第5章 救いのご計画

 ある日、私はミルウォーキーに住むエホバの証人の友人から電話を受けた。私が証人を辞めた件で彼はひどく面食らっていた。私は友人に救いのご計画とイエスに出会った話をした。その友人は私の発見した信仰をせせら笑うと電話を切った。
 それから2年後、そのミルウォーキー在住の友人から再び電話がかかってきた。彼はこう言った。「チャック。前に君に電話で無礼な態度を取った。心から謝る。そのために電話をしている」と言うのだ。さらに心躍るほどのことばを口にした。「僕はイエス・キリストを受け入れた。今はキリストにあって、君の友だちになっているんだ」。神を誉め称えよ! 友人に誉れあれ!
 私がすでにこの本の中で書いてきたテーマの中でも救いの問題は最も大切なテーマだ。「20の質問」を始めるとしたら、勢い、このテーマから始めるのが自然だ。テーマとなる最初の質問をするときにはただ一つの答えだけを求めましょう。
「大群衆」のテーマを証明しようとするなら、それほど聖句を多く調べる必要はない。
 実際のところ、ひとつでもいいから、エホバの証人の信仰を裏付ける聖句を探してみなさい。
 第一の質問――「大群衆」が救われるご計画は聖書のどこに書かれていますか。
 ものみの塔によると、「大群衆」の救いの計画は集会に出て、奉仕をし、善良な人になり、一生懸命に働くけば、ハルマゲドンの戦いは神から滅ぼされることはない。そんなこと、聖書のどこに書いてあるのか。唯一の救いの道は聖書に書かれている通りだ。 
 まず最初に、イエスはイエスが唯一の道だと語られている。144千人のためだけの道ではないし、「大群衆」にとっての道ではない。イエスが救いのための唯一の道という事実は新訳聖書全体に見つかる。
 使徒行伝16:31 主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。
 ヨハネ3:16 主イエスを信じ、救われなさい(KJV聖書)。
 ローマ6:24 私たちは無料の賜物、イエス・キリストによる命を受ける(KJV聖書)。
 本当の福音とは、私どもはすべて罪人であり、その罪が許される必要があることだ。それはエホバの証人の教義とは正反対である。その民を疲れ果てさせる神がいて、その神の名はエホバであると戸別伝道をさせている――エホバの証人はそう思っている。そのような教義がなぜ問題なのか――そんなこと、聖書のどこにも書かれていないからだ。
 新約聖書の福音は1コリ15:1から4で説明できる。
 
 1コリ15:1 兄弟たち。私は今、福音を伝えましょう。これは私があなた方に宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。

 1コリ15:2 また、もしあなたがたが、よく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかり保っていれば、この福音によって救われるのです。

 1コリ15:3 私が最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに死なれたこと、

 1コリ15:4 また、葬られたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと、

 重要な福音である。ガラテア1章でパウロが語った一コリ15章の福音を宣明することが大切である。
 
 ガラテア1:6 私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
 ガラテア1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
 ガラテア1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
 ガラテア1:9 私たちが前に言ったように、今私はもう一度言います。もしだれかが、あなたかたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきである。

 ここのところが大切だ。福音は一つ。聖書的な救いは一つ。「主イエスを信じ、救われなさい」――それが大切なのだ。144千人でも、「大群衆」でも、この地上のその他の大勢の人も救いへの道は一つであり、それは主イエスを信じることであり、それで救われる。
 興味深いことと言えば、キリストを受け入れるとき、神の子となり、キリストの相続人となり、命を得、聖職者となり、王となると聖書に書かれている。エホバの証人によれば、そのいずれも「大群衆」には当てはまらない。エホバの証人の神学ではそれに当てはまる者は144千人だけだ。重ねて尋ねよう。「大群衆」のメンバーには救いのご計画はないのか。
 聖書には、特に「これが『大群衆』のための救いのご計画です」と示されていないのなら、現実的に、次の二つの選択が考えられる。
選択1:「大群衆」にために救いのご計画はないのだから、「大群衆」は滅ぼされる。
選択2:「大群衆」にための救いのご計画は144千人のための救いのご計画と同一。もしそうであれば、辿り着く場所は同じでなければならない。
 真理はこうだ――救いに至る唯一の道がある。それはイエスへの信仰である。そうであれば、天国あるいは「主」のおられるところで、「主」、「救い主」と永遠に生きる! それが真の福音だ。それしかない!
 面白いことに、この本を書いているときに時に関する書籍がものみの塔から出版された。
 それは「エホバに近づく」である。その書籍は13章から成る。その書籍の考えによると、エホバの証人用語ではエホバである「父」に寄り添うことである。
 この書籍はエホバに寄り添うように教えるが、イエスを通して「父」に近く唯一の方法を説明していない。
 「父」により近づくと言ったイエスの御言葉に耳を傾けなさい。ヨハネ6:40では、イエスはこう言っておられた。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、みな永遠のいのちを持つことです。事実、わたしはその人々をひとりひとり終わりの日によみがえらせます」。この「エホバに近づく」は「父」への道はイエス・キリストを通してであるとは示さないで、いかに私たちが命を得るか、「父」により近づくかを断定調で記している。
  「エホバに近づく」の最後の章を読んでみよう。

 今、エホバの愛にこたえ,心と魂と思いと力をこめてエホバを愛してください。(マルコ12:29,30)忠節で確固とした愛を抱くのです。大小を関わず,日ごとに下す決定すべてに,不変の指針となる原則を反映させましょう。つまり,天の父とのいっそう強固な関係に至る道を常に選ぶ,という原則です。そして何よりも,とこしえにわたって,あなたがエホハにいよいよ近づき,エホバもあなたにいっそう近づいてくださいますように。

 気が付かれただろうか。すべてあなた次第なのだ。エホバに近づけるかは、どのように振る舞うか、どう選ぶか、どう決めるかにかかっている。エホバの証人の思考回路ではそれはエホバの組織に忠実であることを意味している。しかし、イエスがヨハネ14:6で語っておられる御言葉を見なさい。「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしに通してではなくては、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
 ものみの塔はそれを自分たちでやる必要があると書いている! 個人的には、謙遜に聞こえるかもしれないが、エホバの証人の書籍は次のような言葉で決着を付けている。
 エホバのみ子、イエスを受け入れることで「父」の愛に応じてもいいのだろうか。キリストを受け入れることで「神の子」となり、聖霊に導かれて「父」により近づく。
 あなたはイエスを知っているのだから、「父」はあなたをキリストと近い関係に導く。たとえ、今日死んでも、百年後に死んでも、キリストを通して、「天の父」の子の一員として、永遠に「天の父」により近づく。
 それは希望であり、励ましである!! 
 ものみの塔がそのために私に本を書かせたのではないかと疑っている!! ラザフォードは墓の中でこの本をめくっているんだ!!


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