本の紹介

「ケーテ・コルヴィッツの肖像」

志真斗美恵 著  績文堂



  沖縄を訪れた友人から佐喜眞美術館で買ったという本を紹介されました。それがこの「ケーテ・コルヴィッツの肖像」です。表紙に使われている額に手を置いた自画像と、「二度の大戦で息子と孫を失った女性画家」という帯の言葉に、以前見た彼女の作品「ピエタ」を思い出し興味を持ちました。


 ケーテ・コルヴィッツ(1867〜1945)はプロイセン領ケーニヒスベルクに生まれ、版画・素描・彫刻の分野で50年以上活動を続けたドイツ人です。

 自由で進歩的な家庭に育った彼女は、子どものころから働く人々の生活を見つめていました。美術学校卒業後ベルリンの貧民街で働く保険医カール・コルヴィッツと結婚し、彼らの暮らしに一層深く関わっていきました。そのなかで版画集「織工たちの蜂起」「農民戦争」や数々の素描を発表し、「社会派」芸術家と呼ばれるようになりました。後に彼女はこう書いています。

 「最初に私がプロレタリアートの生活を描くことへ向かったのは、同情や共感といったものではなく、私がそれを理屈抜きに美しいと思ったからだ」



 1914年第一次世界大戦が始まりケーテの二人の息子も志願兵となります。そして2カ月後、18歳の二男ペーターの戦死の報が入るのです。心ならずもペーターを送り出してしまったケーテはペーターの記念碑を作ることを生きがいとするのでした。

 水兵たちの蜂起をきっかけに皇帝は退位、ドイツは共和国となり戦争は終わりますが平和な暮らしは訪れません。共産党へのテロル、生活物資の窮乏、すさまじいインフレ・・・混乱の中ケーテは次々と作品を生み出します。

 「わたしは芸術家としてあらゆるものからその感情内容を引き出し、それを心に刻みつけ、また外に向かって示す権利を持っている。だから労働者階級の、リープクネヒトに寄せる惜別の情を表現する権利もある。いやそれどころか私自身は政治的にリープクネヒトの後につき従おうとはしなくても、その作品を労働者に献呈する権利がある。」

 「誰もが自分にできる仕事をするのだ。おまえの芸術に目的があるだろうと言われれば、もちろん私は同意する。私はこの時代のなかで人々に働きかけたいのだ。誰からも見捨てられた人々がしきりに援助を求めているこの時代のなかで。」

 版画「カール・リープクネヒト追憶像」「戦争」や飢える人々のための数多くのポスターが制作され、ヨーロッパばかりでなく中国や日本にも紹介されていきました。



種を粉に挽いてはならない
1941年 ケーテ74歳の時の作品
 ナチスが政権をとると迫害の時代が始まりました。発表の場を奪われ国内亡命を余儀なくされながらも、彼女は制作を続けます。彫刻「ピエタ」で息子を奪われ悲しみに沈む母を、「母たちの塔」では皆で子どもたちを守りこぶしを振りあげる母を。

 そして自らが遺言とよんだ版画「種を粉に挽いてはならない」では未来へのあこがれや怯えをたたえた子どもたちをがっしりとした腕で守る母を描くのでした。これから芽を出し実を結ぶ種(子どもたち)を戦争にとられないように強く抱く母の姿を。

 孫のペーターまでもロシア戦線で失った彼女は、それでも未来への希望を孫娘に語ります。

 「いつか、一つの新しい理想が生まれるでしょう。そしてあらゆる戦争は終わりを告げるでしょう。(略)そのためには人はつらい仕事をしなければならないだろう。だが、それは、いつかは成し遂げられるだろう。この確信を抱いて、わたしは死ぬのです。」
ケーテ・コルヴィッツが亡くなって16日後、ドイツは全面降伏し戦争は終わりました。

 この本は著者が「作品を時代のなかに位置づけ、言葉でケーテ・コルヴィッツの肖像を描いてみよう」(前書きより)としたものです。多数の作品が写真で紹介され日記・回想・手紙も引用されて、激動の時代を真摯に生きた人間の姿がみごとに表されています。

 女流画家さえ珍しかった時代に働く人々の姿を「美」ととらえて描き、息子を戦死させた悲しみを「一人の母のそれから抑圧された人々すべての悲しみに変えて作品とした」その人生は、私たちに多くの勇気と啓示を与えてくれます。文章で丁寧に描かれた彼女の「肖像画」にめぐり会えたことが本当にうれしく、ぜひ多くの方にも手に取っていただきたい思いでいっぱいです。

2010.6.23 Y.A