第7章 聖書のどこから証明するの

 エホバの証人はひとつの宗教の信者である。エホバの証人はものみの塔出版
物の中に書かれていることをすべて信じている。見た目、きれいな人たちだが組織が言っていることを福音であるかのように受け取る。
 エホバの証人は偽りの生活をしてきた。エホバの証人が組織を介してのみ、地上で神の真理を与えるなんて偽りだ。エホバの証人は固く信じている――もし読者が未信者なら、サタンの手先であり、ハルマゲドンの戦いで死ぬのだ。
 未信者であれば滅びる――エホバの証人にとっては、それがすべてだ。組織が言うことにはすべて従うべきだと思わされている。実際、私が証人を辞めたときに九人の長老に会った。その際、私は辞める前に発見した事柄を彼らに伝えようとした。
 私たちの信仰に矛盾する事柄を聖書の中に発見したと伝えようとしても彼らはそれを拒んだ。それには驚かされた。長老たち全員、一つの質問にこだわっていた。「現代の世界ではものみの塔がエホバの唯一の真理の経路であると信じてますか」だ。
 そうか。そうだったのか。読者なら組織を信じるだろうか!! 再度、長老たちに会ってみたい。またもや彼らは「組織を信仰しますか」と問うだろう。すでに見てきたように私の質問は決定的であるに違いない。違うって! なんならエホバの証人が答えられない質問5を示そう。
 
質問5:終わりの日に、真理のために一つの組織に頼るべきだとは聖書のどこに書かれているのか――一つでもいいからその聖句を言いなさい。

 すぐに私に答えさせてください。一つもありません!! イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。組織に頼ってでは「父」のみもとには行けないと、聖書に書いてある。イエスを通して神の御許に行く。イエス・キリストは仲介者である。もっと簡単に続けよう。
 興味深いことがある――ものみの塔によると、イエスは「大群衆」の仲介者ではないのだ。仲介者は組織なのだ。傲慢でないか。ピエロじゃないのか。言うのは簡単だ。毎日でもいいから、エホバの証人なら組織に依存せよと書かれている聖句があるかを調べられる。何一つ見つけられない。イエスを信仰せよと聖書が言っているのに、なぜエホバの証人は組織を信仰するのだろう。
 20の質問の中には入れていないがすばらしい質問である。

質問6:ものみの塔は1914年に目に見える形でキリストが臨在したと言っている。その前は1874年にキリストが臨在したと言っていた。黙示録1:7にはキリストが臨在するとき、すべての者がキリストを見ると書かれている。わずかばかりのものみの塔の目だけに映るだけではない。すべての人たちがキリストを見る。

従って質問6は――キリストが1914年に臨在したと言うのなら、なぜすべての人たちの目に映らないのだろう。
 
 常識に逆らうほどだ! もし1914年に生きていた人を知っているなら、その人たちにその年にキリストの臨在を見たか尋ねてみなさい。「この人、狂ってるな」と思われるだろう。キリストが臨在されるとき、すべての者がキリストを見ると書いてあるのにエホバの証人はキリストが臨在するとき、誰にもそれが見えないと言っている。読者は何を信じますか。聖書を信じますか。それとも組織を信じますか。世も末だ!!
 傲慢な者から離れよう。さあ、質問7を見てみよう。

質問7:エホバの証人に対して、「あなたたちはエホバがもっとも大切な名だと言っている。エホバの名について人々に教えて戸別訪問をすることが大切だと思っている。そうなら質問7を示す。「イエスが弟子たちにエホバの名について何か特別に伝えている聖句があったなら、その一つでも教えられますか」。

 エホバの証人は神についてこう考えている――神は天に座し、誰もが神の名エホバを知らせてくれることを望んでいる。ともあれ本当のところ、私たちはエホバの名の発音のしかたを正確には分かっていないのだから、それはおかしい。
 旧約聖書の原本にはエホバの実際の名前を発見できない。子音YHVHは見つかる。それらの子音の間にどの母音を入れるか決められなければならない。本当のところ、エホバは確かに容認された形であるが、知らないだけだ。本当のところ、神の考えでは、神は私たちには決して教えてはくれない。
 知っていると言えば、一度たりともイエスと使徒たちがその書物において「エホバがもっとも大切な名です」とは言っていないことだ。もっと賢くなろう。
 もしエホバの証人が正しいとしたら、またエホバが誰にでもエホバの名を知らしめたいのなら、また、誰もが一度たりともその名を聞いていないのなら、イエスと使徒らは、新訳聖書の中でエホバの名を言ったであろう。エホバがもっとも大事な名であり、神は誰もが神の名はエホバだということを知らせたがっているなどとは、
 新訳聖書の中の誰ひとりとして言ってはいない。
 利口なエホバの民はどこにいるのですか。死ぬまで組織の嘘とともに生きるつもりですか。
 質問8は質問7とは基本的に同列である。質問7はエホバの名を伝道するよう、イエスが弟子に伝えている件をテーマにしている。質問8は読者と私に関してだ。新約聖書ではエホバの名に関する命令が書いてありますか。

質問8:新約聖書の中で神の名はエホバであると誰かに語っている聖句を一つでもいいから見つけられますか。

 エホバの名を伝える件について新訳聖書に何か書かれているだろうか――それはない。確かにもしもそれほど大事なら、そのように書かれている最低でも一つの聖句があるはずだ!! 実際、それは見つけられない。
 パウロはピリピ2:9から10で次のように語っている。

9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、

 イエスの名を賛美せよ。それは宇宙でもっとも大切なのだ!

 


目次へ戻る


第8章に移る