戦争を記憶する旅―ドイツ編


ダッハウ強制収容所

ミュンヘン郊外

オランダヘ転居した年の夏、家族旅行でザルツブルグへテント、寝袋持参でドライブ したとき、途中立ち寄りました。
「途中立ち寄り」にしては非常に重いものを感じさせる ところでした。
当時の建物は取り壊されていて入口に立派な博物館があります。
記録 映画も1日数回上映されていて、ドイツ語のほかに英語もありました。
(訪問時期:1990年8月5日)



チェック ポイント チャーリー
Haus am Checkpoint Charlie
Friedrichstr.43-45, D-10969 Berlin-Kreuzberg
tel.(030)25 37 25-0, fax.(030)251 20 75
Open everyday 9:00-22:00

tel.(030)25 37 25-0, fax.(030)251 20 75
e-mail: info@Mauer-Museum.com
http://museum-haus-am.checkpointcharlie.org

U-Bahn Line 9 Kochstrsse,
U-Bahn Line 2 Stadmitte
Bus 129

東西ベルリンを隔てていた跡に博物館があります。
東ベルリンの市民がいかにして 西側に脱走したか、実物を陳列して解説しています。
訪れたとき、入場料が旧共産圏のパスポートを持った人は大人も学生もそれぞれ半額だったのが印象に残ってい ます。
(訪問時期:1994年8月4日) (再訪問:2002年2月16日)



Grabstautte Karl Leisner
St. Viktor-Dom zu Xanten

(教会地下室にあるカール・ライスナーの墓所)

Markt, Xanten

オランダとの国境に近いXantenはローマ時代の遺跡が出て、1970年代前半から現在に至るまで、遺跡発掘と保存、そして観光客誘致をしている町 です。

この町の歴史は古く、町の中心にある St. Viktor-Dom 教会(大聖堂)は古い教会ですから、 キリスト教美術、聖画が豊富です。

大聖堂の地下室には昔建造された頃の土台などが発掘されており、1940年11月、ヒットラーの 演説を批判して逮捕され、ザクセンハウゼンからダッハウへ送られ、1945年 8月に亡くなった神父 Karl Leisner の墓があります。

Karl Leisnerは1915年2月28日ドイツのReesに生まれ、Kleveという町で育ちました。(両方ともXantenの町から近い)カソリックの青年団体で熱心に活動。
学業を終えた後神父になる決意を固め、1939年3月神父になりました。しかし数ヵ月後、かれは結核にかかり、治療のため黒い森の療養所へ。
11月、ヒットラーの演説を批判したとしてゲシュタポにより逮捕され、フライブルグに拘置され、始めにベルゲンベルゼン、そして1940年12月ダッハウ強制収容所に送られました。
1945年4月29日に強制収容所は解放されましたが、彼は8月12日にミュンヘン近郊の療養所で亡くなりました。

彼はXantenの大聖堂の地下室に埋葬されました。1980年3月15日、ヨハネパウロ二世により列福の審議に入ることが認められ、1988年10月8日にはストラスブルグでヨーロッパ中から集まった42000人の若者の前で、信仰の模範として紹介され、1996年6月23日、ベルリンでKarl Leisnerはヨハネパウロ二世により列福されました。
(2000年8月22日)

 


Ravensbrueck Memorial Museum

Strasse der Nationen, D-16798 Fuerstenberg/Havel
tel.(+49) 33 093 60 80, fax.(+49) 33 093 60 829
Open: Tuesday-Sunday:9am-5pm, Mondays closed
e-mail: mgr@brandenburg.de
http://www.ravensbrueck.de

オランダのハーレムにコリーテンボームハウスがあります。(オランダ編参照
その家でユダヤ人を匿っていたテンボームファミリーは、ついには捕まってしまうのですが、コリーや姉のベッツィーが女性政治犯として運ばれていったところが、ベルリンから北90kmのところにあるラーベンスブリュック女性強制収容所です。ベッツィーはここで亡くなりますが、テンボーム家でたった一人生き残ったコリーによって、事実が伝播されていきます。私はラーベンスブリュック強制収容所を調べるうちに、ドイツ領土で唯一の女性を収容することを目的として作られたことを始めて知りました。

映画「Hiding Place」でこの収容所の場面が出てきます。蚕棚のような3段ベッド。一つのベッドに3人も5人も押し込められる場面をみましたが、展示されているスケッチ画を見るともっとすさまじい状態だったようです。

高い壁の外には遺体焼却場がありました。ガス室が1944年の終わりごろに完成した後、5〜6千人がガスによって殺されました。

「囚人」たちは欧州各地から貨車で運び込まれ、過酷な環境で強制労働させられ、外に出るとしたら死んでから焼却場までということだったでしょう。

ラーベンスブリュックを訪れてはじめてわかったのは、ここは小さなリゾート地だということです。実際、SS達管理する側の人間は外側に住んでいたので、毎日静かな湖を眺めて暮らしたことでしょう。しかし、中にいる囚人達は高い壁に遮られ、湖を見ることもない生活をしていた。

バラックがかつて建っていたグラウンドに立つと、本当に静かです。静か過ぎるくらいです。ここでコリーたちがつらい労働を課され、虐待され、ベッツィーは死んでいったのです。信仰に支えられていたとはいえ、なんと皮肉な環境であることか。

1945年から1994年まではこのグラウンドは旧ソ連軍が使用していたとの事です。

ベルリンからは電車でも行けるのですが、本数も少なく、車が便利です。しかし、旧東独側のため道路の整備が進んでいなくて、幹線道路なのに街中を通っているため制限速度がやたら多く、時間がかかります。


(訪問時期:2002年2月14日)



オットーヴァイトの工場(作業場)跡 記念館

Rosenthaler Str.39
S-Bahn で Hackescher Markt で下車。

ベルリンのシンドラーと言われたオットーヴァイトの工場(作業場)跡 を見学してきました。視覚障害者、聴覚障害者はたいていアウシェビッチ行き となっていたのを、軍需品を作るということで労働力として雇い、収容所行きを免れたユダヤ人、非ユダヤ人障害者たちがいました。ヴァイトはしかし密告 によってつかまり、 アウシェビッチ行きとなったようです。1947年になくなってます。ヴァイト自身も視覚障害者だったようです。

ローゼンタール通り39番地の入口地面にプレートがあります。(ハクシェホフ・ショッピングセンターは40−41番地)
39番地の入口から見て奥のほうに、修復されずに放置された外壁の4階建ての建物が見えます。アンネフランクの記念館もあるが、その一画です。
呼び鈴を押してドアを開けてもらい、ぎしぎし音がする階段を上っていく。 見学するのは3部屋だけ。よほど興味のある人以外は行かないようだ。
入場料は1.50ユーロ。半券はユダヤ博物館の割引に使え、3日間有効。

リンク:オットー・ヴァイトの盲人作業所、、
リンク:暗闇の中の信頼―ベルリンのシンドラー= オットー・ヴァイト― (「ベルリン便りNr.26」『福音と世界』5/2002号掲載)

(訪問時期:2004年2月8日)


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