本の紹介

「沖縄(ウチナー)抵抗と希望の島」
鎌田慧著 七つ森書館


- 基地問題以上に知られていない沖縄差別の実態 -

 
  菅首相は6月23日、沖縄戦の全戦没者追悼の場で挨拶し「謝罪」と「感謝」を表明した。この言葉が沖縄で再びどれほどの怒りを生み出したのか、「本土」ではほとんど問題にされていない。

 65年前、国体護持を目的とする「本土」決戦準備の時間稼ぎのため、沖縄住民は「老幼婦女子にいたるまで」日本軍と共に闘うことを強制された。持久消耗戦の凄惨な戦いと集団自決へとつながった沖縄戦により、当時の沖縄県民の四人に一人、十数万人が亡くなった。菅首相はこの沖縄戦の戦没者を追悼する遺族たち、最愛の家族を亡くした人々が集う慰霊の場で「いまだに沖縄には米軍基地が集中し、大きな負担をお願いしている。負担をかけてきたことに全国民を代表し、おわびを申し上げる。沖縄の負担がアジア太平洋地域の平和と安定につながってきたことについて、率直にお礼の気持ちも表す」と発言したのである。

 沖縄戦の体験者、遺族であり、更に戦後も65年の長きに渡り日米安保体制の犠牲を集中的に負わされてきたほとんど全ての沖縄人にとって、これほど感情を逆なでする行為は無いだろう。

 原爆犠牲者に対して「あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今しょうがないなと思っている」と発言して辞任を余儀なくされた防衛大臣がいたが、もし仮に、広島の原爆慰霊祭で「戦争終結のため原爆の犠牲になってくれてお礼を申し上げる」と言ったら「本土世論」はどのような反応を示すだろうか。

 最近公開された沖縄返還を巡る外務省文書にあった「わが国自体の安全からいえば、沖縄の住民の犠牲においてでも従来どおりの米軍の沖縄保有が当面のぞましかった」を引き合いに出すまでもなく、戦前、戦後を一貫して流れている天皇、日本支配層、財界、「本土」政府の沖縄差別は明らかだ。しかし、それを平然と許している「本土」の我々もまた、政府支配層の沖縄差別を容認し、無自覚に沖縄差別を助長しているのでは無いだろうか。政府支配層の確信犯的な沖縄差別よりも、沖縄差別の上に成り立つ体制に安住している多数の無意識の差別の方が、その無自覚さゆえに根が深いとも言える。

 無意識の差別を自覚し克服するためには、意識的にその差別構造と実態を学ぶことなしにはありえない。本書はそうした問題意識に対して新たな発見を与えてくれるものである。 

 本書の冒頭は「辺野古住民の抵抗」の章で、辺野古での新基地建設反対闘争の迫真のドキュメントである。辺野古の闘いのエネルギーが一人一人の具体的な人間を通して伝わってくる。どんどんと引き込まれる文章は、一人ひとりは非力な人民が権力に対抗する、あくまでもその非力な人民の側に寄り添って描く筆者の姿勢によるものだろう。

 しかし、先に述べた「無自覚な沖縄差別の構造と実態」の関心から勉強になるのは、むしろ沖縄返還後からの35年間にわたる基地問題とは全く別の沖縄問題を描いたU章「痛憤の島」から最後のX章「海洋博 そのまえとあと」にいたる各章である。ここには、基地問題以上に「本土」の我々がほとんど何も知らない沖縄差別構造の例が数々挙げられている。

  鎌田慧が本書で告発した沖縄差別の構造の実例を紹介する。

 1978年、沖縄の復帰6年後の7月30日、沖縄の交通が本土並みに一斉に左側通行に切り替えれられた。そういえばかすかに当時のテレビで「本日切り替えられました」的な報道を見た記憶がある。右側通行から左側通行に一斉に切り替えるのだから、運転になれるまでは大変だがそのうち慣れて行くだろう、これで沖縄の「本土並み」は完成したのだろう。「本土」の感想は大方そんなものだろう。ところが、この「交通革命」と称した切り替えは沖縄にとってはメリットは全く何もないにも関わらず、大変な負担を要する大事業だったのだ。

 30年来運転してきたタクシー運転手にとっては、衝突しそうになったときに咄嗟にハンドル操作で難を逃れる条件反射ができている。事故が起こりそうになったとき、今までとは逆にハンドルを切らなければならない。これはほぼ不可能なことで、タクシー運転手にとってはこの「交通革命」は命がけなのである。

 市街地では「交通革命」でカーブを曲がりきれないところが出てくる。市の土木課はそうした個所を洗い出して「角きり」と称して新たに土地を買収して道路化しなければならない。沖縄戦後、自分たちの土地に戻って来た沖縄住民は、米軍が勝手に戦車や軍用トラックの「通り道」としたその脇に、テントやバラックを建てて住みつかざるを得なかった。道はそのまま残され市道となったが、この道路となった土地(つぶれ地)は地主には何ら補償もされなかった。「つぶれ地」の補償がほったらかしのままで、33年後には「角きり」で再び移転したり土地を切り取られるような事態になったのである。

 住宅や商売に大きな影響が出た。バス会社は全てのバスの乗降口が反対側になるため、バスを全て更新しなければならない。タクシーも自動ドアの位置が代わるので更新しなければならない。国からの一部補償が出るとは言えバス会社もタクシー会社も、本来は不必要な新たな負担を背負わなければならなかった。

 公共交通をバスに頼る沖縄では、商店の位置とバスの停車場の関係は死活問題である。本屋は学校帰りや勤め帰りに客が入ってくる。ところがある日突然、バスの客は本屋の店の前ではなく、道路の反対側で降りることになる。商売への影響は必至だ。こんなことが沖縄からはるか離れた「本土」政府の官僚達の机上で、国際条約「道路交通に関する条約」の「車両の通行する側はそれぞれの国において統一されていなければならない」という規定を根拠に決められ強行されたのだ。

  沖縄復帰3年後、沖縄海洋博が開催された。国や県の推進関係者の間では「沖縄開発の起爆剤」ともてはやされたが、海洋博のテーマである「海―その望ましい未来」をまともに議論する人はいなかった。

 サンゴ礁の海は埋め立てられ汚濁した海にはオニヒトデが異常繁殖した。投下された三千億円余りの金は「本土」土建業者に還流した。会場予定地となった地元の本部町の土地所有者375人の「海洋博後」は悲惨だ。海洋博前は海岸沿いの畑にサトウキビやイモを植え、豚や鶏を飼い、サバニ(丸木船)で海に出て魚を獲っていた。買収に最後まで反対した人は、地元出身の副知事から「あんたひとりで(会場の)なかへ住んだらいいよ」と脅かした。家の周りを柵で取り巻いてしまう、と言うのである。

 県からの用地買収で土地は買いたたかれ、海は埋め立てられて漁はできなくなった。周辺の土地はブローカーが入り高騰したため別の農地を購入しようにもわずかな農地しか買えなくなった。

 海洋博会場の中で優先的に土産物屋を開業するという口約束は反故にされた。買収時の甘い言葉に乗り、海洋博会場周辺で土産物屋や民宿を借金で開業した人たちもいる。ところが海洋博への「本土」の旅行会社の客は航空機と那覇など中南部の豪華なホテルをセットにしたパック旅行中心だった。海洋博会場へは大型バスで乗り付けそのまま会場をまわり、またバスで中南部方向へ帰ってしまう。会場の外へ出る人などいない。会場周辺の土産物屋や民宿は海洋博開場早々、閑古鳥が鳴いた。土地を買いたたかれ、海での漁もできなくなり、借金だけが残った。見込みが外れて倒産し、精神病になる人もあらわれた。


 本書は鎌田慧が35年に渡り書き積み上げて来た沖縄のルポルタージュを2010年4月に単行本として発行したものである。上記に紹介した例は、本書で描かれているごく一部である。恐らく個々の事例だけを取り上げれば、「本土」の開発事業でも似たような事例はいくらでもあるだろう。しかし問題は人口も面積も日本の1%ほどにしか過ぎない場所で、米軍基地だけでなく、似たような構造の問題が集中的に起きていることである。

 これらを読んで改めて気づくのは、沖縄が日本「本土」の植民地であったという事実である。台湾、朝鮮、中国の植民地支配については、それなりに人々に理解されているであろう。しかし沖縄が実質的に日本の植民地であり、戦前も戦後も日本「本土」政府が一貫して植民地沖縄を踏み台にし、売り渡し、食い物にしてきたということはそれほど自明のことではない。日米安保反対、反戦平和、反核、反基地、その他の民主的な運動を闘う人々は近隣諸国の植民地支配の歴史を学ぶことと同様に沖縄の植民地支配の歴史を意識して学ぶ必要があることを再認識させられる本である。
2010.10.26  K.A