フィールドワーク報告

2010新春フィールドワーク
 旧陸軍登戸研究所(その1)
(神奈川県川崎市)

本記事は当日の説明と
参考文献(末尾参照)をもとにまとめました。
文責ピース・ニュース


 
 沖縄平和ネットワーク首都圏の会(注1)主催で2010年1月9日、神奈川県川崎市にある旧陸軍登戸研究所のフィールドワークが行われました。

 私たちピース・ニュース会員もこのフィールドワークに参加しました。私たちのごく身近に日本の過去の侵略戦争の狂気を物語る遺跡があることに参加者一同改めて驚き、大いに勉強になりました。
 
 当日は、高校社会科教師として地域に残る戦争の跡を授業で取り上げるため、長年にわたり登戸研究所の調査・研究を続けて来られた渡辺賢二先生(旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会)の案内で見学と講義をしていただきました。

(注1) 沖縄平和ネットワーク首都圏の会:「沖縄平和ネットワーク」は学習活動を基本に、修学旅行などの平和ガイド、戦争遺跡の保存・活用運動に取り組んできた市民グループ。沖縄に関する学習会や戦跡・米軍基地などのフィールドワークを行っている。


明治大学生田校キャンパスに残る旧陸軍登戸研究所跡

 
 小田急線生田駅を降りて5分ほどで小高い丘の上にある明治大学生田校の入り口につく。急坂を登るとそこがキャンパスだ。この小高い丘の上に何故、旧陸軍の研究施設があったのか。そこにも登戸研究所の歴史を理解する重要なポイントが隠されている、と案内役の渡辺先生は説明する。


明治大学生田校舎の登校路門

旧陸軍登戸研究所の歴史を説明する渡辺賢二先生

 登戸研究所の前身は新宿にあった陸軍科学研究所だそうだ。日中戦争が全面的になった1937年、この陸軍科学研究所の一部が当時の生田村に用地を確保して電波兵器の実験場を作ったのである。強力な電波を出す実験は都内では都合がわるかったのだろう。

 1939年にこの実験場は「陸軍科学研究所登戸出張所」となり、登戸研究所と呼ばれるようになった。登戸研究所では秘密戦、謀略戦のための研究開発が行われた。

 1941年には登戸研究所は「陸軍技術本部第九研究所」として独立して極秘の兵器や資材の研究・開発が行われた。そのため、当時の陸軍の資料には「第九研究所」という記述はなく、登戸研究所と呼ばれたそうだ。

巨大な動物慰霊碑

 正門近くに高さ3メートルほどの巨大な動物慰霊碑が立っている。登戸研究所の第2科では生物化学兵器の研究・開発が行われた。実験動物としてはイヌ、サル、ブタなどが使われたそうだが、ここで多数の動物を実験材料として使っていたという形跡ない。それにしては何故、このような巨大な動物慰霊碑が建てられたのだろうか。

 登戸研究所で開発した生物化学兵器は中国で人体実験をした。1941年、1943年と登戸研究所の研究者が中国へ渡り731部隊の協力を得て人体実験をした。この時期に登戸研究所は陸軍技術有効賞を受賞し、その賞金から、現在の金額で数百万円の金を拠出してこの慰霊碑を建てている。


何故このように巨大な動物慰霊碑を建てたのか・・

 人体実験犠牲者の慰霊碑は建てられないので、動物の慰霊碑として巨大なものを建てたとも考えられるというのが渡辺先生の推定である。

 この第2科で化学兵器の研究をしていた伴繁雄陸軍少佐は、帝銀事件注2での捜査で警察からの事情聴取で次のように供述している。

-- 「実験を始めた。最初は厭であったが、馴れると一ツの趣味になった(自分の薬の効果をためすために)。相手は支那の捕虜を使った。相手が試験管を疑うので偽装して行った、たとえば・・・。」 --
(帝銀毒殺事件捜査手記第5巻より)

注2 帝銀事件で使用された毒物は遅効性(飲んだ後しばらくしてから効力が出る)の青酸化合物であり登戸研究所で研究されていたもの。伴元少佐の情報で731部隊関係者などが捜査対象となったが突如GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられた。

ヒマラヤ杉と本館跡

 正門からメインの道路を少し進むと巨大なヒマラヤ杉が何本も立っている。今は建物はなにも残っていないが、当時の登戸研究所の本館があった場所だ。


巨大なヒマラヤ杉が繁る本館跡

本館前で写した軍人たちの記念写真

 当時の本館前の建物をバックに研究所の軍人が整列して写した記念写真がある。その中央に写っているのは三笠宮だ。この登戸研究所が単に陸軍の一研究所であるだけでなく、いかに重要視されていたかを示す重要な証拠と言えるだろう。そしてその研究を推進させた最高責任者は誰か・・言うまでもないだろう。


消火栓と「く号兵器」「ふ号兵器」


 本館の少し先へ進んだところ、現在では明大の図書館前に古ぼけた消火栓が残されている。もちろん現在では使われていない。よく見るとその消火栓には星のマークがしっかりと刻印されている。日本陸軍のマークだ。


旧陸軍の星マークが残る消火栓


 この辺りは第1科の建物があった。

 第1科第3班では「く号兵器」が研究された。また、第1科第1班では「ふ号兵器」が開発された。

 「く号兵器」とは「くわいりき=怪力電波」)を利用した兵器のことである。現在では電子レンジに使われているマイクロ波を利用したもので、うさぎやねずみなどで効果は実証されたようであるが、それ以上は電力が大量に必要なため実用化には至らなかった。

 「ふ号兵器」とは風船爆弾のことである。コンニャク糊で和紙を何層も接着して強度を出し水素を詰めた直径10メートルの風船に爆弾をつけて飛ばした。これは実用化され登戸研究所他、全国各地で製造され、1944年11月から45年4月にかけて9300個がアメリカに向け発射された。268発はアメリカに到着したことが確認され、約1000個がアメリカ大陸に到達したと推定されている。

ガス漏れがないかテストをする女学生旧
「陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会」パンフレットより

その2に続く
[参考文献]
「旧陸軍登戸研究所見学のしおり」旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会 渡辺賢二
「あなたは旧陸軍登戸研究所を知っていますか?」旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会
「学び・調べ・考えよう フィールドワーク陸軍登戸研究所」姫田光義監修 旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会編