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会報「JWの夫たち」バックナンバー



NO.3(97.7発行)
■巻頭エッセイ「救いの東西」/月影ニック

 親戚が死ぬ。友人の父親が死ぬ。恩師が死ぬ。その他いろいろ死ぬ。通夜に行く。葬儀に出る。香典を包む。僧侶が来る。お経をあげる。遺影、仏壇を拝む。線香をあげる。焼香をする。葬儀が終わる。精進落としがある。キリンの瓶ラガーがでる。刺身、煮物、天麩羅が並ぶ。飲む。食べる。酔っ払う。「会葬御礼」をもらって帰る----。

 おそらく大多数の日本人と同じように、私も外見としてはこのようにして多くの葬儀に参列してきました。さして疑問も持たず、そのことの宗教的意義についても深く考えることはありませんでした。しかし、JWの妻を持つ身になって、ことはそう単純ではなくなりました。死によって人間は滅び、焼かれて骨になり、その後は生者の記憶のなかで生きるという話であれば気は楽なのですが、ある日妻が「天地万物を創造したエホバ神を信じてその教えの通り自らを律していけば、たとえこの世でいったん死を迎えても、ごく近い将来に実現する地上の楽園で永遠に生きられます」などと言いつのり、驚いてよく質してみると、その論理自体は誠に奇怪ではありながら、片側妙に精緻でもあり、それに対して同じ土俵で反駁するロジックを自らが持っているかと問うてみると、甚だ心もとないことに気づいたりするわけです。それならばと妻に引きずられて聖書やキリスト教関連書を読み、牧師の方に頼ってその教えを勉強してみると「永遠のいのち」というキーワードにつきあたります。どうやら、すべての人間が原初的に持っている罪をイエスが十字架死によって贖ったこと、そのことを真理として受入れるならば「永遠のいのち」にあずかれるということらしく、それもにわかには受入れ難くてぼんやりしていると、一方自分が葬式で唱えている「南無阿弥陀仏」とはいったい何なんだという疑問も湧いてくるのです。

 それで調べてみると、浄土宗の始祖である法然が、戒律や学問的知識、苦行や儀礼といったものを重視していた当時の仏教に反旗を翻し、重要なことはただただ仏への帰依のみであると主張したことに思い至ります。「専修念仏」を言い、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば浄土で往生できると説いた法然の思想は、よく考えると「救いは行いによるのでなく、信仰による」とあらためて断じたルターの福音主義と、その構造において驚くほど似ているのではないでしょうか。聖書の教えは、私たちの「宗教生活」と無縁というわけではなかったのです。

 湘南マイコン研究会の会員の7割は特に信仰は持たない方とのことですが、心ならずもJWの夫となってしまったことによって、自らの宗教意識が問われる事態になることは、間違いのないところでしょう。さて、ではもう少し聖書の勉強を続けることにいたしますか。

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