暴動の原因は、ヨーロッパでのナチス軍の成功によってかき立てられた「愛国的」恐怖と、米国も侵略されるという思い込みによって全国を席巻したパニックである。カリフォルニア州からメイン州にいたるまで、このような感情がむき出しになった……。

 

 アメリカにおけるこのような迫害の生々しい実例をホワイト(1967:323-325)が次のように記録している。

 

6月3日の最高裁決定の直前だった、1940年5月、まるで号令に従ったかのように、合衆国内におけるエホバの証人に対する迫害は、これまで彼らが経験したことのない極度に達した。というより、事実、今世紀この国でどのような集団も経験したことのない激しさであった。第一次大戦以後、エホバの証人がもっともひどい迫害を受けた8年間であった。…1936年の逮捕者は、ジョージア州ラグランジュでの176人一斉検挙を含めて合計1,149人になる……。

 

 この時期は、1940-1943年の騒動のほんの序曲に過ぎなかった。1940年には、逮捕者数は3,000人に達したが、反対勢力のほとんどは逮捕が合法かどうかにはこだわらなかった。集団による暴行事件は600件あった……テキサス州サンベニートでは、1940年5月20日、17人のエホバの証人が町から退去を命じられた。しかもそれは米国在郷軍人会と海外戦争復員兵協会がナチスに対して勝利したかのように報道された。

 

 エホバの証人は破壊活動分子だ、いや、それどころかナチスだ、といった主張のせいで、エホバの証人にとっていろいろと不利な判決が出され集団的な暴動が続発したのだろう。エホバの証人が直面した苦難を描くために、ここで3つの事例を挙げておこう。

 

メイン州セイコの王国会館が(1939年10月)暴徒の焼き討ちに遭い、証人たちはケネバンクに移動した。新しい王国会館どころか町からも追い出してやると、証人たちは警告を受けたが(1940年6月8日)、最寄りの警察も、州警察も、それらの脅迫について知っていたにも関わらず、支援を拒否した。暴徒2,500人が王国会館を襲撃したが……証人の側も自衛のため、襲撃者のうちの二人を銃撃し、片輪者にさせた。襲撃者のうち、二名が放火の疑いで逮捕されたものの、証拠不十分で釈放された。6人のエホバの証人が殺人未遂で逮捕されている。……これもメイン州の事件だが、郡保安官代理が自動車のバネでエホバの証人に暴行を加えようとしたところ、エホバの証人の銃撃を受けた後、死亡した。アーカンソー州グレンウッドでは、約50人の暴徒が5人のエホバの証人を襲撃した。5人は果敢に抵抗したが、成り行き上、ロイ・ヒューズ牧師が鼻の骨を折られたため、牧師は5人を当局に逮捕させた。暴徒は一人も逮捕されなかった。

 

 大部分のエホバの証人が、生命を落としたり、失業したり、拷問されたり、あるいは何らかの迫害を受けるのではないかと、不断から恐怖の中で暮らしている国もある。迫害が主に心理的なものであるとしても、正気を保って生活しようとしている個人の生活を破壊する可能性がある。エホバの証人は世間の人たちからの一般的な敵意を鋭く意識している。ものみの塔は信者を一層活発な活動に駆り立てようと、このような悲しい状況をある程度利用している。ものみの塔の公式出版物には、吐き気を催すように、迫害や身体に加えられた拷問の生々しい記事がよく出てくる。協会は、このような迫害がどこででも――アメリカやカナダでさえも――起こりうる(事実、それは起こった)と常に強調する。「いつ何時やられるかもしれない」迫害についての生々しい演技が王国会館の演台で演じられ、いわゆる自由な世界でまもなく激しい迫害に合うかもしれないと教えられる。これらのすべてが、それでなくてもすでに人生にある程度不安を覚え、恐怖に悩まされている人々を、さらにいっそう大きな不安と恐怖に陥れてしまう。最近の『目ざめよ!』誌(英文1972年12月8日号、12-13頁)は次のように述べている。

 

……証人たちが党員カードを買うのを拒んだところ、若者らは塩と唐がらしをまぜたものを証人たちの目にすり込みました。ある人たちは、釘のささっている厚い板で背中とやでん部を打たれました。痛さを表した人は、さらにひどく打たれたあげく、「神に来てもらって救ってもらえ」と言われました。そのうえ、彼らは1本のびんを割って、割れたガラスの破片で何人かの男子の証人たちの『ひげをそり剃り』ました。9月22日、ブランタィア地区のジャステニ・ムクフナは殴打されてついに片腕を折られました。

 

マラウィ湖南端のケープ・マクレアで、証人のひとり、ゼルファト・ムバイコは草の束をからだに結きつけられ、その草に石油をかけて、火をつけられました。彼はそのやけどがもとでなくなりました。…暴徒のしわざは、残忍をきわめ、エホバの証人で年齢や性別のゆえに容赦された人はいませんでした。リロングウェからは全員がのがれえたわけではありません。証人のひとり、マゴラ夫人は身重たったので、速く走ろうにも走れませんでした。彼女はマラウィ会議党の党員に捕らえられ、市場の近くで多数の町民の目の前で激しく殴打され死亡しました。だれひとりとして彼女を助けようとはしなかったのです。……

 

ブランタイアの南のタトンダ地区では、スミス・ブバラニとその年老いた母そのほかエホバの証人の男女が青年同盟の会員たちに殴打され、失神したまま地面に放置されました。青年同盟の会員のひとりは証人たちのポケットをさぐって、ある証人のお金を見つけ出し、それから、その金で証人たち各人のために党員カードを買ってきて、それぞれの証人の名前を書き込み、地面に横たわっている失神した証人たちのそばに投げつけました。そして、青年同盟側は、証人たちは今や屈服し、信仰の点で妥協したと言いました。ところがスミス・ブバラニの母が意識を取り戻して党員カードを見るなり、たとえ死んでも党員カードは受け取らないと断りました。すると人びとはまた彼女を殴打し、再び失神させました…

 

カスングのモトンソ村の17歳になるラハブ・ノアは述べました。「1972年9月26日、私たちは、若者たちが村々を回ってエホバの証人を襲い、証人たちの家や資産を破壊しているという知らせを受けました。……狭い道の途中で20人ほどの一群の人びとに出会いました。彼らは党員カードを見せるよう要求しはじめました。私たちはひとりと党員カードを見せることができなかったので、彼らは棒やこぶしをかざして私たちを打ちはじめました。次に、私たち全部を裸にして、さらに打ち叩きました……数人の者たちに手足を押さえられたうえ、他の者たちによって強姦されました。私は8人の者がひとりずつかわるがわる私を犯すのを見ました。……彼らは私をさんざん打ったあげく、私たちを放置して去ってゆきました。あとでわかったのですが、私たちのグループの他の4人の姉妹たちもやはり強姦されました。」

 

リロングウェのニヤンクフ村のフナシ・カチパンディは彼女の経験をこう述べています。「1972年の10月1日、エホバの証人が襲われているという報告を聞いたので、私はザンビアに逃げることにし、……ほどなくして、見知らぬ若者たちの一団につかまりました……私の目の前で、5人の若者がかわるがわる私の娘を輪姦しました……私は妊娠9ヶ月の身重で非常に弱っていましたので、私を犯すようなことをしないでほしいと訴えましたが、その男は一片の人情も示してはくれず、、私の娘の目の前で私を強姦しました。それから、彼らは私たちを置いて去って行きました。私はこれらのことを警察に報告しました。警察側は私たちの述べたことを記録に取っただけで、何もしてはくれませんでした。翌朝、私は子どもを生み、……

 

  このような事件を読むと、エホバの証人が身の安全を感じるにはほど遠く、悩みが深くなり、心配のたねを増やすだけである。しかも、上記のような事件について、協会は、「これらの事件は例外ではありません。記録された何百という事件のほんの数例にすぎません」と述べている。

 

 

 

まとめ

 

 エホバの証人の間で見られる高い精神的な疾患の罹患率に影響していると疑われる要因がいくつかある。それらは、次のように要約することができる。(1)過度の厳格さ、特に、数多くの必要な掟を守らせることに関して。その一部は非常にささいなものである。(2)精神を病んで助けを求める証人に対する、ものみの塔協会や長老や証人たちの不適切な反応。助けようとしてかえって害を与える場合が多い。(3)自分の悩みを打ち明けると厄介なことになるのではないかという怖れ、および、正直な疑問を口にすると本当にもめ事を起こすことに気が付く。(4)悪霊や一般的な悪霊信仰に対して過度に強調する、あるいはそれにこだわる。エホバの証人は、サタンが、あらゆる努力を払って自分たちの人生を悲惨なものにすることによって、神の組織から引き離そうとしていると信じている。したがって、「真の宗教」に属する人々は、こうした理由から、もっとも深刻な悩みや苦しみや病弊や心身の病に悩まされている。こうして、ひとつの宗教集団が神の民であることを「証明」する意味を持つ。(5)一部の地域で、また、過去の一時期、迫害が現実に起こり、迫害への恐怖がエホバの証人の精神保健に悪影響を与えた。次の章では、エホバの証人の高い精神的な疾患の罹患率をもたらすこれ以外の要因を考察する。

 

4章終り


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