以下はフィールドワーク当日の見学会前に行った日吉台地下壕についての学習会レジメである。(日吉台地下壕保存の会発行のパンフレットを参考に作成した。)
1.日吉台地下壕とは
「本土決戦」準備
1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北と、7月のサイパン陥落で、絶対国防圏が崩壊すると、本土決戦を想定した準備が開始された。
本土決戦とは、全国土、全国民を犠牲にしてでも「天皇制」を守るため、国体護持のための大本営方針であり、敗戦の日まで「一億玉砕」を合言葉に本土決戦の準備が進められた。
旧海軍の連合艦隊司令部が太平洋戦争末期にその本拠地としたところ
従来の慣わしでは、海上艦隊内の先頭艦上で指揮をとるべき連合艦隊司令部が、主要な艦隊を失いながらも戦争を継続し、本土決戦に備えるため陸上に上がった。そこが日吉である。
日吉は次の条件にあう場所として選定された
イ)大本営(東京)に近く横須賀軍港に近い
ロ)各海域からの無線の受信状態が良い
ハ)空襲を避けるための地下施設が掘りやすい
ニ)陸上の堅牢な建物が利用できる
これに最適な場所として慶応義塾大学日吉の寄宿舎が選ばれ、その近ぼう周辺に地下施設が建設された。この地下施設の跡が、日吉台地下壕である。
連合艦隊司令部以外にも、海軍中枢部が戦争末期に集中した
海軍総隊司令部、人事局、経理局、航空本部、海軍軍令部第3部(情報部)等日吉と同じく本土決戦に備え突貫工事で建設が進められた、長野の巨大な地下壕松代大本営跡と違い、実際に1年ほど連合艦隊司令部等として機能したもので、その完成度は日吉台の方が高い。
日吉台地下壕のある場所
東横線日吉駅の東側の慶応義塾大学キャンパス内に3ヵ所、西側の慶応義塾普通部の南側に1ヵ所、日吉駅西2キロほど奥まったところ(蟹ヶ谷)に1ヵ所の計5ヵ所
日吉台地下壕の規模
慶応キャンパス内で延べ2.6キロの長さ
普通部の南側のものは、1ヵ所で約2キロの長さ。蟹ヶ谷は数百メートルの長さ
各壕の概要
慶応キャンパス内で最大の地下壕
西側の@ーAの部分は、先に建設され、日吉台地下壕の中で最も重要で完備した施設であった。
連合艦隊司令部と後に新設された海軍総隊司令部が入っていた。
東側の@ーBの部分は後に建設され、軍令部第3部(情報部)と航空本部が入っていた。現在新幹線がこの上を走っている。
地図のAの地下壕
キャンパス内で最初に掘られたもので、規模は最も小さい。当時、校舎内で任務に就いていた海軍の人達の防空壕であった。
地図のBの地下壕
中心に広い地下室があり、そこから6本の地下道が放射状に延びた構造をしている。海軍省の人事局が入っていた。
地図のCの地下壕
東西方向に真直ぐに10本掘られ、南北にアミダくじの様にトンネルで結ばれている。北の方の4本はコンクリートや大谷石で完成させられているが、残りはほとんど素掘りの状態である。
1945年8月15日に海軍省の艦政本部が入る予定であったが、敗戦の日になり、結局、使用されなかった。
蟹ヶ谷の地下壕
1944年の春から秋の半年間で完成。この地域で最初の地下施設であった。海軍の重要な受信専門の通信施設として使用された。
突貫工事
三交替の昼夜兼行で敗戦の日まで工事は続行されていた。基本的に人間の手でツルハシでほり、時々発破をかけて、掘り出した土砂はモッコやトロッコで外に運ぶという作業が休み無く続けられた。
1944年7月頃から:第三○○設営隊がAの地下壕を建設しはじめ、ついで、大工・左官出身の兵隊の多い1500名からなる第三○一○設営隊が@の壕を30メートルの丘の麓から堀始めた。9月にはすでに、@ーAの壕はほぼ完成していた。
1944年10月頃 :最初に地下壕を掘った第三○○設営隊は移動し、代わりに東京施設事務所編成の柳瀬隊が中心となって、民間の建設業者である鉄道工業M、三木組等を協力作業員として約2000人が駐屯した。2000人の内、700人位の朝鮮人がいたといわれている。
1945年2月頃 :@の壕が完成
1945年5月頃 :Bの壕が完成
1945年8月(敗戦の日):Cの壕が完成
強制連行朝鮮人の動員
柳瀬隊の700人の朝鮮人はほとんどが強制連行により連れて来られたひとびとであったと推察されている。(工事計画書や人員配分表等の記録はすべて敗戦時の焼却命令によって焼失。まったく記録が残っていない。)Bの地下壕などは、地下水が出やすく落盤もあって、困難を極めたが、出水の激しい危険な最先端は常に、朝鮮人労働者が投入されていた。待遇は悪く、十分な食事も与えられなかった。近所の農家や軍の炊事場によく残飯をもらいに朝鮮人が来ていたという。
周辺農家の土地の強制収容
日吉台の丘の麓に住んでいた農家の土地を取り上げ、家は強制的に移動させられた。壕を掘って出た土砂等は周辺の田畑に捨てられ、田畑は埋没し収穫は無くなった。
軍事秘密
この殺人的突貫工事は、すべて軍事秘密として行われたため、地元日吉の住民や日吉にいた海軍内部の人でさえ知らなかった。
4、海軍は日吉で何をしていたか
主なものは以下のものであった。
連合艦隊司令部
44年の9月に、旗艦「大淀」から司令長官の海軍大将以下幕僚、兵士など約500人が移ってきた。連合艦隊司令部の上陸先に、慶応学生の寄宿舎が選ばれたのである。
司令部の任務は一言でいって、作戦会議であった。空襲の無い時は、この寄宿舎が連合艦隊司令部の拠点であった。空襲の際には壕から寄宿舎まで伸びた階段を下り、@ーAの壕に入った。階段を下りればすぐそこは、作戦室、通信室、暗号室であった。44年10月のレイテ沖決戦命令、45年4月の戦艦大和の沖縄特攻作戦出撃命令はここから出された。
海軍軍令部第三部(情報部)
連合艦隊司令部より前の44年2月に高校校舎に移ってきた。任務は情報収集と諜報で、作戦の基礎作りをしていた。
45年の初めに、@ーBの地下壕に移った。
海軍省人事局
情報部が地下に移るとともに高校校舎に移ってきた。200余名で部隊編成の人の割り振りをしていた。地下壕Bが出来るとそこに移動。
海軍省経理局
人事局とともに高校校舎に移動してきた。約250名で、艦隊経費、物品会計等の仕事をした。空襲になると地下壕Aに飛び込んだ。
海軍航空本部第一部(補給部)
45年5月、東京の空襲で焼け出され移ってきた。飛行機の部品の調達・配分を任務とした。@ーBの地下壕の東側を仕事場とした。
以下では、当日の様子をいくつかの写真を通じて報告する。
午前中は、上記のレジメをベースにした日吉台地下壕の基礎知識と、ビデオで戦争遺跡の保存運動の意義を学習した。朝10時半からという早めの集合時間にもかかわらず、20名以上の参加で、「朝鮮人強制連行の実態はどうだったのか」「当時の学生はどうしていたのか」等の質問が多数出て、盛況だった。
慶応キャンパスに入っていくと、大きなグラウンドが右手にある。この前で、全員の自己紹介をしてから見学会が始まった。このグラウンドは慶応学生が学徒出陣の際に壮行会を行った場所であり、学生を追い出した後、海軍がここを接収していくことになる歴史が紹介された。
キャンパスを少し奥まで進んで、白塗りの堅牢な建物(現在の慶応高校校舎)の前まできた。1934年に建てられたと言う事であるが、現在から見ても極めて立派な建物で、頑丈そうである。実はこの建物に、海軍が最初に入って来たのだそうだ。その前には大東亜共栄圏、八紘一宇を示す記念碑のようなものが残っている。下の写真は白い校舎の壁に残る校舎が完成した年を示す石板である。1934年という西暦で示すと共に、2594年という皇紀による標記がされて今でものこっている。
侵略戦争の指導者たちの執念と狂気を語る
日吉台地下壕と松代大本営とは、同じ地下壕といっても質的にだいぶ違っていた。松代大本営のごつごつした岩肌は、そこに強制連行された朝鮮人たちの強制連行のすさまじさを無言で語っていた。それに対して日吉台地下壕は完全コンクリートで岩肌が覆われており、「強制連行」のすさまじさを想像するのは容易ではないと思った。しかし、この完成された「地下施設」は、当時の日本の土木建築の最高技術の結集であり、侵略戦争の指導者たちの執念と狂気をより多く語っていた。また、ここで戦争を「命令」した戦争指導者たちの生活と地上で一般民衆が体験した「戦争」とのあまりのギャップが戦争の醜さや惨たらしさを体現していると思った。特に同じ大学生として、海軍が入ってきたために大学に最後まで通うことができなかったばかりか、学徒出陣で戦地に文字通り追っ払われた学生たちを想像して悔しく思った。
このような貴重な戦跡が、こんなに身近に、ほとんど無名の状態で放置されてしまっているのは本当に惜しい。ここは、広島の原爆ドームに匹敵するくらいの歴史的な価値がある。松代大本営はそのままの状態を保って、当時の過酷な強制労働の実体を伝えることができるのに対して、日吉台地下壕は当時の部屋割りや電子機器や配線やトイレなどを再現し、沖縄戦や東京大空襲や「原爆」や「アジア侵略」などと比較することで、当時の為政者たちの掲げた理想がいかなるもののだったのかを示すことができると思う。将来的にこの地下壕が一般見学可能な戦跡として、だれもが中に入って当時の戦争の実相を肌で触れることができるようになればと思う。TK
戦争遺跡を実際に見て学ぶことの重要さを感じた
地下壕のほぼ上にあたる場所にある慶応高校の校舎は1934年(昭和9年)に完成したとの説明を受けた。建物は頑丈で現在も使用されていたのには驚いた。一見、見過ごしそうな建物の壁に完成年が西暦と皇紀で併記されていたこと、それがいまでもそのまま残っていることも驚きであった。また入り口の前にあった飾りも、よくみると日本を中心としたアジア・太平洋の地図が描かれており、当時の「八紘一宇」を示すものとの説明で意味がやっとわかった。
地下壕は、この場所が小高い丘となっており、その地形を利用して作られていた。事前の説明での地図からはこのことは理解できず、現地に来てやっとわかった。やはり、実際に見学するということの重要さを感じた。
地下壕はトンネルとしては完成されたものであり、実際に1年近くは使用されていたということであった。当時はどのような使われ方をしていたのか、机や機械、照明の配置、ケーブル類の引き込みなど想像するしかないのだが、自分の頭ではなかなか描けない。無線の傍受や交信をしていたということだったが、アンテナをどこにどのように張っていたのかなど、トンネルをみているだけではわからないことも多い。これ以上のことは当時の生活、モノ、技術などについての知識が必要とされるのであろう。MT
「特攻作戦」を司令した緊迫した雰囲気が伝わってきた
実際に見学してみて、その史跡としての重要さに驚かされた。実際に使われていたこともあって、特に作戦室や通信室は緊迫した雰囲気を十分伝えてくる。松代大本営跡を一昨年前に見学したが、それと比較するといろいろな意味で対照的であり、そして松代大本営と同じくらい重要でインパクトを与える史跡であることが良く分かった。
松代大本営は大本営、陸軍、政府、官庁、天皇が入るために作られた施設であり、完成直前の姿であった。掘り出したままの剥き出しの地下壕内は、朝鮮人を含む強制労働の生々しさと、そこまでして本土決戦をやろうと考えた「狂気」を感じさせた。日吉地下壕は陸軍よりも先に主要な戦力を失い「特攻作戦」に入った海軍の施設であり、そして実際に一年ほど使われた。その追い詰められながら、兵士や民衆を無駄死にさせてゆく冷酷な命令を出しつづけた「非情さ」を感じさせた。
このような日本の戦争史跡のなかでも屈指の史跡が、まだあまり知られず、十分な保存体制もとられていない。極めて近くにすむ人間として、保存とそしてこの場所を平和教育の場として活用していく活動をやっていくことの重要性を考えさせられた。AO
戦争遺跡が消え行く危機感を感じた
一見普通の街並に見える日吉の住宅街のなかに、旧海軍の極秘地下施設は今も密やかに眠っていた。地下壕に潜り、55年も前にタイムスリップして戦争を追体験したかと思ったら、出てきたとたんに何事もなかったように一見平和に営まれている現在の市民生活がそこにある。地下壕の存在や今見てきた過ちの歴史を無視するかのように、穏やかな風情が感じられるくらいだ。当時海軍が接収して使用した校舎の前や、学徒出陣の壮行式が行われたグラウンドの前を、ちょうど卒業式だったのだろうか、学生たちがにこやかに往来していた。
それ程までに、私たちの生活に身近な場所に戦争遺跡があるものなのだということを思い知らされると伴に、早く何とかしなければ、平和への教訓に満ちた戦争遺跡が本当に埋没して忘れ去られてしまうのではないかという危機感を感じた。あとで知ったことだが、あの原爆ドームですら、その永久保存と世界遺産への登録は、未来への教訓を追求した運動の多大な労苦の成果であったという。
日吉台地下壕についても10年以上にわたる保存の会の方々の保存運動があることを聞き、そういうことを知らなかったことが恥ずかしくも感じられたし、自分は何が出来るのかを考えさせられた。この戦争遺跡の存在と保存の意義を、自分の身の回りの人々から一人でも多くの市民に知ってもらえるように努力していきたい。TS
本気で本土決戦を狙っていたのかと実感
沖縄のガマや松代大本営地下壕とは違って、全く地下シェルターそのもので大変驚きました。日本の天皇や軍部は本気で本土決戦を狙っていたのだと実感しました。自分たちが生き残るためにはどんなことでもするという姿が見えました。私の住んでいる大阪府南部(泉州地域)でも多くの朝鮮人達が強制連行されたと聞いています。その実態も明らかにしていきたいと思います。KB
去る3月25日にピース・ニュースでは、フィールドワークの第3弾として、旧海軍の極秘地下施設跡である「日吉台地下壕」の見学会を行った。
横浜市の港北区日吉台の慶応義塾大学日吉キャンパスは、旧帝国海軍の中枢が太平洋戦争末期にその本拠地としたところであるということを御存じであろうか?従来、海上艦隊内の先頭艦上で指揮を取るべき連合艦隊司令部が、主要な艦船を失いながらなお、「国体護持」を目的に「本土決戦」に備えた作戦を指揮するために陸上に上がった。そこが日吉台である。そこには空襲を避けながら活動を続けるための巨大な秘密の地下施設が築かれ、約1年実際に機能した。それが、今も残る「日吉台地下壕」である。そこから戦艦「大和」の出撃命令等、特攻作戦の指示が出されている。
今回の企画は、「日吉台地下壕の保存をすすめる会」の温かい御好意によって成功させることが出来た。午前中は、地下壕見学に先立って、日吉台の戦争遺跡についての簡単な学習をし基礎知識を得た上で、午後に慶応キャンパス内を通って地下壕まで見学した。一通り案内していただくともう夕方で、日吉の戦争遺跡の大きさと内容の深さを体で感じる事が出来た。これほど身近な場所に、これほど重要で巨大な戦争遺跡があったのかと、一同、本当に驚かされることになった。また、わたしたち自身が、戦争遺跡を保存する運動にいかに加わっていかなければならないかを考えさせられることになった。「日吉台地下壕の保存をすすめる会」の方々の御協力には誠に感謝の気持であ
る。
世界遺産に登録された原爆ドームは皆さん御存じであろう。広島・長崎を壊滅させ、現在もなお被害を引きずっている被爆の実態の一端を今に無言のまま語り伝え、未来における世界の平和と核兵器の廃絶を望む人々の願いと誓のシンボルとして認知され存在している。
日吉台の地下壕もまた、地上の慶応義塾の建物と合わせて、日本が犯した過ちについて、静かにしかしダイナミックに知らせてくれる戦争遺跡のひとつである。今も密やかに現存するこの地下壕の史実を調べ保存することは、戦争の真実を正しく伝えていくためにも、ふたたび戦争の惨禍を繰り返さないという誓の場とするためにも、とても意義のある取り組みである。
戦争遺跡とは、近代日本の侵略戦争の遂行過程で戦闘や事件の加害・被害・反戦反差別抵抗に関わって国内外で形成され、かつ現在に残された構造物・遺構や跡地のことである。戦争遺跡は、近代の日本の戦争がどのように準備され、国民はどのように駆り出され、どのように戦い、その過程でアジア太平洋地域の人々をいかに苦しめたか、そして結局は日本人もいかに苦しむことになったかを具体的に知らせてくれる。そして、それを研究することで、戦争の真実をより一層詳しく且つ具体的に理解することが出来る。戦後半世紀以上の時がたち、実際の戦争被害者や体験者がすでに世を去り、あるいは高齢に達して著しく減少している現在、戦争遺跡は、戦争の真実を正しく広く後世に伝えていくための有効な手段となるのである。
一方、戦後半世紀以上を経てしまったことが、戦争遺跡の当時の事情を知っていて語ってくれる人を減少させてしまったことや、遺跡そのものが朽ち果てようとしていること、戦争遺跡の多くが秘密裏に作られ使用されたために、その記録が未公表のままであったり、戦争犯罪を隠蔽するために故意に廃棄されてしまっていることが、戦争遺跡の研究解明作業や保存運動を困難なものにしてしまっている。
国会に憲法調査会が設置され平和憲法を否定する改憲が狙われ、ガイドライン法・「日の丸・君が代」法が成立して、今度は有事法制整備が公然と狙われている今こそ、20世紀の戦争の真実を忘れ去ること無く、平和な未来を築くための礎とするために、戦争遺跡を保存する運動の意義が高まっていると言えるのである。