フィールドワーク報告 |
毒ガスの島・大久野島、広島被爆地域、江田島を歩く その2 広島スタディツァーに参加して |
前回に引き続き広島スタディツアーについての報告を掲載します。 |
第二日目 毒ガスの島・大久野島を歩く 広島県の大久野島は竹原市忠海港から船で15分、瀬戸内海に浮かぶ周囲4kmの小さな島である。住民はいない。島全体が国民休暇村となっていて、ウサギがのんびり暮らしている。この静かな島が60年あまり前までは毒ガス製造にかかわっていたとは信じられないほどである。 毒ガス島歴史研究所の山内さんの案内で、この島を回った。 まず島についての簡単な紹介を受ける。 大久野島で毒ガスが製造されたのは1929年から1944年までの15年間である。当時忠海町は芸予要塞が引き上げた後の不況下で軍施設の誘致を陳情していた。一方新宿で始められた陸軍毒ガス製造所は関東大震災での教訓や規模の拡大のために移転先を探していた。秘密が保持しやく、交通も便利ということでこの島が選ばれた。製造された毒ガスは忠海から鉄道で福岡県小倉の曽根に運ばれ兵器に充填されて戦場へ送られた。 生産は戦争の拡大により飛躍的に増大し、総生産量は6600tとなってその半分が国外に運ばれた。すでに毒ガス兵器は1919年のベルサイユ条約、1925年のジュネーブ協定で使用禁止が定められていたにもかかわらず、日本は製造を続け戦争で使用していたのである。 敗戦後もアメリカとの取引により東京裁判で裁かれなかったため、今なお国は国民に対して事実を明らかにしていない。製造に動員された労働者や学徒、戦後連合軍による遺棄作業に携わった人たちは何も知らされず有害物質にさらされ今なお後遺症に苦しんでいる。 |
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毒ガス資料館 |
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■ 毒ガス資料館 港からバスで毒ガス資料館に向かう。 この島の毒ガスに関する資料が判りやすく展示されていた。研修室もあり修学旅行や社会見学の生徒にも利用されている。竹原市の所管で毒ガス被害者からの募金と広島県と関係市町からの補助金で建設されたが、国は補助を断ったという。 『地図から消された島』と聞いてはいたが、本当に消された地図を見たときはぞっとした。完全防護服もロボットのようで、原発での作業服を思い出してしまった。 敗戦時、従業員や動員された学生達は軍人からこう伝えられたそうだ。「毒ガスの製造は国際的に禁止されている。それを直接作っていた者は罪が重い。指示していた者よりも重罪である。だからこの島でのことは決して口外してはならない。一切処分するように」と。だから作業服や身分証などほとんどは破棄されてしまって展示物の収集にも苦労された。またこの脅しによって毒ガスによる障害を告発することさえ長い間できなかった。戦後連合軍による遺棄作業が行われた時、当時としては破格の高給が支払われたが、戦時中島で働いていた人は誰も応募しなかった。しかし何も知らない人は作業に携わり、そこでまた被害にあっている。その人たちは病気の原因さえわからないで放置されていたのだ。 |
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慰霊碑 |
竹原市長名での宣言 |
● 慰霊碑・研究室跡 島の南には研究所や医務室・養成所などがあった。当時の建物はほとんど撤去されたが、直接ガスを製造していなかった建物は放置され荒れ果てた姿を残しているものもある。 島でのけがは医務室で治療するが、治療より検査に熱心でデータは新宿へ送られていたという。また重症の場合は島から出られず、家族の面会も拒否された。 毒ガス生産、毒ガス処理によって障害者となってなくなった方の名簿が納められた慰霊碑が1985年に建設されている。6000名以上の障害者のうちすでに3000名が亡くなっている。当時中学生や女学生で動員された方たちもすでに70歳後半となった。国は証言者のいなくなる日を待っているのだろうか。 |
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研究室跡 |
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● 国民休暇村指定 毒ガスの島から癒しの島へ 毒ガスの島として戦後放置されていた大久野島は1961年国民休暇村に指定される。これは地元出身の池田勇人の主導によるものだったらしい。ともかく毒ガスに関する全てを隠しさることが大切だった。かつて製造工場が立ち並んでいた場所は、今は休暇村本館(宿泊施設)が建てられ芝生の広場となっている。 連合軍は最も危険なイペリットとルイサイトを海洋投棄し、クシャミ剤や催涙ガスは島内に埋めた。このため地中を掘れば汚染物質がでてきてしまう。島内で使われる水は本土から運ばれ、工事は慎重に行われている。それでも道路の整備などのたびに廃棄された毒ガスの筒や高濃度の砒素が検出され、土砂の入れ替え等が行われている。 島内には多くの野生のウサギがいる。島外から持ち込まれたりして増えたそうだが、私には汚染度を調べる実験動物に見えてしまった。 |
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10tタンク貯蔵庫跡 |
野ざらしのタンク台座跡 |
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