相模海軍工廠とは
まず,相模海軍工廠(「工廠」とは「陸海軍に直属した工場」を指す)を簡単に紹介しておきたい.これは神奈川県寒川町一ノ宮にあった旧日本海軍の施設である。1943年5月に開廠された。主に化学兵器や火工兵器の研究開発,製造が行われた。士官,常用工,徴用工員,女子挺身隊員,勤労動員学徒などが従事し,多いときには3500人余りがいたといわれている。また,この中には朝鮮人労働者も含まれていた。彼らは毒ガス製造に工員として来ていたとの証言は多数あるが,どのような経緯で来ていたのかは不明のままである。
研究,製造していた化学兵器の中でも特に紹介したいのは,イペリットである.これは皮膚や粘膜をただれさせる性質を持ち,吸入すると気管支や肺に大きな影響を与える.砲弾に詰め爆破させ液体や蒸気を拡散させて使用する.相模海軍工廠で製造された量は約500トン,砲弾数にして約4万3000発程度とされている.これらは使用されることはなかった。しかし,それがどのように処分されたのか詳細は未だ不明である。 |
八角公園の石碑−毒ガス工場のことは何も触れられていない |
※毒ガスで有名な広島県大久野島との違い
大久野島(1929年開所)の場合は,陸軍が中国戦線で攻撃用兵器として毒ガスを使用するために製造することを目的としていた。関係者は約6600人の規模。
寒川の場合は,どちらかといえば毒ガスの研究,開発を目的としていた。海軍は毒ガスを攻撃用というよりは防御用に製造するという認識が強かったようだ(しかし,製造後の行方は必ずしも明らかにはなっていない)。また,相模海軍工廠で作っていた主要で最も注力していたものは防毒マスクだったことも特徴的である.関係者の数は半分の3500人程度(研究部門は100名弱とされる)。
フィールドワーク
JR寒川駅から八角広場まで歩いた.所要時間は約30分程度である.その途中に,相模線寒川支線の線路が残っている.この路線は,相模川でとれた良質な砂利を東京や横浜へ運ぶことを主な目的として,1922年に貨物専用線として,寒川〜四之宮(後の西寒川,現在の八角広場)が敷かれた.その後,1942年に相模海軍工廠が出来てから旅客化も図られた.
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今も残る相模線寒川支線の跡 |
八角広場には,記念碑が置かれてあり,事実上相模海軍工廠があったと思わせるのはこれだけである。
また,今回は見学することが出来なかったが,朝鮮人労働者が掘った穴(現在の岡田付近)が残っているそうである。そこには相模工廠の総務課が移った。
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フィールドワークには阿部知子衆議院議員(社民党)も飛び入りで参加。
カメラの操作不手際により「ピンぼけ」ですご容赦(以下の写真全て)。
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<参考文献>
寒川町史編集委員会 [1993]『寒川町史研究』第6号
―― [1995]『寒川町史研究』第8号
―― [1995]『寒川町史研究』第10号
―― [1995]『寒川町史研究』第12号 他 |
矢口仁也氏の講演
「相模海軍工廠(海軍毒ガス工場)と731部隊」
「ABC企画委員会」、「731部隊遺跡世界遺産登録を目指す連絡会」の矢口仁也氏を招き、相模海軍工廠跡の案内と講演をして頂いた。
氏のこれまでの活動や現在の闘いの全てをわずか1時間の講演で学ぼうというのは、そもそも無謀なのであるが、それを承知で「相模海軍工廠(海軍毒ガス工場)と731部隊」と題してお話をして頂いた。
矢口氏がまず強調されていたのは、過去の戦争についての加害者としての責任、「加害者意識」での過去の歴史の掘り起こしとそれを子供たちに伝えることであった。そのうえで、日本の毒ガス生産の歴史とその被害――それは現在にも及ぶことを具体例を上げながら紹介して頂いた。
以下に、当日の講演内容の一部を紹介する。
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熱心に語られる矢口仁也氏 |
過去の戦争の掘り起こし、「加害者意識」でやっている!
戦争体験
「1943年12月に学徒動員で召集された。いきなり南方要因として船に乗せられた。敵の潜水艦に追われることはどういうわけか少なかったが、体の弱い仲間は、船の中で死んでしまった。その死体を棺桶に入れてドス黒いバレー海峡に捨てていった光景がついこの間のことのように思い出される。甲種幹部候補生ということで日本に返され、予備士官学校を卒業するわけだけれども、どういうわけか教官として予備士官学校に残されたためにいま命があるわけである。多くの個性豊かな優秀な仲間は、南方戦線に送られおそらく半数以上逝ってしまったと思われる。」
戦後の再出発
「私が帰ってきて大学を卒業し、高校の教師として出発したわけだが、私自身が犠牲者である被害者であるという意識が強かった。当時、あるいはその後もずっとその意識が続くが、こういう状態に追い込んだのは一体何なのかということが問題だった。最終的には天皇制の問題にいきつく、天皇あるいは天皇制とは一体何なのかを究明していくことが必要だということがわたしのテーマだった。しかし、当時の日本はなかなかそういうことにはならなかった。そこで、デモクラシーの徹底ということになるが、そのなかで、戦争というのは何なのか何のためにあの戦争は起きたのか、そういったことの事実をきちっと子供たちに教えていく必要があると考え40年間そういう生活をしてきた。しかし、被害者意識から天皇制の加害を問題には出来たが、侵略戦争をしたということは頭ではわかっていても自分が戦争に参加した加害者であるという意識を持つことはなかなか出来なかった。」
自分で確めた加害の事実
「いまは『加害者意識』が私の中心にある。そういうことをはっきりと意識できるようになったのは1980年代になってからだった。朝鮮・中国・フィリピン人など性奴隷として虐待された従軍慰安婦の事実は知らなかったし、軍の前線でなにが起きていたかを具体的に知らないでいた。納得出来なかったので、退職してからずうっと歩いて確めた。韓国、中国、ベトナム、フィリピン、マレーシア、シンガポールに行ってきた。現地に行くたびに現地人が怒り、恨み、そして悲しみを持って訴える姿に日本軍の犯した侵略戦争の実感が深く理解された。そして、自分がその軍隊の一員であったことを自覚するようになった。今の私の最大の課題であるのは、(日本の侵略戦争の)アジアの被害者の気持ちに私たちが達することが出来るのか、本当に理解することが出来るのかということである。」
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731部隊遺跡を世界遺産に!
「私が一人で歩いているうちに、731部隊展、毒ガス展(いまのABC企画)という組織にたまたま共鳴して入ることが出来て特に731舞台について一緒に勉強している。現地ハルビン平房地区に行ってみてはじめて731部隊(石井四郎部隊)の細菌線の実態がわかってきた。年に2回は行って、今、731豚の実態を広く世界に明らかにすることにより、2度と戦争を起こしてはならないという教育の原点として世界遺産にしていこうという運動を中国の皆さんと一緒になってやるというところまで来ている。」
日本の毒ガス弾の歴史。日本が作った毒ガス弾で中国では今でもしばしば人々が死んでいる!
「日本の毒ガス生産開始を決定したのは1919年。生産を開始したのは1929年である(陸軍、大久野島)。どのくらいの量をつくったかというと6616トン。相模海軍工廠は寒川村に設けられ1943年5月から生産を開始、44年までの生産で760トン。全体の1/9の規模である。大方のものは陸軍の大久野島のもので、中国で使われたのは、大久野島のものであった。ただ相模海軍工廠の特徴は、イペリット毒ガスの液体を製造(第1工場)するだけでなく同じ場所(第2工場)で爆弾につめた。これが大変だった。この工場で働いていたものは、2ヶ月から3ヶ月もすると体の調子が悪くなる。液体を爆弾につめているときに毒ガスの液体が手にかかると骨までやられてしまい、肺に吸い込めば声が出なくなる、せき・たんがで遂には内臓が侵され死に至る。いまでもせきが止まらないで年に2度位緊急に入院するという生活。(相模海軍工廠の主に生産した毒ガスはイペリット(タダレ剤)であった。)」
「ただ、相模海軍工廠の毒ガス弾は使用はされなかった。つくられたものは横須賀に運ばれた。このとき使われたのが、いまも一部残る、相模線の引込み線である。その後空爆が激しくなると毒ガス弾は横須賀から日本の方々に疎開させられた(舞鶴、大湊)。そしてその後これらの毒ガス弾がどのように処理されたかが問題なのである。毒ガス弾は国際法違反であるから、秘密裏に証拠を隠滅させられた。朝鮮人徴用工に壕を掘らせ埋めた(寒川の岡田)とも言われている。これらの発掘は進んでいない。防衛庁に問い合わせても一切資料を出さない。相模海軍工廠の毒ガス工場の存在自体政府が認めたのはアメリカの資料によりつい3年前のことである。」
「今、化学兵器の禁止条約が発効して、日本が中国で使用した毒ガス弾について、日本と中国の間で1997年に10年かけて一切の処理をしようということで話がまとまって進めているわけであるが、あと10年かけても処理しきれるかわからない状況である。日本政府の発表で70万発、中国発表では200万発の毒ガス弾が東北中国を中心にいまだに眠っているのだ。」
「今年の6月1日にも2人の小学生が爆弾の破裂で即死している。」「ハルバレイには処置した毒ガス弾がドラム缶に入れられて集積されているが、何も知らない農家の人が山の中に入っていって、異様に放置されるドラム缶に触れて亡くなるという事件も発生している。敗戦時に土に埋め、川に沈めるなどして遺棄してきた毒ガス兵器・爆弾によって、戦後死傷の被害を受けた中国人は2000〜3000人と言われている。これについて日本政府は現在まで何の対策処置もしておらず過ちを再びくりかえしている。」 |
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残っていた毒ガスがどのように処分されたかわかっていない!
日本でも方々で毒ガス弾は捨てられた。しかし、政府は調査したが積極的対策はなんらしていない!
日本でも戦後に毒ガス被害は発生している!
「1945年から46年に米軍が銚子の漁師をつかって銚子沖へ捨てた。その時の船が621隻、72000トンの爆発物とガス弾が投棄された。この中に相模海軍工廠の毒ガスが含まれていたという。これが発覚したのは、1957年に底引網漁で引っ掛かって出てきたからである。このとき漁師が被災している。翌年にも同様の事故があり死者が出ている。これには、政府も慌てて補償をした。」
「しかし、それ以外にも、屈斜路湖、相模灘、陸奥湾、遠州灘、大久野島付近、土佐沖、別府湾、周防灘に投棄されたと言われている。政府にどうなっているんだと問い詰めてもよく調べていない。米軍にしても、日本政府にしてもこれらの毒ガス弾が何処でどのようにして処理されたか一切明らかにしていない。このことは、どこで、いつどういう被害が発生するかわからないということを意味している。中国の場合もそうだが、これは戦中の問題ではない。今の問題なのである。現に神奈川でもそういった話がある。平和学園(茅ヶ崎市)というところで図書館の再構築の際に地中から、ビン詰のイペリットか青酸が30数本出てきたという。また、相模海軍工廠の跡地に入った日東化学が掘りなおしてみたらボンベが出てきてしまった。すぐに自衛隊が入って異常なしとの発表をすぐにしたが詳細は明らかにされずじまいである。」
寒川の「相模海軍工廠」の最初の被災者救済認定は、なんと戦後54年もたった3年前の話であった。
「相模海軍工廠においてイペリット毒ガス兵器生産の中心は約300名の徴用工であり、最も被害を受けた人々である。戦後、救済を政府・県に働きかけてきたが全く問題にされず、年月がたった平成9年、漸く徴用工を中心とした『旧相模海軍工廠毒ガス障害者の会』を結成し市民とともに運動をすすめた結果平成11年に救済措置が適用された。現在101名の会員、63名が救済認定されている。」
「最後に皆様にお願いしたい 。明治以後の日本の歴史、特に戦争の史的事実を正しく見つめ、アジアの国々、人々に何をやってきたかという加害者としての侵略戦争を考えてほしい。これなくして現在・将来の平和・友好を実現していくことはできないし、アジア・世界の人々から信頼されて国際交流をしていくことは不可能と思います。罪は罪として認めることによって、はじめて人間としての信頼を得、子孫のために21世紀を創っていくことのできることを強く感じ認識していただきたい。」
『前事不忘、后事之師』
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歳の話は大変失礼かとも思うが、矢口氏は、大正12年の生まれで今年79歳になるという。1日共に過ごすと、氏の反戦と日本の加害責任の思想、731部隊遺跡を世界遺産へというとてもアクティブな活動、その生き様に接することが出来て、とてもお年を感じさせない。と同時にアメリカの対イラク戦争の危機・世界戦争の危機を前にした私たちの世代の運動の、弱さとか、責任とか、といったものを感じさせられた。本講演では、矢口氏の生き方に学び、これからも粘り強く反戦・平和の運動を続けていく決意を新たにすることが出来た。是非今後もご健勝なることを願い、また、731部隊遺跡の掘り起こしの活動など平和のための取組みに連帯していきたい。
[参加者の感想]
◆私はフィールドワークに何回か参加してきたが、今回も一言で言わせていただくと「意外」だった。「意外」とは、一見のどかな町に昔はとても恐ろしい施設(毒ガス工場)があったということだ。また、前に行った横浜の日吉地下壕やこどもの国はかつては軍の施設(それぞれ海軍の司令部・弾薬庫)だったものがそっくり現存されていたが、相模海軍工廠については石碑と昔の引き込み線の線路跡があるだけで、施設が残っていなかったのが残念だ。また石碑の裏にも「毒ガス工場」とわかるような説明がなかったのも無念である。
後半の矢口氏の公演について、@相模海軍工廠が知られたのは、つい最近(5年ぐらい前)だということA日本各地に毒ガス弾を捨てていてそれらがどこに捨てられどう処理されたかが明らかにされていない・・・・など毒ガス工場に関することばかりでなく、B戦死とは部隊でなぐられて亡くなった人も多数いることC軍隊に所属すればたとえ人を殺さなくても「加害者」である・・・・といった戦争の悲惨さの話を聴くことができた。こういった大変貴重な話を聴ける機会は滅多にないと思う。
最後に毎回書いているかもしれないが、「過去の歴史を探っていくことがい
かに重要か」をあらためて痛感した。(K)
◆今回行った相模海軍工廠のフィールドワークのコースには,残念ながらその形跡を窺い知ることができるようなものはほとんど何も残っておらず,あるのはかつて物資や関係者を運んでいた線路と,石碑だけである.しかし,私も含めた参加者たちは矢口氏による解説や講演でだいぶイメージが膨らんだのではないかと思う.あと,ピース・ニュースから今回のフィールドワークのために相模海軍工廠を下調べする機会が与えられた.それを通じて芋づる式に意外と身近なところに戦争の跡を感じさせるものが存在していることを痛感させられた.
講演で印象的だったのは,矢口氏自身の「被害者から加害者へ」の変化の話だった.やはり戦争当事者がそのような意識を持ち,その後一貫して加害者の視点で戦争を捉えてこられた姿勢と行動はすばらしいと思う.また,日本の男性の平均寿命を超えられているにも関わらず,大変精力的に活動されている(例えば,頂いた名刺にはABC企画委員会,731部隊遺跡世界遺産を目指す連絡会,中国戦争被害者を支える会とあり,実際に先日まで中国に行かれていたとのことである)ことも驚きと感動を覚えた.
イラク情勢や,「北朝鮮の拉致」がよく話題になっていることもあり,学校の人たちと話をしていてよく感じることだが,歴史を学ぶことと,それをどのように学ぶのかが決定的に重要な気がしている.確かに彼らも日本が過去に行ってきたことをいろいろ見聞きして,さまざまな知識をある程度得ていることが話からよくわかる.しかしながら,私たちはそもそも歴史を知りすぎることなど有り得ないし,過去の事実とそれへの評価(もちろん,事実そのものの認定,認識もかみ合わない場合が多々あるが)も必ずしも私のそれとは一致しない場合が多い.
「歴史に盲目な者は現在にも盲目である」と言われるが,過去の戦争に関する謝罪と賠償は「合法的に決着済み」とされ,結局のところ戦後から今日に至るまで日本は何もしてこなかった.近年では教科書問題に見られる「自虐史観」からの脱却を試みる動きや,自ら積極的に自衛隊の海外派遣や有事法制の法案化,改憲などが行われようとしている.それらの動きに対する反対運動が一定の成果を挙げたとはいえ,今後も反動の動きが目白押しである.反対運動をするのは当然だとしても,どれだけ私たちが過去の歴史を自分のものとし,過ちを繰り返さないように出来るかが痛切に問われているように思う.その意味では今後も今回のようなフィールドワークを続けていくことは意義深いことだと感じた.(Y)
◆私にとっては今回のFWでの最大の収穫は矢口さんにお会いできたことです。79歳という高齢を感じさせないエネルギッシュな態度、語り口に、こちらが元気をもらったような気がしています。最近の日本の平和運動はぱっとしない、元気がない、と言われていることについて自分でもそうだな、と思いがちだったのですが、矢口さんの自信に満ち溢れた元気な話を聞いて、恥ずかしくなりました。まだまだ矢口さんのような人が日本にも多くいるのだろうと考えるべきなのでしょう。大いに元気付けられました。
何事かに打ち込んでいる人は年齢に関係なく人に訴えかけるものを持っています。これからも矢口さんには時々お会いして話をしたり、一緒にお酒を飲みたいものです。
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