総括と結論

 どんなに控えめに見積もったとしても、現代では宗教は重要な要素となっている。西洋社会ではたくさんの風変わりなカルト集団が急速に成長している。認められているだけでもアメリカでは1200以上のカルト集団が存在する(ミルトン1978年)。これらのカルトは、教義や価値観、アメリカ社会の風俗習慣の面からだけではなく、伝統的なキリスト教からも著しく逸脱をしている。信者を獲得するために用いられる方法については、様々な人たちやいろいろな団体からその倫理性に疑問符が付けられている。一面では熱狂的なまでのカルトの宗教を目にして、それが信者らにどんな心理学的な影響が及んでいるかに重大な懸念が持たれている。不幸にもこの件に関し近代的な宗教活動が広範囲にわたって研究されてきたが、現代のアメリカ固有の宗教を研究するために設置された研究機関は少ない。この書においては、これら新しい「アメリカ製」の宗教のうち、わずか一つの組織だけしか検証していない。わずかに125年しか経っていないのに、新規に加わる者は後を絶たず、ほかの「アメリカ製」カルトと共通している面が多い。
 社会学的な立場と心理学的な立場から宗教組織や社会的な組織を検証すれば、肯定的な面も否定的な面も明らかになるだろう。ものみの塔協会は多くの人によい影響を与えてきたし、とても好ましくない影響力を及ぼした場合があったのも間違いない。ここまで論じてきた問題を回避しようとしている会衆はほとんどない。ここまで見てきた問題は共通していて、それが当たり前になっている事例である。実例として過去の事件をいくつか取り上げてきたが必ずしも典型的な例ではない。
 人の口を借りていろいろな経験を詳細に述べるのは難しい。「悲しみ」「うつ」「失望」「挫折」といったことばを使っても、本書において記述してきた大勢の人たちの経験した感情を適切に伝えられない。証人の組織と直接関係を持っていない読者にとってはここまで論じてきた事件や状況を理解しようとしても難しいかもしれない。それでも、この研究の過程で面談した数百人の人たちが関わった問題や彼らの感情を伝えようとしてきた。面談にとどまらず、48以上の博士論文や社会学と心理学の学術的な研究にも注意を払いながら、文献を広く見直した。そうした研究はすべて本書で記述してきた結論とほとんど一致している。例外がある。社会科学に属する分野の経験主義的な文献では私たちに否定的な意見が述べられていた。
 見直しをしてきた問題は1900年年代はじめからものみの塔では日常茶飯に見られている。特に長老制がそれを悪化させたとする兆候は多い。1975年以降の数年間、ものみの塔は活発な信者が著しく減少した。正確な見積もりを手に入れるのは難しいが、1975年以降、ものみの塔に加わっていた者の40%が脱会したと合理的に結論できる。1975年から85年だけでも、約8万人の証人が亡くなり世界中では88万人以上が離脱した。その構成員から高い程度の義務行動を引き出す宗教であるから、この数字は深刻な問題の幕開けとなる(そして組織が「真理」を手にし、共通してその宗教を「真理」と呼んでいる)。証人を離脱する過程はしばしば深刻なトラウマを伴う。最新の脱出劇が組織の危機的な問題を暗示している(そして88万人の人たちにとっては重大な、適応の問題がある)。
 精神的な不適応などのトラブルを引き起こした深刻な問題を次に述べる。

  1. 繰り返された教義の変更
  2. 一般の人ならどうでもいいと思えるものにも異常にこだわる(案内板を掲示板と呼んだり、レジャーボートの購入は罪だと感じる)。
  3. 多分に西洋社会の規範から逸脱している多くの建設的でない禁令(報酬を受ける職業への就職や大学進学の禁止)。
  4. まれにしか読まれない、難解で知性のない「ものみの塔」誌のような文書を一軒、一軒、「個別販売」をする活動、それも基本的には報酬はなく、信者が建設的でない活動に加わるよう、社会的に見て重度の強制的圧力を加える。
  5. 知らずのうちに行われる高度の権威主義。人道的な方法によってではなく、非難や批判及び社会的な圧力によって問題を解決しようとする傾向。
  6. 信者たちには、理屈が通っているとか、よく読み込まれているとか、未信者の学者の意見を取り入れていると見せかけている重大な教義上の問題が明らかになっている。
  7. 生涯のすべての基礎となっている信仰体制が間違っているのではいかと疑うことへの恐怖。それは重度のトラウマになる可能性がある。1914年、1975年あるいはそのほか十以上に上る一連の預言の失敗は恐怖を呼び起こす引き金となる実例だ。
  8. 証人生活における報酬の不足、基本的には他の信者に対して過剰な励ましをし、社会的な圧力をかける。個人の必要と生活の目標を組織に委任させる(あるいはそれを全体的に理想化する)。
  9. 国旗への敬礼、軍隊勤務、祝祭日の祝い、あるいは未信者の葬儀や結婚式への出席を禁止をしている。それはたびたび社会との重大な摩擦を作り出している。
  10. 会衆内でのポストを巡るいざこざ。そして組織内でのポストを手に入れるためには、長老になるか自分や配偶者が開拓者になるしかないという事実。そうした地位を手にしようとして、数知れないほどの闘争、陰口、批判があふれている。そのような地位を手にした者に対する妬み、恨み、競争、憤慨などが充満している。
  11. 退屈感。会衆の集まりはたいてい苦痛を感じるほどに退屈だ。証人は低収入の仕事を選び、残業や昇進の望みは抑えつけられるから、質素で地味な生活を送り、証人との先の見えない退屈で単調な活動を強いられる。おまけに「新世界」や「ものみの塔」の最新号や大会からは、先が見えてこない。
  12. 証人になると近所の人や友人やあるいは家族との間で軋轢が生じる。こうした摩擦から何度も動揺が生じる。証人になるとその人は基本的に友人から疎まれるはずだ。証人と関係を持つと、未信者の家族とは不和になる。   

 
 ここまで論じてきた問題は、確かにほかのいろんな組織にも共通して見られるものもある。こうした研究の中ではこころの病にも多様なレベルが見られるのだから、しっかりした結論が下される前にいろいろな要素を考えなければならないことが分かってくる。しかし、これだけは明言できる。証人が精神病にかかる率と自殺する率は平均以上である。離婚のような問題はどれが平均以上か見積もるのは難しいけれども、少なくともほかと同程度である(もし片方の配偶者が結婚前から証人であるか、あるいは後に証人になった場合は極めて高い)。付け加えるならば、それが何で問題になるのか、決めるのは難しい面もある。いろいろな原因が候補に上っている。
 ここまで見てきたこころの病に影響している多くの要素の中でも、少なくとも過去においては、低収入層、低教育レベルの人が共通している要素だ。「組織がすべて」であり、個人的に組織に利用され、証人個人の必要は組織の必要よりも下位に置かれている事実がある。さらに社会経済的な地位が低いから、証人は忙しく仕事をしなければならない。嫌がられてはいるが、いくらかなりとも社会と接触をしないといけないし、その汚染効果は言うまでもなく重要だ。
 「ほかの宗教と証人の行動はどれほど一般化できるのだろうか」は重要な質問だ。統一協会、モルモン教のようなほかの宗教集団は、ここ十年間だけに限らず、歴史的に見てここに書かれた内容に関しては同じく程度に共通しているという結論が出せる。私たちにとってはどんなにささいなことであっても、証人は際限なくそれを論じ合っている。それは証人だけに限りない。何十年も、ボタンの付いている服を着る礼儀正しさを強調してきた宗教がある(ホックとホックの穴が「謙遜さ」を示している)。コートでもワイシャツでもボタンをかける動作は性交によく似ていると思うといった、好色な考えを引き起こすのだろう。今ではそれがユーモアに見られる一方、何年も激論を交わしてきた教会もある。不幸にもそうした場合では、それに参加したり、それを考えることは、たいていはまじめさが欠けていると見られる。人を助けようとはしないで、規則や規律でがんじがらめにする傾向のある教会も多い。
 ものみの塔の上層部が直面している問題は、それがはっきりと必要だと分かってはいても、どんな変更でもたいていは内部対立を生じる。ものみの塔は過去に小さな変更を行ったために分裂が生じた事実に目ざめていることは疑う余地がない。20世紀の当初、「誓い」の問題では大きな溝ができた(特定の不道徳な行為に関与していないのに、誓うことはふさわしいか否か)。「新約」の問題もそうだ(ものみの塔の指導者、C・T・ラッセルが「契約」に関して古代の教義に戻るのは正しかったとしても)。実際、それらは比較的小さな変更であったが、にもかかわらず組織の中で深刻な溝ができた。協会は明らかに、輸血に関する禁令が間違っていると認識している。しかし変更すると間違いを維持するよりも問題が深刻になると思っているから、変更をためらっている――筆者は「目ざめよ!」誌の一人の記者からこう、知らされた。輸血禁止のために子どもや、夫、妻、あるいは愛する人や親戚の人を失った人たちすべてにすれば、その痛みを伴う喪失感はとうてい忘れられない。その教義を変更して未曾有の大変革を引き起こすよりは、以前の教義を維持することが最善だと思っている。公式の教義を変えてつまずかせてしまう、「永遠の命」を失ってしまうといった理屈を付けている。一方その教義を継続すれば数百人、あるいは数千人の人たちが死んでしまう。しかし組織の教義によれば、その人たちは「信仰」で死んだのだから、復活する、結局、失うものは何もない。
 新しい政策を裏付ける根拠があろうがなかろうが、新しい政策の実行には常に困難がともなう。常に古い教義に執着し、新しい教義を拒否する者が必ずいる。新しい教義を裏付ける事実を見せられても関係ない。だから協会は教義の変更にはとても用心している。こころの病の罹患率を減らす必要があると認めると、組織の中に深刻な問題が生じる。指導者たちは変更が必要だとはっきり分かっていても、その立場を維持するのがよいという結論を出してきた。ひとたび一連の教義や信仰、伝統が確立されると、前の状態を続けるのが遙かに容易になる。疑いなく、協会はローマカソリック教会からその教訓を学んでいる。田舎の人たちの語る方言の格言を暗唱したからと言って生じたささいなトラブルさえも知っている。
 どこかぎこちなく感じられるときもあるが、変更があるとたいてい理屈がつけられる。ものみの塔の幹部と面会したベスティクはこう記していた。



その将来

 エホバの証人のようなカルト宗教の組織構造や信仰体制は言うまでもないが、人生の将来の出来事を予想するのは難しい。それでも証人が徐々に中間階層に仲間入りし、時には高等教育や専門の職業を受け入れ、専門の職に就いたり芸術や科学の分野に進出して行く兆しがある。すでに高校程度の商業過程は認められているし、徐々にそれが当たり前になる。教義の上では協会の教義は評価の段階を経験しているようだ。口やかましい元証人や周囲の福音派教会からの圧力も一つの原因になっている。同様に、反対が強くなると近づいてくる元証人の脅威にさらされる証人も増えるだろう。グロリア・マスカレラは、こう語って、ものみの塔からの脱会を語っている。

 証人は過剰な働きと親切心と良心を強調して、モルモン教などのほかの宗教と同じように社会経済的に上手に進歩を重ね、中間階級以上の層に食い込んできた("Awake!"1983/2/8)。証人はそのうち自分たちの学校や病院、診療所を開設するかもしれない。すでに指導者や長老の組織の中には多くの批判が存在している。その中では現在の問題を適切に処理する能力を持っていないといった結論が多く含まれている。ものみの塔は今でも知識を強調するがそれさえも、ものみの塔の考えやものみの塔の出版物だ。感情的な要素を押さえる程度に、読んだり、議論するといった、基本的に知的な方向に変わるかもしれない。こうした特質があれば、証人が学校や職場で優れた成績を残す助けとなるものである。いつか証人は目下の問題を解決する手段として今以上の教育を奨励するかもしれない。そして長老を教育するため国内を移動するいろんな証人の「学校」が設けられ、その時間内では世俗の内容さえも増えるかもしれない。証人の教育体系は現在ではそのほとんどはものみの塔の教義や神学、歴史、信仰体系によって占められている。それが良い方向に変わるかもしれない。そしてものみの塔の教育にも心理学の分野に属する信者間の人間関係などアカデミックな領域もふくまれるだろう。そうした変更はすでに始まっていた。彼らの雑誌の内容に反映されている。歴史的に見てものみの塔の出版物はそのほとんどすべてがものみの塔の神学で占められていた。今や徐々に世俗の問題やその解決策を扱っている。英国人、ベスティックはその著作の中で協会が容易に責任逃がれができない問題を報じている新聞記事を多数、引用している。

 1969/7/2付けの「ロンドン・デイリー・メール」から次の記事が引用されている。

 科学と医学に関する知識が彼らに欠けていたから過去にも現在にも重大な問題が起きている。「黄金時代」1929/2/20号331頁には次のように書かれている。「すべての物質を粉砕し、原子エネルギーを解放する方法が発見される。そのときになれば、常に熱や光、力、食物の問題は解決されるだろう」。良い結果が得られない、ものみの塔の山ほどある予言の一つがこれである。それに気がつけば証人は個人的に落胆する。1929/6/12号586頁にもその例が見られる。「マイセル・ラッベ医学博士は、インシュリンを服用しない糖尿病治療法が発見されたと断言している。糖尿病の特別な治療をしたと主張しているその医師は、ここ三年以内に24例が完治し、12人が死亡した。信頼できる治療法は一例も記録されていないとも付け加えている。インシュリンはこれでお払い箱になった」。もちろん、インシュリンは糖尿病の治療には使えない。しかし、以前なら死んでいるところでも生きながらえさせられる。今日でさえ、糖尿病患者に役に立つ主要な治療法の一つである。「黄金時代」の記事は現代のエホバの証人にとっては目障りな記事である。もしその記事が一つの意見としてしか受け取るのなら、たいした問題にはならない。しかし、「目ざめよ!」の内容は聖書とほとんど同じくらいに信頼されてほとんどの証人に受け入れられている。もし「目ざめよ!」に書いてあるなら真理である、真理であるはずだ。
 こうした問題が分かれば、ものみの塔は変わるかもしれない。変われば、こころの病の罹患率が低くなるかもしれない。しかし教義や政策の問題を解決されないだろうし、キリスト教の主流派に受け入れられるとは限らない。さらにものみの塔協会が西暦二千年を過ぎてから以後、存続を続けられないとする立場は、学者の間でも共通してある。学者たちはこう思っている……協会は変更を受け入れない。どれほど論理的であろうが、合理的であろうが、正しかろうが、変革しようとする声に耳を傾けるという方針には強く反対している。そして長い経験を持つ証人は、そのほとんどがなんとしてでも忠義心を維持しようとするだろう。ものみの塔に何が起きようが、ものみの塔が何をしようが、関係ない。その傾向が弱まっているという証拠は、過去十年ほとんど見あたらない。ますます悪くなっているという証拠はすぐに見つかる。今でも毎年数千人の証人が辞めている。
 最近、会長の甥で元統治体のメンバーだったレイモンド・フランズが脱会し、ものみの塔で過ごした人生を記している二冊の本を出版している。ほかにも数十人の数の幹部が組織を離れたようだ。協会は自滅の道をたどっているように見えると多くの元幹部が著者に語っていた。何千人もの証人が経験した話、それも経験に基づく研究から生まれる理屈にさえ、耳を傾けないように決めたそうだ。ウィリアム・セトナーは、「協会はそれ自身、もっとも邪悪な敵である」と述べた。家から家への宗教勧誘の作業が改宗者を作るにはもっとも効率の悪い方法であるとは、いくつもの研究が指摘している。ほかに効率的な方法が多くあるにして、協会はこの伝統をごり押ししようとする。街角で証しする活動、テレビ出演、ニュース番組を利用した証人の紹介、学校あるいは責任と影響力を持つ場を利用するといったもっと効率の良い方法を用いようとする姿勢はほとんど見られない。どこか儀式張っているし、効率が悪いがそれにも関係なく、その活動は続けられるのだろう。戸別伝道は証人のトレードマークとなっている。向こう十年以上、毎年、信者数が著しく減少したととしても、おそらくそれは継続されるだろう。
 一方、協会はある分野では、教義や神学の面でも大きく変わったという者もいる。その変化の傾向を正当化する手段として神学的な説明が発達している。時とともに光が「ますます輝く」という概念だ。ピラミッド理論のように過去において本当の真理と教えられていた情報があった。それさえ、今日では、ピラミッド学は「悪魔のもの」と思われている(大ピラミッドは「石の中にある聖書」と呼ばれ、基本的には「第二の聖書」と考えられていた。モルモン教にとっては「モルモン経」が第二の聖書と見なされていることと類似している)。よく「石の中の聖書」と読んでいたのは、それが重要な日付を秘めていたこと、今日でもそれが今でも続いていると思われたからだ。十分に受け入れられていた教義でもことごとく非難されるかもしれない、それでも「世の終わりの時が来るとき、ますます光が輝いてくる」式の誤った正当化理論を教えることで、効果的に理屈を付けてきた。知的な、才能あふれる働きが著しく欠けていたという事実から、将来において、筋の通った合理的な変化が起きる可能性はない。結婚していても性生活をすべて非難するような、消滅が明らかな政策にこだわっていたシェーカー派の体制に似ている。ものみの塔の知的な才能は現在ではモルモン教以下であり、「神の子」や「ハレ・クレシュナ」や、最近頭角を現してきた同類の集団と比べてかなり劣っている。
 その主な理由は、教育を受けた人や、外部者の本を読んだり研究したいという人たちを全体的にひどく毛嫌いしているためのようだ。最近は会員数が増えているし、証人は世界の宗教の中でもだんだんその重要性が増している。それでも、創立期から加わった者をすべて数えたとしても、最近では活発な証人の数よりも元証人の数のほうが多い。過去数十年間、増加しているにもかかわらず、その傾向は続くだろう。前にも書いたように1975年とそのほかの誤りは、長年にわたって彼らの首を絞めるだろう。1971年に出版されたベスチックの書では、次のように口やかましく、ののしられている。

 今ある問題は、証人が何度も何度も過ちを犯してきたためだ。証人を脱会した何百万人の人たちには時計の針を戻すことはできない。弁解はいい。どんな理屈を付けようが、誰も納得しない。


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