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会報「JWの夫たち」バックナンバー


創刊号(97.3発行)
■巻頭エッセイ「神といる人々」/鈴木一郎

 ふたたび彼は、その本に手を置いて宣誓を行った。東部時間1月20日正午、厳寒のワシントン、国会議事堂前。彼とは、アメリカ合衆国第42代大統領ビル・クリントン、その本とは聖書のことである。

 一国の政治、行政の最高責任者がその権限と責任を認められる最初の儀式にあたって、ある特定の宗教の聖典の名において誓いを行う――政教分離を旨とする日本国憲法のもとで政治的価値観を培ってきた身にとっては、誠に奇異な光景というほかはない。しかも、それは中東のどこかの国ではなく、戦後私たちが常に手本としてその後を追いかけてきた、最強最大の(私たちに憲法まで与えてくれた!)民主主義国家での現実なのである。

 ここにみられるような「神」に関わる彼我の観念の違いについていえば、立花隆「宇宙からの帰還」のなかの一節を、私は忘れ難く思い起こす。それは、地球に帰還したアメリカの宇宙飛行士たちへのインタビューを中心とした、この卓抜なドキュメンタリーのなかの、宇宙飛行士たちが記者会見に備えて、NASAの広報担当者とやりとりをするくだりである。広報担当者が事前レクチャーしたなかに「宗教」の項目があるのをみた二人の宇宙飛行士が、あわてて担当者に相談にいく。実は、自分たちは「信仰」を持っていないのだが、記者たちの質問にどう答えたらよいだろうか、と。すると担当者は心得たように「それじゃ『うちの家族の宗教は----』とかいってごまかしたらどうかね」と示唆したという。アストロノーツという時代のエリートたちが「無信仰」であることが、社会的にネガティブに受けとめられるという、かの国の状況がみごとに伝わってくる話である。
 アメリカの社会がこのように「無信仰」であることを忌避する社会であるのに対し、日本は逆に「確固たる信仰」をもつことの方が、ある種妙に思われる社会である。そして、妻がJWになってしまったことを知った夫たちの戸惑いは、その意味でおそらく二重なのだ。

 JWは確かに100年と少しの歴史しか持たない「異端」かもしれないが、それはキリスト教2000年、旧約時代にさかのぼれば3000年を超える、西欧文明とほぼパラレルな深い歴史の水脈があってはじめて生まれた「異端」であることを、私たちは改めて知らなければならないだろう。別の観点で言えば、JWの妻と付き合うことは、一種の異文化交流のようなものなのだ。日本人と結婚したつもりでいたが、実は彼女は外国人だった、と。そう思えたら、初期の要らざる衝突はないのかもしれない。

 それにしても気になることがひとつある。宣誓のときに、大統領が左手をのせていた聖書は開かれていたのだ。いったい、どのページが開かれてい、どの聖句によって彼は誓ったのだろうか。「黙示録」だったりしたら、ぞっとしないのだが。

創刊号(97.3発行)
■BOOK REVIEW
 「In search of Christian freedom」
 レイモンド・フランズ・著
 Commentary Press,1991

元「統治体」メンバーによる問題の書

 「証人三世である、フランズは組織機構の各段階にわたり40年以上を捧げた。また、中央執行評議会即ち、「統治体」の一員として9年間を過ごした。彼の経験は、組織の機構や宗教信条へ疑問を持つようなまじめなエホバの証人が抱いている論点に比類のない見通しを与えてくれる。それはエホバの証人の行政官、立法者、判事として働く男たちのことば、行為、態度に稀有な理解をも与える‥‥‥」(裏表紙の推薦のことばから)。

 統治体の性格とその起源は第4章と第5章に詳しい。ものみの塔の創始者であるラッセルは、神が地上の組織を有していなかったと論じ、あるいは「組織に気をつけろ」(1895/9/15WATCHTOWER)と述べて、既存の教会に対抗した。また「経路」はその当時、ラッセル個人を指していた。塔協会はラッセルの私物であった。その当時の出版物から奇妙な教えの例をあげると、聖書のリバイアッサンは「汽車ポッポ」の予言とされ、黙示録12章の「1200スタディオン」は自宅からベテル本部までの距離を指す、と言われた。

 ラッセルの遺産を継いだラザフォードは独裁的性格を露にした。選挙による長老選出を廃止し、本部職員を粛正した。伝道者、開拓者にノルマを課し、組織への「忠節」を強化した。聖書は組織を通してだけ理解できる、組織は使徒たちと等価であるとされ、組織がイエスの地位を奪取し、組織を通らずに永遠の命はない、と言われた。今でこそ厳禁されているクリスマスの祝い、十字架の使用もラザフォードの時代には許されていた。ベテルのダイニングルームに山と積まれたクリスマス・プレゼントを前にして笑みを漏らすラザフォードらの集合写真、1930年の日付の入った雑誌「WATCHTOWER」の表紙に刻み込まれた十字架、こうした証拠を目の前に示されれば誰しも思うだろう。‥‥‥‥風のようにうつろいやすい教義、沼地の狐火のようだ。

「伝道奉仕」の実態

 ドア・ツー・ドアの奉仕(戸別販売)の実情は第6章に詳しい。各国の支部からの訴えは、どれもが「戸別販売」に否定的であった。奉仕報告カードは販売政策のために入り用なのではない。発送数量はベテル、あるいは支部で把握できる。そうした世俗的要求、管理目的ではない。すべて統治体の統制に必要だから求められる。旅行する監督が長老を激励する。長老は開拓者、伝道者を督促する。信仰の強さはすべて時間数、冊数で測定される。長老の座を維持するには信者数をふやすことだけではない。もっと部数を、もっと時間数をと、統治体から迫られる。それを視覚的に説明している図が1971/12/15の「WATCH-TOWER」にある。あたかも商品を販売している民間会社の組織図だ。そもそも、ものみの塔は書籍を売っている会社の側面を持つ、と改めて認識させられる。いくら工場従業員の労賃が格安で販売員の労賃が無料とは言っても、歴代の会長の作った借入金は返済しなければならない。減価償却も必要だし、原料も仕入れなければならない。

 さて、「ヤコブの手紙の注解」は塔協会在籍時にフランズの書いた唯一の聖書注解書であるが、そこでは著者の原文から「良心」が削除され、「他者の圧力」からの伝道を否定する文が削除されている。それはこうした組織の販売政策にそぐわなかったからであろう。日本では「学校卒業と同時に開拓者になるのが当たり前である」と会議の席で強調する統治体の成員がいた。学生から夏期休暇を取り上げて伝道をさせている統治体成員は、伝道をしていない。年寄りだからと言って伝道しないことが許されるのか、フランズが責めてもそれに答える者は一人もいなかった。こうした実例はマタイ24章の「忠実で思慮深い奴隷」の性格をあからさまに表す。主人に代わり、主人のように奴隷仲間を鞭打ち、懲罰する奴隷。

矛盾に満ちた「教義」

 組織の支配的性格を表わしているのは、バプテスマの際の質問である。ラッセルの時代には洗礼儀式はなかった。洗礼が注目されたのは、組織にとってそれが必要であったからだ。儀式の際の質問に対する言い分に「神に導かれて組織を交わること」が挿入されたのは1985年以降である。これは組織に暗黙の同意を迫るためであり、証人が組織を訴えたときの組織の言い逃れに利用されている。

 血液のことは第9章に詳しい。塔協会に興味がある人は、ぜひこの章だけでも読んでみる価値がある。許される血の成分と許されない成分がある。白血球は許されないがそれを大量に含む母乳は許される。アルブミン600グラムは5リットルの血液から作られるが許される。第8因子、第9因子の血友病製剤は許される。政策によって輸血による危険を回避することはできても、非加熱製剤の危険性には無知であった。聖書の血の意義は屠殺された動物の生命である。聖書は血の食用を禁じているけれど輸血は栄養の摂取ではないから許されるはずだ。輸血は酸素供給源であるから機能的に呼吸を指す。レビ人でさえ、聖書を信者に有利に拡大解釈する。最高法院に等しい統治体の定めた規律は個人の良心を奪っている。神聖で自由な無理のない行いをするのがクリスチャンの自由である。

 自由を奪取し組織に従属させる教義をどのように信者にしみ込ませるか、どのように「真理」と思い込ませるか、その手法は第12、13章に詳しい。組織外部からの教えに対する態度と組織内部の教えに対する態度は等しくない。偏狭である。その典型は軍隊に対する態度に見られる。宗教法人の経営する学校の数学などの教師は許容されるが、軍隊の経営する衣料品の店員を職業に選ぶことは許されない(1979年、西独での実例)。軍を嫌うのは頭からの拒絶に過ぎない。若者は軍務に着くより懲役を選ぶけれど、それは自発的ではない。「そう若者が考えたとすると、ぞっとする」統治体成員が傲慢に語る。証人が「政策を考える」ことは真理からの排除を意味し、除名(排斥処分)を適用される。組織を清浄に保つために悲劇が数限りなく繰り返される。

(相川英一)

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