イラクへの戦争と日本の加担に反対する2.2集会
−アフガンとイラクの今―

2.2集会での講演から

貧しい者をますます貧しくさせてしまった戦争


きびしい取材環境の中で聞き出した言葉から

テロ特措法・海外派兵は違憲市民訴訟の会 世話人 細井明美


 ピース・ニュース主催、基地はいらない!女たちの全国ネットワーク協賛の2月2日の集会では、細井明美さんから、昨年12月のアフガニスタン訪問の時のお話を伺いました。下記はそのときの報告要旨です。


昨年二度にわたってアフガニスタンを訪れました。12月にはテロ対策特別措置法違憲訴訟の原告を探すために行きましたが、そのときの報告をいたします。結論から言うと結局原告は見つかりませんでしたが。

「何があっても保障できない、調査は目立たないように」と現地NGO より忠告

12月9日、成田をたち深夜パキスタンのイスラマバードに着きました。翌日アフガニスタン入国のための日本大使館レターを取得する必要があり、刑務所の様な高い塀で囲まれた日本大使館をたずねました。厳重な荷物チェックと留置場の面談室のようなところでガラス越しに書類提出をしました。2,3日はかかると言われたのですが、すぐ受け取ることが出来、早速クエッタへ行きました。

クエッタで現地のNGOからは「現在の状況では何があっても何も保障できない、被害調査は目立たないようにしてくれ」と言われました。

アフガニスタンの入国ビザをもらうとき、タリバン政権の時はないことでしたが、賄賂を要求されました。明日取得する場合は150ドル、今すぐなら200ドル出すようにと。時間もなかったので200ドル支払って入国ビザをもらいました。



暖房も薬もミルクも不足していた国境のキャンプ 「ここでは育てることができないからこの子を日本へ」 

アフガン国境のスピンボルダック・キャンプは11月に6人の子供が凍死したところです。暖房がまったくない状態では弱っている子どもたちがどんどん死んでいきます。現在、日本のNGOが薪をおくる運動をしています。皆さん、この運動を見たらぜひ協力してください。

スピンボルダックの病院の中に子どもを抱えた若い女性が、親子ほど年齢の違う年老いた男性といます。事情を聞いてみると彼女の夫だと言う。アフガ二スタンでは女性が働く場所がなく、子供を育てる事が出来ないので、戦争で夫を亡くしたその女性は夫の父親と結婚したという。赤ん坊はミルクがもらえず4日間も病院に通っているというのです。

また、別の赤ん坊を抱いた女性が、「ここでは育てる事が出来ないから、この子を日本に連れて行って欲しい」と頼んできました。私は断るしかなかったが、第二次大戦の時、日本人の女性が子供を育てられなくて中国に自分の子供をおいてきたがそれと同じではないかと思いました。また、病院では薬が大変不足していて、風邪薬のようなものはあるけれど心臓病その他複雑な病気の薬がまったくないということです。

ニダ・ムハマドという難民に会いました。彼は6歳、3歳、1歳の子どもを持ち、らくだの放牧をしていました。一昨年の11月、夜12時に、アメリカ軍が爆弾を落としていったため、三日間歩いて、身篭っていた妻と子供を抱えて隣の村までいきました。物乞いをして生活していました。 4日間なにも食べないときもありました。12月に子供は生まれたが栄養状態が悪く、昨年春にスピンボルグに流れてきたが、子供の手足が膨らむ病気になってしまっている。このままでは心配でしょうがないといっていました。気がつくと、私達の周りは難民で囲まれていました。彼は「米軍も怖いがタリバンも怖い。これ以上は話せない」と私達から逃げてしまいました。奥さんも下手な事をしゃべると、父親から殺されるので話できないという。慣習だから仕方がない面もあるが、時間をかけないと民主主義は進まないと思いました。


女性しか女性の取材ができない 男性の前では語られない言葉

次にカンダハールの手前、新しいキャンプ、ザハディー・ダストリット・キャンプに行きました。地雷原の果てにあります。左はロシアに続く道、右はカブールに続く道です。それからこれは全て地雷です。赤くなってますね(スライド)。

そこは2002年6月から8月にかけて出来たもので現在6000家族3万人の人々がいて、ゆくゆくは10万人を収容する予定だという事です。ここはUNHCRとイタリアのNGOが運営していて、彼らは私達に対し、難民と話をさせないようにするのです。メインストリートでの取材のみ許されました。メインストリートを外れて中に入れるのは女性だけです。テントの中に入れるのも女性だけです。だからこそ女性しか女性の調査が出来ないという事になるのです。

この少年(スライド)は去年空爆にあいました。ちょうどお湯を沸かしていたときで、逃げるときに背中にやけどをしました。背中を見せてくれましたがケロイド状になっています。苦しさを訴えていたのですが、彼には病院に行くお金がないのでそのままで痛みに耐えているのです。私も聞いていて、つらいと思いました。アフガニスタンの人々の苦しさは、貧しさの中に爆弾を落とされたという事なのです。病院があっても貧しくて医者にかかれないということなのです。

この彼女(スライド)ですが、昨年12月10日の夕方6時頃、男たちがらくだの放牧の最中に米軍の空爆を受けました。村にいたのは女性と子どもだけで、女性のほとんどが死にました。彼女は、パキスタンの病院で3日後に気がつきました。耳が聞こえず今も激しい頭痛に苦しんでます。足も怪我して家事が出来ないため、夫と息子に家事をやってもらっています。このように一日中据わったきりでいるのです。男性の居るところでは決して話してくれませんが、女性だけになると「村には帰りたくない、帰っても仕方がない、なぜなら村にはなにもないから」というのでした。悲しい眼をしています。


カンダハール 物価は3倍 街には活気 病院には薬がない 

それからカンダハールに入りました。当初、7月1日の結婚式に空爆があったところに行こうとしたのですが、カンダハールから8時間かかり、とても危険で行けないと現地NGOから言われ、そのときの被害者が運び込まれたミルワイス病院に行きました。空爆を受けた人たちは今何処に行ったのかと12年間働いているウスマル医師に聞いたが、まったく覚えていないと言います。そして私たちが聞きもしないのに、タリバン政府は給料をくれなかったが今の政府は給料をくれる、日本に帰ったらこれを伝えてくれと言いました。

カンダハールのミルワイス病院では多くの女性たちに囲まれ、皆口をそろえて腰が痛いという。劣化ウラン弾資料では関節などが痛くなると書いてありましたね。最近では、その影響かもしれないと思っています。

学校についてはJICAが支援しているようです。

けれど州の医療担当の役人からは散々苦情を言われました。JICAが何もやってくれない、日本は東京会議で国際援助するといっておきながら何もしない、大変困っている、と。その役人は、カンダハールは以前に比べ街は確かに活気が出てきたが物価は3倍になって生活は苦しい。薬も何もないのにどうしてくれるのかと怒っていました。

米軍についてどう思っているか、現地の人はどうなのかNGOに聞きました。タリバン時代よりもいいというのは若い人たち。今は自由だという。年寄りは反対に悪くなっているという。しかしカンダハールに戻ってきている人たちはパキスタンに逃げていた人達で、比較的裕福な人です。直接爆撃を受けた人々は貧しいので逃げる事が出来なかった人たちです。そこを忘れてはいけないと思います。

またスピンボルダックで空爆により足を無くしたといっていた女性は、テントの中で触らせてもらったら、足はありました。しかし折れ曲がり硬直していました。その女性はテントの中で泣きながら溢れるように話しかけてきました。パシュトゥン語のため良くわからなかったがその女性のつらさだけは良くわかりました。日本でしたらリハビリで直す事が出来るのでしょうが。


貧しいものをますます貧しくさせてしまったのが、今回のアフガニスタン戦争ではなかったかと思います。

テロ特措法違憲訴訟は三月に結審すると裁判長は言っています。私達の裁判闘争にも是非協力をお願いたします。