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奥州街道+鎌倉街道をあるく会
会報230号/1999.6 発行より


古代東海道の駅路を歩こう! 9

(君津〜烏田〜請西〜清川)

■企 画■
古代官道・東海道/上総編A(君津〜木更津)
■日 時■
1999.7/10(土) 12時10分〜17時頃
■集 合■
内房線・君津駅/改札口付近
■コース■
君津駅〜陽光台〜畑 沢[昼食]〜下烏田〜中烏田(示道碑)〜請 西〜清見台〜
万年橋(上総清川駅)[歩行約10KM]
■その他■
○集合には、東京発10:40(千葉11:26)総武線快速君津行(12:10着)が便利です。
東京湾アクアライン経由(川崎10:40/横浜10:35)の場合は、木更津で上記に乗換。
○昼食は、出発後に途中で採ります。
○終了後、東京湾アクアライン(海ほたる)で懇親会の予定です。
○雨天の場合は延期します。不明の場合は大竹までお電話下さい。
■今回主催■
大竹 亮■自宅:043-213-1621
■今後の予定■
未定

古代東海道の変遷●
初期東海道は、相模(平塚)から東京湾を渡って上総(市原)から常陸(石岡)
に至っていたが、武蔵国の東山道から東海道への編入(771年)、下総4駅の廃
止(805年)などを経て、延喜式(927年)に示す《相模−武蔵−下総−常陸》の
最短経路が成立したと考えられる。

▲活動主旨▲
○古代東海道の駅路は、時代とともにたびたび変遷しているが、初期には三浦半島
から東京湾・浦賀水道を渡って、房総半島に上陸していた。今回歩くコースは、こ
の初期東海道のうち、相模国府(平塚)と上総国府(市原)を結ぶ路線の一部であ
り、房総半島に上陸した後、陸路を丘陵を越えて北上するコースである。

○海を渡った前回に続き、今回も上総方面の古代官道・東海道を推定・探索したい。
時あたかも世紀末ならぬ千年紀末であり、1200年以上もの昔から歴史の舞台となっ
た道=古代東海道の駅路を歩こう! 

▲古代官道▲
           
奈良・平安の中央集権国家時代には、都から全国に向けて7つの『官道』が整備さ
れた。約16kmごとに駅家が置かれ、幅員6〜12mの立派な側溝付舗装道路が、ほぼ
一直線の最短距離で各地の国府を結んでいた。従来は記録文書からの類推の域を出
なかったが、近年になって各地で壮大な道路遺構が続々と発掘され、往時の実態が
判明しつつある。

  

▲古代東海道▲
都から海沿いに関東に至る行政圏で、官道名称でもある。足柄峠から関東に入り、
相模国府(平塚)、武蔵国府(府中)、下総国府(市川)等を経て、常陸国府
(石岡)が終点であるが、その先は勿来関等から奥州へ伸びていた。

▲海を渡る東海道▲
初期東海道は、平塚(相模国府)から藤沢を経て、三浦半島西側を鎌倉、逗子と
南下し、葉山から半島を横断して大津・馬堀の海岸を経て、走水に至っていた。
走水から対岸の富津岬までは、最短距離でわずか6kmに過ぎない。ここから海路
で大貫海岸に渡り、北上して君津・木更津を経て市原(上総国府)に向かった。
まさに、街道でなく「海道」である。

▲古代東海道の変遷▲
初期東海道は、相模(平塚)から東京湾を渡って上総(市原)から常陸(石岡)
に至っていたが、武蔵国の東山道から東海道への編入(771年)、下総4駅の廃止
(805年)、鹿島道の廃止(815年)を経て、延喜式(927年)に示す《相模−武蔵−
下総−常陸》の陸路による最短経路が成立したと考えられる。

▲中烏田の『かまくら道』示道碑▲
木更津市中烏田曲り坂(中烏田、下烏田、真舟3町の接点)に建つ道標。
『北かまくらみち、右からすだみち、左たかくらみち』とある。鎌倉道は、真舟
の住宅地を見下ろす崖上を北へ向かい、木更津湊から海路で三浦半島・六浦へ渡
ったと想定される。逆に鎌倉から来た道は、ここで高倉観音(かずさアカデミア
パーク)方面と烏田集落方面に分岐したのであろう。古代東海道の機能が失われ
ても、この地点が交通の要衝であったことを物語る。戦前の郷土史家・小熊吉蔵
氏は、この示道碑の存在を知って古街道の調査研究に没頭したという。

参考資料:
島義信「古東海道・逗子から走水を経て房総、常陸国府へ」(旧街道通信3号+4号/1989.9-1990.5)

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