エホバの証人と神性を論ずる

 結局は, エホバの証人は聖書が神について言っている事柄を認めるべきである。そして, クリスチャン は信仰を守るべきである。しかし, エホバの証人との関わりは, 一般的に, 神学的な議論をもって 始まるのではない。私はクリスチャンが, エホバの証人の間違った解釈に応える手助けとして, 『JW Answered verse by verse 』を書き, 今, この補足追加の小冊子を執筆した。

 しかし, 通常, エホバの証人を, 手助ける為に必要となる最初の段階は, 組織自体の資料を用いて, 組織へ の信仰を揺るがすことにある。それを行なう助言は, 私の二冊目の著作『How to Rescue Your Loved One from the Watchtower』の中で見つかるかもしれない。成功した戦略と手法を概説している。

 大抵の場合, エホバの証人を改宗させることもなく, ものみの塔組織を離れさせることもなく, エホバの 証人と終わりのない聖書論議, 教義論争が続くかもしれない。洗脳やマインドコントロールについて 語っている『How to Rescue Your Loved One from the Watchtower』に概説した理由から, 説得の うまい論議は, 論理的にエホバの証人を説得しない。聖書から行なわれる効果的な教え方の前にまず, 個々のエホバの証人の心に重圧を掛ける組織の抑圧を, 壊さなければならない。私が会った殆どの クリスチャンは, とてもそれが信じられない。事実, 大抵, そう信じることを退け, 色々と実りの無い 神学論争に陥る。

 エホバの証人が, 聖書を考え始め, 本当は何を言っているか考え始める前に, 通常, ものみの塔の側の 偽預言, 行ったり来たりの揺れ動く教義の変遷, あからさまな欺きの確かな証拠を沢山必要とする。 しかし, 組織についての情報に恐れを感じて, エホバの証人が直ちに論議を終わらせないようにする 唯一の方法がある。『How to Rescue Your Loved One from the Watchtower』は何をするか, 何を 避けるかの示唆となる。エホバの証人と一緒に聖書に入ろうとする前に, 最初に普通どんな種類の議論 が来ないといけないか, 詳細に説明もしている。ものみの塔のマインドコントロールが壊れるまで, エホバの証人と何ヶ月も何年も聖句のやりとりをし, 何も得られないかもしれない。エホバの証人と 神性を論じるとき, 目標は, ものみの塔の神学論議が間違っていると証明することであるべきだ。

 初期の段階から, 今だにエホバの証人である人に正統な神学を教えようとすることは必要でないし, 賢明でもない。「生まれながらの人間は, 神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には 愚かなことだからです。また, それを悟ことができません。なぜなら, 御霊のことは御霊によって わきまえるものだからです。」 (コリント第一 2:14)。神学は後から来るかもしれない。人間の論理に深く巻き込ませることも 避けないといけないだろう。パウロが書いたように, 私達の限られた論理では, 神について全てを理解 することから遠のいてしまう。「私たちは鏡にぼんやり映るもの」を見ているか (コリント第一 13:12), 「金属の鏡でぼんやりした輪郭を」見ている(同節, 新世界訳)。例えば 誰かが神は実際, 限られた方であると論じ, 一連の質問を使って私達を導いて, 間違った教義を証明 しようとすると仮定する。「神はお望みになられることは, すべておできになりますか」。「はい」と 私達は答える。「神が望むことを, すべて考えることがおできになりますか」。「勿論, できます」。 「さて, 神ができないことを何か, 神は考えることができますか」。「そうです」は間違っている ようだ。だから, 「違います」と答える。私達が困っていると, 友人は私達に答える。「ちがうと 言うなら, 神には考えられないことがあることになる。もし肯定するなら, 神にはできないことがある ことになる。どちらにしろ, 神は限られている」。私達の質問者はそう結論を下すかもしれない。 しかし, 神には限りがありません。限りがあるのは, 人間の論理である。私達の論理では十分に神を 包括できない。

 故に, こうした明確な矛盾に行き着くときもある。終わりの無い年月, 過去と 未来, 境界のない空間のようなとてつもないことを理解しようとするとき, 私達の論理が問題になる。 神はまた, 限りが無く, 私達の理解を遙かに超えておられます。勿論, エホバの証人も十分に神を理解 できない。しかし, 答えをすべて持っているふりをする。もし私達が, 彼らは間違っていると証明して 彼らを辱しめるなら, 多分, 彼は個人的に神を知ることと, 神について沢山の事実を学ぶことの間に ある食い違いを知るだろう。ある強情な人々に語ったとき, イエスは, 食い違いを暗示して おられました。「あなたがたは, 聖書の中に永遠のいのちがあると思うので, 聖書を調べています。 その聖書が, わたしについて証言しているのです。それなのに, あなたがたは, いのちを得るために わたしのもとに来ようとはしません」。(ヨハネ 5:39-40)。

 あなたの神の知識が, 神についての「事実」を研究することに限られていたなら, 今は, 個人的に 神を知るようになってこれから前進する時です。イエスの招きを受けなさい。「すべて, 疲れた人, 重荷を負っている人は, わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたし は心優しく, へりくだっているから, あなたがたもわたしのくびきを負って, わたしから学びなさい」。 (マタイ 11:28-29)。イエス様は, 約束されます。「わたしのところに来る者を, わたしは決して 捨てません」。(ヨハネ 6:37)。


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