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奥州街道+鎌倉街道をあるく会
会報228号/1999.4.28 発行より


古代東海道の駅路を歩こう! 8

(久里浜〜金谷〜大貫〜君津)

■企 画■
古代官道・東海道/上総編@(久里浜〜君津)
■日 時■
1999.5/16(日) 11時10分〜17時頃
■集 合■
京浜急行線・久里浜駅/東口広場(フェリー港行き京急バス停付近/11:15発乗車)
■コース■
久里浜駅…(バス)…久里浜港…(フェリー)…金谷港〜浜金谷駅…(電車)…
大貫駅〜大貫海岸〜下飯野〜本郷〜釜神橋〜君津駅
■その他■
○集合には、京急品川発10:07(横浜10:24)快速特急三崎口行(久里浜10:58)が便利。
○JR横須賀線の場合は、東京発9:23(横浜9:53)久里浜行。JRと京急駅は隣接。
○往路に横須賀線利用の場合は「東京湾フリーきっぷ」(\3090-/乗り放題)が格安。
○久里浜港 11:40発フェリー乗船予定です(集合に遅れた方は、タクシーで港へ)。
○浜金谷から大貫まで内房線千葉行に乗車予定です(浜金谷発12:58/大貫着13:19)。
○雨天の場合は延期します。
■今回主催■
大竹 亮
■今後の予定■
6月 古代東海道の駅路を歩こう!9(君津〜袖ヶ浦)

古代東海道の変遷●初期東海道は、相模(平塚)から東京湾を渡って上総(市原)から常陸(石岡)に  至っていたが、武蔵国の東山道から東海道への編入(771年)、下総4駅の廃止(805年)などを経て、  延喜式(927年)に示す《相模−武蔵−下総−常陸》の最短経路が成立したと考えられる。

▲活動主旨▲
○古代東海道の駅路は、時代とともにたびたび変遷しているが、初期には三浦半島
から東京湾・浦賀水道を渡って、房総半島に上陸していた。今回歩くコースは、こ
の初期東海道のうち、相模国府(平塚)と上総国府(市原)を結ぶ路線の一部であ
り、東京湾を横断する海路を含むコースである。

○昨年来の常陸、相模等に続き、今回は上総方面を推定・探索したい。時あたかも
世紀末ならぬ千年紀末であり、1200年以上も昔から歴史の舞台となった道=古代東
海道の駅路を歩こう! 

▲古代官道▲
           
奈良・平安の中央集権国家時代には、都から全国に向けて7つの『官道』が整備さ
れた。約16kmごとに駅家が置かれ、幅員6〜12mの立派な側溝付舗装道路が、ほぼ
一直線の最短距離で各地の国府を結んでいた。従来は記録文書からの推定の域を出
なかったが、近年になって各地の発掘等で実態が判明しつつある。  
▲古代東海道▲
都から海沿いに関東に至る行政圏で、官道名称でもある。足柄峠から関東に入り、
相模国府(平塚)、武蔵国府(府中)、下総国府(市川)等を経て、常陸国府
(石岡)が終点であるが、その先は勿来関等から奥州へ伸びていた。
▲海を渡る東海道▲
初期東海道は、平塚(相模国府)から藤沢を経て、三浦半島西側を鎌倉、逗子と 
南下し、葉山から半島を横断して大津・馬堀の海岸を経て、走水に至っていた。
走水から対岸の富津岬までは、最短距離でわずか6kmに過ぎない。ここから海路
で大貫海岸に渡り、北上して君津・木更津を経て市原(上総国府)に向かった。
まさに、街道でなく「海道」である。  
▲日本武尊伝承▲
初期東海道が陸路でなく、東京湾を渡っていたことは、上総・下総の名称に現れ 
ている(都に近い方が上手)。また、記紀のヤマトタケル+オトタチバナ遭難説
話は、流れの速い浦賀水道が難所であることを象徴している。日本武尊を祠る走
水神社は丘の中腹に鎮座して浦賀水道を睥睨しており、走水港には日本武尊軍団
が出帆した皇島が今も波に洗われている。 
▲浦賀水道▲
古代東海道が陸路に変わった後も、重要な交通路であり、現在の東京湾フェリー
はやや南側を久里浜から金谷へと運航している。
▲古代東海道の変遷▲
初期東海道は、相模(平塚)から東京湾を渡って上総(市原)から常陸(石岡)
に至っていたが、武蔵国の東山道から東海道への編入(771年)、下総4駅の廃止
(805年)などを経て、延喜式(927年)に示す《相模−武蔵−下総−常陸》の最短経
路が成立したと考えられる。

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