180人をこえる多くの詩人や画家たちが報復戦争が始まってわずか一ヶ月あまりで、
アメリカのアフガニスタン報復戦争と自衛隊の参戦に反対する
強い思いをその作品の中に表現した。
いってみれば「日本の良心ここにもあり」であって、
これらの作品は、丸木夫妻の戦争告発の作品群とともに、
いまこそ「全国巡回」と「世界巡回」の旅に出なければいけないのではないか。
原爆の図 丸木美術館
丸木美術館のホームページはこちら
「Oh No! 報復戦争」詩画展
2001.12.18.(tue)〜2002.3.30(sat.)

「Oh NO! 報復戦争」詩画展を観る
原爆の図丸木美術館訪問記

 2月10日(日)、池袋から東武東上線で1時間、森林公園駅に下りてから歩いて約40分目指す丸木美術館は雑木林を抜けて荒川の上流、都幾川のほとりにあった。ピース・ニュースでは、長野県の無言館以来、久しぶりの「美術館を訪ねる」機会である。
 この丸木美術館は、「原爆の図」に始まって、戦争や公害という人類の過ちと愚かさを生涯訴え続けてきた丸木夫妻の共同制作絵画と丸木スマ(位里の母)の作品が常設展示されている。


−「Oh No! 報復戦争」詩画展 チラシより−

 今回の詩画展は、その開催意図をホームページで次のように説明している。


 1999年、2000年と連続して行った企画展「Piece For Peace」―それはさまざまな「平和」のイメージを提出することによって、作り手も観客も自分の内にある「平和のかけら」の輪郭を探ろうとするものでした。 2001年9月11日、ニューヨークで起きた無差別テロ事件。10月8日、米軍のアフガニスタン空爆開始。 「戦争」という遠い土地の、あるいは遠い過去の存在が、今またわたしたちの目前に現れました。わたしたちはこの光景を己の目で見、一体何が起きているのかを考えなければなりません。 今年の「Piece For Peace」は「Oh No! 報復戦争」というタイトルの通り、この一連の動きに焦点を絞り、表現の立場から考えていくための展覧会です。


 今回の詩画展は、アメリカが始めたアフガニスタン報復戦争に対する疑問、そして日本の小泉首相の追随を支持する日本人全体に対する疑問を作品で表現しようという丸木美術館の呼びかけに応えた詩人と画家たちの作品展である。まさに生前あらゆる戦争に抗議し続けた丸木位里・俊夫妻の遺志にふさわしい企画といえよう。
 180人をこえる多くの詩人や画家たちが10月8日のアフガニスタン報復戦争が始まってわずか一ヶ月あまりで、アメリカのアフガニスタン報復戦争と自衛隊の参戦に反対する強い思いをその作品の中に表現した。この展示品の数々を見ながら、これはいってみれば「日本の良心ここにもあり」であって、これらの作品は、丸木夫妻の戦争告発の作品群とともに、いまこそ「全国巡回」と「世界巡回」の旅に出なければいけないのではないか。と痛切に思うのであった。

 私達はこのままでいいはずはない。
 日本はこのままでいいはずはない。
 世界はこのままでいいはずはない。

 粉雪の舞う寒い冬の休日、美術館の傍を流れる都幾川の清流を眺めながら、私達は、お互いに今見てきた様々な絵の数々について語り合った。寒さで手が硬くなり、体は震えていたが、体の中はかすかな温かみと愉悦の気持ちを感じていたのは、わずかばかりのアルコールのせいばかりではなかったと思う。
今回の丸木美術館を訪れて、メンバーそれぞれに自らの生き方に対する強い確信と勇気を与えられた一日であった。
(H)


池袋から約1時間 東武東上線 森林公園駅で下車

さらに歩くこと40分(タクシーなら10分弱)雑木林の向こうに丸木美術館がある。

参加者の感想(1)
「Oh No!報復戦争」詩画展と「原爆の図」

 先ずもって、この特別展を企画して開催までにこぎつけた、丸木美術館館長の針生一郎氏(2000年に丸木俊さんが亡くなられた後、館長に就任された)と美術館スタッフに敬意を表したい。10月8日にアフガン空爆が開始された。その後、企画し一般に作品を公募し、12月18日には開催にこぎつけている。詳しいわけではないが、美術作品を公募し展示会を開く企画としては極めて異例の早さであろう。そしてその作品の数の多さ。絵画、オブジェ、詩等184点にもおよぶ。展示は1階展示各室をあふれ廊下にまで及んでいる。搬入、レイアウト、展示、プレート準備等を考えるとおそらく何日も膨大な作業が続いたに違いない。それでもこうした短期間のうちに開催を急いだのは、芸術を通じても「この無法な戦争を止めたい」、という並々ならぬ意欲の現れであるだろう。まさにその全生涯を反戦・反核のために捧げた丸木位里・丸木俊夫妻の遺志を継ぐこの美術館の企画にふさわしいものである。


丸木美術館入り口

 それにしても、何と作品の数の多いことか。1時間半程度を見学にと考えていたのだが、それではとても見切れなかった。それだけ、多くの人々がこの戦争に憤りを感じ、それを自分のやり方で表現したかった、ということの表れだろう。
 作品は抽象的な絵画、リアリスティックな絵画、コラージュ、詩、漢詩、オブジェ、鑑賞者が署名や一言メッセージを書いて完成させる木のオブジェまでまさに多様である。

 いろいろな見方があり感じ方があるから、鑑賞者によってもいろいろな感想があるだろう。私なりの印象に残ったものをひとつだけ挙げておきたい。
 「男たちの戦争ごっこ・2001」という絵画。アフガンの砂漠化した大地にひ弱な潅木がたっている。その回りをとりかこみ各国の国旗が威圧するような形ではためいている。米・英の国旗は中央にひときわ高く、威圧的にたっている。その回りに、ドイツ、フランス、ロシア等の国旗がはためいている。
 そして画面の中央、米・英の国旗の下に、やや控えめに「日の丸」がはためいている。そうだ、確かにそのとおりなのだ。湾岸戦争のときには旗を上げられなかった。今回は、旗をあげさせてしまったのだ。私には、米・英の影にかくれるように、しかし一方でしっかりと存在を主張している「日の丸」がなんとも姑息で嫌らしく感じた。
 一枚の絵が、そして何の変哲も無い国旗を並べただけの絵が、社会の出来事の構図をものの見事に暴き出し、そしてその醜さ、嫌らしさまでを表現している。
丸木俊 像

丸木位里 像

 この丸木美術館訪問は四回目になるが、改めて、2階に展示してある「原爆の図」と対面した。「原爆の図」は、1階の多様な多数の「戦争反対」の詩画を包み込み、共鳴しながら、これまで以上に巨大で、圧倒的な迫力で力強く訴えかけているような気がした。

 「原爆の図」は、もちろん原爆投下後の地獄絵を「これでもか」と言わんばかりに強烈に描いているのだが、それだけではなく、そのような地獄のなかでも消えずにある人間的なやさしさや強さ、希望が描かれているような気がしていた。
 今回見てみて、これらの感じはより一層はっきりしたものになった。煉獄の火の中で自分の身を焼かれながら、それでも人を救出しようと懸命になっている男。阿鼻叫喚の地獄をじっと見つめている少女。幽霊のような形相になりながら我が子をいとおしく抱える母親等々。

 アフガン爆撃によりタリバン兵、アフガン一般市民、特に子供がどんなに悲惨な姿で殺されたのか。非常に小さな扱いで隠されてしまっているとはいえ、その気になればリアルタイムでその悲惨な現実を知ることができる。それにもかかわらず、全米で戦争支持が80%、日本でもそれに加担して自衛隊を派遣した小泉首相が70%近い支持率を保っていた。世界中の報道が体制翼賛的になって「テロ撲滅」戦争を支持している。

 このような状況の中で、毎日いろいろ闘いながらも、暗然たる気持ちをどこかに抱えていた。
 そうした中で見た「原爆の図」は、「希望を捨てるな!、人間は本来そんなものではない、子供がいる!」と、と丸木夫妻が生涯をかけて訴えたことが、鮮明に見えてきたような気がした。

 また明日から闘う勇気を与えてくれた、素晴らしい一日であった。(A)


入り口の鳩のレリーフと詩画展の看板

参加者の感想(2)
丸木美術館を訪問して

 今回初めて訪問しました。丸木さんの絵は、写真では目にする機会も多かったのですが、生で見ると、受ける衝撃は全然違いました。壁一面に広がる巨大な絵の数々、その壮大なスケールと、そこから発せられる戦争の惨たらしさとそれに対する凄まじい怒り、平和を願うエネルギーに圧倒されました。全体に圧倒されるだけでなく、その中に描かれている無数の被害者一人一人の姿と表情に、強烈に訴えかけられるものがあり、引き込まれました。「南京大虐殺の図」は、今回の「報復戦争」で、アフガニスタン人民を虫けらのように殺戮しているアメリカの軍事行動に参加する現在の日本の姿と重ね合わさりました。

 「Oh No! 報復戦争」詩画展では、「報復戦争」反対、アメリカの言う「報復」の詭弁、正義の名の下に行われている戦争下で起こっていることは、罪のない人民の大量殺戮であることが、実に多様な形態、とても自分には発想し得ない斬新な手法で表現されていました。作品は184点もあり、これほどの数の芸術家が「報復戦争」反対という明確な立場で作品を提供していることに感動しました。

 その中で特に印象に残ったものの一つが、「Under the daisy」という作品でした。解説がなかったのではっきりとしたことは分かりませんが、この作品は、アメリカが使用したデイジーカッター爆弾の被害に苦しむアフガニスタン人の姿を描いたものだと思います。作品のタッチが丸木さんのものと似ており、「原爆の図」、「南京大虐殺の図」と重ね合わさりました。被害の実態があまり伝わってこないにしても、デイジーカッターが原爆と同等の破壊力がある以上、アフガニスタンでも原爆の図と同様の残酷な実態があるのだろうと思います。アメリカとマスコミが被害の実態を悪意をもって覆い隠し続けようとも、丸木さんが生涯をかけて原爆の被害を暴き出したように、私達も全力でアフガニスタン人の被害の実態を暴き出していかなければならないとの思いを強くしました。


入り口の掲示板には私たちも取り組んだ「アメリカの報復戦争と日本の参戦に反対する署名」が

 署名運動との関わりでは、入り口に入ってすぐ署名事務局の署名用紙が貼られていたの見て嬉しく思いました。また、それだけでなく、作品の中に署名用紙が使われている物があり、非常に面白く感じました。私達の運動が、様々な人々によって積極的に取り上げられていることが分かり、精神的高揚感を得ました。
 アメリカが何故憎まれるのかという観点からの作品も多く、パレスチナを描いた作品も幾つか出展されていました。軍事監獄下に置かれているパレスチナ人民の怒りと勇敢な闘いに対する共感、イスラエルの暴虐な弾圧に対する抗議の声が強く伝わってきました。

 全体を通して、日頃、文章や映像や議論の中から得られるものとは違った側面から多くのものを得ることができました。今後の活動のアイデアの幅を広げていく参考になりました。自分自身の反戦平和の魂の原点への回帰と、自分自身の成長を促す修練の場として、これからも機会のある毎に訪れたいと思いました。そして、今まさにアフガニスタンとフィリピンで行われている、さらにイラクと北朝鮮、ソマリア等に拡大されようとしているアメリカと日本による戦争、日本の有事法制制定を何としても食い止めなければならないという決意を新たにしました。(K)


署名運動をする人形のオブジェの前には実際の署名が。
もちろん鑑賞者が署名をしていた

参加者の感想(3)

 詩画展を一通り鑑賞して、黒と赤の色を強調した作品が多かった事に気付いた。黒は戦争の悲惨さ、赤は人間の血を物語っているように思えた。また、原爆の図と同様、戦争の犠牲者は常に無関係の市民(弱者)であると改めて痛感した。そして、ある作品に描かれていた言葉が鋭く胸に突き刺さった。(K)

被害者としての立場を言うだけの権利は日本人にはない


参加者の感想(4)
真冬の丸木美術館を訪ねて

 丸木美術館を訪れるのは,今回で3回目となる。Piece For Peace 2001 ―「Oh No! 報復戦争」詩画展―(2001年12月〜2002年3月末)が行われているということで,足を運んでみた。中に入ると,絵画,詩,オブジェなど様々な作品が数多く展示されていた。幼いわが子を抱きながら永久の別れに悲しむ姿,荒野に米などの国旗と共に日の丸の絵等々。中には,私たちが街頭で集めていた署名用紙(もちろん作者の署名入り)が作品の一部として使われていたものもあった。主催者が「展覧会で一人でも多くの人が戦争に対峙する意識を強めることが出来るなら,それこそが芸術の持つ平和のための力に他なりません」と述べているように,作者によって表現する方法は異なっているものの,共通しているのは「報復戦争」反対と平和への想いだろう。実際に御覧頂ければそれが良く伝わってくるのがわかると思うので,未だ見ていない人は一度見に行く価値があるのではないかと思う。ただ,作品に二言三言程度の解説があれば尚良かったように思う。また,館内には訪問者がメッセージを残せるようにいつも置いてあるノートのほかに,「報復戦争」に対するメッセージを書くコーナーも設置されていた。

丸木美術館裏の都幾川べりから見た丸木美術館

 実は,館内には暖房が一切入れられておらず,暖を取る場所もなかった。それこそアフガニスタンの厳冬に否応なく思いを馳せさせるような寒さの中で,展示を見ることになった。主催者側がそのような意図をもっていたのか,単に設備がないだけなのかどうかは全く定かではないが,底冷えのする丸木美術館も悪くはないような気がした。一通り見終わったのち,そのすぐ裏を流れている都幾川のほとりで,やや濃いアルコールを燃料に暖をとりながら昼食を取った。このようなささやかな喜びを感じつつ,これからも平和問題に関して,たとえ微力でも自分なりに出来ることをしていこうという思いを新たに出来たと思う。(Y)

冷え切った体を「おでん」で温める

丸木美術館のあゆみ 

丸木美術館のこれまでのあゆみを簡単に紹介しておきたい。

丸木美術館は1967年に開館している。

 1945年8月6日広島に、9日長崎に原爆投下され、被爆直後、丸木夫妻は夫である位里の両親在住の広島へ向かった。そのときの体験を基にして1950年「原爆の図」第一部「幽霊」完成、ついで第二部「火」、第三部「水」完成。1956年までに日本国内巡回し900万人が見たあと、世界巡回し 世界平和文化賞を受賞。それから1970年には、「原爆の図」八部作のアメリカ巡回展開催。

 1981「水俣・原発・三里塚」完成。この年、文部省の教科書検定で、原爆の図(部分)が削除され、怒りの声が拡がる。その後、ボストンで「原爆の図」四部作、「アウシュビッツの図」「沖縄戦の図」の展覧会。「天安門事件三部作」完成を経て、1990年「チェルノブイリ」「反原発」完成。ソ連・ウラジオストックで「原爆の図」四部作の展覧会。1995年 丸木位里10月19日 94歳の生涯を終える。2000年 丸木俊、1月13日に永眠。87歳であった。