ものみの塔は世間のどんな組織よりも証人の家庭に深い影響を及ぼしてきた。好いにつけ、悪しきにつき、たくさんのやり方で家庭に重大な衝撃を与えるおそれがある。証人であれば、特に既婚の女性が関わると家族関係を悪くする傾向がある。
エホバの証人になる女性にとっては、神に近づくための第一ステップとして性生活を止めることが当たり前であった。人間関係はすべて油断も隙もないし、気まぐれであり、驚くほどに不安定である。混乱した世界から確かな証人の世界への逃避であると教えられる女性にとっては、エホバの証人の宗教は安らぎと安全の幻想を与えた。
活発な証人になっている家族の一員のもたらす緊張は、特に配偶者や子ども、あるいは証人自身へもマイナスの影響を及ぼしてきた。深刻な衝突はたいてい、宗教だけに限らない。祝祭日や投票や性生活の面で衝突が発生する。筆者の経験では、精神的な病になったり、犯罪の捜査の対象になったり、証人として育てられる証人の多くは、一方の親だけが熱心な証人である。双方の親が証人だと、精神病や犯罪活動の確率は低いようだが、はっきりしていない。「切り裂かれた家人」(家族のメンバーのうち一人だけ信者である状況では)のストレスは、子どもにとっては、通常、感情的に調整不能になる問題を生じがちである。次にその一例を示す。
伝えられるところによれば、妻の宗教信条のために非常に腹を立てて、モンローカウンティーに住む農夫、ジョン・ルフトは巡回裁判所に訴えていたが、昨日、妻、ヘレンとの離婚が否認された。判事はルフトが善良な信仰でレナェカウンティに定住していなかったし、その根拠は不十分であると裁定した。ルフトはその妻(農場の秘書役)が宗教の集会にしばしば出席したために家業をおろそかにしたこと、国歌が演奏されたときにも宗教上の理由で席に座ったままであったこと、子どもをもうけようとしなかったことを証言した。ルフト夫人は、夫は結婚した当時から短気であったし、カルト宗教に入ったときからそれがひどくなったと証言した。彼女は子どもを今までもうけなかったのは聖書の箇所から説明できると説明した。「彼らは苦難の世の中に子供を産むだろう」。(1944年)
疎外の程度が極端な例を次にしめす。
日曜日に独房での面会の間、ダッドレイは、教会員が「嫌がらせをし、迫害し、苦しめた」と語った。妻や子どもが新しい生活を始めるために、家を出た後もそうだった。「60年代、私は米国の魚類・獣類局の仕事を引き受けた後にブイアンカウンティに家を移した。そこに移って妻はすぐにエホバの証人と交わりを持つようになった。それで私は交わりを妨害するためにできる限りのことをした」。教会に反対するのは二つの理由からだと語った。「もしも子どものうち、一人が輸血を必要としても(それは実際、前に起きたのだったが)、教会が伝道している教えに基づけば、自分自身、あるいは子どもの命を救おうとしても妻は拒否する。私には3人の娘がいる。その当時、年は8歳から2歳だった。文字通り、心配だった。はなから組織に反対したもう一つの理由は、私が雇われていたこの国の政府に対する統治体の考え方だった。父親が悪魔のために働いていると子どもに教える組織をどうしても許せなかった」と説明した。
ダッドレイはその宗教を調べ始め「それを知ってから、さらにショックを受け、心配になった。知れば知るほど、家族が彼らと交わりを持つべきではないと心に決めた。次のおよそ20年の間に起きたこと、それは教会への放火で最高潮に達した恥ずべき経験だったが、それを言うしかない」と語った。ダッドレイは、話をしようとして涙を流した後、仕返しをしようとしてではなかった、「願うことならば、私が何をし、なぜそうしたかをもっともっと人々に理解してもらえればと思う。私が1967年当時、今のように牢獄に座ってなんかいないだろうと知っていたらよかったのにと思う。もし同じ状況にあるほかの人が私の話が元で同じ行為を防ぐ結果になるなら、私が話を言わせてもらうことで世間の人に働きかけると思っている」と説明した。
「私はきちがいにさせられてしまった。人生をめちゃめちゃにさせられた後で私はやるしかなかった」。6年前、地方のエホバの証人の王国会館を全焼させる計画について確信を持っていた。政府の仕事から退職をさせるためにと検事と共同してダッドレイの弁護士が動いていると確信して、週末の仕事の後で、地方の家に戻っていた。……今、彼は一年間の刑期を過ごす州の刑務所へ向かう車を待っている。放火をし有罪となる前、ダッドレイは法律とは無縁であった。1985年7月12日、ダッドレイは背中に10ガロンの樽のガソリンを背負い、何が何でも仕返しに放火しようと王国会館に向かった。彼は言う。教会は「妻と子どもを盗み、私を滅ぼすだけだ」。結局、ダッドレイを二級放火犯の犯罪行為に駆り立てたものは、妻が再婚すると公言したからだと主張した。夫となる男はダッドレイが「私の名を汚し、私の子どもの目の前で私を滅ぼしたと主張する教会員である。私は政府の仕事に就いていた。政府で働く者はサタンの働きをしていると子どもたちに教えていた」。教会の教義では、信者の配偶者が死んだり、淫行の罪がない限り再婚を禁じている。「私が生きているのは確かなのだから、私を淫行に陥れるほかなかった」。
組織自体の書籍から教会の知識や教会の信仰は豊富に手に入った。たいていは彼のベニングトンの家を囲んでいた塀の間の針金に突き刺さっていた。彼の妻が子どもを引っ張って連れて出ていった後もそうだった。……1975年の前は、教育を受けたり、職業に就くことはきわめて危険であり、賢明ではないと若い人たちに教えた。家や財産を処分し、宗教の書籍を売りながら、残された時間を全うするよう人々を励ました。私の子どもが学校を退学したことを知った。子どもは終末が来たとき必要になる基礎教育をすでに受けている、と教会員の一人が教えたからだ。「ほかにも学校を辞めた人がいることを知った。結局戻るように娘を説得できて卒業できた。始めた仕事を禁じられた娘もいた。妻は私の生命保険を現金に換えようとし、医療保険の保険料の支払いを止めようとした。妻にそんなことをさせていたら、持っていた物をすべてを失っていただろう。妻は、頭の上の天井があるだけで十分。毎日食べていけるだけの食物で十分だと語った」。とダッドレイは回想した。
1975年を迎え、そして過ぎた。知っての通り、何事なく終わったとき、「教会は人々に何を語ったか、答えない。大勢の人たちが年輩になっている。ある種の危険な洗脳に感謝して、数千人の子どもたちの教育の機会が奪われ、そうでなくとも(私のように)一生懸命働いて得た物をすべて失い、結局は家族さえも失った」と訴えていた。ダッドレイは、今日でも王国会館に火を着けたことを後悔していないと言っている。しかし「私は我を忘れていた。気が狂っていた。火を着けたとき私の周りには私を見て立っていた人たちがいたと言っている。百人くらいの人がいたらしいが全く気がつかなかった。あのときは異常だったのだ」と説明する。自分のしたことに何ら弁解をしないといった。さらに、「妻と子どもの生活と生命を滅ぼしていることに私に弁解すべきだと思う……」と語った。
ダッドレイにとっては、あのときの事実はその多くが霧の中で、未だにあの出来事を詳しく思い出せない。ダッドレイ(53歳)は、刑期を終えたら、再婚して外国で暮らす計画があると語った。ブルアン・カウンティーの保安官B・Jモーアはダッドレイを「模範的な囚人で、一生懸命に働く、自ら忙しくさせている。彼がくぐり抜けてきた経験は、すべてがとても辛いものであった」と評した。ダッドレイは、最近、元の妻が今は幸せに暮らしていると娘が言ってきたと語った。看守がコンクリートで囲まれた独房に収容しようともどってきたとき、頭は胸まで垂れた。魚類・動物局の使用人として働いていた頃のオープンスペースとはえらい違いだ。「あなたにも何もできないだろうが、娘がかわいそうだ」。と保安官は語った。「本当のところ、彼らがめちゃめちゃにしたんだ」。
同じようだが、少し込み入った例を次に示す。
悲しみに打ちひしがれた父親、クリス・リッチモンドは、結婚を破綻させたと主張するセクトからの影響を断ち切ろうとしたために昨日18ヶ月の刑期で収監された。教団に10年間「すっかり、はまっていた」妻セリシアと一騒ぎを起こした末、エホバの証人の王国会館を全焼させた事実を認めた。
リッチモンド(40)には二人の娘、サラ(12)とフィオーナ(6)がいた。セクトの「高度な強制的な改宗技巧」によって教え込まれることを危惧していたと、弁護役のシェルム・ギボンが語った。ギボン氏は、サウサンプトン・クラウン裁判所で「子どもをどうやって証人にするか、児童養育を維持するのにどう法律的に支援するか……についての妻に助言をしている手紙を見た。心中に起きた思いは、セクトによる心を操る考えに寒気を覚えたばかりではなく、配偶者間の考えをまったく考慮に入れないで、子どもをリクルートする実践を妻に求める管理統制の異常さに寒気を覚えた。セクトは夫婦の間にくさびを打ちこむとギボン氏は語った。二人は別居した。調停を受けた。しかしリッチモンド夫人は「エホバの証人からのプレッシャーがあって引き戻された」。妻は別居の間、夫が一緒に仕事をしていた女性とつきあっていたという理由で告訴した。その女性も、またエホバの証人だった。リッチモンド夫人は教会の集会で彼女の隣に座るようにし、過去を忘れるように伝えた。リッチモンド夫人は女性にお辞儀をし、ギボン氏が法廷で聞いたところでは、「問題を解決しようとする圧力はとてもショッキングで苦しいものでしたわ」と言った。妻のこの宗教へのこだわりとのめり込みが果たした別な一面、そのものであった。
リッチモンドは妻に言った。「エホバの証人はおまえを滅ぼし、ふたりの結婚を破綻させている。エホバの証人が二人の仲を裂いている。お前を落ち込ませ、不幸にしている。いいか、これから王国会館を丸焼きにしてやる」。
彼は外に出てからもっと良い考えがないかと思い、家に戻ろうとした。しかし妻は玄関に鍵をかけ、車の中で寝るように言った。彼はハンプシャーのトトンにある会館に行き、ガソリンを撒きそれに火を着け、46,540ポンドの損害を出した。妻が警官を呼び、彼は犯行を認めた。その後、エホバの証人の友人を伴ったリッチモンド夫人は、涙を流して、夫への忠誠と愛のために何も言いたくはないと、語った。夫は妻の理不尽な行動を理由に離婚し、子どもの親権のために闘おうとしている(1987年)。
こうしたケースには少なくとも離婚が関係し、別居の心配がある。
ジャクソン・カウンティの判事は、宗教上の証しの結果に責任を持つ現地のエホバの証人教会の信者一人に対する評決を覆した。訴訟は警察署長でバプテスト派のチャールス・ワイツがモンゴメリー州のインデペンダントの東会衆とその会衆の信者、ジュディ・マーシャルに対して起こされた。彼は教会の教義が離婚に至らしめたと信じて2.5百万ドルの損害賠償を訴えていた。
ワイツは、教会から「夫は悪魔にとりつかれている」と言われたために妻が家を出ていったと法廷で語った。さらに、夫が働いていた政府は、「悪魔にとりつかれている」、夫と一緒にいる子供たちは姦通しており、家族が夫と一緒にとどまるなら妻と子どもは教会から「排斥」されるだろうとも語った。
陪審院は教会を無罪にした。しかし、愛情を疎んじたかどでジュディ・マーシャルに75千ドルを課した。マーシャルには控訴が認められた。しかし第二審が始まる前に「原評決は完全にひっくり返された」とマーシャルの弁護人ビル・リンチが「ムーディ・マンスリー」誌に語った。決定によって、マーシャルが改宗させたことの責任を負う、国で初めての人物とはなれなくなった(「ムーディ・マンスリー」1982年11月)。
両親が宗教に賛成しても、問題は起こる。一人のソーシャルワーカーが証人の子どもを、こう語った。
子どもたちは青白く、無表情になりがちである。基本的に、「面白味がない」。たいてい、問題を抱えている。部屋の隅で指しゃぶりをしながら座って時間をつぶしている一年生の子どもがいた。その子の親は全く協力的でなく、「私が世界よ」と信じていて、子どもの助けにならなかった。こうしたケースではたいがい、一方の親が活発な証人になっていて、配偶者は未信者である。信者は、非常に厳しくなる傾向があり、子どもが子どもらしくすることを許さない。たずなをゆるめさせない。祝祭日のようなときも、精神衛生のバランスを回復する休息の間も厳しい。証人の子どもはそのほとんどがとても非合理的で、厳しい傾向があり、非社交的で、友人が少なく、引っ込み思案である。何でもかんでも怖がってとてもこわがりやの子どもになる場合もある。
ものみの塔の教義が子どもにどのような感情的な損害を生じさせるかの一例が1975/12/1付け「デトロイト・フリープレス」の記事に残っている。「母親の宗教のしめつけからの自由」を求めて法廷の調停を実際、訴えた12歳と16歳の二人の娘の話を伝えている。その報道によると………。
……母親が未信者と友達にならないように娘たちに思いとどまらせたこと、週に5時間、教会に出席するように求めたことを一人のエホバの証人が認めた。「もしも教会に行かなかったら、ママは気違いになって私を悪魔呼ばわりするの」。16歳の少女はそう語った。「ママと私はあの宗教のおかげで一緒にやっていけない。あの宗教に入ろうなんて、ちっとも思っていない」。
その事件の弁護士はこう述べた。「間違いがあろうがなかろうが、子どもたちはこれ以上、母親と生活できるとは思っていないことを公開の法廷で意見を述べた」。判事の目的は、「状況を冷静にする」ことだったから、家庭でよりを戻せた。しかし判事は母親をこう戒めた。「押入に娘たちを閉じこめる道理はない。一人前の人間として育て上げないといけない」。多くのエホバの証人の子どもに押しつけられた孤立のマイナスの効果は、元ベテルの証人バーバラ・G・ハリソンが推進した。彼によると「13年間、エホバの証人を改宗させるための私の存在は、北極のスキナー箱で時間を過ごすようにと、現実の世界でその準備を立派に遂げさせる仕事を誠実に遂行することにある」と言っている。
証人の子どもが問題を発展させる特別に重い理由は、ポール・チャンスの言葉によると簡単に言って「彼らは友達のいない子どもたち」だからだ。それはソシオグラム(人間関係を図表化する)によって特定できる。それは、子どもが誰を好み、誰がもっとも嫌われえいるかを特定している。「身体的能力、あるいは社会的な巧みさまたは知的な能力は、対等の仲間との付き合いから磨かれるのであるから、拒絶された子どもたちは重大な学習の機会を奪われる」ことを研究者たちは発見した。「拒絶された子どもは孤独で自尊心が乏しく、ふつうの若者よりも薄幸であることは驚くに当たらない」。
拒絶された子どもあるいは、仲間とのふつうの付き合いから自身から孤立せざるを得ない子どもの抱える問題は、以下の通り。
……拒絶された子どもの暮らしは厳しい。たいてい、成長すればするほど、困難さは増える。ごく当たり前の子どもに比べ、嫌われた子どもたちは、学校でトラブルを起こす確率は高いとする研究結果がある。……嫌われる子どもは、ほかの子どもと比べて不登校児童になりやすい。引っ込み思案で、進むにつれ、学校からドロップアウトしやすい。ハーシュの研究では、模範的な子どもの退学の確率が21%なのに比べ、拒絶された子どもの退学の確率は、30%であった。拒絶された子どもの率はふつうの子どもの率の7倍であった。低学年の仲間外れは、後になって少年の非行や犯罪行為、精神病と関係してくる。
証人の犯罪発生率がなぜ高いのか、これで一つは説明が付く。教義が逆に作用するのだから、問題は逆説的に見えるかもしれない。拒絶された子どもがすべて後になって深刻な問題を抱えるのではないとする研究があるが、問題になりそうな子どもとは、特に長い間、仲間から拒絶される子どもである。もし協会の教義に厳しくこだわると、証人は学校生活全体から拒絶されるようだ。証人の子どもの振るまいが原因なのであって、必ずしも不寛容の行為が原因ではない。適度な正しい社会的な動作を表に出したり、人から受けたりする社会的な能力が欠けている。大きな意思伝達のすれ違いが生じる。不器用ながらも他人との遊戯に加わろうとしてもするかもしれないし、どっちが不適切か、疑問を口に出すかもしれない。言葉を替えて言えば、たいてい仲間と調子を合わせようとはしない。友好的になろうとか、社交的になろうかとしても、問題が起きる原因だ。
結婚関係の紛争
「真理の中で結婚する」ことがいかに大事か物語っている一つの事例は、広く知られるようになったマイケル・ジャクソンの妹の例だ。彼女が未信者と結婚したとき、マイケルは結婚式への出席を許されなかった。次の新聞記事は、そのときの感情を伝えている。
スーパースターのマイケル・ジャクソンとその家族はエホバの証人の信仰を持たない男性歌手と結婚するジャネットを冷酷に勘当した。歌手で女優のジャネット(18)はジェームス・デバーグ(21)と駆け落ちしたとき、ジャクソン一族全体を敵に回した。しかし、協会のバージンロードを歩いた後、家族が不憫に思って結婚式にその男性を見に来てくれると願い、花嫁は新郎の肩越しに後ろを見ていた。
結婚の儀式には、一人も出席しなかった。ジャネットはひどく狼狽した。両親が姿を現わしたときは、そうでもなかった。彼らがエホバの証人であり、私たちがペンテコステ派だから、そうなんだと知った。エホバの証人はもう二度と顔も見たくないと言った。関心を寄せる人にとっては、とても悲しいことだ。
二人は道端で出会い、彼女の父、ジョージ・ジャクソンやマイケル、その他の家族の反対にも関わらず、およそ一年間、デートを重ねてきた。「マイケルも含め、彼らは、全員が厳格で、活発なエホバの証人で、信仰を違う人と結婚する家族を許さないだろう。ジェームズが改宗するなら、すべては丸くおさまると伝えたが、ジェームズは、拒否した。状況は悪くなる一途をたどり、ついに二人はカルフォルニアからグランド・ラピットに駆け落ちした。そこはジェームズの一家が前に住んでいたところで、結婚のために叔父の元に落ち着いた」。
内部事情に詳しい人が付け加えて、「ジャクソン家の人たちは、もう二度とジャネットの顔を見たくないし、今まで、稼いできた財産を分けてやるなんて決してしないだろう。ジャネットを愛しているマイケルでさえ、彼女にしてやることは何もないんだとかたくなになっている」。
ものみの塔の教義が家族にもたらしている別な問題を語るには、次のケースがよい。
エホバの証人として育ち、二人の子どもの親である29歳の男性は、喫煙を止めないし、将来も止められないとして排斥を受けた。その妻はエホバの証人として育ったのではなかったが、結婚した2年後にバプテスマを受けた。ものみの塔で全時間奉仕しようとするから、最近では夫とは疎遠となればなるほど、すっかりエホバの証人にのめり込んでいる。
夫の不満は基本的に次の通りである。妻はエホバの証人にのめり込んでから「集会に行ったり、奉仕に行ったり、書籍研究をするとか言って、家事をとてもおろそかにし、夫や子どもをないがしろにしている(家庭の主婦はよい母親でなければならない、よい妻でなければならない、家事をすべきだとものみの塔は強調するけれども、妻だけが宗教活動に参加するときにこうした不平不満が生じるのは、まれではない)。妻がエホバの証人になったから、価値観が変わったと思っている。結婚する前、妻の性質によい感じを持っていた。たとえば、正直さや誠実さ、結婚生活を続ける気配りや決断力などに対してだ。夫によるとこうした性格は、証人と関わり合いを持つようになってから変わってしまった。結婚を最終的に破綻させるのにもっとも役立つ道具は、「ものみの塔」誌の記事である。オーラルセックスは否定され、基本的に正常位以外の性行為は大部分が否定される。
多数のエホバの証人夫婦の間では(たとえ夫婦ともエホバの証人であっても)、この「ものみの塔」誌の記事によっておびただしい問題が生じた。数百組が離婚し、エホバの証人をやめる人もいた。たくさんの長老からのこの規則へあからさまな非難があった。そのため、この規則は部分的に緩和されてきている(フランズ、1983年)。
夫婦とも、性生活にとても満足していた。お互いに愛し合っている、夫婦の結婚を「ものみの塔」が妨害するまでは、すばらしい関係だった。こうした事情から、夫はものみの塔協会について考えたり、尋ねたりして時間を過ごす機会が多くなった。夫は(思っていたとおり)かつては遠ざけていた問いに満足な答えを得ていない。さらにその会衆には断え間のない陰口、論難、批判、気難しさが当たり前であった。そうしたことがあったからこそ、エホバの証人の宗教構造から遠ざける要因となった。
この人はエホバの証人として育ったが、妻が今では組織に全面的に献身している今ではそうでもなくなったのは、興味深い(妻は結婚するまでエホバの証人になっていなかった)。こうした例は稀ではない。ものみの塔の過去をざっと一通り研究しただけでいろんな点で間違いがあると確信を持った。特に悩んだのは、預言の失敗であり、世界のいろいろな出来事に対する間違った予告に関し疑問を持った。活発なエホバの証人の頃、仲間の長老とこうした点を話し合ったとき、全体としてその答えには満足できないと思った。1975年に関して、その年にハルマゲドンが起こるとは絶対に預言していない、6,000年の終末だけを預言したと主張しようとする長老もいた。その長老は、ハルマゲトンが始まる可能性のある最後の日付として1975年を何度も明らかに述べていたから、その返事は明らかに不正直だと分かっていた。1980年、ついにものみの塔は信者を誤って導いたと公式に認めた(1980/3/15)。
夫婦の一番上の子供は4歳になるまで排泄のしつけをしなかったし、二番目の子ども(3歳)はまだ排泄のしつけをしていなかった。子どもの準備ができる前にしつけを始めようとしたら、どちらかというと証人としては異例である。妻は明らかに子どもをほったらかしにしてきた。一人はくる病を患い、二人とも栄養失調になっている。一番上の子(9)は低血糖症である。前の妻は、子どもの面倒を十分見ていないと思っているから、夫は子どもの養育をしようとしている。家の中には児童虐待の跡も残っている。妻は否定するが子どもの話によると、発作的に怒って、台所のストーブの上に一番下の子どもの手のひらを着けて故意にやけどをさせた。夫の目標は、はじめは妻が証人を止めて家に帰ることであったが、今では離婚をした上で、(これまではうまくいかなかったが)、子どもの完全な養育権を得ようとしている。証人の基準から見ると、妻は間違っているのに、証人は妻の味方をしている。妻が間違っていて欠陥があると言っても、夫はもう証人ではなくなっていると思われているから、夫は子供を引き取れないだろう。妻は一年以上、子どもに会うことを許さないで、別な証人と再婚した。
証人の宗教は家族問題の重大な原因であり、たった一つの原因である。しかし次に述べるように、既存の問題と非常に絡みあっている場合もある。
Dさんは17歳の太った黒人女性であり、父や継母とは同居を望んではなかった。父親は、はっきりものを言う人で、人に親切で、感情移入をしがち。心配性であり、40代にしてはどちらかというと背の高いがっしりした体格である。最初の妻は精神分裂症と診断された。彼女は何の証拠もないのに夫が「ほかの女とつきあって遊び回っている」と信じていた。彼女は夫の行動に疑心暗擬だった。離婚する間際には「よその女とつきあっていないし、大酒呑みでもない」を守らせるため、去勢を望んだ。それを拒否すると、彼女は離婚した。一年後、自分よりいくらか年下の女性と結婚した。
新しい奥さんは、まもなく証人とつきあうようになった。約一年間、研究をした後、十分証人として認められるまでになった。それを聞いて夫はあわてた。ほとんどの時間を彼らとの関係に費やしたからである。妻が何に熱中しているか、知ろうとして、また宗教に「反証」する気持ちもあって、協会を研究した。皮肉にも最後には夫は教義を受け入れるようになり、バプテスマを受けた。そんなに速く受け入れたのは、証人の知識が不足していたためと、伝統的なキリスト教を表面的にしか知らなかったためである。現在では、夫婦ともに活発な証人である。
奥さん(クライアントの継母)は、とてもきれい好きで細かいことを気にする心配性の女性である。たった一回の集会でさえ、欠席しないようにと、とても気を配っていた。継母は週に三日、奉仕をし、「文字通り」ものみの塔協会の教義にこだわろうとしている。夫の方は冷めていて、衝突したこともある。たとえば、夫は短大の学位を持っており、子どもたちを全員大学に進学させたいと思っている。子どもたちも同じように学位を得ようとの強い希望を表している。けれども継母は真っ向から反対している。完全にものみの塔協会の教義にこだわろうとするからだ。二人はかなりそのことを話し合った。ために夫は自分の考えをどう守るか、途方に暮れることを認めざるを得なかった。演壇から、また実演の中や会話の中で、ものみの塔協会は大学に進むことは道徳的に邪悪だとする考えを示していることに気がつくようになった。最近、大学進学に対する締め付けは寛大にもわずかながら緩和された。二年制の学校ならよいだろうとなっている。学士のために二年以上過ごしても大した違いではないし、職業選択の幅が広がると、彼は話をしている。しかし時間は開拓に費やすべきだと妻は考えている。逆に、夫はたいていの証人は結婚をする。そのため、それが大学にいるよりも開拓奉仕から離れる理由となっている。妻が答えるには、大学は(1)邪悪な会合であり、(2)協会は進学を望んでいない。(3)ハルマゲドンがもうすぐだから、今は(1974年)、進学するには遅すぎる。
妻は非の打ち所のない主婦で、(家をきれいにしすぎる傾向がある)二人には18歳の娘、結婚前からの妻の子二人と結婚してできた二人の子どもを抱えていると思うと気が重くなる。妻は衝動的で、簡単に物事をあきらめ、体重に神経質になっている。数キロやせると、あわてふためいて、よけいに食べて、以前の重量を取り戻そうとする。何回も失敗してから、少なくとも12日以上、ウェイトコントロールをする人の元にさえ通った。
クライアント(娘)の重要な問題とは、家族とは同居したくない、母親と暮らしていけないことだ。父親とは仲がいいけれど、継母を毛嫌いしている。継母は娘に対してとても批判的になりがちで、同居は難しい。数年間、継母と同居してみて寛大に見ることがいよいよ難しいことを分かった。一時、産みの親とも暮らしてみた。そっちの方とも摩擦は増えた。産みの親は、以前、夫を非難したときのように彼女が不特定多数とセックスをしていて「遊び回っている」と絶えず非難をする。また、娘が妊娠していないか、処女のままなのかを分かろうとして、検診のために診療所にさえ連れていった。診療所では、見る限りでは、娘は処女であり、明らかに妊娠していなと答えた。母親は娘が「診療所と共謀している」と結論を下し、診療所を信じなくなった。特定の男性と不道徳をしている娘だと他人にも口に出して、非難するようになった。この「大演説」のそばに住むことは、娘にとって、とても苦痛であった。母親はしばしば娘の身体を虐待していた。一時は金切り声をあげて娘を壁に投げつけた。「おまえは妊娠している。妊娠している! もう知っている。通りの向こうのガキとくだらないことで時間をつぶしているんだろう!」。
娘の好みは、約400マイル離れて住んでいる叔母の元への移住である。でも、それも難しい。家族はその叔母をよく知らない(さらに、叔母はなぜ娘が家に住みたがらないか、その理由を詮索するだろう)。解決策は、祖母の元で暮らすことである。誰でも家に迎え入れて歓迎する初老の夫人である。娘はときには、両親を訪問できた(娘は短い周期で訪れて、継母に寛大になれる)。
この新しい状況下で継母はのけ者にされたと思ったり(やはり、あの女のために家事をしていたのか)、挫折感や、憂鬱な感情を抱いて、たいそう、落ち着きがなくなった。娘の行動のため、特にはじめの数ヶ月、深刻な挫折感を抱いていると主張している。娘のためにはやれる限りを尽くしてきたと思っていた。しかし文字通り、ものみの塔の広めている教えに忠実なのにそれをことごとく批判し、かたくなになる娘の態度が継母と証人たちから娘を追いやったと思っている。娘が「あの宗教」のそばにとどまりたがっているか否かは、確信は持てないが、娘の決断はどうあれ、娘を信じようと父親は主張する。娘はバプテスマを受け、少しは証人と交わっているが、継母との確執はずっと減っている。
とても感情的で、すぐに落ち込んだり、憂鬱になったり、怒ったりする継母とはきわめて対象的に、のんびりしていて、気楽でめったに感情を表に出さない父親が紛争の種になっている。夫が大人しいものだから、妻の過剰反応を引き起こすといった特異な感情は、ある程度夫のせいにできると継母は信じている。夫の側の状況はだんだん、夫の手に負えなくなっている。
証人の子どもと友だち
証人の子どもの感情の調整に逆に作用している重大な要素は、証人が未信者の子どもとの遊びを禁止することである。なぜ同じ年頃の子どもを避けるようにするかその理由を子どもが分かるのは、とても難しい。よその子どもは「世的」であるといった説明はたった3歳の子どもにも分かる。そうした説明はたいてい、別の問題に結びついている。よその子どもが「邪悪」で「悪魔」であるといった理由を与えるのはいっそう悪い。よその子どもとつきあわないようにさせると、証人の子どもは自分が他人とは違う、「まともな子である」、特別であると思ったり、または自分は異常であると思ってしまう。疎外から生じる子どもの感覚が、「特別な、最上の」者の感覚であろうと、「気味の悪い、劣った」者の感覚であろうと、結果は同じなのだ……必要なソーシャルスキルをほとんど発達させないで成長する。子どもがよその子どもと付き合えないが接触する場に置かれたとき(たとえば学校など)その子どもは自尊心と社会の場で自分を処する能力が欠けているからかもしれない。
この不利な状況は、家族流の対処法に戻らせるかもしれない。たいてい、社会的あるいは身体的な隠遁である。よその子どもとの遊びを許されなくなると、子どもは孤独で疎外感を持つ傾向が強い。社会的な疎外によって子どもは自分の世界だけで生きなくてはならなくなる。結局、成長すればするほど、子どもの社会的なハンディキャップは重くなるだろう。たとえその子どもが証人から離れても幼児期における社会的な疎外から生じる重荷は人生を通して頻繁に自覚されるだろう。
もし子どもが同じ年頃の子供を持つ証人の家族の近くに住むと事態はそれほど深刻にはならないだろうが、それは稀だ。たいていの証人の子どもは乏しい近隣関係の中で暮らしている。証人である母親が近所の子どもとの付き合いに反対する傾向がある。その生活様式と価値観に反対する。近所の子どもの中には不道徳でトラブルを起こしたり、不作法に振る舞う者もいるだろうから、すべて「世的」な子どもはそうしたものだと想定する。母親の宗教が乏しい環境に制限しているどとは考えない。証人の価値観とは逆の基準や価値観を抑制していそうな人とつきあうように強いられている。証人の価値観は証人がふつう自分が属している社会階層よりも、たいていの分野で中流WASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント派)の規範に近い。
証人が内面の葛藤や憤慨、攻撃あるいは欲求不満から組織からの離れざるを得なくなるまで、ものみの塔の命令に全面的に従い、きわめて硬直で厳格な条件下で証人として育てられる……これが共通のパターンである。ものみの塔とその基範に対する迅速で徹底した離反と素直に思えるものは、証人が数年にわたり、感情的な葛藤を持つ状況がしばしば生じるからだ。些細な何らかの状況がある種の「離反」となるまで、証人はもっともっとはっきり言える可能性のある否定的な感情を心に抱く。それは誰にも言えない(あるいは証人がそれをしようとしたりすれば異様にはねつけられたりはしないし、ほかの証人と話し合うことは、何の助けにもならないし、たいていは有害であると知っている)。証人は長い間に作り上げてきた一連の感情で行動する。状況を処理できない人は、最後には「もはや着いていけない」、そして以前の生き方に対して反応する。ほかの極端な行為に目が移ることは、何ら異常でない。ふつうの証人がきわめて受け入れがたいと思っている乱交や薬物その他の行為に自ら参加するのは異常ではない。以下に注記する。
A.R.は証人として育てられた19歳の女性である。両親とも南米で何年も働いた証人の伝道者である。初めの子供A.R.が産まれたため、伝道者を止めた。夫婦には全部で3人の子どもがいたが、すべて女性であった。A.R.はとても活発で、情欲的に見える、知性的な若者であった。どこか落ち着いていて、理想的な証人の娘としてあらゆる面で元気に行動していたし、注目を集めていた。A.R.はよその子どもと一緒に過ごすのを楽しみにし、よその子どもをいたわり、会衆の中では子どもたちからはとても好かれていた。集会の間にはたいてい子どもたちの子守りを希望したため、おかげで両親は集会の発言者の話に集中できた。
A.R.が16になったとき、親からの圧力があったために「新しい体制が来るまで残されたわずかの日々に備え、よい便りを伝えるためにすべての時間を捧げよう」と、高校を辞めた。1968年だった。全時間開拓をし、父親の事務所で電話による雑誌の寄付を勧誘するアルバイトをしていた。未信者で父の従業員であった男のせいで、A.R.はすぐに妊娠してしまった。A.R.と長老との間で行われた会話を次に示す。
長老:世的な男性と一緒の時間を過ごし始めたとき、君は何を考えていたか覚えていますか。
A.R.:私のとって、彼は自由を回復してくれる存在でした。彼と一緒にいると楽しくなります。彼はあるがままの私が好きでした。常々、私の両親のように変わってほしいとは思ってはいません。私の行為がすべて彼の気に入るものではないようです。たいてい、父とはかなり疎遠になっていて、私を無視します。本当に私に愛を注いだり、注意を払ったりはしません。聖書研究をしたり、戸別訪問に歩いたり、ほかの証人の相談に乗ったり、会衆内の問題の面倒を見たりでいつも忙しくしてました。私にとって父は赤の他人でした。
長老:しかしだからといって君の犯した邪悪な非行をする理由にはならないだろう。
A.R.:私は非行をしたとは一度も言ってません。私はとても不幸でした。本当に惨めでした。何が非行なのか、説明しようとしても耳を貸す人なんかいません。長老に聞いてもらおうとしても無言が返ってくるのです。必要なのは研究することと祈りであり、父の代わりに尊敬できる長老を持つことを自慢すべきでしょう。いつもそうしていましたが、事態は悪くなる一方としか思えなかった。もしも私の思いを分かる人に聞いてもらえたらよかったのに。長老に話を聞いてもらおうとすると、長老は、「君はそんなふうに考えてはならない」とがみがみ言うだけ。そんな考えをすべきではないと分かっている。でも考えてしまう。誰も私の話を聞こうともしないし、実際、私を助けようとはしません。
長老:しかし、君は世間に出て妊娠し、人生をだめにしてしまった。どんな男が君を欲しがるのか。誰であれ兄弟ならきっと君を好かないだろう。君は会衆の恥さらしで、エホバの前に罪を犯した。君は両親の名声を汚した。なぜなら、君のお父さんはこの地域ではもっとも尊敬すべき長老の一人なのだ。
A.R.:父を知らないんだわ。父は子どもを愛していないし、無論、母も愛してなんかいなかった。誰もが父は立派だと思っている。けれども、私の事務所で少女を連れて遊んでいる姿を見たらいいんだわ。一度私が書類を探していたとき、父の抽出を開けてしまった。中に何があったと思う。今まで見たことのない、おびただしい量の「女たらし」の雑誌だった。とてもショックだった。裸の女の載った雑誌なの。私がいつまでも天使でいたらよかったんだわ。なぜ私が妊娠したか分かる?父をやっつけることなの。妊娠するとほかのどんな行為よりも父を傷つけるのが分かっていたの。(なぜって)、私がどう考えていたか、父に分からせるためだけにそうしたと思うの。私は父の元にいるためには何でもしたわ。今もそうするでしょう。
長老:(首を振って)私たちの愛する天国の「父」の目の前でひどい罪を犯した恩知らずの少女としか思えない。
A.R.:自分のしたことにはとても謝りたい気持ちがあるし、とても邪悪だと思っているわ。時間をかけて何かを分かるだけであって、それから怒り出す。この問題は長い間隠されてきたけど、とうとうこれ以上隠せなくなったわ。私のために私を愛し、私の存在を受け入れる人と出会ったのは初めてだったわ。いつもに「あなたを愛します」と言われるよりは、私がいるだけでいいと言われて、愛されることはとってすばらしいと思うの。
その若い姉妹は排斥され、まもなく女の子を産んだ。その後、彼女はその父親と結婚し、父親もまもなく証人になった。さらにその後、夫婦は、名目だけの参加者となった。諸々の問題(特にしばらくの間「不穏当なゴシップ」の対象となる過去の行為に関係している)を経験したからでもある。同様の事例を次に述べる。
P.B.は幼児期から現在まで、証人と活発に関わってきた。両親は彼女の幼児期からとても活発であった。父親は長年にわたり尊敬を受けた長老であった。「王国」や開拓などにすべての時間を使う価値観を強調し、両親はとても厳格だった。高校を出ると数年間、全時間開拓をした。19歳になるとすぐにある若者と出会ったが、彼は彼女をとても気に入った。彼は何回か彼女の気を引こうとしたが、彼が証人ではなかったから、P.B.はその気にならなかった。彼女とデートができるならP.B.の教会に喜んで通うと言った。そこでP.B.は何人かの証人を彼に会わせて、「聖書研究」を始めた。
まもなく彼は証人の集会に出席し始めた。証人の言葉によると、彼は「瞬く間に進歩し」一ヶ月以内にバプテスマを受けた。すぐに二人はデートを始め、まもなく結婚した。彼のまじめさに疑いを挟む物もいた。証人と一緒に進んでいるのは「彼女をものにする」ためだけだと言って反対する者がいたにも関わらず、二人は結婚した。
結婚してからは、とても活発に参加しながら、証人の予言の悪い点を証明し続けた。まもなく奉仕の僕に任ぜられ、その二年後、長老となった。できる限り証人の活動に時間を費やすようになった。たとえば7時30分に木曜夜の集会が始まるとすると6時には着いていた。家族はふつうはその時間にはその用意がなかったが、一人で王国会館に出向き、扉を開け、照明を点灯し、座席を整えたりした(妻と子どもはほかの人と集会に出向いていた時間だ)。夜の時間のほとんどは証人の仕事で費やされた。求められるのは、個人あるいは家族での聖書研究、集会の準備、会衆内の信者の相談、審理委員会の奉仕、王国会館の仕事、エホバの証人の奉仕に関する諸々の行事であった。望んだわけでもないのに、妻は人間としてひどく疎外されているのだと思い始めた。今では夫が家族とは他人である人たちにおびただしい時間が浪費されだしてからが特にそうだ。妻が集会で夫のそばにいるときや、奉仕に出る時(妻は後に開拓を止めた)を除けば、独りぼっちであった。彼女の話によると、夫は「非常に気ちがいじみている、どうしようもない狂信的宗教家」になった。妻は徐々に証人から離れていった。何とかしようとしても、長老たちはいつも夫の側にいた。夫は「理想的な証人の夫です」と強調した。訴える理由はなかった。
妻は夫が変わる助けになろうとして、何度も相談先を探した。夫婦の性生活はとても頻度が少なかった。証人の活動が優先していた。時間があればできたがとても満足できなかった。言いかえれば、夫は妻にひどく冷淡で、疎外しており、度を超して批判的で、脅しつけていた。
まもなく妻は週に何回かは家を離れて「愛人」と関係を持つようになった。そのため、まもなく、妻は排斥される身となった。そして証人から全面的に離れざるをえなくなり、24年間にわたる過去の生活とは対照的な、すっかり様変わりする環境を迎えなければならなくなった。かつて彼女が筆者に語ったことがあった。「ちょっと考えてみて。この4日間、私は別々の5人の男とベッドを一緒にしたの」。その上、彼女には44歳の「甘い旦那」がいる。その旦那はぴかぴかの新車や高価な宝石(700ドルの腕時計、2,400ドルの金)を貢ぎ、そしてディナーに連れ出しているのだった。旦那は会えばたいてい妻が望むものに100ドルから200ドル払う。今では、妻はとても頼りになる堅実なボーイフレンドを見つけてしまった。その旦那は時々、地元の製薬工場で働いている。結婚するつもりはない。でも彼女と「共生」をしたいのであった。妻が奉仕していないときには、たいてい一日の大半を一緒に過ごしている。
妻に心変わりを期待して、証人の夫は彼女を家から出してしまった。妻には行く当てもないから、家に戻り、妥協して暮らすだろうと高をくくっていた。夫にとって不幸なことに妻はボーイフレンドの家で大歓迎を受けた。夫の策略は裏目に出た。そして家に帰るように妻に懇願した。このシナリオは何度も繰り返された。怒りにかられた夫は突然、妻を売春婦呼ばわりする。そして、態度を変える。その上で、妻に愛していると言い、家に帰るように懇願するのだった。その矛盾した態度は彼女の気に障り、二度と夫の元に戻らないぞと多少は考えている。
ものみの塔協会に対するP.B.の疑問は何年も蓄積されていた。出席していた会衆内では、すさまじい欺瞞行為と思える問題を繰り返し経験してきたと語った。二年前、彼女の父親は優れた長老であったが、「よその女と駆け落ちした」。9ヶ月後、父は戻ってきて、まもなく元の地位に復帰した。P.B.によると、家の中は「以前とすっかり様変わりした」。彼女の証人への不満には次のような例がある。愛が欠如している、閥を作る、陰口、共同でする仕事に誰も手を貸さないなど…………。奉仕に出ることと集会への出席を除いては、ことごとく、非難を受ける。証人はとてもくだらない生活をしていると強調した。彼女は「ハルマゲドンを何度も何度も約束する証人にあきあきしている。歳月が過ぎると、その瀬戸際にいるなんてちっとも思わなくなる」。
彼女は今だに証人の教義を信じている。しかし戻って一緒に暮らせないだろうと考えている。彼女はハルマゲドンでの滅びを望んでいるが、証人としての生活を過ごす悲惨さには価値がないと思っている。薬物やLSD、ヘロインにのめり込み、今は淋病の治療を受けている。おおっぴらに「セックスが好き」と口に出し、過去には年がら年中、バーの中で時間を過ごしてきた。たいてい「拾ってもらって」全然、顔も知らない男の家に連れて行かれる。最近ではこうした行動に満足を求めなくなったが、それは単に「旦那様」が反対したからだ。
証人として育てられてきたおびただしい数の人たちは、精神的に環境に適応していない。それはものみの塔の教義のためではなく、たいていは不十分な環境の元で育てられたからであり、ふつうの子どもたちに比べて不利だ。証人である両親は、過去において、ものみの塔から子どもの育て方についての価値のある指図はほとんど受けなかった。協会が心理学の分野に再び踏み込もうとしたのは、つい最近である(過去40年間に比べ、1930年代は行動科学に否定的な態度は採らなかった)。協会の歴史のほとんどは、出版物や公式の集会での会話のほとんどは、神学に焦点が当たっていた。
証人の比較的に乏しい社会的環境のために、証人である親は、子どもを「弟子訓練」するために体罰を頻繁に使わなければならないと考える傾向がある。学習訓練として機能する全体的な弟子訓練の計画と一体となって用いられなければ、体罰は悲惨なものとなろう。証人の環境は正常であり、感情的な問題を防止するかもしれない。しかし、これはたいてい起きることであるが、証人の組織への幻滅が起きると、ほかの事態よりも深刻な感情的な計画が生まれる。もちろん、たいていは次に述べるように特定の人間あるいは特定の環境に依存する。
SとJは重く、苦しい闘争を繰り広げている若い夫婦で、共に、とても活発なエホバの証人である。Jは長老であり、今年は主宰監督である。Sは6年間、正規開拓をしていた。家庭内闘争の難しさは、基本的な個性の食い違い、特に妻の基本的なニーズを満たす能力が夫にないことが根本原因のようだ。
Sは大勢の友だち(すべて証人)に大きな失望を覚えてきた、非常に危険な人物である。人々への重大な不信感はたった一人の人物(夫)への信頼関係から生まれた。Sは夫とさえ会話できなくなってしまった。夫はふつう、妻の人格と人間性をよく分かっていない。乱暴にごくおおざっぱに見たところ、夫は何はともあれ、狩猟とテレビ観戦を楽しむほうだ。
求婚期はとても短かった。彼女は、少なくとも表向きは「とても霊的な人間」である彼にとてもよい印象を受けた。二人が会ったとき、夫は何年も正規開拓をしていた(結婚したとたん、すぐに止めた)。彼との結婚は「理想的な証人」のイメージがあったからだと、彼女は語った。簡単に言うと、実際はおおざっぱにしか見ていなかった人物と結婚したのではなく、そのイメージだけで結婚したのだった。
特に、夫が重大な事業の失敗のため(と夫は言っている)開拓を止めてから、彼女もとても不運な開拓を止めた。自分で疑ってみると、戸別訪問(自分はこの活動にとても向いていないと分かっていた)で会った人たちを本当に助けているとは思っていない。長い苦労でいくらかの報酬を得ている。でも、ものみの塔協会に人々を引きつけるのは難しいことも分かっている。特にその多く(それも、地元の王国会館の友人である証人)が協会に失望している事実があると、語った。たくさんの証人が偽善者であると思っている。また、彼女自身、おおいに失望させられた組織に人々を引きつけるのは難しいことだと、分かっている。
夫にもいたく失望させられた。期待していたよりもひどく違ったタイプの人物であることが分かってきた。明らかに協会の出版物を研究するのが嫌いで、『ものみの塔』誌を通り一遍にしか読まない。それも、ものみの塔研究を指導するように求められるときだけだ。協会の教議は浅くしか理解していないし、宗教の話題を好まないのははっきりしている。けれど、長老に値する資格があると会衆を信じ込ませるには十分な体裁を整えている。協会の知識がどこかしら、浅はかであってもそうなのだ。監督の職務にありながらも、たいていの現在の教義はほとんど覚えていなかった。妻がセラピストから聞いた協会に関する情報をしゃべると、「どうしてそんなこと知っているんだ」と言い返して怒りを露わにした。夫が何か新しいことを楽しんで学んだり、夫が最初から情報を知っていないからと言ってそれを怒りに覚えないようにと思いながらも、夫の態度に表立って憤りを現した。
会衆、特に家族からの非常に強い仲間の締め付けがあって、Sは最初、開拓をしていた。家族全員が活発な証人で、そのうちの何人かはものみの塔協会でも非常に目立つ地位にあった。Sにはまた子どもがいなかったし、働きも強制されなかったから、開拓をしないとしても、従事していても「許される」活動はほかにないと思っている。
長老にあるとき、夫はどこか距離を置いて敵対しがちであった。長老になると、大勢の人の話を聞いていたから、人々の相談に耳を貸すのは難しいとは分かっていたと素直に認めた。今や友人(証人)の終わりのない相談のために病気にかかっている。伝道者が一人にさせてくれれば、とも強調した。相談にはどこか無表情に反応するようになったと認め、長年たくさん耳にしてから「すべて飽き飽き」していると強調した。人間存在の基本的な理解が欠けている。特にカウンセリング技術や「人間のジレンマ」の理解が不十分である。その助言はひどく表面的なりがちで、きわめて証人の型にはまったものだった。質問の結末はすべて実質的に同じ……もっと研究をしなさい。もっと祈りをしなさい。もっと「奉仕に」(戸別に注文を取る)出なさい。この妻によると、「正しい」答えをしているが有効な答えになっていない(または彼が妥当であると信じている答えである)。治療の中で奥さんは夫が全く正直ではないと考えている
欲求不満を表す詩を書くことさえして、妻はどれほど不幸な結婚生活を送っているか、どれほど親切を必要としているか、夫に伝えようとした。夫は詩を読んでもその内容に込められたことの重大性にはほとんど関心を払わず、即座にその紙を投げ捨てた。それは夫からなおも遠ざかる原因になっただけだ。夫が変わらなければ夫とは別れようと、幾度となく悪く考えがちであった。夫は、妻にも、妻の「愚慮」にも著しく無視し、明らかにどこか消極的に「愚慮」に反応しがちであった。
夫婦の日課は、数年間変わらなかった。昼間、妻が「奉仕に」出るとき、夫は夜勤をした。二人はほとんど顔を合わせなかった。結婚をだめにする可能性が十分にある状態であった。接触が少ないから、けんかをしたり、失望したり、論争をする時間はほとんどなかった。妻は背の高く、魅力的で感受性の強い、知性的な婦人だった。彼女は音楽や詩作、著作、語学の才能があったが、夫には、それをほめたり、適当に了解するほどの知識がなかった。
王国会館で、あるいは開拓しているときに経験するいさかいのような欲求不満を解消するために、彼女は交わりに傾きがちだったから、夫婦間の没交渉は、彼にとっては特に欲求不満の種となった。妻に何かほかに注意を向けさせながら、感情に訴えて妻を避けたり、無視したり、とても忙しいんだと言って切り上げてしまいがちだ。妻の友人は主にほかの証人に向けられがちで、その友人にはとても頼り切っていた(特に独り占めしがちだ)。夫は妻が友人に関心を払っていると怒りを覚えた。さらに喧嘩を売って、妻へ怒りの感情を露わにした。
やがてSは正規開拓を止めた。それは彼女にとっては難しい決断だった。Sはパートの仕事に就き、地元の短大で文学を習う決心をした。夫から離れて一週間の休暇を取ったが、結婚生活を改善しようと帰宅した。寂しかったと表に出すような、帰宅を喜ぶ態度を見せない夫の態度、特に帰宅したときの拒否的な態度(君がいなくても何とかやっていけるんだ、など)にひどく幻滅させられた。その結果、夫とも宗教とも大きく距離を置いて、今から自分の人生を生きるんだと決心をした。
小さいときから宗教にどっぷりと浸かり、夫とのよい関係を長く期待していたから、最初は決断するには勇気が要った。Sは夫が必要を満たしてくれるといつも思っていた。ハルマゲドンが間際に迫っていると思っていたこともあって離婚する決心はなかった。ハルマゲドンが二年以内に実現しないで、夫婦関係が悪くなるだけなら、Sは離婚の計画をやり通しただろう。その当時、それを書いた予測は乏しい(注:Sは夫と離婚してからは証人を止め、今は未信者と暮らし、ものみの塔協会とは何ら関わりを持たない)。
Sには証人の友人が一人いて感情的な争いと闘っていた。彼女は会衆内の何人かの長老から「カウンセリング」を受けていくらか落ち込んでいた。会衆内での活動から手を切って問題を解決するつもりだと公言していた。Sはこの友人の証人がいる限り組織にとどまっていると強調し、もしその友人が止めたら、一緒に止めようと考えていた。これが罪の感覚に落とし込み、その結果、いくらか証人とつながりを続けられた。
良くない行為に関するものみの塔協会の過剰な介入は、組織の中で育てられる証人の気質形成に貢献している重要な要素である。基本的には、誉められない行為に注意を払ったり、善行を無視する気質がある。いろいろな方法で証人の組織全体が、特に1930年、40年代に殉教コンプレックスを経験した。その当時の証人の歴史を振り返ると、「迫害」されていると言って、しばしば一般大衆と敵対した。そして見る者すべてにその痛みを示して、あらん限りの力を振り絞って金切り声をあげた(ハリソン1978年)。現在、この時代を覚えている証人たち(主に1930年から50年代に活発だった人たち)は、一般的にこの時代の苦難の大部分は、自作自演だったと認めている。たいていは、この行動を「世界の耳目を証人の働きに向けるエホバの業」だとして合理化する。1940年代の法廷での事件の展開や新聞の見出しが描かれているのだから、確かに証人の業に目を向けてしまう。
殉教コンプレックス
殉教者コンプックスと呼ばれる結果、ときには、やっても何の役にも立たない方法に従って行動する証人がいる。外部の人にはわずかにしか注意を引かないような方法でも、証人の宗教を観察できるありきたりの作業に従事している証人もいる。内輪の中でしか注意を引かないような方法で行動する証人もいる。たとえば表立ってクリスマスパーティの飾り付けをしないで、「私は参加するつもりはありません。クリスマスは異教です。世的な祝日です。クリスチャンとして神の律法を犯すまねは絶対にしません。あなた方はそんなひどい偶像崇拝に関わってもいいのですけど、私は清らかでいたいし、神の目に霊的でいたいのです」と上司に訴えて、おおげさに、かつ大声を上げて祝いの席の勧誘に抗議する証人もいる。
この種の行動の起因は、親による心理学的な条件反応の場合もある。子どもたちが静かで大人しく行動していると、子どもから注意をそらす。しかし不作法に振る舞うと異常なまでに注意を払う(本当は子どもに不利な介入だが)。不作法や罰によって自己満足のニーズを満たせると子どもに教えても、たいていの証人の親は不作法に対ししばしば不適切に対応する。もし私たちが建設的な行動によって自我のニーズを満足できないなら、たいていは逆に訴える。せめてニーズがいくらかでも満足されると、自我のニーズはとても強いのだから、たいていの人はニーズを満足するために逸脱した行動にさえ訴える。もしも好きな食物が食べられないとすると、たいていは嫌いな食物でも食べる。終始一貫した不作法な行為への報酬は、結局、子どもに精神的な不均衡を起こさせるだろう。親の心理学的な問題が原因となった事例を次に示す。
養子にするつもりだった生後3か月の嬰児を殺した容疑で逮捕されたマービングバーグに住む女性に対する殺人罪は、彼女が多重人格に罹っていたかどうか、精神病学者が検証した後、昨日棄却された。ベーナ・コルバートの人格は、6歳の子どもから高尚な宗教家の女性の支配的な役割にまで広範囲に渡っていると、一人の医師は語った。検事補からの働きかけによってコルバート(20歳)に対して巡回判事は殺人罪の告発を棄却した。精神病学者の検査で審理に立つ能力があると分かったが、犯罪者として子どもが死亡した責任を負えるとは証明できない状態だったと、判事補は語った。
ミカ・J・コルベルトと称する嬰児は、1985年10月29日、マーチングバーグの市立病院から搬送された2日後、頭蓋骨骨折でワシントン児童病院で死亡した。検死官によると肋骨も折れていた。ベーナ・コルベルトを検証した精神科医師や心理学者のうちの一人、ブラッドレイ・ソウル医師は、彼女が「普通の人から見るととても正常だが、非常に珍しい奇病にかかっている」と昨日証言した。ブラッドレイやコルベルトを検診した地元の心理学学者ハル・スローターもまず最初から死亡の診断に疑いを持った。「これは、とても個人的な問題であるが」と前置きして、コルベルトは告発を避ける偽装をしているとは思えないと、ソウル医師がコールドウェルに伝えた。シェルマン・ランバート弁護士はこう語った。患者は犯罪を犯していなかったけれども、外来の治療を受けた方がよいだろう。
コルベルトとその夫、スタンレィはエホバの証人を自認していた。嬰児が病院で横たわっていたとき、ふたりは宗教が輸血を禁止しているといって、医師の輸血を拒否した。病院の責任者は輸血を命じた最高裁の判事に訴えた。州は1986年5月にスタンレィ・コルベルトに対し全ての責任を負わせた。……嬰児が死んだ当時、将来養子にする可能性のある夫婦は徹底的な試みを受ける(家庭への訪問や親族、近所の人への聴取を含んでいる)と、政府機関の責任者が語った。最後の書類が許可される前、6か月間の審査期間内は幼児は家庭内に置かれるのだ。
女性の役割
証人は子どものしつけに懲罰を過剰に強調するだけではなく、支配者たる独善者として、男性の重要性を強調する。厳しい昔風の女性の役割も同じ。懲罰としての体を使っての訓練は子どもをしつけるにはふさわしい技法であると、証人は絶えず強調する。「マザーコンプレックス」の裏返しとして、子どものしつけ訓練に限らず、長老が行う女性信者の弟子訓練でも常にストレスがある。
独裁者であり、家の頭としての男性の役割が常に強調されている。たとえ会衆内で男性が不足していて、資格がある女性がいたとしても女性が会衆の中で正式に教える立場(長老、奉仕の僕)に立つことは許されない。男性がはっきりと「家の頭」の役割を公式に演じることが保証されるかどうか、心配がある。妻が家の問題の大部分を決定したり、大いに口を出すならと考えると、その夫は会衆において責任ある立場に立つ資格がない。特にものみの塔の出版物を十分に研究している知的で教養のある女性が自分を断定的に語ったり、男性信者に教えたり(バプテスマを受けている信者なら悪と見られるがまだバプテスマを受けていないなら、かまわない)、虚栄心で知識を見せびらかしたり(いつも悪と見られた)すると常に忠告を受けた。これらすべては「頭である男性を侵す」努力であるから妨害を受ける。女性と男性の間には、厳格な性的な差別がある。成人女性はどんな分野においても決定的に劣った役割しか果たせない。伝道者や開拓者を除けば、会衆内での名誉ある地位と権威はすべて男性だけが占める。少なくとも公式の証人会衆の中では女性が自己表現をする余地はほとんどない。
それでも実際には女性が自己表現をするための場所はわずかながら存在する。ものみの塔協会から一時間のスピーチがおおざっぱに用意されている場合でさえ、語り手はそれに忠実に従う。研究生スピーチの資料が細かいところまで書かれているときはなおさらだ。残された道は会衆への資料をオウム返しに語ることである。材料を新しく加えて会話をよくしようとする者は批判を免れない。もしそんな行動にこだわれば、スピーチをする特権はたちまち奪われてしまう。
証人(特に、知的な、主張をする女性)が組織の中で直面する障害を次に示す。
Bはとても愛嬌のある、活発な、個性的で知的な37歳の女性であった。面接した当時、15年間ほど証人をしていた。初めは歌手になりたくて、音楽の学校の奨学金を得ていた。それでも学費は不足したために一年後に退学を迫られ、就職した。その仕事には満足できないで、逃避する意味もあって、7歳年上の男と結婚した。夫はほとんど自分の世界に閉じこもり、妻と3人の子どもとはほとんど一緒の時間を過ごさなかった。一緒に過ごす時間は非常に限られ、家庭の外に関心を求めた。
結婚するとまもなく、証人と関わりを持ってしまった。そのために、音楽の仕事にはすっかり興味を失ってしまう。ハルマゲドンがすぐに来て、仕事に従事する機会はないとかたく信じていた。まもなく3人の子供が産まれ、家族を育てて、妻と母親の二足の草鞋をはいた。才能と能力を発揮したいといった欲望がくすぶっていても、証人の活動にどっぷりと浸り、音楽の才能を隠さなければならなかった。その後数年間、証人の教義をかなり詳しく知って、かなり高い程度に理解を深めるまでに良心的に出版物を研究した。その進歩は周りの者からも誉められ、よくその名を知られるようになり、会衆から尊敬されるまでになった。
そしてときには、彼女の知識は、会衆の全員とは言わないまでも、ほとんどの男性をしのぐ程度にまで達していた。徐々にねたみを買うまでになった。組織から認められ、受け入れらるようにとの意図もあって全時間開拓に入り、7年以上も開拓した。当時、会衆内で管理運営をする地位に就ける男性がいなかったから、「一時的に」その地位に就いた。その指名がひどいねたみとなった。それも相手が女性だったから、「男」の目から見ても「劣っている」男よりもさらに劣っていると、いつもいつも、言われた(最もすぐれた女性でも、男のくずよりもさらに下等なのだ)。その彼女を「女は女の場所にいろ」と開拓者としての彼女の地位を罷免しようとした男たちとの表立った闘争が起きるほどになるまでに恨みつらみが充満していた。
ついにBの敵はそうした状況下で策略を用い、汚いやり方でがBからその職をうまく奪い取れた。そのやり方は汚く、ばかげていた。Bはそのやりかたが汚いと、巡回監督に訴えた。彼の下から決定が出された。「Bは卑しい」、「成り上がり者だ」と言った段階にまでねたみが頻繁に口に出された。おそらくは会衆全体を合わせたよりもたくさんの人をBが組織に加入させたという事実があったから、ことにねたみが厳しくなった。もしBが男であったとしても、それでもまだねたみがいくらかあっただろうが、Bが女性であったからこそ、こうなってしまったことが人々にとってはきわめて印象に残るのだ。
この内部抗争は予想通りの反応を生んだ。……Bは好戦的になり、ずばずばものを言うようになった。さらにまだいやな経験をして、会衆内の男どもの怒りを買い続けた(長老よりも協会の教義に優れた知識があると繰り返し語った。またBの職務は間違っていないと書類に正確に残せた)。男たちが彼女に「事件」をけしかけていると思う一方、明らかに邪悪な人物と闘っていると会衆のほとんどの人たちの目には明らかであったから、会衆を二分しようともたいていの人はBに味方した。
晴れてBが開拓者リストからはずされても、問題は尾を引いた。大部分の証人は決定的に彼女に敵対するようになった。証人と関係を保つためにあきらめざるを得なかった希望に後悔の念を覚えながらも、数年後Bは会衆から断絶をした。特に証人となるために歌手をあきらめなければならなかった過去を恨みがましく思っている。その道に詳しい人に言わせれば、彼女の歌唱力は際立ってるようだ。その後、彼女は離婚をし、年下の男性と結婚し、新しい生活にはすばらしく順応している。もう二度と証人には戻らないと語り、今ではそれ以外の宗教をかなり受け入れている。それでも、未だに証人の教義のほとんどを許容している。
一つの問題は、彼女が知性的で能力があり、野心的な女性であったからだ。男に生まれたら、組織の中で急速に進歩をし、人から疎外されなかっただろう。Bは会衆では下等な地位に置かれたことをたえず思い出す。多岐に渡る彼女の才能(一般的には組織から誉められた能力も含まれる)のほとんどは、いつも抑えられていた。
ハリソンは女性に対する証人の態度への彼女なりの感覚を次のように集約している。
なぜ私の兄は、私の行為のすべてを知らせて是認させるという絶望的な希望と重い罪が追及されなかったのか、私は自問している。運や気性のせいもあるが、ことに少女たちが受けて罪を感じるようなあいまいなメッセージのせいだと思う。霊的な性質を持つべきである、しかし逆に少年たちよりも絶対に堕落している傾向があると教えられた。
私の宗教(証人)では、美しいもの、高潔なもの、霊的なもの、善良はものとはすべて女性によって象徴される。邪悪なもの、堕落したもの、極悪非道は、すべて女性によって象徴される。
「神の組織」、「キリストの花嫁」「共に統治する天の144千人」は「貞節な乙女」によって象徴されると教えられた。「大いなるバビロン」「邪悪な宗教」は「ひどく嫌悪される母であり、胸がむかつくような地上の体制であり、……人の血を吸い取る好みを持ち、……それは女性で描かれ、国際的な淫売である」とも教えられた。
少女たちは強い衝動を持っている少年とつき合わないよう、考えさせられた。少女たちは眠っている自分の性意識を制御する者であるばかりではなく、少年の活発な衝動を防御する者でもある。間違った責任を植え付けられ、それを受け入れると誤って呪われている。少女たちはそこにいるだけで男性の性意識を刺激している……。それをなだめるのは少女の仕事だと、教えられていた。
女性がいるだけで、「誘惑」になる……。女性が「求める」程度に男性が自然に「(性を)求める」と、女性は間違って堕落させられ、異常になり、罪深くなると、教えられた。女性は男性の性欲の受け皿である。使徒ペテロによると、女は「弱い器」であった――文字通り、満たされる「器」である。ほかの男たちが用いるために男の神から作られた「器」は、自分の欲望を持たないと考えられ、ひねくれており、神の怒りの焼き尽くす炎にゆだねられる。そして、女性が栄光から突き落とされるとその滅びはとても恐ろしい――彼女の強情な性格は、神のあがないの愛が拒否され、確かな男の愛が奪われた、あの恐ろしい底なしの海に導かれるだろう。ところで、男が堕落するなら、肉で作られた足がつまづくだけだ。
上に挙げた例から明らかなように、しばしばほかの要因とも関連しているが、配偶者の虐待は証人の間で大きな問題となっている。文書でうまく記録されている証人の配偶者虐待の事例は次の「ロス・アンジェルス・タイムス」である。
シンシア・スウィンク・コストクは求道の身である。シンシアは全く記念碑のない目標に取り憑かれた。シンシアは宗教を家庭内暴力の犠牲者のための安全地帯にしようとしている。コストクはエホバの証人であり、シンシアの前の夫である。事実、結婚は宗教にひどく拘束されてきた。空いた時間を戸別訪問(神への奉仕)を費やすために子供を作らなかった。コストクの思い描いたような至福の結びつきではなく、暴力に終始した。結末は教会からの追放に終わった。
パルムダールに住む35歳の女性は疑い深いレポータなら当然質問するであろう質問に事前準備をしているようだ。法廷での記録書類、協会の責任者への手紙とその答え、結婚カウンセリングの話し合いでの元の夫の会話録音、精神的な問題と身体上の問題を証明するカウンセラーと医師の会話、シンシアの行動を語っている友人の会話。そのどこにも書き残されていない項目がある。もっとも知ってほしいこと……シンシアが育ち、生涯いつも崇拝した教会の会員であることだ。1985年の結婚から数週間後、夫がシンシアを殴ったと語っている。次からの4年に渡る陳述は、一連の配偶者の虐待に詳しい者にとっては珍しくはない。いらいらの暴発、それに続く激しい自責の念、狂ったようなギフト攻勢……など。
ほかの家庭内暴力の事例と同じように、暴力行為は決して警察には通報されなかった。それでも家庭の外に漏れてはいなかった。最初に暴力があったすぐ後、シンシアと夫はレセダ会衆の長老に助力を求めた。次の数年間はうまくいっていた。長老たちは問題を改善する方法をいろいろ教えてくれたとシンシアは語っている。「賛成したものにも間違いがありました。しかしこんなことはどこの家庭でも起きていると言いました。一人の長老は私がよそとは違う方策を取ろうとしているとほのめかし、その長老の奥さんは夫には好きになるようにさせていると言いました」
シンシアにはものみの塔からの一通の手紙が残されている。……「忠実なクリスチャンはお互いに裁判にかけるべきではない」。シンシアはこの問題を友人に口外しないようにとも言われていた。彼女の言葉によると、虐待はだんだんひどくなった。長老に不平を訴え続けると、服従するほうがためになる(聖書的に正しい)と彼らは言った。最後には、長老たちはシンシアが悪い男と結婚したんだろう、しかしもう手の施しようがないと認めたそうだ。それに「この苦痛を何で片づけるのでしょうか」と質問すると、「忘れなけばならない」と長老たちは答えた。私は神の意志に沿うようにと決心し、夫と組織に残った。正しいことをしようとした。だから私の心を調整するよう、エホバに祈った。
コストクが言うには、結婚して4年間、彼女は落ち込んでいて働きもできず、むち打ち症と夫から加えられた一撃が原因でいろんな脊椎の故障に悩まされていた(夫は1981年の自動車事故による脊椎の傷のせいだと言っている)。ランカスター砂漠のオアシスでの6ヶ月間の集中カウンセリングで激怒は頂点に達し、教会の長老に長い手紙を書き始めた――「私に何の対処を取る見込みがなければ、決して夫とは一緒に住まないでしょう」。「あなた方に相談して、クリスチャンの妻はたとえ夫からの攻撃で死ぬにしても死ぬまで夫に添い遂げるのだと、現実、そう考えていました」。1990年3月人身保護のための法廷の求めに応じてコストルは言っていた。「1985年12月以降、私は少なくとも15回から20回……叩かれました。ねじれた骨盤や尻、捻挫をした背中や首の傷に苦しみました。このときの精神的及び身体的な重い無力感で立ち上がれなくなっていました」。
シンシアは治療回復の過程の中で、口に出してしゃべることが大切だと思った。だから教会の長老から課された口止めを破った。結婚してから何が起きたかを友人たち(ほとんどが証人)に話し始めた。長老たちは口止めにかかった。それでも話を止めなかったから会衆から「排斥」された。……ニューヨークのエホバの証人のスポークスマン、メルトン・キャンベルはコストクの事例は非常に慎重に考慮されたと語った。「こうした例ではすべての関係者が徹底して、かつ非常に同情的に処理されると、保証する。この事件は徹底的に聴取されていた」。さらに家庭内暴力に対する教会の立場として「生活の中で個人が聖書の原則に従うなら、こうした問題は起きないだろうと確信する。争いをするなら二人に頼る」。……シンシアは何があったのか、聞いてくる人には誰にでも伝えると言っている。教会への献身のように、シンシアの気性の激しさはほとんど他を圧倒している。今では祈るときにはもはや考えを定めるようにとはエホバには願わない。その代わり、神が他人に見識を見させてくださいと願っている。
再婚するために淫行の証明を要求するものみの塔に関する事件を次の事例で示す。
証人と駆け落ちした胸の大きなブロンズの巡査は、愛人の妻にセクハラをした容疑で追求を受けている。夫に逃げられたマーガレット・ロブソン夫人は、婦人警官シルビア・ロッカビー(34歳)に対する公式の2件の訴えを提起した。ケント州ハーンベイに住む3人の子持ちの母親、マーガレットはシルビアと夫、ジョンは昨年、事件を起こし始めたと語った。また「夫はほかの女と寝て永遠の責め苦を負うリスクを犯して、いつもキスマークを付けて帰ってきた」。
ジョンはマーガレットに淫行を白状するように迫った。そうすれば証人のセクトはジョンが再婚できるのである。マーガレットはこう言っている。「真実ではなかったから、書類にサインする道理はなかった」。後でマーガレットは、「容疑者のシルビアが私に飛びかかり、押さえつけ、のどを手で押さえた」、マーガレットはケント州マーゲレ−ト市にあるシルビアの属する警察署長に訴えた。しかしそこでは証人が足りないから事件を取り下げるよう忠告を受けた。収入を得るためパートタイムのヘアメイクの仕事をしている古い親族の家にシルビアが電話をかけてきたと、マーガレットは語った。再び訴えを起こしたから、ケント署は「調査は継続中である」と昨日、認めた。現在、エホバの証人になっているシルビアはコメントを避けた。
いろんな原因が絡んでいる証人の離婚事件のうちでよく知られた例は、南アフリカの政治指導者マンデラの最初の妻の事件である。
「ネルソン・マンデラが望んで私の所に来れば、私に会える。けれど、私は二度と彼の元へは行かない」。忘れられた南アフリカの国民的指導者の最初の妻、エバリン・マンデラはそう語った。……エバリン・マンデラは南アフリカの南東のトウンスケイ海岸にある独立国とは名ばかりの黒人ホームランドにあるへんぴで埃だらけの村コフンババに住んでいる。彼女は生まれ故郷、トランスケイに帰った。そのとき、ソウェトでの26年間の看護婦生活を辞めて、一月まで雑貨屋を営んだ。彼女の息子マクガソ(39歳。マンデラとの結婚でもうけた四人の子どもの一人)が同居している。二人の子どもは死亡した。娘のマカズルウェ(36歳)はアムハーストに住んでいる……。
エバリン・マンデラはへんぴな村で多くの時間を伝道に費やす信心深いエホバの証人である。元の夫を語ることには尻込みする。「私の心を傷付けた」と語っている。エバリン・ヌトコ・マセは1921年に生まれ、1944年、ネルソンと結婚した。二人は1957年、離婚した。エバリンは、ネルソンが政治に関与するようになったときに結婚は崩壊したと語った。ネルソンはしばしば夜になると家を空けた。社会運動家、ウィニー・マデキゼラと情事を重ねているといったうわさが立った。エバリンがネルソンの問うと、「どんな警官だって、君のような尋問はしない」と鋭く答えたと、エバリンが語っている。「ひどい」闘いの後、エバリンは子どもを連れて出た。ネルソンは一年後にウィニーと結婚した。片親としての孤独な苦労の日々を重ね、いまだに深く傷ついている。「ネルソンは私がどこにいるか知っている」、「しかし私が一人でいたときはいつだって、決して私を助けなかった」。元の夫が海外への旅路でシャワーに打たれていることにあこがれがあるか尋ねたところ、肩をすくめてこう言った。「世界中がたいそうネルソンを尊敬している」。「一人の男でしかないのに」。
要約
証人の家庭は、子どもを育てるには異常な状況をいろんな形で作り出す。子どもたちはたいていは仲間から疎外され、外部の社会と衝突してしまういろいろな形態のタブーが予想される(たいていそれに従わされる)。子どもたちはこうした衝突が起きるとき、感情的なトラウマに抵抗できるよう、会衆や子どもの家庭からの必要な支援をたいていは受けられない。さらに若いうちに結婚する傾向や、家族の必要をはっきりとものみの塔の命令の下にゆだねる傾向も深刻な問題を作っている。女性の役割は会衆内ではっきりと貢献することであり、女性は副次的な役割にとどまることを保証するよう、絶えず、強調される。例外的に、情報を手にし、十分に読み取れる女性は、会衆の中で苦難の時間を刻む。