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会報「JWの夫たち」バックナンバー



創刊準備号(97.1発行)
■巻頭エッセイ「恢復へ向かう志」/鈴木一郎

 いつの間にか立たされてしまったこの状況について、自分自身のなかでどのような意味づけをするべきなのか、長く思いあぐねてきた。

 七年前の夏、妻はバプテスマを受け、正真正銘のJWとなった。当時少四と少一の子供たちを私に無断で大会に連れていき自身の洗礼に立ち会わせた妻の仕業を、私はとうてい許すことはできず、帰宅したときたまたま外で近所の人と話をしていた彼女を、人目もはばからず蹴り上げた。裏切られたという思い、子供たちを巻き込む身勝手さへの憤り、さまざまな感情がないまぜになった、しかし結局のところ怒りとしかいいようのない、その時私を貫いた感情を私はおそらくこのさきも忘れることはないだろう。

 それ以来、長い、今日まで続く葛藤の日々が始まった。葛藤は連続的というよりはむしろ断続的に起こり、子供たちに対する妻の働きかけをめぐってとりわけ激しいものとなった。私の目の届かぬところで、何かと子供たちに影響を与えようとする妻の行為が私の知るところとなる度に、激しいそして消耗させる言い争いが幾度となく繰り返された。

 96年8月、同様の困難を抱える人々や関係者が集まるグループの存在を知って、その集会に出席し、そのことをきっかけに、この困難を改めてある種客観的に位置づけることができた。そして、自らが周囲に働きかけて「JWの夫たち」のネットワークを築いていく動きを始めることにした。それは、夫たちがこの困難に立ち向かうためには、連帯と情報武装が不可欠のものであることに思い至ったからだ。11月に第1回の経験交流会を開催し、すでにその動きは具体的なものになっている。

 JWの教義はどうみても著しく偏ったものであるのは事実だろう。そうだとしても、それそのものの正邪曲直については、あえて今は問うまい。しかし、自らは信仰の自由という民主主義社会に許された権利を享受しながら、一方で人々を、なかんずく未だ判断力の定まらない子供たちを組織に引き込むその方法に不正や偽りを用いるのであれば、そのことを私はけっして許しはしない。命をかけて闘い、糾弾し続ける。

 すでに失われてしまった時間は還ることはなく、愛する者との絆が被った傷はたしかに深いのかもしれない。しかしいつの日も、喪失の後に来るものは恢復ではなかったろうか。

 集いたまえ、仲間たちよ。自ら恢復へ向かう志をもって。

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■BOOK REVIEW
 「誰もが聖書を読むために」
 鹿島春平太・著/新潮社

分析的アプローチで聖書を解説する好著

 JWの教義は不可解なものという他はないが、ならば聖書に書かれている(JWの教義とは違う)内容そのものが多くの日本人にとって理解しやすいかといえば、とてもそうはいえまい。物語として読まない限り「創世記」の1章からつまずくはずだ。そんなこともあって書店には「聖書入門」という類の本があふれている。ちなみに三浦綾子「新約聖書入門」(光文社)の奥付をみてみると77年の初版以来、ほぼ20年にわたって着々と増刷を重ねてきたことがわかる。

 しかしこの「誰もが聖書を読むために」の著者は、三浦綾子著に代表される多くの聖書入門書について、どの本も群盲像を撫でる感があり「聖書の全体像を提示してくれない」と断じている。著者は聖書の読み方は多様であり「どのような読み方も容認されるべき」ということを大前提としながらも、聖書に書かれていることはすべて事実とするファンダメンタリスト的な見方で読む試みをしない限り全体像は浮かび上がってこない、と主張する。

 その観点で聖書のいくつかのトピックが読み解かれていくが、その内容は非常に興味深い。たとえば「創世記」1章と2章の間に見られる創造の順序の<食い違い>について、1章の創造とアダムの創造は別物ではないか、という読み方の可能性を提示している。

 また「福音」の理解についても「いのちエネルギー波動」という概念を用いて「イエスは自らの十字架死によって<いのちエネルギーの貸し>、麻雀でいえば<浮き>を無限大に造ってしまい、そのことを真理として受け入れた人は、その<浮き>でもって自分の不完全さ<沈み>を埋めあわせて、天国に入れる」と説明している。

 全体的に分析的視点に貫かれていながらも読みやすく、宗教マインドの薄い人にもわかりやすい好著といえる。

(烏帽子岩)

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