終りのない悲劇のなかで いま、エホバの証人問題を考える
林 俊宏(宗教ジャーナリスト)
先日、離婚したエホバの証人の前妻から手紙が届いた。前妻と暮らしている子供た ちの近況と、今年大学を受験する長女のことでの相談が書かれていた。
近況から読み取る限り、子供たちの生活には母親の影響を受けてる様子はない。
離婚して3年になる。
その間一度も子供たちとは精神的な負担を避け、会ってはいない。ただ、養育費の 仕送りだけが絆となってつながっている。夫婦、家族の絆を壊した選択が正しいもの だったのか、今もよく分からない。喉元過ぎればの言葉のとおり、離れて暮らしてい ると、過去の生活の楽しいことが子供たちと一緒に暮らせない後悔、との表裏のよう に思い浮かぶ。
エホバの証人を持った夫は、あらゆる手段を使って離婚という悲劇を避けようとす る。その手段のおおよそは、カルトの厚い壁に阻まれ、徒労に終わる。
昨年の秋、南関東で妻をものみの塔から取り戻したい一心で、王国会館に灯油を持 ち込んだ夫が逮捕され、留置場でこの冬を過ごしている。
或ときは、私の本の読者というエホバの証人二世の青年から、奉仕のために親から 高校を中退させられたため、過ちに気付き組織を抜け出したもののこの不況下、就職 活動もままならず、Γいっそ、ベテルに自爆テロを仕掛け人生を終わらせようかと思 う時がある」と半ば真顔で話され困惑したこともある。(幸いこの青年は就職先が見 付かり事無きをえたが、こうした感情をうっくつさせているエホバの証人の関係者は少 なくないと実感させられた) こうしたエホバの証人を家族に持つものたちの、精神的苦痛に耐えかねた自殺を含 む悲劇は今なお続いている。一方で、エホバの証人の悲劇にも終りがない。
海老名にあるベテルでの初老の奉仕者が、ものみの塔の教えの過ちに気付いたものの、 普通の生活に戻ろうとしても親戚には愛想をつかされ、年金も支払っておらず就職も ままならず、結局1ヶ月数万の手当てで、ベテルでの生活を続けているという。
こうしたことなど、先日出版者に届いたものみの塔の組織に精通しているらしい読 者の方からの手紙には、ものみの塔に捕らわれた人達の精神の荒廃が招いた犯罪のい くつかが書かれていた。
その手紙では、昨年ワイドショーを賑わせた偽皇族詐欺事件の女性容疑者もエホバ の証人だった経歴を持つという。
ものみの塔という長い伝統をもつカルト組織には終りがないように、その教えに縛 られたエホバの証人と関わるものたちの悲劇にも終りはない。
だが、その教えが聖書の教えに背くものであっても、その組織が与える疑似平等感 は、現実社会が不平等である限り、組織に縛られたそこでの日常を平等と錯覚し、そ こに精神の救いを求める人間は、その代償に精神の自由を奪われたとしても、なくな ることはない…と私は思っている。
一方で、エホバの証人を組織から救い出しても結局、戻る事例も少なくない。 戻った現実生活に実感できる救いが見出だせなかったからだという。
ものみの塔が巻き起こす終りのない悲劇のなかで、私達はこの問題とこれからどう向かい合い、どう考えていくべきなのだろうか。
先日、元エホバの証人だった青年ふたりにこのことを聞いた。ふたりは「エホパの証人をやめて人間らしく生きられるようになり幸せでした」という。
神によって生を与えられた人間は、自由な精神を持つことで幸せを実感し、探す権利を持っている。その幸福を実感できる方法手段は個人個人、様々にあっても、共通 の言葉として理解することはできる。
ものみの塔の組織の教えのなかには、幸せはなく悲劇だけが引き起こされている。
私は、自分自身の幸福という人生の価値を問うことで、この問題と向かい合うこれからの生き方が得られるのではないかと思う。
だが、この問題に正解はない。
それはそもそも、それぞれの人生に正解がないと同じことである。
ただ、自分自身が人間らしく生きた証しとして実感できる幸福こそが、神から与えられた人生への解答になると思う。
だからこそ、一人でも多くの人々がものみの塔というカルトの呪縛から解かれ、自由な精神のなかで幸せ探しを始めてほしいと祈っている。
曲解される「カルト」家族の心情―「強制改宗」批判を批判する
林俊宏
月刊誌「創」に2000年3月号から8月号まで掲載された宗教ジャーナリスト、室生忠氏 の、いわゆる「カルト」宗教信者に対する、 「強制改宗」 (私はこの言葉は避けて、 「保 護説得」という言葉を使っているが)を批判した、 『知られざる「強制改宗」をめぐる攻 防』が、エホバの証人の救出関係者と「草刈裁判」の被告補佐人であるエホバの証人の元夫 への批判におよんでいる。
さらにこの記事は「草刈裁判」の原告の、 「保護説得」は不法な批拉致監禁によるもので あるという主張を裏付ける証拠として裁判所に申請されており、その影響は少なくない。
本来、私たちは、基本的人権を尊重する現代社会にあって何人によっても自由を拘束さ れない権利を持っており、また「信教の自由」も持っている。この社会理念に照らせば、 牧師たちの保護説得は、中世の異端審間さながらの「強制改宗」で、 (カルト信者の)人 権を脅かしているという主張である。
こういう建前で武装された批判するのは、建前に反対するか、キリスト教のみが唯一 絶対の真理であるという前提に立たない限り、 「強制説得はすべきではない」という結論 に至ってしまう。そして、実はエホバの証人の家族は、失敗した最悪の場合、離婚や、 一 家離散というリスクを背負う「保護説得」など、したくはないのである。だとしても、私 は室生レポートは不快であった。
保護説得する家族、夫の側の価値観にこそ問題があると、前置きしたうえで、同氏は次 のように述べている。
「それは、夫による妻固有の価値世界に対する侵害においても同様で、例えば、エホバ の証人になった妻を山荘に拘束した夫(「拉致監禁」を否認)は、裁判書類で、 「妻は( 脱会説得に来た)牧師に対し、耳にテイッシュペーパーで包んだガムをつめるなどのパフ ォーマンスをして、話そうとせず、部屋にこもった。どうしてここまでして拒否するかと 涙が出た」 「(妻が去った後で)私は、涙がとまらなかった。声をあげて泣いた。このカ ルト教団に私の妻と息子の母親は奪われてしまったのだ。ただ、敗北感だけが残った」な どと述べている。ここにもまた、妻固有の内的世界の存在を許容できず、妻に信仰を捨て させことで自らの夫としての権威(愛)を確認しようとした夫の本音が、無意識に吐露さ れているように思われる」 (『創』8月号)
なぜ、 「妻固有の内的世界の存在を許容することができず、妻に(ものみの塔というカ ルト教団の聖書教育によって強いられた)信仰を捨てさせることで自らの夫と権威(愛) を確認」することが、ジャーナリズムという社会性を持った公器で、こうした訳知り顔の 悪意に満ちた文脈で批判されるべきことなのか。
またこの裁判資料のような方法で、 「強制改宗」が行われたとしても、 (そして、この ケースでは、失敗しているのだが)第三者に反社会的と批判されるどのような爪痕を残し たというのか。当事者である、夫婦たちこそがもっとも傷ついているのである。そうした 心のひだを、この裁判資料から読み取れない、宗教ジャーナリストの「宗教」観こそがご く普通の市民を自己の主張の補強のために引きずりだすという怖さを持っている。私に言 わせれば、 「夫」は何も悪くはないのである。 「夫」の対応が悪いというなら、信じない 自由を、社会はどのように認めるのか。信じない自由も、また信教の自由ではないのか。 また、それは、 「カルト問題」の当事者以外の共感を呼んだとしても、それは建前を理解 させたことではあっても、 「強制改宗」のもつ社会性を現実感を持って理解させたことに はならないだろう。 さらにいえば、 「保護説得」によるディプログラミングは、必ずしも「強制改宗」には いたらない。
一方で、私が今年2月に上梓した「エホバの証人引き裂かれた家族」 (わらび書房刊) などで報告されているように、 「保護説得」によって、<救い>を実感し、人間性を回復 した元信者が存在し、絆が復元した家族が存在することも事実である。
最近、私はものみの塔の教えが引き起こす価値観の対立と、信者の人格変容の問題を説 明するために「カルト性ウイルス」という比愉を使う。エホバの証人という、社会性を失 い、家族関係を破壊する患者を抱えた家族は、そのウイールスを増幅させないためには、 患者を隔離(離婚)するか、手術(「保護説得」)によって、病原菌を摘出するか、影響 がなければ放置するかの選択を迫られる。放置すれば、子供の集会参加の問題や、輸血拒 否などのものみの塔の独善的な聖書解釈による価値観の対立を終生抱え込み、未信者の家 族は精神的、経済的な圧迫を受け続けることになる。
それに耐える続けることを、第三者が勧められるべきことなのだろうか,むしろそうし た苦痛、苦しみに耐えている家族は、手術によって奇跡的に回復し、その精神的圧迫感か ら解放されることに、希望を抱いているのである。 手術は、リスクを伴う。失敗すれば、家族関係は「死」 (離別、崩壊)に至ることがあ る。そのリスクは、家族だけが負っているのである。また、放置しておけば、こうした家 族の苦しみは、信者たちの訪問伝道と聖書教育によって家から家へと伝播(汚染)され、 増殖され続けるだろう。
苦しみや、痛みを共有する姿勢からこそ、対話の糸口が生まれ、問題解決の発端が生じ る。 「カルト」家族になった場合どうするのかという議論こそ、いま社会的に求められて いるのではないだろうか。
もうひとつ。ものみの塔などのカルト宗教が「保護説得」という歯止めを失い、市民社 会への浸透が容易になり、宗教思想として多数派を形成した場合、 「強制改宗」批判の根 拠になっている基本的人権が容認されるか、疑間が残る。 そして「保護説得」が禁じ手となった場合、私たち「カルト」家族のもうひとつの選択 肢である、 「離婚」が急増するであろうことは、容易に推測できる。そうして選択が狭め られることは、家族破壊と信者の社会的孤立化を招くことにもなるであろう。 (禁,無断転載。悪意の文脈での引用は固くお断りします)
魂の殺人者、ものみの塔
聖書教育の犠牲となった ”夫”の死を悼む
林俊宏
今年2月、前著「エホバの証人の悲劇」(わらび書房刊)に続き、ものみの塔の特異な教義によって引き起こされる家庭破壊の現状と再生の可能性を問う「エホバの証人引き裂かれた家族」(同)を上梓したその一か月後、読者の女性から手紙が届いた。
98年8月31日、東海地方で自殺したエホバの証人を妻子に持った男性(当時39歳)について書かれた内容だった。
妻子にあてた遺書には「よい夫、よい父になれなくて申し訳なかった。僕はパラダイスに行けない」と記されていたという。
彼は「両手一杯の睡眠薬を飲み、首から上にスッポリ、ビニール袋をかぶり、首のあたりをガムテープで縛って」、自裁した。
なぜ、彼は自らを裁き、生命を断たねばならなかったのだろうか。
彼はそれよりおおよそ10年前にも、自殺を試み3日以上も死線を彷徨っている。
繰り返し、繰り返し、死と向かいあった彼の人生を呪ったものこそ、ものみの塔聖書冊子協の聖書教育であった。
彼は大学時代、エホバの証人の訪問伝道を受け、聖書研究を始めた。
やがてものみの塔の戒律を守るために、大学を辞め、肉体労働に就きながら、″信仰”生活に埋没するようになった。しかし、戒律を守ろうとするほどに彼を苦しめたのは、守れないことの罪責感と、洗脳と現実の狭間であった。
苦しんだ彼は、この時期、一度目の自殺を図った。3日間、死の淵を彷徨った彼は、生き返り、この世に引き戻されたが、信仰からは遠ざかったものの洗脳は解けなかった。生活の中に自分の位置を見いだせないまま、ホームレス同然にまで身を沈めた。1年後、両親に保護されて、再び職につき未信者の女性と結婚した。
やがて産まれた娘は先天性の心臓疾患をもっていた。
娘は耐えられる体力が育つのを待って手術を必要としていた。いずれ手術を受けること になるとき、自分は父として輸血を拒否しなければならない。
それを妻子に理解してほしいと願った夫は、遠ざかっていた王国会館に、再び親子で 足を運び始めた。
そこで家族を待ち受けていたのは、ものみの塔の聖書教育だった。
ほどなく妻子は″信仰”に染まり、埋没するようになってしまった。 エホバの証人になっていく妻子を見ながら彼は、再び戒律を守れない自分の”愚かさ” を責めるようになった。「悪いことと知っていて、それをするのは、心の畸(かたわ)だ」というのがかれの口癖だった、という。
友人だった女性によれば、「彼は煙草が好きでした。洋画も、音楽も、好きでした。絵 を描くのが巧く、パソコンはプロ級で、コンピュータグラフックで夢の世界を作り上げる 腕前をもっていました」という。生活のために仕事に追われ、伝道時間が少ない悩みを長老に打ち明けると、足りない〃信仰”を責められ、聖書研究を課されるのが常だった。
罪悪感に苛まれ、挫折し、屈辱にまみれながら、繰り返し挑んだ聖書研究で洗脳の壁を 越えられなかった彼は、98年8月31日、現実と心の狭間に苦しみながら、自裁した。
夫の自殺から1年後。
妻は職場の関係者に「夫はうつ病で自殺しました」という文書を「目ざめよ!」などのエホバの証人の伝道文書と一緒に配って、聖書研究を奨めて歩いた。
また彼の兄も弟の死の本質を知るために、ものみの塔の聖書研究を始めた。遺された娘 は12歳になっていた。
このエホバの証人の夫の人生の苦しみを相談相手として理解しようとしてきた女性は、ものみの培の聖書研究の誘いを、「脳性小児マヒの人々や老人や、難病を持った、伝道に出られない人達のような人がいけないようなパラダイスに自分だけがいきたいと思わない」といって断ったという。そして、私への手紙の最後を、こう結んでいる.
「私は未だに、悪夢を見て、飛び起きることがあります。これは彼の魂が、安らかでないからだと、沈みます。カルトも、マインドコントロールもない世界に旅だった彼は、 今頃何を考えているのでしょう」
この悪夢と苦しみを聖書研究によって増幅させることこそが、ものみの塔聖書冊子協会というカルト集団の本質なのである。
それはどんなに教義が、指導者が、変わろうと変わらない、″本質”である。
私はこの女性への返信で、「悪夢と苦しみを一日も早く忘れ、新しい人生を探して下さい。そうでなければ、あなた自身が、ものみの塔に呪われた人生を歩むことになります」と、書き記した。
ひとりのまっとうで、誠実で、感受性豊かな人間の人生と、家庭と、生命と、魂をものみの塔は永遠に奪った。そして、今も奪い続けている。そのは罪は深い。
ものみの塔に呪われた人々が一人でも多く、悪夢と苦しみから解放されることを彼の魂は、訴えているにちがいない。彼はものみの塔によって殺されている無数の人々の、苦しみの魂の殉教者であっった。
彼がものみの塔から呪われた悪夢と苦しみから逃れる死へ旅立って2年目の夏が来る。
一人でも多くの人々が、彼の苦しみと死を憶え、その魂の平安に祈り捧げて頂きたい、と願って本文をしたためた。
ホロコースト展について
匿名
私も「エホバの証人の夫たち」の一員です。かれこれ、10年くらいになります。とこ ろで、「エホバの証人」である、私の妻に誘われて以下の展示会に行って来ました。
タイトル:「ホロコーストの忘れられた犠牲者たち」
場所 :大阪ワールドトレードセンター
日時 :8/18-20
出品協力:大阪府教育委員会
大阪府文化財調査研究センター
なお、前後して同じ展示会が京都でも開催されているようです。
事務局
スタンドファーム大阪
〒565-0821 大阪府吹田市山田東2-5-13
TEL:06-6877-7638 FAX:06-6877-7658 スタンドファーム東京
〒177-0034 東京都練馬区富士見台第一大惣ビル3F
TEL:03-3990-8590 FAX:03-3990-8552
本展示会は、一見そのテーマがナチスによるユダヤ人虐殺を批判することのようです が、実は全く違います。そのテーマは、ホロコーストの対象となった、「ユダヤ人以 外」の人々の中に「エホバの証人」たちがおり、「エホバの証人」たちは信仰を護る ために、その犠牲となった。さらに、「エホバの証人」たちは迫害にあっても、他の 人たちと異なって、穏和で信仰心に篤く、行動もほめられるべきものであった、と言 うものです。 <BR> このテーマは、まさに「ものみの塔協会」による、信者獲得のための宣伝行為に他な りません。ここからは、私の想像の範囲ですが、「スタンドファーム」という団体は 、おそらく「ものみの塔」本体、またはその協力者たちの隠れ蓑ではないかと思いま す(調査いただければ、幸いです)。
以下の質問を、後援団体である朝日新聞社にメールいたしました。
1.御社では、本展示会のテーマをよく認識された上で後援されたのか? 2.御社は、この展示会のテーマを支持するのか?
3.後援団体、および出品協力に、京都府・大阪府の教育委員会が含まれているが、そ れは妥当であると思われるか?
本展示会をご覧になったかたがおられましたら、そのご意見を伺いたいと存じます。
「カルトの子」を読んで
匿名
メンバー成り立ての者です。対象が娘なのですがなんとか救出の方法論の情報を得たくメンバーになりました。家族を カルト組織の心の呪縛から解放を願う方々には 夫のみならず 母であったり 兄弟姉妹であったりと各家庭様々だと思います。
私も元JW研究生であった時代、組織の教理に疑問を感じロボットのようになりそうな自分の思考の変化の危険を感じ途中ではっきり断った経緯があります。
最近の話題の書籍 を1冊お薦めします.
出版社 文芸春秋 ¥1571+ 税
著者 米本和弘
タイトル カルトの子-心を盗まれた家族 平凡な家族にカルトが入り込んだ時、子供達はどうなるのか.
カルトの子が初めて自分達の言葉で語った、心を盗まれた家族の実態がエホバの証人.オウム、統一教会、ヤマギシ会、ライフスペース 等、子供達の意志を無視して、親の価値基準でむりやり組織にふりまわされた子供達が児童虐待等で人権を奪われてる現実が生々しく書かれてます。 第二章 にエホバの証人-ものみの塔聖書冊子協会の事がくわしくルポライターの米本氏が詳しく書かれてます..
*死をもたらした体罰--これは衝撃的な事件です..1993年11月23日に広島市で4歳の次男が懲らしめのムチ(ゴムホースで両頬やくるぶし等を死にいたらしめる程の折檻死)夫婦ともエホバの証人で夫は殺人容疑 で、折檻を知りながら放置していた妻も保護責任者遺棄致死で逮捕)
その後の地域会衆の態度も子供の折檻死。子供の貴い命を奪った事件にも関わらず「組織の教えは正しいが.あの家族がやり過ぎだ」。会衆の長老は「不幸な事件が起きた。今後Aさんの家にちかづかないように.. Aさんと会ってってはなりません」組織の冷徹な行動は責任回避ともとれるようだ..現在30年間続いた懲らしめのムチを推奨した「あなたの家族を幸福にする」が絶版にムチの記述をなくした「幸せな家族を築く秘訣」初版96年 いまでは適度の懲らしめが強調されてるようです.
無防備で、純粋無垢な人々がカルトの餌食になりマインドコントロールされ組織拡大の犠牲者になっていくことは 国家的にも損失大であるとおもいます。
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