第1章
エホバの証人と精神衛生の問題
「エホバの証人は世界中で一番幸福な人たちです。誰よりも精神科医に罹る必要がありません」――このような主張は、証人たちからも未信者からも何度となく繰り返されてきた(例えば「目ざめよ!」
1960/5/8)。ざっと見ただけでは、未信者がエホバの証人を「幸せな人たち」と結論を出してしまうかもしれない。それでもここ最近は、多くの研究者たちが全体的に違った評価をしてきた。研究者たちはエホバの証人の中にはこころの病が非常に当たり前のように見られるという結論を出している。心理学のトレーニングを積んできた現役の証人さえもこの問題を認めてきた。私が手紙をやり取りしてきた現役の証人であるカウンセラーの全員が証人の心の病に罹る率が高いことに同意をしている。論文に書いている者もいる。ラリー・オノダ博士はエホバの証人の長老であるが、証人の抱える問題に関して次にように語っていた。「私の経験から言うと、エホバの証人の精神衛生の問題は最近ではどこでも共通して見られるようになった。精神病とノイローゼがますます当たり前になっているようだ。世的な専門家の入院治療と通院治療は状態を悪くさせている。こころの病の問題を抱える兄弟たちがネットワークを組んで証人のトラウマ的問題に対処すれば、その効果は大きい。私は長老として、会衆や委員会、地域監督、巡回監督と相談しても良いかという質問を受けてきた」。この示唆は、協会から断固として跳ね返された。ジョー・アーネットからの手紙には次のように書かれていた。
「私たちの兄弟の中ではこころの病の問題が起きる件数が明らかに増加している。最近の出版物の中にその件が書かれていることからも分かるように、協会もそれを認めている。心理の専門職にある兄弟がなぜ困難を覚えるかといえばそれは兄弟に対する教育のせいだと思う(何らかの精神衛生が有益であり、必要であること、こころの病は世の施設で十分に治療できることを長老たちに教育すればいいが……」。
このように専門的職業についている証人のカウンセラーは協会の非合理的な政策を試す経験をして失望したと証言している(ごく少数ではあるが)。そうした努力は協会から厳しく弾圧された。オノダ博士は、さらにこころの病に対する協会の教えに共通するある態度を書いている。「進んで兄弟たちを教育すべきだ。精神衛生をこきおろすだけではだめだという点では一致している。不幸にも心理療法を背教者扱いしたり、悪魔主義の仲間だと思っている者もいる(実際に多数の証人がそうだし、それは長年にわたる協会から直接来ている教義だ)。個人的な経験から言って私が長老であり、心理学者だと分かると、友人の多くと意見の衝突を見る。私の立場を心理学者としてだけ捉えると私の霊性が疑われる。私の世的な職業を明かすことに関しては慎重にならざるを得なくなっている」。
証人の専門家の年次総会(在シカゴ)に提出した報告書では、多数のエホバの証人が重度のこころの病にかかっていると断定していた。五世の証人、ジェームス・ペントン博士の論文を読むと、協会のためにある書物を出版したときに衝突が起こり、組織から追放されたと書かれている
証人生活自体、必然的にこころの病の程度に関係する特徴的要因がある。熱心な開拓者は献身の心を抱いていても、身体的にも、健康の面でも、精神衛生の面でも組織の犠牲になる要因を多く抱えている。長老も、奉仕者も、自ら、熱心になるよう励ましている。間違いなく、自己犠牲を強いるクリスチャン教義が非常に献身的なエホバの証人に重度のストレスを引き起こしている。同時に、献身さを表している人たちあるいは「過剰に高潔」な人たちにとっては、頑固なまでの信心深さが有害な効果を及ぼしている。
統治体は、こうしたことはすべて承知している。過去十年間、証人でもある法律家、医師などの専門家たちは、統治体の代表者も同席した上で年一回の非迂回の会議を開いてきた。信仰に関する法律的な問題や医学的問題を議論し、統治体の会議に提案するためである。この会議でカルフォルニア州の心理学者、ローレンス・オノダ博士は未公開の論文「こころの病のケアの選択」を提出した。そこでは、証人が関わる多くの精神医学の研究に注意を向け、次にように述べている。
エホバの民がこころの病を抱えている理由を考えてみよう。次のような言葉を誤解している人たちがいることに注意を払わなければならない――私はエホバの証人の本当の組織を深く愛し、尊敬し、献身している。このことばは、事態を良くするどころか、すでに存在している問題をさらに生じさせ、いっそう悪くしているのかもしれない。どんな教義が問題を悪くさせる原因なのだろうか。それは「罪」だ。エホバの民は高潔な基準に直面し、強い心理的ストレスが加えられている。「世」的な人は、もし罪を感じさせるなら、それを取り除けという。しかしながら、私たちは家庭でも、日常の生活でも、一人でいるときも、高潔なまでのクリスチャンの行為を維持しなければならない。私たちは罪を感じないでは邪悪な考えを持てない。もし証人が錯乱状態になると、過剰なほどの失望感を覚え、自分の至らなさを感じる。心も、体も、考え方も、完全な域には到達できないからだ。基本的に、「友人」たちの間には、エホバを喜ばすために懸命になり、精神的な病気にかかってしまう者もいる。
証人の精神衛生を議論するとなると、全体的に宗教との関係は避けて通れない。多くの精神衛生の専門家たちは、宗教には批判的だが、その矛先は、全体的な宗教ではなく、重点的に特定の宗教行為や実践行為に向けられる傾向がある。例えば、フロイトとその弟子たちは宗教に批判的だったが、信仰の深いところまでは考えなかった。むしろ、大衆向けの宗教や独善的な宗教に対しては特に批判的だった。バプテスト派の牧師で宗教と心理学を研究したオーテス博士が書いているように、世俗の人が「宗教」と呼んでいるものは大概、病的である。さらに、純粋な宗教に奉仕した経験があると、励まされたとしても、この種の病的な宗教を弁護する気にならないと付け加えている。研究者の多くは、「個人にとって最も大事な機能を構成する精神的な平安に貢献するのが宗教である」と認識している。
著者はキリスト教の熱心な支持者であるが、現代のアメリカのカルトの病的な実践活動には公式に反対している。この論文は特定の信仰と実践活動には批判的であるが、人生の基本的な現実を宗教で解決することは批判しない。キリスト教の伝統には非常に明白な心理学的な知恵が含まれている。宗教が病的な状況に陥るとすれば、たいていの場合、この忠告が守られていなかった。人への愛(キリスト教の創始者が「二番目に大切な戒律」と教えたもの)を持っていない者は、アメリカでの宗教生活のグロテスクな一面を調べられないし、すべて宗教は素晴らしく、健康的であると納得している。私たちの関心は、「宗教と狂信の、ある種の関係」である。現代の狂信の例は、1978年にガイアナで900人以上の人命を奪った人民寺院の大量自殺である。
牧師や訓練を積んだ精神科医、医師がこころを病んだ証人患者に対応するときには、患者の精神衛生や宗教に対する態度を質問する際に協力的になると前進する。それを知ることが肝心である。結局、意思疎通がないのである。不幸にして、一人の人間でもあるし、信仰体系も違うのだから、証人の側にも、精神科医の側にもお互いに抵抗感を持っているのが普通だ。証人の側のほうに強い抵抗感があるのだが、未信者が証人と同じように反応していいわけがない。トレーニングを積んだカウンセラーは抵抗の源泉を理解し、それについて話し合おうとしなければならない。
必須ではないが、牧師も、宗教家も、情動的な問題と精神衛生の問題を理解するためには、こころを病んだ人たちと接する経験がとても役に立つ。南バプテスト神学校のプログラムでは神学生がケンタッキー州立大学と協力して重度の精神病患者に奉仕することが求められている。この訓練の中では患者が症状を大げさにし、精神異常の症状がはっきりしていて観察が容易であるから、患者との接触が最も有益だと分かっている。治療が目的ではなく、初期の精神異常の段階を認識し、深刻な動揺に陥らせるような後天的な悪習慣を理解する能力を発達させることに重点が置かれている。これは興味深いことだ。この知識は重要であるから、この介入は問題を沈静化する方向に働く。牧師が多くの人たちの人生に強い影響を及ぼす点から見ても、最低限、信者たちの精神衛生に悪くは働かないはずだ。間違いなく、牧師らの知識は信者を助けるために用いられる。
過去におけるエホバの証人に関する調査
証人に関する書物やパンフレットのほとんどは、その教義の問題を重点的に取り上げている。それは理解できなくはない。外部の者はその情報源をものみの塔協会の出版物に依存し、証人についてはほとんど知らない。教義の問題や一般人向けの問題だけ書いているのは仕方が無い。未信者の研究者で現行のものみの塔協会の出版物や未信者の書いた書籍のほかにも、もっとも古いものみの塔出版物のほとんどや未信者が書いた大量の入手困難な学術文献を読んでいる者は少ない。
著者は、過去にものみの塔協会が発行したほとんどすべての文献のほかにも、未信者の書いた書物、証人に反対の立場の人、証人に賛成する立場の人が書いた書物を大量にストックして読んでいる。加えて著者には長い証人生活の経験があるから未信者ではできない洞察が可能である。証人として生きた者だけが、その経験と意見を余すところ無く言える。この特権は正確な一般概念を書く上で重要である。私以外の研究者は証人の精神衛生に関しては簡単にしか取り上げていなかったから、著者は必然的にこのテーマでは主に調査に重点を置いている。読者はそれを忘れてはならない。
証人を研究する上での問題点
ものみの塔協会と協会を取巻く周囲の状況が証人にどんな結果を及ぼすかを考えると、それには肯定的な結果と否定的な結果とがある。不幸にも、ものみの塔協会の教義が信者に及ぼす影響の研究は容易ではない。その主な理由は、ほとんどの信者が改宗者であり、その宗教は特定のタイプの人たちを引き付ける証拠があるからだ。組織の中で育った人であっても、特定の者だけがその縄張りにとどまる選択をする。少なくとも過去には強情な性格の者が組織にとどまったからであり、信者は勧誘されて入るからでもあり、程度の低い教育に甘んじ、社会の下の層にとどまるせいでもある。後でも述べるが、上昇志向が強く、柔軟な思考の持ち主は脱会する傾向が強く、その直接の原因はものみの塔協会の教義である。
ものみの塔の教義がどれほどの影響を及ぼすかは、個々の信者によって違うし、その人の個性に依るし、個性と全体的な周囲の状況との関係(未信者と信者の)に依存する。ものみの塔協会の活動の中には健全な精神衛生に貢献する要素もいくつか識別できる。ものみの塔協会はそれを好んで論じる傾向があるから、それらの要素は容易に分かる。情動面でのバランスを維持するそれらの要素は証人特有なものではなく、小規模の閉鎖的教団に共通している。
第一に、社会的需要は小さなまとまりのある社会的集団に属することで満たされる。集団が信者を感化する力を維持するために教団は信者数がおよそ180人を超えると分割される。たいていの独特の友愛的な組織は同じような必要を満たすが、証人は高度に社会的需要に合わせられる。「私たちは『真理』の中で生きている神の民であり、未信者はまもなくすべて滅ぼされるべきサタンの事物の体制の一員です」という閉鎖的な信仰は卓越した組織の一員であるという自覚を強化する。証人は、すべての未信者とは違うんだと鮮明に自覚する。そのようにして集団内の団結を強固にし、それが友愛的な社会的集団を発展させる素地となる。そして、証人のほとんどの実践活動が集団内の団結を強化する。バプテスマを受け、会衆の集会には定期的に出席し、長ったらしい禁止事項を守り、戸別伝道や証活動に活発に参加しなければならない。それらの活動を通して、証人を他の社会集団や宗教から隔離させる。経験していないことを習慣化するだけだが、このような時間を浪費する働きを継続するから、のめり込む度合いが深くなる。証人以外の人はそうは感じていないけれども、証人は発展途上の活動の活動家ではない。家族的な宗教行事に受動的に従っている。集団の相互依存関係を強化し、家族同様の社会的関係を発達させている。
現代の世代の証人は地上で永遠の命を持つという目標を信じると、それは情動的調整として作用する(特に病気や老衰、死が迫っているとき)。ほとんどの宗教は、人類の永遠の家は、漠然とした場所で、あいまいな、どちらかといえば神秘的な場所にある(普通、ほとんどの信者からは天国と呼ばれている)と教える。証人は死後を望んでいるのではなく、現在の身体で永遠に生きることを望んでいる。たいていのキリスト教のように救われる者が天で永遠に生きるとは教えていない。文字通り地上で生きるのだ。現在生きている者は、完全な体で、すべての邪悪な者・不完全な者が取り除かれた楽園で永遠に生きる可能性がある。年齢に関係なく、ほとんどの証人が抱く死の恐怖は大幅に緩和される。健康であっても老いた証人は、少なくともこの後、数年は生きられると信じている。1876年の発足以来、証人は「ハルマゲドン」(罪人が滅びる新世界)が2年以内に起こると期待している。
証人は百年以上、常に「ハルマゲドン」を期待して生きてきた。1800年代後半から、このカルト信者の大多数は決して死することなく、起きるはずの大戦、ハルマゲドンを無傷で生き残ると信じていた(それもすぐに到来すると確信して)。その高邁な理想像は病気にかかったり、不幸な目に遭ったり、困難な事態に陥ったときは強化された。難局はハルマゲドンが近いしるしだと信じていたからだ。証人はハルマゲドンが起きる時、永遠の命を保障されるが「忠実である」という条件が付いている。新世界での生活は現在の事物の体制とは根本的に異なっている。しかし少なくとも、初めの内は現在と似ている。徐々に進化する。主に、王国の権威下にある人の努力を介してだ(全体は新しい事物の体制に入る)。将来のこの考えは、死や病気や不幸に直面したときに特に強い情動的な調整機能として作用する。証人の最大の関心事は、キリストの統治する千年期が終わるときである。そのとき「ほんのしばらく」サタンが解放されてハルマゲドンが起きるのだ。証人の間で流行っている信仰では、もし第一のハルマゲドンを生き延びたら、この最後の「試験」に合格する見込みがあるらしい。このため、この最後の審判はふつうの証人にとっては恐怖を誘引する。
証人になると人が生きる目的に対する需要を満たす
人生を有意義にしたいとか、目標のあるものにしたいと、人は何らかの希望を持つし、何らかの働きをするはずだ。それが知的なものか、情動的なものか、霊的なものかもしれないし、あるいは身体の強化であるかもしれないが、情動的な健全性を保つためには、目的思考の行動が大事だ。証人になるとこれら重要な需要が満たされる。
ものみの塔協会は月五回の集会とその「クラス」に必要な準備をさせて、「知識を得る」ようにと、強調する。すると、知的な成長が起きる。月一回書かされるレビューは証人に学習計画の見直しをさせ、知的な到達感という報酬となる。集会で話者からの質問に答えるが、それは大きな見返りとなる。見返りがあってこそ、学習したことを研究し、理解し、正しく繰り返す必要のある知的な達成感が促される。
霊的な成長の感覚は教義上の概念を深く考えた上で生まれる。この成長のために祈りと個人的研究が霊的に強調される。証人が「霊性」であるかどうかの評価は難しい。だから、一般的な、個人的な善良さが指標として使われる。証人になって情動的に成長しても、それは、それほど強調されない。
実践活動の成長
少なくとも必要な宗教活動に関係する実践的な活動が強調される。少なくとも週一回の集会は、優れた証人になるための平凡な場面を想定している。内容は戸別訪問のやり方の改善、証活動の技巧の向上、共通した反対意見の受け答えであり、最近は家庭生活の改善、証人活動などの活動にもっと多くの時間を割くことである。
前述したとおり、強烈な目標志向が証人の特徴である。ものみの塔協会が強調するように、証人には人生において明確な神から与えられた目的がある。証人の主要な関心は、未信者にものみの塔の教義を説得し、協会の規則に一致することである。その目標達成は難しいし、滅多に有形の報酬が与えられないから、一般的に長老からの「励まし」が必要になってくる(それが長老の大きな任務である)。多くの証人は求められたリクルート活動をなんとかこなすが(どこかなげやりにでも)、それは一連の目的思考の実践活動の重要な一部である。それは情動的な安定に貢献する場合もある。前述した通り、証人の神学では地上での人類の目的は非常に特異で、明確である。証人の目標は協会から厳格に定められているが、他の証人たちから励まされたり、報いを受けて、それが証人の目標になる。人生の役割や目的が何かを知っているし、何をしたらいいかを知っている。それが安全の感覚を生み、きわめて機能的な目標志向の行動の原動力になっている。
有害な影響
一面では良好な情動に寄与する面があるのははっきりしているが、証人の信仰体系はとても有害な要因ともなる恐れがある。証人はほかの人たちよりも全般的に人命を軽視する傾向がある。証人の理屈は、「結局、善人であれば、どうにか復活される。死は『短期の眠り』に過ぎない。現在の生活でもっとも大切なのは神に喜ばれることであり、人を喜ばせることではない」である。人命を軽く見る考え方は、血と宗教の戒律に関する証人の考え方に反映されている。証人が病気にかかるのは悪魔にやられたためと信じたために、医療処置を避けた信仰心の厚いベテランの証人がいい例である。その証人は「神が是認して死んだのであり、すぐに復活指させてもらえる」と信じていた。ほかの証人たちはその信仰のために、そのベテランの死因に罪を感じていなかった。ほかの証人たちはその人の生きていたころに定期健診や医師の診断を受けさせないようにしたのだ。
輸血禁止令は証人の信仰の典型的な例だ。「協会の戒律は人命に優先する」。輸血を受け入れることは人命を失うよりも重い罪であり、輸血を受け入れるように勧めるよりも、他人を死に至らしめることのほうが罪が軽いと信じている。「ものみの塔」誌1991/6/15 P.31は、輸血禁止令は厳しく守るべき命令であると述べている。
ですからわたしたちは,17ページで取り上げた若いクリスチャンが裁判所に対し,『輸血は私の体に対する侵害で,強姦のようなものだと思う』と述べた理由を理解できます。………同様に,同じページで取り上げた12歳の少女は,次のようにすることについて一点の疑問も残しませんでした。『裁判所が輸血を許可しても,全力を振り絞って闘います。叫んだり暴れたりします。腕から注入器具を引き抜き,ベッドのわきにある血液バッグを処分するつもりです』。彼女は,神の律法に従うことを堅く思い定めていました。………同様に,裁判所が輸血を許可するように思えたなら,クリスチャンは神の律法に対するそうした違反行為に至りかねない状況を避ける道を選ぶかもしれません。………クリスチャンが血に関する神の律法を破らないようにするために必死に努力した場合,当局はその人を法律違反者とみなしたり,起訴しようとしたりするかもしれません。処罰が科せられる結果になったとしても,そのクリスチャンは義のために苦しみに遭っていると考えることができるでしょう。
自殺と輸血受入れのどちらに価値があるか選択させると、証人は輸血を拒否して死ぬことだけが唯一許されると教えられている。「もし血に関する神の律法に従うなら、いずれにしても復活させてもらえる」という信仰のために人命を軽んじる。それはどこかの共同体における証人の殺人率の高さを説明している。その要因には、鬱積した敵意もあるし、反比例した低い社会的階層・経済階層もある。証人が交わっていた証人の家での事件も人命軽視を物語っていた(ハリソン1978年)。
回復してから初めて戸外で伝道をしていた。そしてあのパーティがあった朝方、二度、発作に襲われた。そのとき、「分け与える」喜びを熱心に話しながら、再び戸別伝道できる喜びを語っていた。その後、胸を押さえ、喘いでいた。マイクはダイヤの指輪を外し、財布と一緒にそれを妻に渡した。死ぬと分かっていてそうしたのだ。自発的に、思いやりの心を持って、二、三人の証人たちが妻の許に駆け寄った。ものみの塔協会本部から来た高名な長老は、死によって意識の無くなった人たちの話を長々とし始めた。そのときマイクの喘ぎ声はひどくなっていて、身の毛もよだつようであり、死に際の最後の声であった。その長老は「こんな死に方をした人はほかにも知っている」と言った。現場に居た証人の四分の三は警官が到着したときに「良い証人」を印象付けようと部屋を片付けていた。マイクは警官が到着する前に死亡していたと宣告された。警官たちは復活の望みを聞かされた。マイクのことは無視された(警官の一人は復活なんて大げさだと語った)。悲しみは脇に置かれた。マイクの妻は冷静だった。証人の礼儀正しさや冷静さといった良い印象を警官に与えたようだとお互いに喜んでいた。「証しをした」熱心さが大切で、マイクの死は忘れ去られたようだ。マイクを愛していたからこそ涙を流すとか、死の恐怖を前にして泣く者は一人もいなかった。祈りもなかった――それは忘れられない光景だった。
父親の死をマイクの娘に知らせる役目は私に回ってきた。沈着冷静なマイクの妻は長いすに横になっていた。周りでは警官を「礼儀正しい家」に来させたなんて素晴らしいことだと証人たちがしゃべっていた。長老は従順さのことばを書いたメモを示し続けていたから、長老の顔に悲しみや怒りの跡を探そうとしても無駄だった。長老の心の中ではすでにマイクは埋葬されていた。長老の関心事は、いかにしてマイクの娘が「過度の深い悲しみ」を表に出さないようにするかであった。長老によると、娘は12歳であった。あれほど人間をひどく嫌いにさせる人間はそんなにいない。長老は私に「明日の朝、娘を連れて伝道に行ってもらえないだろうか。わがままな心を慎ませたほうが良い」と言った。誰一人として泣いてはいなかった。マイクの娘は泣いていた。彼女に聖句を聞かせるなんて思いはなかった。
マイクの死よりも優先する関心事があったのだ。ものみの塔とその信仰が人に受け入れられるかどうかだ。その態度がさらに多くの問題を起こす原因となっている。
ウェルズによる「信仰の問題と証人」
証人の問題は証人の信仰が独特なせいだからではなく、一般的に宗教人はその宗教世界観を守るために特定の技巧を使う。ウェルズは「旧約聖書と新約聖書の信頼性」を損ねていた神学者の著作を広く引用し、「現代の教養人の多くが正しく認識していないが、ファンダメンタリストの立場は弁護できない」と述べている。ウェルズはファンダメンタリストの傾向が非常に強い集団として、エホバの証人に注目している。ウェルズは次のように強調している――エホ
バの証人が単なるマイナーな集団だったら、世間からは無視されていただろう。しかし今では強い勢力を保ち、急速に世界で最大の規模の宗教の一つになっている。一般的に証人は宗教のどこが間違っているかを最もよく示す実例を提供している。その信者は世とは疎遠な関係を保って生きるように求められているために成功を果たしているという結論を出している。毎日の生活においては、未信者とは必要最低限の付き合いだけをするよう仕向けられている。アメリカやカナダなどの民主的な国においても、全体主義の国においても、エホバの証人は迫害を被ったために団結心は強化されている。アメリカとカナダでは一度は布教が禁止され、第二次大戦の時には強制収容所に収容された。
ウェルズは、たいていの宗教は道徳的な行為とは関連性を持たず、宗教は自分の宗教を嫌う人に対して憎しみを創出していると結論付けている。ほかと比べて証人の人数の多さを推定するのは簡単だが、間違いでもある。宗教から見た世界観で宗教が原因の衝突や戦争や憎しみに理屈を付けようとする人がいるが、それでは非道な問題を非難していない。現在の事態や過去の歴史を熟知するまでもなく、不正な行為の原因となった特定の教義の役割の重大さを理解できるし、カルトの多様な信仰・教義を疑われて迫害されることの重大さは理解できる。
ウェルズは多くの仮定を積み重ねるが、証人の神学は次の「説明」で論じられている。世界中でそれほど邪悪さが目に付く理由は、神の強情な意思を貫くためである。人々は悲劇映画を観に集まる。テレビ番組では他人の痛みを観たり、読んだりすることにとても引き付けられる。神も、ほとんどの人が確かに長い間、苦しむ神の個人的なショーを創作した。どんな状況においても、残念ではあるが、すべての人の最終的な失望は人命の停止である。この人生観によると、地上の人生の目的は(地上で神の子がしたように)、サタンを喜んで監視している趣味の悪い神を満足させることだ。
ウェルズは決心がつかない者について書き、本当の信者を納得ざせられないと分かっている。彼は議論好きな不可知論者であり、世界の重要な問題の原因は宗教、中でもエホバの証人のような極端な形式の宗教だと結論している。さらに、宗教の世界観は全体として良く見ても不必要、悪く見れば有害であり、反対すぺきと結論を出している。彼の論理は不可知論者や無神論者の書物を読んだ者の論理に似通っている。彼は客観的に証拠を吟味していない。キリスト教の正典の正当性に反論をするために論理的詭弁を弄している。目的は一つ――特に証人のような破壊的カルトに関連している。
ウェルズは、知的で教養もある人が証人のような特定の宗教を広く受入れることはウィリアム・テルの伝説に平行していると述べている。どちらもフィクションであり、近々起こると言われている史実として受容されている。さらにウェルズは、実際の証拠がフィクションよりも重い価値を持っていても、一般受けしたフィクションの信用を失わせようとしても、とてつもなく長い時間を要すると述べている。もちろん、それは宗教に限らず、科学の分野にも言える。一方、歴史的に試練に絶えたものを即座に捨て去ることには慎重でなければならない。証人の教えのすべてが有害なのではない。実際に、ある考えが正当だと分かったら、それを擁護する者は二次的な関係者になる。
ウェルズが注意しているように、宗教を軽く信じる者は、最も情動が強い者と関連付けられるかもしれない。宗教を志向する者だけに限定されない。ウェルズ自身、無神論者は、宗教家と同じくらい感情的で、不合理かもしれない。両者は、同じように考えを弁解し、それを皆から認められる備えをする。著者も奇跡には強く反対してきた。それは、生命は自然の法則と機会と時間とありそうもない数々の偶然の作業の結果、生まれたと、科学的に証明されたと結論を下したからだ。これからウェルズは人が生を与える場合を除いては人命には目的がなく、信じない限り、絶対的な意味は無いと結論を出している。「真理」は最終的ではなく、常に見直しの対象だから、絶対的な真理を求めるのは意味が無い。知識の分野でできることと言えば、頼りなさそうな限られた証拠から推測できることに限られる。多くの科学者がそう信じているから、大勢の人々が証人のような集団に魅力を感じるのだ。
著者はリベラルな神学の立場には批判的だ。彼らはまだ「破滅から何かを救おうとして」現代の聖書研究を受容していると判断している。ウェルズに対する適切な応答は、滅びを否定し、科学的な世界観に進むことだ。道徳的システムが適切に進歩するには無神論の世界観だけからだし、現代の知的な学問が有神論の幻想や弁解に優先しなければならない。ウェルズは小学校の教科書から大学まで徐々にその考えが唯一の本流になっていると、賛意を示している。
ウェルズは、事実上、過去にも、また今でも狂信的な宗派が数え切れないほどの悲劇を生んできたと述べている。その一例を挙げるとすれば、人が個人的にある決定をするのは神がそうさせるからであり、それをしないのはサタンの言いなりになっているからだとなる。宗教は素晴らしいものでもあり、悲惨なものでもある。その両方の性質を正しく認識し、悲しみは緩和されなければならない。宗教上の決定をするには、ほかの分野の問題と同様に、広い範囲にわたる証拠を公平に試みる必要がある。
ウェルズはふつうは合理的な対話を保つ(特にエホバの証人とファンダメンタリストを論じるときは悪口を吐きながらも)。証人に限らず多くの宗派は、自分たちの信仰体系は「知識の無い者でも古いバイオリンで古いメロディを奏でられます。聖書もそうしたものです」と旧来の決まり文句を自信を持って語り、信用できない、不安定な選択をうまく表現している。はっきり言って、メッセージの理解は難しくはない。ある宗教観が吸収されると、自分の考えを証明するためには矛盾する箇所の説明を無視して、特定の聖句を強調する傾向がある。これから述べるが、この点に関してはものみの塔協会の指導者は達人である。
まとめ
証人の信仰体系には精神的な調整や情動的調整を果たす、肯定的な要因も数多く含まれる。同時に、非常に有害な要素も抱えている。その両者を識別するのは難しい。しかし、それらの要素が及ぼす効果は人によって異なり、その人の置かれている状況に依存する。それでも明確に特定て、明確に分離できるある種の形式は存在する。重大な問題がある――証人と精神衛生の職員の協力が不足しているのだ。この件もそうだし、関連するその他の分野でも、協会の態度は頑固だ。それは精神衛生の問題が生まれる原因であり、多くの証人が進行性の精神異常に罹る主な要因である。
知的な成長や霊的な成長、実践面での成長、情動的な成長は、それらを促す、団結心の強い組織に入り、活発な活動をすると、促進されるかもしれない。一方では人の問題は近い将来、自動的に、何の痛みも伴わないで解決されるという先入見は、現在の人生の運命を改善しようとする努力を挫けさせる。証人は人生のいろんな分野で、特に教育、職業、経済の分野で、向上しようにも挫けされる。この様な分野は人がうまく調整が取れているためにはとても大事なのだが‥‥。ものみの塔の目標を促進する方面にだけは非常に強い励ましを受ける。
証人の影響は常にプラス志向ではない。たとえば証人に深入りし、証人と特定されると情動的な拘束が生じる。誰から見てもそれが正しいか誤っているかに関わらず、予想通り、「未信者」臭い考えには防衛的になるし、ものみの塔協会の神学と矛盾する考えには警戒を怠らない。現実を評価できなくなり、ものみの塔協会の視点から感知し、歪曲して見てしまう。切羽詰ったハルマゲドンと地上での永遠の命に対する強い信仰は、信者の人生に機能的な効果と機能不全の効果を併せ持っている。個人的な不滅の信念は幻想的だが、プラス志向の一面がある。それでも死の前に共通する強い不安感を緩和する点では有用である。慢性の症状・末期的症状に対応している医師は、強い宗教的信念を持っている患者のほうが人生の末期をうまく生きながらえることを知っている。不滅を信じさせないようにすると、死の恐怖を連想させ、うつになったり、皮肉にも高い自殺率の原因ともなる。無神論者や、退職者、寡婦は、自殺率が高い。最近、愛する人を失う経験をした人も自殺率が高く、それを体験して、現実の死に敏感に反応する性向を持たされる。失望感を引き起こすのは稀ではない。
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