フィールドワーク報告 |
遺棄毒ガス兵器事故被害者証言 「中国東北部・平和と交流の旅」に参加して(その3) |
「その1」 「その2」 に引き続き「中国東北部・平和と交流の旅」をレポートする。 |
|
日本は1944年までに広島県大久野島(注1)で約6616tの毒ガスを生産し、その半分を兵器としてアジア(主に中国)に運び実戦でも使用していた。当時、すでに毒ガス兵器の使用は国際法で禁止されていたため、敗戦前後に残っていた毒ガス兵器は湖沼に捨てられ地中に埋められるなどして証拠隠滅がはかられた。その数は日本政府の推定でも30〜40万発、中国側では200万発という。 |
|
(注1) 1929年から1945年まで陸軍工廠がおかれ1944年まで毒ガスが製造されていた。島では今も地下水が使えず、1996年から1999年にかけて砒素で汚染された土壌が見つかり除去された。沖縄平和ネットワーク首都圏の会では昨年秋この島を訪れ、毒ガス島歴史研究所の山内さんにガイドしていただいた。報告記はこちらから。 |
|
1997年化学兵器禁止条約発効により日本はこれらの兵器の処理を始めた。90%は吉林省敦化市ハルバ嶺にある。ここには戦時中日本軍が駐屯し、多くの毒ガス兵器が隠匿された。さらに戦後各地で事故が頻発したため、発見された遺棄兵器を中国政府がこの地に集積した。しかし廃棄場所の多くは不明なままなので、今も工事現場や畑からガス弾が発見され被害が続いている。戦後の被害者は2000名以上といわれる。 |
|
これまでの発掘・回収事業分布図(回収済みのものは38000発) 内閣府 遺棄化学兵器処理担当室HPより |
|
李国強さんは1987年チチハルで被害を受けた。今回お話しを聞けたので簡単に紹介したい。 李さんのお話 「当時は工場の労災担当医師として働いていた。工事現場で掘り出された缶の中身を調べていて毒ガスを吸い込んだ。咳や高熱が続き33日間入院、その後も免疫がおち、呼吸困難で階段を上るのも苦しいし夜も眠れない。原因はイペリット中毒と診断された。一緒に被害にあった人は亡くなった。十分働くことができず早期退職したが、医療費もかかり経済的にも苦しい。 私は医師として充実した生活を送っていた。それが逆の立場になってしまった。生活を壊したのは戦争で残された毒ガス弾である。日本政府は謝罪し医療費など補償してほしい。」 |
|
李国強さん(中央)。右は妻の王雅珍さん、左は通訳をされた黒竜江省社会科学院の志剛さん |
|
李さんらは日本政府相手に裁判を起こしていたが、今年5月最高裁が上告棄却し敗訴となった。高裁判決では敗訴だったので上告していた。最高裁の判決は遺棄毒ガスによる被害の事実については認めながらも、日本政府の補償責任は免除するという極めて矛盾した内容だった。 同じく遺棄毒ガス被害で日本政府を相手に訴訟を起こしていた李臣さんは裁判で来日した際、民主党の鳩山氏に会い中国遺棄毒ガス被害者の補償に関する前向きな意見を聞いたそうだ。そのことを李臣さんから聞いた李国強さんは政権交替に期待していた(この旅行は2009.8.30総選挙前)。李国強さんの願いをこれ以上裏切らせないように新政権に訴えなければと思う。 半世紀以上が過ぎてもまだ犠牲者を生み続けている戦争。知れば知るほど残酷さにたじろいでしまう。その後も世界中で撒き散らされ続けている化学兵器や劣化ウランの被害はどうなっていくのだろうか。想像したくない。 |
|
Y.A その4に続く |