エホバの証人に精神病が多い理由 

エホバの証人の中で精神保健の問題が多いのはなぜか。多くの原因が考えられるが、次に上げる協会の性格はとても重要である。


方針の変更

 ものみの塔は絶えず教義を変更する状態になっている。たった一つの論点についても、多いときは三度も四度も変更している。ものみの塔の医学に反する教義はひどく悲劇的だ。1930年から1940年まではワクチンは効果が無いだけではなく、神の律法に「全く反している」と教えていた。1950年代にはワクチンは個人の良心に任せられると教えた。今ではものみの塔の出版物の記事によれば、ワクチンの効果を絶賛し、多くの命が救われた。1961年には臓器移植は特別に許可されたが、1962年に禁止した。腎臓の移植は神の律法に違反すると教えていた。食人肉と規定していたからだ。1980年になるとほとんどの臓器移植は個人の良心の問題だと規定した。それでも唯一、骨髄移植は禁止された。血液を造っているからだ。1984年になるとその骨髄移植さえも許可された。
  1909年の記事には血を食べることに関するユダヤの禁令はクリスチャンの律法とは考えられないと書かれていた。1961年には輸血は排斥の理由になった。ものみの塔は「裁判所が輸血を許可するように思えたなら,クリスチャンは神の律法に対するそうした違反行為に至りかねない状況を避ける道を選ぶかもしれません。……当局はその人を法律違反者とみなしたり,起訴しようとしたりするかもしれません。……そのクリスチャンは義のために苦しみに遭っていると考えることができるでしょう」と教えている(「ものみの塔」1991/6/15 P.31)。

 ものみの塔の教義は明確である。証人は輸血を許すよりも、命を犠牲にするし、子どもは死んでも構わない。失血死しても、外科医のデントン・コーレイ氏のように訴えられる。ものみの塔はこの裁判で負けた。陪審員は輸血回避は手術のリスクを増すと裁いた。この裁判からものみの塔は次のように変更した。目的はどうあれ、昔はすべての血液製剤と血液成分は律法違反とされた。血液製剤から製造された接着剤さえも購入できなかった。現在では証人は、アルブミンも、グロブリンも、第八因子の血液製剤も、第九因子血液製剤も、循環血液も許される。血友病のための血液製剤も解禁された(「ものみの塔」1991/6/15 P.30)。血清は許される。ウィルス性肝炎、破傷風、狂犬病、ジフテリアの治療のための血清は少量の血液だからだ(「ものみの塔」 1978/9/15 P.30-31)。ものみの塔は、証人は「小さな事」でも忠実でなければならないと教えているからこうした多くの偽善的な例外はまだあると考える。何千人もの子どもが、失血で亡くなった。老人が角膜移植を拒否して盲目になった。腎臓移植を拒否して亡くなった人もいる。教義が変更され、昔は否定されたものが許容されるならそれがトラウマになる。

本当に清い組織か

 エホバの証人が幻滅を感じる理由はほかにもある。証人の組織だけが特別に神によって管理されていると教えられる。ものみの塔の境内にいる者だけが唯一、神の奴隷であり、境内の外にいる者(特に聖職者)は皆殺し(ハルマゲドン)で滅ぼされる、邪悪な者である。しかし、特別に胸の悪くなるような行為をする証人がとても多いことに目ざめる証人も多い。最近の例では、「二人の坊主頭の未成年の証人は両親と仲良く暮らしていたのに両親と弟を殺し、収監された」(デトロイト1995年)。この悲惨な犯罪は証人の注目を引いた。知られていない、ものみの塔の殺人事件はほかにもある。16才で両親とも殺した少年の証人がいた(シカゴ1990年)。この事件は国の内外に報道された。この事件はそれでも何百とある殺人事件のほんの一例に過ぎない。

予言の失敗

 ものみの塔は偽りの宗教法人と思っても、それを抑えたり、理屈を付けたがる。根の深い恐怖心を心の中に宿している証人は多い。その恐怖心が何なのか調べない証人は多いが、その恐怖感は強い。認識しようとしないし、まともに考えるのではなく、抑圧する傾向があるからだ。夫は不信仰かもしれないと疑う妻の心理とは違う。妻は恐怖心を覚えても友人にはそれを言わない。それでも夫には罪の兆候があると思うと、感情的な混乱を引き起こす。
  最近の劇的な教義の変更は、1914年にハルマゲドンまでのカウントダウンが始 まり、1914年からの第一次世界大戦はイエスが地上に千年王国が設立するということのしるしだとする昔のものみの塔の教えだった。また、1914年の出来事を見た世代はハルマゲドンと「新世界」を見るだろうとも教えていた。「千年王国の賭けはすべて外れた。「イエスが『誰もその時と時刻については知りません』と語ったとき、イエスは適切だった」と、1995年11月にものみの塔は読者に知らせた。ものみの塔が作った予言はことごとく当たっていない。エホバの証人になるために犠牲にしたものが多いのに偽物に衝撃を受けたと思うと、それが特段にトラウマになる。
  その他のものみの塔の方針にも日付の失敗が影を落としている。1940年代、50 年代には家族を持つことは勧められなかった。ハルマゲドンが間近に迫っていて、子どもを持つことはリスクが高かったらしい。かつては結婚さえも勧められなかった。ものみの塔は1941年に「子どもたち」と題する出版物を出版した。その中で神を喜ばせる唯一の方法は「正しい知識を得ることである」と論じていた。「子どもたち」出版の主な目的は、ものみの塔が神の組織であると読者に納得させることであり、組織に従って永遠の命が得られることである。全時間をものみの塔に奉仕する人生を送らせることが出版の狙いであった。「いつかは子どもを持つがそれは「神権の元ですべての人々が喜び合い、正しい律法が定められ、エホバの至高の権威が定められるときの記念碑である。……生きる望みを持ち、義を愛する者はイエスの訓戒に注意を払い、神の王国に避難する」。組織の出版物の中でものみの塔は次のように書いている。

間違いなくハルマゲドンが迫っている。そのとき「主」は醜い地上を精算する。そこに神の栄光があり、美しい光景が広がる生活が始まる。さらに寿命は延びる。共に地上での旅行を続けると認識する。「神権政府」しか眼中になく、そこに献身する。地上に平和が訪れるまで結婚を延ばすのがよい。重荷は負わない。自由があり、「主」に奉仕する備えをする。……政治も、宗教も、商業も避ける。繁華街も避ける。……今、何をすべきかは明白だ。今や、エホバのみ名を証ししなければならない(「子どもたち」(英文)1941 P.366-367)

 ハルマゲドンがごく間近に迫っている1941年を待った後、1970年代を生きていた証人がいた。現代の証人がこれらの古い出版物を偶然見つけると、怒りを覚え、騙されたとか裏切られたという思いに駆られる。そして罪の感覚を覚え、うつの症状に陥り、苦々しさを覚え、人の眼をはばからないほどのひどい怒りの感情を露わにする。その時代を経験した証人は同様に苦々しさを覚える。偽りの希望を持たされただけではなく、あからさまな嘘と化したものの犠牲になったからである。
  ものみの塔が予言に失敗し、非常識な教えをして証人の生涯を犠牲にしたとい うのに、ものみの塔の外にいる人はそれが理解できない。人間が聖書を説明しようとしてものみの塔の出版物が書かれたばかりか、それは半分は霊感を受けていて、毎週届けられる新しい聖書の一節だと、証人は考えている。また、聖書研究を通してでなければ、神のご意志を理解できないし、ものみの塔の頂上にいる人を除けば神のご意志をはっきりと理解できる者は一人としていないと信じている。救われるためには神の組織の一員にならないといけない。洪水が始まると方舟に入っていない者はことごとく殺され、永遠に滅びる。
  クリスチャンらしく生きるとか、善人であることは大事ではない。肝心なこと はものみの塔の中に居ることだと教えている(それでもそれだけでは救いは保証されない)。ことごとく完璧な証人になるには少なくてもものみの塔は唯一の神の組織であり、神の命令を受けていると固く信じていなければならない。変更された多くの教義は山ほどあるが、それは小さな問題とは言えない。
  嘘の宗教団体に献身した証人にははっきりと偽預言が伝えられた。この現実は重度のトラウマになり、調整されるまで何年もかかるし、身体的な症状も心理学的な症状も引き起こす場合がある。ほんの短い期間しかものみの塔にいない者は、たいてい、ものみの塔の歴史に気付いていない。それでも疑いが絶えずつきまとうとそれはどんどん増幅される。「良心の危機」があるとものみの塔を去ってしまうが、それが突然、頭を持ち上がる。

 簡単には脱会はできない。証人になると、徐々にでもあるが、友人との交わりを絶ち、組織内の新しい家族を受け入れるように教え込まされる。証人になって数年もすれば、友人と言ってもそれは証人の友人に限られる。特に組織の中で育てられた者は、家族も親戚も証人に限られる。脱会は排斥に直結する。友人全員とも、家族全員とも意味のある交わりを絶つように強制させられる。結局、ものみの塔は間違いだと確信を持てても、脱会はトラウマになると分かる。しぶしぶながらものみの塔の集会に出て、賛成できない話を聞いたり話したりしても、残留を選ぶ。結局は精神的な葛藤が引き起こされ、転職したり、友人や家族と絶縁したり、以前の生活を捨てなければならないと思うと、あきらめる。 次の話はものみの塔を脱会した結果、両親や子どもとの交わりを絶たれた子どもの例である。多くの証人が、一度も孫とも会ってないとか、数十年も自分の子どもと話をしていないとか、私に話してくれた。ものみの塔を脱会したからである。今は活発な教会員である優しい人が15年前に夫婦二人ともものみの塔を脱会した後、子どもとは一言も話していないと私に語ってくれた。そして四人の孫の写真さえ一度も見ていない。電話帳にも子どもの家の電話番号は掲載されていないし、子どもから返ってきた手紙には「差出人に戻すこと」の付箋が付いていた。夫婦が息子の家を訪ねようとすると、息子は警察を呼んで力づくで玄関から排除した。孫と面会できる命令を裁判所から得ようとしても同じように失敗した。このような例は枚挙にいとまが無い。世界中には現役の証人と同じくらいの数の元証人がいるからだ。たとえバプテスマが済んでなくても、もうものみの塔とは交わりたくないと決め、反対すると口外するなら、「望まれざる交わり」の烙印を捺されて排斥と同じく、完全に切り捨てられる。
 ものみの塔の昔の出版物を読むと多くの証人はかつての教えが全くのでたらめ だったと認める。「ものみの塔の倉庫には気違いじみた遺物にあふれ、記事は薄っぺらであり、曖昧な思いつきを無邪気に受け入れていた」と認める。ものみの塔の問題の一つは信じられないほどの薄っぺらな研究記事であり、だらしのない態度の原因は「神が命じている」という態度である(神が命じているのなら何で努力するのか)。神は保証している――「本当のものだけしか出版されなければならない」。

ものみの塔の律法主義

 ものみの塔の禁令は生活のほとんどの分野に及んでいて、ごく小さな問題にも網をかけている。「記念式」を例外にすれば、すべての祝祭日を否定している。高等教育を否定し、趣味を否定し、職業訓練さえも否定する。週に五回の集会に出なかったり、未信者と時間を過ごすことは否定されている。証人として育てられた子どもは結局、正常な大人になったり、社会性のある大人になったり、よく順応した大人のなることは難しい。世の人はすべてサタンに操られていて、たとえ優しそうに見えても、それは神の組織の境内にいる人を騙すサタンの戦略だと教えられる。
  ほとんどの証人はものみの塔に批判的なものを読むことを恐れる。エホバの証 人は批判とは「何の関係も持たない」とものみの塔は教える。そして「そのような人たちが何を言おうとしているのか知りたいとは思わないでしょう」(「ものみの塔」誌1996/3/15 P.17 10段落)。テレビから批判的な内容が流れるとたいていはテレビの電源を落とす。耳から入ったものにあこがれても心の内に隠す。そして、定期的に野外奉仕に出かけると、否応なく反対者に接近する立場に置かれる。それを経験してパラノイア(常に人が自分を批判しているという妄想)に罹る率が高いことが納得できる。そしてパラノイアが悪化する。信者の間には口に出して言えない問題があるのに指導者はそれを無視している。それなのに問題が生じてもそれを受け入れる信仰になる。誰かが言っていた――たった一冊の本しか読んでいない者には気を付けろ。
  まともな社会的な関係に加わることを禁止し、ほとんどの学校の活動に参加させないで二世らはほとんど孤立した子どもとして成長する。組織の指導から逸脱する人も稀にいるが、それでも罪の意識を感じ、アンビバレンス(両面感情。正反対の思考を持つこと)がもたらされる。二世らはいろんな話題性のあるスポーツを否定し、国旗国歌を忌避し、祝祭日を祝わない。ふつうに社会的な関係を苦々しく感じさせ、仲間からのあざけりをもたらす。

子どもたちに対する強制

 それほど大勢の証人がこころの病に罹っている原因は、主に、ものみの塔が二世らのどのように生活するか、その効率的な指針を発表したからだ。二世らの生活の目標はものみの塔への奉仕であり、毎週退屈な集会に強制的にかり出され、ほとんど実りのない戸別改宗活動に参加させられていると感じている。ものみの塔のたよりに純粋な関心を示す人を一人も見つけられないまま、野外奉仕に明け暮れる場合もある。自己充実感がある、正常な生活を思いとどまらされ、事実上、一人の人間として接して気遣ってくれることのない組織に奉仕させられ、奴隷のように時間とエネルギーを浪費する。
  生活上の問題にどのように対処するかといった、実践的な援助も現実性のある支援もほとんど与えられなかったり、十分に喜びあふれ、金銭的な報いのある仕事を探さないように強いられると、ほとんど逃げ場も代替策もない生活様式に追い込まれる。まもなくハルマゲドンが来て苦しい生活から救い出されるであろうという希望を持ち、長い歳月の間、とぼとぼと路地裏を歩く。表面上は「エホバに奉仕して幸せです」と口外するが、憂鬱感に囚われ、絶望を感じる。
  初めのうちだけであっても多くの人を魅力を感じてものみの塔に引きつけられるのだがバプテスマが終わるとそれは長くは続かない。組織の教義へ盲従しなくても、寛容に受け止められたが、儀式が過ぎればものみの塔の指導に全面的に従い、信じるこだわりへと変容する。バプテスマが済むと成人式を通過したと見なされ、ものみの塔に全面的に従わなければならない。もはや誕生日のお祝いは「個人の良心にまかされる」のではなく、排斥攻撃の標的にされる。ものみの塔の罠の穴に落ちるとものみの塔にそれまでの寛容さはもはや期待できない。初めのうちこそ素晴らしいと感じながら多少の抵抗感を覚えた行動に参加するよう、うまいぐあいにものみの塔のレールの上に乗せられる。すぐそこにある、「新しい世界」への希望や遅れた約束が本当に実現するのか疑うが、どんどん未来に先延ばしされる。ものみの塔の書籍でも仲間内の内輪の会話でも、がっかりさせられる話が何度も何度も繰り返される。ものみの塔の利益のために週に三十時間ほどを奴隷のように時間を浪費するとすべての問題が解決されるだろうと考え、勇気を振り絞ってものみの塔だけに奉仕することだけに注力しようとしている。家の人は悪魔であり、ハルマゲドンで滅ぼされると証人に考えさせると、たいていは罪の感覚が定着する。うつと絶望感が自殺や心中(あるいはその両方)に直結したとしても、それは例外ではない。

  精神病院の研究も証人の精神病の罹患率の程度を確かめるには不足しているようだ。証人なのに証人ではないと言う証人患者が多いらしい。精神医学のサービスが必要なのにこれらの人たちは証人であることを認めたがらない場合が多い。本当は証人なのに病院からの質問には「プロテスタント」とか「無神論者」と答える証人が多くいる。

 善良な証人は精神病に罹らないと信じ込んでいるから、精神的に支障を感じている証人はたいてい恥を感じている。ものみの塔から咎められることを恐れて、罹っている支障について正直にセラピストや研究者に言わないことは稀ではない。ものみの塔の評判を貶めるのではないかとひどく悩む場合が多い。ものみの塔への忠誠心があるから証人が「心の病」に罹かったとしても感情面のトラブルがあっても守られると信じている。そのため個人的に恥を感じる。証人は、個人的に信仰心が足りないためにさまざまな精神病が現れると信じている。ものみの塔の解釈のように神を喜ばせていないし神が望んでいることをしていないに違いないと信じている。ものみの塔はよく詩篇128:1,2の聖句を強調する。「エホバを畏れる人は皆,幸せだ+。その人は神の道を歩む+。 2 あなたは,自分で働いて作ったものを食べる」(新世界訳)。だからこの聖句は、幸福でないのは神を喜ばせていないからだと決めつけるために利用される。――精神的な支障の原因は個人的にそれが不足しているからだ。罪の感覚を増幅する信仰であり、皮肉にも精神的な不均衡を解消しようと神の唯一の組織と信じているものに対する忠誠心を増幅させる。たいていは、「組織は正しい。私は間違っているに違いない」という理屈を付ける場合が多い。証人歴の長い証人ほどエホバの証人は幸福な人たちであり、私は悪い証人なのだ」と信じ込んでいる。
  特に発達段階ではそうだが、証人の影響下で育って大人になって脱会した人の多くでは証人の信仰がほとんど残っている。ふつう、そうした人たちは統計の上では証人の精神病者には含まれていない。そのような人たちは一世で止める人よりも感情面で問題を抱えている。しかし、精神病を患っている証人は追放の憂き目に遭うと論じている人もいる。明らかに精神病に罹っているそのような人たちは証人からは「悪霊に影響されてる」とか「エホバの証人に専心していない」と見られ、嫌な人と判断されてしまう。

共通した証人の反応

 ふつう、証人は精神保健の研究はまともではないと拒否する反応を示す。「エホバの証人クリスチャンは地上でもっとも家族を大切にする人たちです。もっとも幸福な人たちです。もっとも満足している人たちです。ほかの宗教やほかの世間の人たちよりももっと仲良くなっています。精神科はほとんど必要がありません」(「目ざめよ!」(英文)1968/3/8 P.27)。さらに、「エホバ神は現代、地球規模で働いている新しい世界社会を有しています。もっとも幸福な人たちがその中にいます」(「ものみの塔」(英文)1960/95」)と書いている。
  経験上、これとは逆に頻繁に誤った考えを繰り返されても、多くの証人はこれらの記事を真に受けてしまう。興味深いことに、最近ものみの塔はこのような主張をしない。そしてこの問題に気が付いてきて、出版物や集会でこの問題を取り上げている。過去十年間、うつ病などの多くの記事が書かれている雑誌を出版したが(そのほとんどは初心者向けの心理学)、ほとんど具体的に答えていない。精神的な問題を引き起こしている、もっとも大事な要素があるのにその分野には一切言及していない。組織の内外で生じているのは小さな問題だとばかり、懸命に抵抗してきた。

協会を守る傾向

 証人はものみの塔に従おうとするから、研究する者にとっては特有の傾向が大きな障害になっている。著者は約百人の現役の証人を相手にしてきた。彼らから意味深な嘘やもめ事や恐怖を聴取してきた(それらは大事な一面であり、会衆の中に共通した個人的な争いである)。それらを耳にしても、彼らは近くの者の目を気にし、「エホバの証人は地上において、もっとも幸福な人たちです」と語る例が何度も見られた。
  ほかには、「本当のクリスチャンは神の名(エホバ)のために迫害されます。 エホバの証人は迫害されます。高い精神病罹患率は私たちに対する別な性質の迫害です」と理屈をこねる証人もいた。証人をどこか「奇妙な人たち」と見なす世の人たちや世の人の敵意には敏感になっている。一方、世の人はたいていは、国旗掲揚に反対するとか、輸血拒否の事実のほかにはよく証人を分かっていない。教会員の家を訪問する証人に効果的に正統派のキリスト教を教えるためにものみの塔の神学を研究するよう教会員に勧めているんですが、困難ですと言う牧師の声を耳にしている。

専門家に対するものみの塔の方針

 法律家、医師、心理学者などの専門家はものみの塔が論じている悪行をしている証人を見つけたら、長老に密告するようものみの塔は求めている。セラピストの資格を持っているエホバの証人は患者がものみの邪悪な行為と定義している行動をしているならそれを長老に「密告」することを求める指導はとても非論理である。これにはぞっとさせられた。ものみの塔が排斥にする網を広げれは広げるほど、その禁令に違反していない証人の患者を見いだすのはひどく困難になろう。ものみの塔は神の組織といううたい文句に疑いを持つ人たち、過去の性的な行為や道徳的といわれる行為についての罪、そして兄弟姉妹に対する不平や不満も、この集団では当たり前である。カウンセラーを探している人たちは問題を抱えている。それ相応に対処をしながら、後悔する行為(飲酒、不寛容、不道徳)に関係ないと言える者は極めて珍しい。そして、ものみの塔に疑いを持つと多くの人々は結局は精神的な混乱を引き起こす。それに対応をするためにカウンセラーを選んでいる。
  このような状況では、クライアント(患者)には自由が無く、カウンセラーに 自由に話せる環境はほほ約束されていない。後になって言った言葉が反対に利用される恐れを抱き、とてもくつろいだ環境には置かれない。カウンセリングできる状態ではない。クライアント(患者)がもっとも隠したがる秘密、夢、恐れ、罪を明らかにするためにはクライアント(患者)は自由を感じる状態にあるときにカウンセラーは対応できる。全体的に隠し事を是認し、クライアントがより良い生活を築くためにカウンセラーが手助けできるようにする。罪や恐れがないように約束する。クライアントは不利な情報を明かし、その成り行きに向き合える。罪がなぜ生まれるか、その基底にある問題と向き合う手助けをするという状態にならないといけない。もちろん後見人が排斥しないと決めても、困ったときに会衆から排除されるとか、カウンセラーから見放されると恐れるとクライアントの治療をする方向とは逆の方向に働く。「貴方にとってはものみの塔に服従することはそんなに必要でない」とはっきり言ったほうがいい。「これらの命令に違反すると長老が意見するなら、無条件に貴方を受け入れ、問題を解決する手助けをしたカウンセラーとして、私は貴方を見捨てる」。
  長老は心理学の行動療法や病気の治療法などの正式な訓練を受けていないし、ひどい間違いをすると、クライアントのはっきり言うことだ。重いうつにかかっているベテリスト(男)にうつを長老に言ったらどうかと暗に話したところ、「精神の病に罹っているというのに、マンションの管理人やセールスマンが助けになると思いますか」という答えが返ってきた。長老はどんな問題でも祈り、聖書研究をし、エホバを信じれば解決すると思っている。病の犠牲者は自分たちに罪や欠点があるために精神の病に罹っていると思うから罪を感じる。たいてい、長老は有害無益な者にしか過ぎないし、望んだようにはしない。何の訓練も受けていない者を選んでいるとか、それでも精神的に病を抱えた人を世話している気になってというゆがんだ現実に気がつく場合もある。間違った人間による、間違った見立ては死をもたらす恐れすらある。まれにそれは起きている。


トップページに戻る