フィールドワーク報告

 撫順
「中国東北部・平和と交流の旅」に参加して(その5)


 
 「その1」 「その2」 「その3」 「その4」に引き続き「中国東北部・平和と交流の旅」をレポートする。

 撫順は瀋陽の東隣の市である。

 撫順炭鉱は今も掘り進められていた。東西8km南北4km深さ350mの谷ができていた。谷底に向かってラセン形に線路が走っている。底で採炭中の車両は本当に豆粒のようだ。粉塵もあるので底まで見える日は少ないそうだ。

 戦前の日本はここから奪いとった石炭で国力を増強させた。今は中国の生産力発展に貢献している。


撫順炭鉱

 この街には撫順戦犯管理所があった。

 太平洋戦争末期1945年8月、ソ連参戦の報に関東軍上層部はいち早く帰国し、武器も指揮系統も不十分なまま取り残された兵士たちは武装解除されシベリアへと送られた。

 日本の敗戦後、国共内戦を経て中華人民共和国が成立し、中国で戦争犯罪を犯した者969名は再び中国に戻された。彼らの多くは撫順戦犯管理所に監禁され自らの罪を自省する機会を与えられた。その結果多くは起訴免除となり、裁判を行われた者は45名にすぎず彼らも次々と釈放され無事帰国した。ここにはまた、元皇帝溥儀をはじめ「満州国」の支配者たちも監禁されていた。映画「ラストエンペラー」の一場面を思い起こす。

 来春リニューアルを目指して工事中だったので陳列品は見られなかったが、取り壊し前の建物の中には入れてもらえた。スチーム暖房やお風呂、日本式庭園、舞台など当時の中国人民の暮らしより優遇された施設が残っていた。

 ほとんどの中国人職員は日本鬼子(日中戦争中、中国人は日本人を憎みこのように称した)に対する寛大すぎる扱いに抗議したという。しかし周恩来の「人道主義に基づく学習が鬼を人に変える。この人々が日中友好の礎になる」と押し切った。帰国した日本人の多くは赤化教育を受けたという、根拠の無い非難にもめげず、それぞれの方法で平和のために尽くしている。

 戦争犯罪を裁く方法としてはすばらしい成果だと思う。




戦犯管理所


日本式庭園


謝罪の碑
Y.A
その6に続く