会報「JWの夫たち」バックナンバー第12号 情報センター便り
輸血拒否をめぐる最近の動き
<はじめに>
エホバの証人の輸血拒否の教義は、1945年に最初の記事がものみの塔誌に
掲載されて以来、過去50年間の間に、様々な変遷を繰り返してきた。ものみ
の塔協会は、「新しい光」、あるいは「調整」と称して、時勢に応じてその
教義に変更を加えることを誇りとしているが、この姿勢は輸血拒否の教義に
ついても例外ではない。しかしその教義が信者の生命を奪う可能性がある時、
人の死という変更のきかない事柄が、変更を繰り返す教義によって支配され
ているという、この教義の文字通り致命的な欠陥は、信者のみならず、一般
社会も見逃すべきではないであろう。
筆者は、米国の医療現場で医療倫理委員会の委員をつとめる医師の立場から、
世界中で繰り返される信者の死を懸念して、過去一年間この問題について発
言してきた。ここではこれらの発言をまとめて、最近の世界の動きを展望し
てみたい。
<新しい血液を使った医療技術と輸血拒否の教義>
現代の医療技術はめざましい進歩をとげ、次々に血液を使った新たな医療
技術が考案され病気の治療に貢献している。問題は、それらの治療法がも
のみの塔の輸血拒否の中でどのようにとり扱われるのかである。興味ある
ことに、聖書に全く言及されていない、これらの最新の医療技術を、聖書
の名において裁くという、根本的な矛盾に直面したものみの塔指導部は、
混乱を隠し切れない判断を下している。
1997年8月のアメリカ医師会内科雑誌には、オーストラリアで行われた世
界で初めてのエホバの証人に対する自家末梢血幹細胞移植が報告された[1]。
これは白血病の治療法の一つで、化学療法によって抑制された骨髄の造血
細胞が、その回復期に造血幹細胞を大量に末梢血に放出する現象を利用し
て、血液中の造血幹細胞を集めて貯蔵し、それを後で骨髄移植の代わりと
して移植する治療法である。骨髄移植と違って移植提供者の手術がいらず、
自分の血液を貯蔵するだけで治療ができることから、骨髄移植に代わる治
療法として注目されており、世界中で徐々に応用されている。
この治療がエホバの証人に受け入れられるか否かは、この報告が出るま
では不明であった。なぜなら、この治療法は自分の血液を貯蔵し、その一
部を再輸血しなければならないからである。技術的には明らかに「輸血」
が行われる以上、エホバの証人はこれを拒否しなければならないのではな
いか、という疑問が当然出て来る。オーストラリアのこの患者の場合でも、
この疑問は当然取り上げられ、医療機関連絡委員会のエホバの証人指導部は
その判断をニューヨークのものみの塔協会の本部に仰いだ。その結果は、
この治療法を受けるか受けないかは本人の意志にまかせるという判断であ
り、これによりこの患者は白血病の緩解を達成することができた。
しかし、この判断には重大な問題が含まれる。筆者はこの問題点を、同じ
アメリカ医師会内科雑誌に投稿した[2]。先ず、この治療は自己血の輸血
であるのに、なぜ許されるのかが明らかではない。自己血を貯蔵し、その
全部あるいは一部を輸血するという技術は近年瀕回に使用され、ものみの
塔協会が強調する輸血に伴う危険を避けるのにも有効な治療法であるが、
これはものみの塔協会により公式に禁止されている。今回の判断はこれま
での方針と真っ向から矛盾している。ものみの塔協会は、自家末梢血幹細
胞移植が「移植」という名前で呼ばれているために、表面的にこれは輸血
ではなく移植であると判断して、「本人の意志にまかせる」という判断を
下したものと考えられる。ものみの塔協会はすでに、1984年8月のものみの
塔誌で、骨髄移植は「移植」であり、聖書のイザヤ 25章6節に、神が「髄
と共に油を十分に用いた料理」を食べることを許したことから、個人の意
志にまかされると教えている。造血組織としての骨髄が、大量の血液を含
んでいることはなぜか問題にされていない。従って、自家末梢血幹細胞移
植もその延長と考えたのだろうが、統治体はこの治療が実は輸血の一形態
に過ぎないことを見過ごしてしまった。究極の所、この輸血拒否の教義の
根本的な問題は、宗教とは次元の異なる医療技術を、医療知識には素人の
宗教指導者が、恣意的に分類して信者の命を左右していることであろう。
その矛盾に満ちた一貫性のない行動は隠しようがないのである。
この幹細胞移植にまつわる矛盾の例はこれだけではとどまらない。ごく
最近、臍帯血内に含まれる幹細胞を使用して同じような幹細胞移植が試
みられ、白血病や遺伝性代謝異常症の治療に使われ出したが、これに関
してはものみの塔協会は、血液を使った治療であるとして拒否すること
をすすめているいるのである。昨年(1997年)のものみの塔誌、2月1日
号29頁には、「医師に対して、胎盤や臍帯はいかなる方法でも用いるこ
となく処分してほしいと簡単に伝えるのは、正しいことでしょう」と読
者に臍帯血使用の拒否をすすめている。同じように血液中の幹細胞を移
植する治療法でありながら、一方は個人の意志にまかされ、他方は拒否
させるというこの矛盾は、エホバの証人の誰一人として説明できない。
なぜなら、それは統治体というエホバの証人の絶対的最高指導者の、行
き当たりばったりの気まぐれな判断によっているからである。
<エホバの証人の内部批判の動き>
もう一つの国際的な大きな動きとして、改革派エホバの証人連合
(Associated Jehovah´s Witnesses for reform)の台頭がある。これ
は世界各国の医療連絡委員会の長老たち約200人が、インターネットを
通じて情報を交換し合った結果、現在の輸血拒否の教義に改革を加える
必要があることを認識し、エホバの証人の間にその意見を広め、本部の
指導部に改革を請願する動きを開始したことである。もちろん、ものみ
の塔宗教の性格上、内部批判は厳しく禁止されており、これが公然とわ
かれば排斥処分は目に見えている。
これらの改革派のエホバの証人の長
老たちは、アメリカ、イギリス、デンマーク、スウェーデンなどを拠点
に、厳密に実名を隠しながら内部にとどまって輸血拒否問題を中心とし
て内部批判をインターネット上で繰り広げている。確かに現状では、これらの「改革派」のエホバの証人はほんの一握り
に過ぎない。しかし、このような信者の存在は、世界の医療従事者には
知られていない。エホバの証人と言えば直に輸血拒否と短絡的に判断す
る医療従事者が大部分である。筆者はこの問題点を英国の医学倫理の専
門誌、Journal of Medical Ethics に二部に分けた論文の形で発表し[3,4]、
その中で輸血拒否の医療倫理的判断に際しては、エホバの証人の中には
輸血拒否の教義に批判的な信者もいる可能性を十分考慮し、エホバの証
人患者の建前としての輸血拒否の意志を無批判に受け入れるのではなく、
掘り下げた議論により、その教義の矛盾を考えさせることにより、本音
を引き出すことを提唱している。
この筆者の論文に対しては、イギリスのエホバの証人医療機関連絡委
員会の議長であるデービッド・マリオンが反論の記事を寄稿して[5]、
紙上での論争が繰り広げられ、読者に本質的な問題点が浮き彫りにされ
たのではないかと考えている。残念ながら、マリオンは筆者の取り上げ
た輸血拒否の教義の根本的な矛盾には全く答えず、ただ無輸血治療の成
功を賞賛することと、エホバの証人の患者としての権利の主張を繰り返
すだけで、エホバの証人特有の「対話拒否」の姿勢を読者に印象づける
にとどまったようだ。
<ヨーロッパ人権委員会におけるブルガリア政府との調停>
1998年4月にフランスのパリにあるヨーロッパ人権委員会で、ブルガ
リア政府とエホバの証人の組織との間で取り決められた調停は、幾つか
の問題ある教義の扱いと並んで、輸血拒否の問題を取り上げており、そ
こには驚くべき合意が含まれていた。ブルガリア政府に宗教団体として
の公認を請願していたものみの塔は、その引き換えとして信者が輸血を
受けるか受けないかは、信者の「自由な選択」であり、組織はこの決定
に対して「統制や処罰は行わない」と約束したのである。この調停はイ
ンターネット上で世界中に広められ、大きな議論を引き起こした。それ
もそのはずである。エホバの証人として公然と輸血を受けることは、排
斥処分の対象となることは確立されたエホバの証人の方針だからだ。
従ってこの人権委員会での調停は、輸血拒否の方針の変更と解釈する
のが妥当であろうと考えられた。筆者はこれに関して、英国の一般医学
雑誌 Lancet に寄稿して[6]、ものみの塔協会は医学界に対して、教
理の変更を行ったか否かをはっきりさせるべきであると迫った。ものみ
の塔協会はこの筆者の投稿に関しては直接の返事を寄稿してはいない。
しかし、改革派のエホバの証人の質問状には、個人的な返事を送ってき
ており、それによれば、ものみの塔協会は、この人権委員会での調停で
輸血拒否の教義の変更を意図はしていないと主張している。
この返事によれば、エホバの証人は個人個人が聖書の教えに基づいて
「自由な選択」で輸血を拒否している。また組織は輸血を受けたエホバ
の証人に対して直に処罰を与えてはいない。輸血を受けたエホバの証人
は、先ず審理委員会でその過ちを教えられ、それにより悔い改めが明ら
かであれば、排斥はされない。排斥が行われるのは、悔い改めの意志が
なく輸血を公然と正当化するような言動が見られる時に行われる、とい
うものであった。
<輸血拒否は真の自由意志か組織の方針か>
このヨーロッパ人権委員会の調停は、図らずもこの輸血拒否の教義の
大きな問題である、個人の意志と組織の方針との葛藤を浮き彫りにし
た。ある選択を行った結果が、その選択を否定して悔い改めるか処罰
かのどちらかに帰結するとしたら、その選択の自由が保障されていな
いのは誰の目にも明らかである。
1998年2月の東京高裁での判決に対
する筆者やそれ以外の方々の投書にもあるように[7,8]、医療倫理の
重要な要素は患者の自己決定権の尊重である。自由意志という表向き
の建前を取りながら、その実組織が方針として決定しそれを組織の構
成員に罰則を使って徹底させているのなら、それはもはや患者の自己
決定ではなく、別の取り扱いがされなければならない。筆者は、この
点に関してものみの塔の引用を多数使用しながら、いかに協会指導部
が信者に一方的な情報を流して輸血の副作用に対する過剰な恐怖心を
植え付け、その一方で輸血を受けることは排斥につながり、霊的な永
遠の死と、エホバの証人である家族や友人との断絶という別の恐怖に
より巧みに信者を統制して、輸血拒否に導いているかを論じた[3]。
また医療倫理上の自由意志による患者の自己決定権の行使には、そ
の決定のプライバシーが守られることが前提になっている。1987年9
月1日号のものみの塔誌には、「『話すのに時がある』―それはどん
な時?」と題する記事を使って、他のエホバの証人が組織の方針に反
する医療行為(ここでは中絶手術を秘密に行った例が取り上げられて
いる)を受けたことを知った医師の助手であるエホバの証人がそのこ
とを長老に密告する例を用いて、エホバの証人はこのような状況では
たとえ違法であっても患者の秘密を暴露するようにすすめている。こ
のことはすなわち、エホバの証人同士が互いに他人の医療行為を監視
して、組織の方針に反する治療を行った者を組織に通報することを意
味するエホバの証人は一般に、他の信者の「悪行」を通報することは
義務と考えており、輸血に関する情報もこの例外ではない。このよう
な監視体制もまた、エホバの証人患者の個人としての自由な選択を見
えない形で縛り、組織の方針への絶対服従を、患者の自己決定権の行
使にすりかえていることのよい証拠である。
筆者は更に、ものみの塔協会本部の法律部門の主任であり、現在の
輸血拒否の法律と裁判に関する実権を握っていると考えられるドナル
ド・リドリーに別の医学雑誌の上で公開の質問を行い、その返答を引
き出しているが、これは未だ出版されておらず、今回の紙面も限られ
ているので別の機会に解説したい。
<参照文献>
1. Archives of Internal Medicine 1998;157:1753-7.
2. 同 1998;158:1155-6
3. Journal of Medical Ethics 1998;24:223-30.
4. 同 1998;24:295-301.
5. 同 1998;24:302-7.
6. Lancet 1998;352:824.
7.朝日新聞こころのページ読者が考える1998年6月9日
8.世界(岩波書店)1998年5月号19頁
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