2003年3月20日、米国は世界中の戦争反対の民衆の声を無視し、英国と共にイラクの首都バクダットへの空爆を始めた。イラク全土でおびただしい数のイラク人が米英軍の大量破壊兵器によって虐殺されている。戦争を平和といい、侵略を解放といい、狂気を正気という米国ブッシュ政権と翼賛報道するマスコミに拍手喝さいする多くの米国民。そして日本のマスコミは喜んでブッシュにひざまずくコイズミの軽薄な言辞と米英軍の動きをただただ垂れ流している。まさに「マスコミ操作によって大衆世論を支配する、される状況」を毎日実感しながら、私は、通勤電車の中でこの本を読んだ。
昨年2002年10月発行されたこの本の著者である辺見庸については「もの食う人々」「新・私たちはどのような時代に生きているのか」などを通じて、現代社会への強烈な視線と主張に強く惹かれるものがあった。
正直なところ、私は毎朝イラクの首都バグダットが空爆されるテレビの映像や、ブッシュの顔を見ながら、「なぜ世界でこのような非道が許されるのか」という自らの抑えきれない怒りのなかにいた。 そのような読者にとって、ジャーナリスティックな状況認識と詩人的感性に満ち満ちたこの文章は「国家の途方もない暴力性」「人間の限りない非人間性」を眼の前に広げてみせて、日常に埋没する凡庸な意識をぐいぐいと先鋭にして覚醒させるパワーに溢れていたのだった。
作者は、まずブッシュを頭目とする米政府が、身勝手で薄っぺらな「善」を無理やり押し付ける者どもとして 善魔 であるとしながら、欧米の「民主主義」の 非道 を告発する。 ・・・・私としては、いまや、欧米の民主主義を根本から疑わざるを得ない。たった一発分の金額で、飢えたアフガン難民数万人がしばらく腹いっぱい食う事が出来るほど高価な巡航ミサイルを連日何十発も、情け容赦なくぶち込む事が出来る米英のいまの「知性」を目の当たりにして、私は強く念じた。この「知性」は一日も早く滅びた方がいいと。すさまじい爆撃と同時に、食料や薬品を空中から投下した米国式の「慈愛」を見て私は思った。ああ、なんという思い上がりであろうか。彼らは無残に人を殺すかたわら、同じ手で人命救助をする事が人道的だと思っているのか。・・・同じ種である人間への、計り知れない侮蔑であり、差別である事になぜ気がつかないのか。 |
アフガニスタン 戦争 について、ブッシュの「狂気」を語る。
・・・・ブッシュの一般教書演説から
1、 わずか四ヶ月、われわれは数千人のテロリストを捕まえ。アフガニスタンのテロリスト・キャンプを直撃した。人々を飢えから救い。ひとつの国を残酷な圧制から解放した。
2、 たとえ七千マイルも離れ、海と大地で隔てられ。ヤマの頂や洞窟に潜もうとも、お前達(テロリストのこと)はこの国の正義から逃れることはできない。我々の大義は正しく今後ともそうである。
3、 この戦争(対テロ戦争)の戦費は膨大である。毎月十億ドル以上を費やしてきた。アフガンで証明されたのは、高価な精密兵器は敵を負かし、罪のない人々の命を助けるということだ。こうした兵器がもっと必要だ。
文例1、ブッシュなりの勝利宣言だが、事実はちがう。アフガンの人々は飢えから救われておらず、「解放」もされてない。
文例2、自己陶酔。これが三千八百億ドルという驚愕の国防予算をもつ戦争超大国の最高指導者の言葉なのである。
文例3、米国がアフガンで生身の人々を被験者として多彩な兵器の実験をやりましたという告白に等しい。
このような狂気に彩られた演説に対し、米上下両院合同会議はどのような反応を示したのだろうか。信じがたいことには、凄まじいばかりのスタンディング・オべーションだったのだ。狂気は勝利したといっていい。・・・・。
そして言語学者 チョムスキー を訪問し、辺見庸のブッシュ政権批判に対するチョムスキーの言葉。
・・・東京で米国人はなんてひどい事をするんだというのは簡単ですよ。あなたたちが今、しなければならない事は、自身を見る事。鏡を覗いてみる事。そうしたら、それほど 安閑とはしていられないでしょう。日本はこの半世紀以上米国の軍国主義とアジア地域での戦争に協力してきた。・・・
そして作者は気づく。
・・・・・当方がくどくどしく語り悩むほどには物理的に闘ってはいないこと。肝心の自国権力とはろくな闘争もせず、その自堕落を反米論調でまぎらかし、自他共に欺いている事。・・・・・
有事法制 の報道を通して「裏切り者」としての日本のマスコミの転向と翼賛化を語る。
・・・この国のマスメディアで有事法制反対を口にするのは、たんに月並みな知的お飾りにすぎない。口先でいうだけで、何も失う覚悟なんかありはしないのだから。ファシズムの透明かつ無臭の菌糸は、良くみると、実体的な権力そのものにではなく、マスメディア、しかも表面は深刻を気どり、リベラル面をしている記事や番組にこそ、めぐりはびこっている。撃て、あれが敵なのだ。あれが犯人だ。そのなかに私もいる。(2002年4月16日有事法制が閣議決定された日の夜に記す)
クーデター という言葉を使って有事法制の本質に迫る。
・・・・日本でクーデターが始まりつつある、比喩的にも象徴的にも、そしてある意味で、実質的にも、事態は差し迫っている。
コイズミらは、下位法である有事法制を最高法規である憲法に優先させ、憲法改定のはるか手前で事実上の「無憲法状態」を作ろうとしているのだから。これすなわち「静かなるクーデター」でなくてなんであろうか。
・・・・首謀者はむろんコイズミである。この男のいう構造改革とは、政治、経済のそれでなくして、平和構造の戦争構造への「改革」であることはいまはっきりしたといえるのではないか。コイズミ政権がなしとげた唯一の「貢献」とは、国民に対するものではなく、米国の戦争政策への全身全霊をかけた「売国」的協力でしかなかった。
・ ・・・さて、沈黙してクーデターを受入れるか、声を出して抵抗するか。すぐそこで、終わりの朝が待っている。
あとがき に示す作者の決意を最後に紹介する。
・ ・・・・「暗く陰惨な人間の歴史を振り返ってみると、反逆の名において犯されたよりも更に多くの犯罪が服従の名において犯されていることがわかるだろう」というアフォリズム。・・・・連載中のタイトル「反時代のパンセ」を本書では改題し「永遠の不服従のために」といささか大げさなものにしたのは、そのためである。・・・暗愚に満ちたこの時代の流れにただただ汲々と従うのは、おそらく非人間的な組織犯罪に等しいのだ。・・・・弱虫は弱虫なりに権力の指示にだらだらと何処までも従わないこと。いわば「だらしがない抵抗」の方法だってあるはずではないか。本書は「永遠の不服従のために」はそうした脈絡から編まれた、柔らかで永続的な抵抗を勧めるテキストでもある。
(了)