[フィールドワーク報告] | |
何故、原爆は広島に落とされたのか? 「戦跡をたどるフィールドワーク」その2 広島平和教育研究所 フィールドワーク |
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その1に引き続き、広島の「戦跡をたどるフィールドワーク」の参加報告です。 |
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文責:ピースニュース | |
中国軍管区司令部地下壕 − 最奥の部屋で司令官たちは絶対死なないようになっていた 1945年(昭和20年)、本土決戦に備え、それまでの第5師団司令部は中国軍管区司令部と改称されました。 広島城の内堀の石垣付近には、この中国軍管区司令部の地下壕跡が残っています。地下壕は空襲で直撃弾を受けても破壊されないよう、分厚いコンクリートで覆われた半地下式のものです。 |
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中国軍管区司令部地下壕跡 |
被爆直後の地下壕入口の写真が プレートになっている |
中は4つの部屋からなっています。一番手前が情報室、次の部屋が通信室、その奥が軍上層部の指揮連絡室、そして一番奥が司令官室となっています。司令官室は天井も高く、広々としており入口が両方向についています。片側が塞がれても反対側から逃げられるようにしてあります。両側が塞がれても窓があるため、窓からも逃げられるようになっています。 将校は奥にいるので死ぬことはないのです。下士官は兵卒と共に行動して指揮をとるので、下士官からは死者が多く出ました。しかしなんといっても一番沢山死んだのは最前線で闘った上等兵、一等兵、二等兵の兵卒たちです。 この一番奥の司令官室で司令官達はけっして死ぬことがないようになっていたことをはっきりと見て欲しいのです。そしてその司令官達の一番上にいたのは天皇です。ですからあの戦争を進めて行った最大の責任者は天皇なのです。これは揺るがすことはできないと思います。これが事実だと思います。 |
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地下壕の中は4つの部屋に分かれていた |
一番奥の司令官室の様子 |
比治山 − 被爆者たちが避難途中で息絶え折り重なって亡くなっていった 爆心地から東方向に約2.5Kmのところに高さ約70mの小高い山があります。これが比治山です。 被爆直後に無数の被爆者たちが比治山へと避難して来ました。比治山へと登る坂で多くの被爆者が息絶えました。息絶えた人の上に後から来た被爆者が四つん這いになって倒れて行きます。折り重なって亡くなっていきました。誰も助ける人はいません。この山の斜面に朽ち果てた人のなきがらが、人間として我慢のできないにおいを立ち込めたのです。そういう山の斜面であったことを皆さんに言っておきたいと思います。 |
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旧ABCC・放射線影響研究所 − 治療するのではなくモルモットのように被爆影響を調査した 比治山の頂上には旧ABCC*1・放射線影響研究所があります。 かまぼこ型の建物は1947年に米軍が建てたABCCの建物がそのまま残っています。現在は放射線影響研究所として使われています。 |
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*1:Atomic Bomb Casualty Commission(原爆傷害調査委員会) | |
旧ABCC・放射線影響研究所 |
旧ABCCは被爆者を長い間調査しました。そしてその調査結果をいまだに公表しておりません。 私は戦後、音楽の教師になりました。私の生徒の中には熱線を浴びて後頭部がケロイドになり頭をまっすぐに起こすことができない子供がいました。指はやけどで握りしめたまま開くことができませんでした。 こうした子供をABCCは調査のために学校から連れて行ったのです。 |
ある日、3年生の女の子がどうしてもABCCへ行くのは嫌だと言って、柱にしがみついて動きませんでした。私たちがいくら言っても聞き入れませんでした。しかたなく、ABCCのジープを戻らせ、後からその女の子の話を聞きました。 その女の子の話から初めてこのABCCでどんなことが行われているか知ったのです。思春期のまっただなかの女の子です。その女の子の服を脱がせて部屋の中央に座らせ、周囲から写真をとるのですから恥ずかしさに耐えられないのです。 |
放射線影響研究所の入口 (バスの窓越しのため青っぽくなっています) |
裸の女の子の背中を金具のようなもので引っかき、その反応を写真に全て収めるのです。 このようなことをやっているということを知って私たちはABCCに子供を送ることに対して反対運動をおこしました。しかし当時は米軍占領下です。私たちの反対運動はかないませんでした。 ABCCは被爆者のカルテを没収して調査した後、そのカルテを返還しないのです。被爆者は治療のために自分のカルテが必要なのですが、ABCCはカルテを返さないのです。 被爆調査結果が一部公表されたのは、チェルノブイリの後、ソビエトの科学者に一部公開されただけです。 未だに放射線が遺伝子に影響しないと言い続ける放射線影響研究所 ABCCは1975年、放射線影響研究所として経費は日米同額負担の財団法人になりました。 この放射線影響研究所はいまだに放射線は遺伝子に影響しないと言っています。これはウソです。私の息子は1977年、39歳の時に突然血を吐きガンの宣告を受けました。3カ月ももたずに亡くなったのです。私の身体に中に焼きついた放射線が息子を殺したと思っています、 しかしここでは放射線は遺伝子に影響ないといまだに言っております。放射線影響研究所は8月にオープンハウスで開放します。是非、ここで説明を聞いてみて下さい。私はある時、説明を受けて質問をしました。しかし最後は答えてくれませんでした。「それは未だ分からない」と言うわけです。分からないのなら、「遺伝子に影響ない」ということを言ったらいかんのじゃないか、と質問したのですが、それについては返事はしてくれませんでした。 |
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その3へ続く |