フィールドワーク報告

 七三一部隊遺址(遺跡)
「中国東北部・平和と交流の旅」に参加して(その2)


 
 沖縄平和ネットワーク首都圏の会(注1)主催の「中国東北部・平和と交流の旅」に参加し、瀋陽・撫順・ハルピンを回ってきた。
 今回は「その1」に続いてハルピンの731部隊遺跡を紹介する。
(注1) 沖縄平和ネットワーク首都圏の会 http://www.okinawaheiwa.net/metro/  「沖縄平和ネットワーク」は学習活動を基本に、修学旅行などの平和ガイド、戦争遺跡の保存・活用運動に取り組んできた市民グループ。沖縄に関する学習会や戦跡・米軍基地などのフィールドワークを行っている。

 ハルピン駅前から一時間近くバスにのり七三一部隊遺址(遺跡)に到着する。今では周囲はすっかり市街地となりすぐ近くにビルや学校が建てられている。

 一歩門をくぐると先ずその広さに驚いた。当時の広さは6ku、飛行場まであったそうだ。記念館として資料が展示されている建物は本部として使われていたものだ。主要な実験棟や「マルタ」(実験材料とされた人々)の収容所などはほとんど、1945年8月9日から13,14日にかけて部隊の兵士たちにより破壊された。ソ連軍や中国人に所業を知られることをどれほどに恐れていたかがわかる。2000年から発掘・調査も行われ事実をより広く伝えるための施設となっている。



記念館(731部隊の本部だったところ)

 研究員として滞在されている広島のNさんがガイドしてくださった。
 七三一部隊の行った罪は以下の2点である。

 1、 細菌戦を研究・製造し、実際に戦闘で使用した。これは国際法─ジュネーブ協定に違反する。

 2、 生きた人間を実験に用いた。これは人道に反する。

 少なくとも幹部達は自分たちの行為がこの二つの罪に値することを自覚していた。

 記念館では隊の歴史や当時の写真とともに、跡地から発掘された悪魔達の道具も展示されていた。「実験」の様子もジオラマで再現されている。人形のうめき声が聞こえるようだ。


生体実験ジオラマ(細菌を注射しているところ)


生体実験ジオラマ(凍傷実験)
 
 足枷や水責めの道具、解剖した臓器を吊るした用具まであった。細菌戦の研究ばかりでなく、狂った好奇心のおもむくままにさまざまな生体実験が繰り返された。そこで成果を挙げた幹部達が戦後も裁かれることなく名誉ある地位についたという現実が、今の日本があの戦争をどう考えているかを示している。撫順で裁かれたのは元少年兵などごく一部だった。



足かせ


内臓をつるした道具

 最後のコーナーには日本で催された七三一部隊展のパネルなどが展示されていた。日本にも良心を持っている人間がいることを、ここを訪れた中国人や他の国の人々に伝えられていることに感謝した。

 記念館をでて敷地を回る。ネズミや昆虫の飼育室、冷凍実験棟、ボイラー塔等が一部残っていたり、復元されたりしている。歩き回って感じるのはやはり広さだった。レンガを敷き詰めた建物の土台部分があちこち掘り起こされている。夏の日差しがまぶしかった。


731部隊建物の跡地


復元された実験棟

 館ではこの場をアウシュビッツや原爆ドームに続いて世界遺産にしようとしている。戦争の惨禍を広く後世に伝えるためにもぜひ実現してほしい。


ボイラー棟

地下実験室入り口

  1946年8月、部隊址付近の3つの村でペストが発生し20日間で107人が亡くなった。これは部隊が逃げるさいに、ペスト菌を植え付けられたネズミやノミを放ったためだという。この時の被害の証言をお聞きした。

 趙さんは74歳、当時10歳だった。村では37人が死亡し、趙さんの姉も発疹ができて2時間で亡くなった。「政府の防疫斑が治療に来てからは何事もなかった。日本軍が占領していた頃は近づけないし、何が行われていたのかはわからなかった。みんな兵隊達を恐れていた。今となっては日中友好だが、日本軍の犯罪行為を日本は認めるべきである。」と話された。

 何を要求するかとの問いかけに、日本政府が事実を認めて謝ってほしいだけと答えられた。「賠償は?」との重ねての質問にも「お金でなく謝罪だけ」と言い切られた。


「日本は犯罪行為を認め謝罪すべきた」とお話してくれた趙さん

 七三一部隊の所業は東京裁判でも不問とされ、成果をアメリカに売り渡した石井隊長は天寿を全うした。アメリカはその成果を朝鮮戦争やベトナム戦争で利用したと言われている。その後も世界のあちらこちらで細菌兵器・化学兵器が使われ被害はとどまるところがない。戦争責任の重大さを思う。

Y.A
その3に続く