3章 エホバの証人の教義 


 本文に入る前にエホバの証人の教義を調べてみよう。そうすればその由来がよく分かってくる。キリスト教の宗教とエホバの証人の宗教も比較する。
 ある組織が唯一の本物の宗教であり、正しく聖書を教える唯一の源泉であると主張するなら、それを注意深く試してみなければならない。その宗教が正しいなら、私たちはそれを聖書の中に見つけられるし、年月を重ねてもそれは一貫している。不変である。
 しかしながら、エホバの証人は聖書の根本的な教えを多く、否定し、歪曲している。その宗教は二千年以上経過した正統派クリスチャンが保持してきた宗教と対立している。次にそれらの比較をしてみよう。

神の性質:聖書は唯一で、本物の神がいると教える(イザヤ43:10、11、44:6、8)。「父」、「子」、「聖霊」は神性において個々の神格で特定され、同じ神性を有する(マタイ3:16と17、2コリ13:14)。新約聖書全体は、「父」と「子」と「聖霊」は個々に神として特定される。神性の属性と特別な権威は各所に述べられている(「子」はマルコ2:5〜12、ヨハネ20:28、ヘブル1:8、「聖霊」は使徒行伝5:3、4、2コリ3:17、18)。
エホバの証人の見解:エホバの証人は三位一体を否定する。サタンがそのような信条をもたらとたと、教える。エホバの証人はエホバ(唯一の神の名)が「父」なる神に相当すると教える。そして、イエスは天使長ミカエルであると教える。聖霊の格を否定し、単なる神の動的な力(電気のようなもの)と教える。

イエス・キリスト:聖書は、イエス・キリストが肉の体を持ちながら来られた神であり、万物の創造者であると教えている(ヨハネ1:1〜3、14、コロサイ1:16)。本質において「父」なる神と同一である。定められたときに「父」が有していた栄光を取り除き、人間の性質を身に着けられた(ヨハネ17:3〜5、ピリピ2:6〜11、コロサイ2:9)。死なれた後、イエス・キリストは墓からよみがえり、五百人以上の人々に体を持って現れる姿が目撃された。この事実は初代教会の伝道の核心であり、核となる信仰であった(ルカ24:39、ヨハネ2:19〜21、コロサイ15:6、14)。
エホバの証人の見解:エホバの証人は、イエス・キリストの神性を否定し、イエスは被造物だと教える。イエスは始め、天使長ミカエルとして存在していた。後に完全な人間として生まれたと教え、イエスが葬られた後、神はイエスの体を捨てたと教える。イエスは霊者として起きあがり、目に見える形で肉的体に具現化された。天国においてイエスは再び、天使長ミカエルとなっている。

救い:キリストの購いの業だけが全人類にとっての大問題、「罪」を解決すると、聖書は教えている。イエス・キリストは十字架の上で現在、過去、未来のすべての人類の個人的な罪をご自分の体で受け止められた(1ペテロ2:24)。そして完全な神として、人間として、イエスは私たちのために神の義の求めに応じられた(ローマ3:22〜26)。キリストを信じ、キリストを受け入れる者はすべて許され(ヨハネ1:12、使徒行伝16:31)、義とされ、神の家族になる(2コリ5:21、ヘブル7:24〜26)。
エホバの証人の見解:エホバの証人は、エリートの証人の階層がひとつだけ存在する。その層は144人であり、即ち「油注がれた者」と呼ばれていて、現在、神の義を得ている。144人だけが生まれ変わり、天でキリストと統治する望みがある。大多数の証人は「残りの羊」即ち、「大群衆」と呼ばれる。大多数の証人には、キリストの購いによって、地上で永遠に生きる「可能性」だけが与えられている。
聖書:私たちの独りよがりな行いではなく、栄光によって救われると聖書は教えている。救いは神の賜物である。救いのために何かをすべきではない。イエス・キリストがいなければ、私たちは「罪の中に死んでいる」からである(エフェソ2:1から9)。
エホバの証人の見解:エホバの証人は、救いを自分の力で手に入れなければならないと教える。救いは「自分の行い」に依存する。人はまず「救いのためにエホバの証人の組織に入らなければならない」。そして、その教えにすべて従わなければならない。そうして、救いの基はイエス・キリストとの個人的な関係ではない、エホバの証人の組織との関係だと示される。
人間の霊と永遠の責め苦:霊魂は死んだ後も生き残ると、聖書は教えている(ルカ16:19〜31、2コリ5:6、8、ピリピ1:23、24、黙示録6:9〜11)。神の賜物(永遠のいのち)を拒んだ者は、千年紀の最後に火の池で永遠の責苦を受ける(マタイ25:41、46、黙示録14:10、11、20:10、15)。
エホバの証人の見解:エホバの証人は、永遠の責め苦を否定する。そして人間は体が死んでも生き残る霊を持っていないと教える。死はすべての意識的な存在を終わらせると、証人は信じている。地獄とは墓のことであり、最終的に神に裁かれる者たちは滅ぼされ、存在を停止するに過ぎない。
聖書:聖霊の油注ぎは、個々のクリスチャンに神の御言葉を理解させ、個々のクリスチャンの生活においては正しく御言葉を生かすと教える(ヨハネ16:13、1ヨハネ2:27)。
エホバの証人の見解:聖書を解釈できるのはものみの塔協会だけであり、協会を離れた者は真理を学べないと、証人は教える。
 エホバの証人の偽りの予言は本書のような出版物などで暴露されてきたために、誠実な証人は組織に対して懸念を抱いていた。だからものみの塔協会は出版物などで歴史的な予言や教義に間違いがあったと認める反応を見せてきた。
 それらの間違いの原因は人間の間違いやすさにあったと協会は言い、一度たりとも神の霊感を受けていないと主張してきた。面の皮の厚い者の欺瞞である。なんとなれば過去には、「ものみの塔」誌は「神のお告げ」と呼ばれ、引用符付きでエホバからの指示を伝達してきた。
 「ものみの塔」誌1995年9月1日号は、「エホバは,特に,「ものみの塔」誌を補助教材として用いる毎週の聖書研究によってご自分の民を教えておられます」と述べている。
 1943年、第二次世界大戦の最中、ものみの塔協会の副会長F・フランズと会長ナザン・ノアは法廷で宣誓した上で、次の証言をした。それは「ものみの塔」誌の中身は神から直接届くという証言だった。
 ここでオーリン・モーリスとものみの塔協会の事件#25962597の866ページに記録されたフレデリック・フランズの反対尋問を示す。
 私は個人的にオーリン・モーリス氏を知っている。22年間、私は彼の家から1マイル以内のところに住んでいた。私は学校へ通うにも、毎日、彼の家の傍を通った。彼は私が育ったウィスコンシン州ジョンソン・クリークに住んでいた。弁護士をしていてとても謙遜な人だった。何年もかけてものみの塔協会はモーリス氏の評判を落とそうとした。
 モーリス氏は高潔な人だった。例えば、ニューヨーク市ブルックリンの本部で若い労働者やスタッフの中では大量のアルコール類が飲み干されていたことに関してラザフォード判事に懸念を表そうとした。
 ラザフォード自身がアル中だったため、彼はモーリス氏を非難した。さらにモーリス氏がものみの塔協会を去った後になって、ラザフォードと協会はモーリス氏の性格を中傷しようと、モーリス氏に大酒呑みのレッテルを貼ろうとした。
 私はモーリス氏を傍で見ていたが、彼はまったくの下戸だった!! モーリス氏はそれほどまでにひどく協会から名誉を汚されたから、協会を訴え、勝利した!! モーリス氏はとても愛想の良い人だった。笑みを絶やさなかった。しかし、モーリス氏とおしゃべりをしてみようにも彼はすでに天国に召されている。
 実際の法廷の記録を見てみよう。そこでノア兄弟は、エホバが「ものみの塔」誌の編集者であり、さらに「ものみの塔」誌は神の御言葉である聖書と同等であると認めている。奇異な感は無い!! 私もそう感じていたからだ。ともかく読んでみなさい!!
 
問:いずれにしろ、エホバ神がその雑誌(「ものみの塔」)の編集長だと言うのですね。
答:エホバは雑誌の編集長である。
問:どれほどの期間、エホバはその雑誌の編集長をやっておられるのですか。
答:その草創期以来、エホバは雑誌を指導してきた。

 これはオーリン・モーリス対ものみの塔事件1943年♯4421 1474頁におけるナザン・ノアの反対尋問にも書かれている。質問はさらに続く。

問:実際、それ(「ものみの塔」誌)は、直接、神の御言葉として記述されているのですね。
答:その通り。神の御言葉です。
問:まったく嘘、偽りはありませんね。
答:その通り。

 ほとんどの人たちはこうした不利になる事実に無関心なままである。大量の偽りの文書を配っておきながら、証人の数は増えている。過去に失敗を犯し、霊感を与えられていないと言っておきながら、ものみの塔協会は完璧なまでの忠誠心を求める。そして、ハルマゲドンはすぐに始まる、組織に入っていない人や信者を辞めた人たちを滅ぼすと予告し続けている。
 人心操作や偽預言で大勢の人たちの一生をだめにしてきた歴史があるというのに、ものみの塔協会は、いまだに、唯一、真理を教えていると主張している。
 
明らかにエホバは移り気だ!! 

 ものみの塔協会がエホバの組織であり、現代、霊的指図をする神の唯一の経路であると協会は主張する。聖書は「組織的な書物であり、その奥深さは個人では理解できないと言う。
 しかしその存在するわずかな期間内にどれほど教義上の矛盾と蒸し返しを繰り返し、悲惨な歴史を刻み続けてきたのだろうか。どうしてそんな組織に永遠の運命を委ねられると言えるのだろうか。絶えず移り変わるものみの塔の神学の例を次に示そう。
 1975年、ものみの塔協会は、マタイ13章に書かれたからし種のたとえの中で種を蒔く人をサタンであると教えた。同じ年、後になって、それはイエスだと教えた。
 同じような「事故」は1978年に発生した。ものみの塔協会は、黙示録22:12〜13の「アルファであり、オメガ」である方をエホバと同定した。その5週間後、今度はその聖句はイエスを指していると教えた。
 このような教義の動揺にはっきり見られるように、協会は聖書を正確に解釈していない。まず最初に、協会はそれはAだと教えてから、神が「新しい光」を与えたと言ってそれはBだと変える。しかしその後になって協会は再びそれはAだと言って古い考えに逆転する。さらにそれはBだと再び変更するときもある。以下にその例をいくつか挙げよう。

ローマ10:12〜19に書かれている「主」
1902年〜 「主」はイエスを指す。
1940年〜 「主」はエホバを指す。
1978年〜 「主」はイエスを指す。
1980年〜 「主」はエホバを指す。

ソドムの民の復活
1879年〜 ソドムの民は復活する。
1952年〜 ソドムの民は復活しない。
1965年〜 ソドムの民は復活する。
1988年〜 ソドムの民は復活しない。

羊と山羊をより分ける(マタイ25:31〜46)
1919年〜 大艱難の後に行れる。
1923年〜 大艱難の前、現在行れている。
1995年〜 大艱難の後に行れる。

ローマ13:1の「上に立つ権威」
1916年〜 「上に立つ権威」は政府を指す。
1943年〜 「上に立つ権威」はエホバ神とイエスを指す。
1964年〜 「上に立つ権威」は政府を指す。
 
 誰もが答えなければならない――永遠のいのちに関わる決断である。心からの忠誠を求める組織にどうして決断の基を求められるだろうか。私たちにエホバが告げていると言える自信は無い。
 エホバの証人がその考えを変えるときには、エホバの証人はエホバから「新しい光」を得ていると言う。しかし、正直になったらどうなんだ。あるひとつの解釈をしてから、それを撤回し、さらに元の解釈を採用する。そうして再び撤回する。さらに再び採用する! どんな光を得ていると言うのか! それを「新しい光」と言えるのか! 狂っているとしか言うしかない。「それは偽りだ」とか、「血迷っている」とか、言ってもいいのだ!! 
 「主」よ。聖書の本当の真理を識別する知恵をお与えください。


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