<11.5〜6第16次東北支援トラック、ダラダラレポート>
福島の方言で言うと「びしょ濡れになって、」という意味なのだけれど精神はともかく肉体は、「ダラダラになって、」家に戻って、
いつもなら一週間は寝込んでしまうところなのだけれど、2ヶ月前から生活のためにアルバイトを始めた性でそれは出来ない。
通所型知的障害者施設の朝夕だけの送迎バスの運転手なのだけれども、今回程、10年前に2種免許を苦労して取って
置いて良かったと思ったことはない。
どんなに疲れていてもマニュアル通りならほぼ完璧な運転ができる。
いや、完璧な運転を目指してむしろそれに快感をすら覚えるのだ。
いや、マニュアルと言ってもただ30キロ指定道路では30キロに落とし、一時停止の標識のあるところで必ず一時停止をして
大きく首を左右に振って歩行者や自転車の動きをよく見て、ゆっくりと発進したりするだけの国内法に従うという意味だけではない。
曲り角でAピラーの今はない三角窓部分を見詰めたり、優先道路に出る時、コーナーミラーを100パーセント信用していて且つ
最後にもう一度首を大きく振って目視することを忘れない様にしているだけのことだ。
5日の朝6時に内本氏と福生を出て中川村の望岳荘に到着したのは午前10時頃だった。
1週間前に来た時は、村の有志の方々が50人位で当方で持参した約200箱のダンボール箱を組立てたり、野菜や果物を
同じ品目毎に箱詰めしてくれたり、手渡しベルトコンベアーになってロシナンテ号とペイントされたトラックに積み込ん
でくれたのだが、今回は、二人だけで前回と同じくらいの量で約1.75トンを積み込んだ。
午前11時半頃に望岳荘を出発して、午後3時頃に新宿西口駅前に内本氏を降ろした。
大型免許を持っていたことがあるという彼がいなかったら、今回の支援物資搬送行動は私一人では限りなく不可能に
近かったような気がする。
首都高・中野長者橋から山手トンネルに入り美女木から外環に入り三郷JCTから常磐道に入って最初のSAで某所駅前で
待っているsaburou氏に「あと3時間位でそちらに到着予定です。」と電話を入れた。
某所駅前で彼に運転を交代して磐越自動車道経由で東北自動車道に出てから福島南保育園のT園長に電話を入れ「午後
8時頃そちらに到着予定です。」と電話を入れた。
24時間保育中で手が離せないと言いながらも園長と3人で積荷の9割方を駆け足で降ろした。
玄米の30キロ袋が10袋位あったのはきつかった。
それから3月から2ヶ月間位は通行止めだった飯館村のすぐ脇を通る山越えルートで南相馬市原町区のビジネスホテル六角の
オーナーが3月からずっとやっている大留ボランテイアセンターに到着したのは午後11時を少し回っていた。
大留さんは、桜井市長の後援会々長だった。
ビジネスホテル六角の裏山が、ちょうど産廃反対闘争の市民運動で2ヶ月前に仙台地方裁判所で負けて市長の給料が
25パーセント差し押さえられた上に大留さんたち原告の市民運動側に数億円もの損害賠償の不当判決が出ている訴追されている敵側の
暴力団がらみの産廃業者のゴミの捨て場でした。
国道6号を挟んで「大みか小学校」もあり、「子供達も帰って来ているのに産廃の臭いが時々するんですよ。」と訴えられた。
翌朝、7時半頃にサービスで朝食が出た。
食べ終えた頃に、20代から50代の女性ばかりの地元ボランテイアが7〜8人来て、積荷を降ろして更にダンボール箱からそれぞれ
2〜3個に別けてミニかぼちゃ、さつまいも、じゃがいも、豆腐、小松菜、お米(玄米を精米して、)少々を一家庭ごとのビニール袋に
入れる作業を物凄く慣れた連携プレイで1時間位やって約800世帯分を作ったかと思うと、今度は2台の軽トラックに積み込んで鹿島区の
仮設に配りに行くことになった。
この時点で私はもうアゴが出ていた。
中腰でやった性で腰も痛い。
しかし、ここまでやって、もう後には引けないと思う。
南相馬市の避難所がいつの間にか閉鎖されたのは何かしら納得が行かなかった。
しかし、この後の光景を見て私は、「成る程、避難所の人々は今は仮設にいるのか。」と納得するのだった。
しかし、何故か米国映画の収容所みたいな柵に囲まれた仮設の団地には、あるべき看板がなかった。
そこが、避難所にはあった「東日本大震災と福島第一原発による避難所である。」という立て看板に代わるべき「被災地難民の緊急の
仮設住宅」であるという証明の立て看板がないのである。
ただ、よくある団地の案内地図に「南相馬市牛河内応急仮設住宅」と書かれているだけであった。
約1000軒の仮設に対して2人一組で約1時間位の間、「支援物資を持って来ました。大みかの大留です、中川村の野菜です。」と声を
掛けながら配付した。
一旦、大留ボランテイアセンターに戻って菓子パンとコーヒーを御馳走になり、まだ30人位残っているという最後の避難所である
陸上競技場の体育館を訪ねた。
広島から支援に来てそのまま避難所で暮らしているという書家の月下さんに会うためだった。
僕らは「避難所160日間の記録」を残そうということで意見が一致したのだった。
午後2時頃、南相馬市を後にし帰路に着いたものの東北道は3ケ所も事故渋滞で、何と言うかもはや気力だけで運転していて福生の
自宅駐車場に着いたのは午後11時を回っていたのだった。
「だらだらになって消防士の人が最後のバスですと家々を急ぎ足で回って歩いていたので、私は傘を取りに引き返す間も
なくだらだらになってバスに乗って宮城県の避難所に行ったのさ。」
仮設で一緒に支援物資を配付した20才の女の子が車の中で話してくれた。
そうだった。
その日、桜井市長が全市民に退避命令を出したのだったのか、それとも、7万5千人の市民のうち2千人位を残して全員が市役所で
チャーターした大型バスだけでなく自家用車で6号線はまるで米国映画のように溢れかえっていた写真が市長室の壁に何枚も
掛けられていた。
そうだった。
その日、浦和料金所のゲートは開放されていたのだった。
その日から市長は何処で指揮を取っていたのだろう。
無人の町と化した南相馬市の映像をYoutubeで見て、人々が何から逃げようとしたのかを思い出している。
そうして8ヶ月が経過して、4万5千人の市民が帰って来ている。
何故かその日以来、姿を消していたすずめや鴉も最近になって帰って来たという。
避難所
陸上競技場「体育館」事務室にて
月下さんと
(了)