展覧会や関連企画についてのご意見、ご感想などを紹介するページを作りました。ここに掲載させていただいているものはみな一部抜粋で、タイトルをクリックするとオリジナルのページにジャンプするようになっています。ほかにも記事をご存じでしたら、ぜひお教えください。
益岡賢 テロと占領 2003 8.15
Ken MASUOKA Occupation and Terrorism New!
以上展開してきた、暴力の「連鎖」と一見思われ、しばしばそう報じられている事態について、原因を辿れば始点・端点があるのだから、それを変更してやれば暴力は止む、従ってそれを認識する作業が暴力を止めるための第一歩である、と言う議論は、技術的な解の方向性としては、それなりに正しい。そして、このレベルでの分析を論理的に淡々と行う必要は、確実にある。けれども、こうした主張は、すぐさま、では、暴力に悩むことがなければ、いずれにせよ暴力は止まらないのか、と言う問題を導くことになる。また、覗き見的に暴力を楽しみ、因果関係の推測を「分析」の名のもとで楽しむという最悪の態度も少なからず存在するのではないか? ●実際、ほとんどの場合、暴力の端点にある場所では、暴力に悩んではいないようであるように見受けられる。占領政策を推し進めるイスラエルの政治家や推進者たちは、むろん、パレスチナ人の命を何とも思っていない。イスラエル市民の犠牲についてはもしかすると悩んでいるのかも知れないが、政策的な観点から悩むだけのようにも見受けられる。米国によるイラク占領は、イラクの人々に加えられる暴力については嬉々として推進しているし、さらに、侵略政策を進める者たちは、米国兵士に加えられる暴力についても、自分への批判が高まるために宣伝上まずくなるという憂慮を除いては、ほとんど全く悩んでいないようである(実際、平然とウラン汚染の中に兵士を送り込んでいる)。インドネシアも状況は(程度の差はあるが)似通っているし、ロシアも、状況は似通っているだろう。暴力が(自分に直接関係ない限り)全然OKだと考えるならば、確かに暴力は止まらない。 ●ここで、長い迂回の末に、一人一人の存在に思いを巡らすこと、という倫理的な問題が再び持ち上がってくる。原因を問い原因について考えることは、暴力を止めようとする意志のもとでのみ有効であり、そのためには、他者の存在に「触れる」ことが必要となる。ここにおいて、『「シャヒード、100の命」展---パレスチナで生きて死ぬこと---』のような媒介の重要性が、改めて、決定的に浮かび上がってくる。一方、ここに至るまでに差し挟んできた原因を巡る分析の概略は、他者の存在に「触れる」ことと他者の存在に触れたという自意識を持って自閉し何もしないこととの決定的な差異を生みだす一つの要素であり得るだろう。改めて、この展覧会を、できるだけ多くの人に見て欲しいと思う。
福田幹(Miki FUKUDA) Sukima Diary Tuesday, August 19, 2003 (bilingual) New!
抽象化されえない個人に、しかもその死ではなく、生に光をあてること。しかし、美術展とはどういうことなのだろうか。遺品と写真では「美術」として成り立たせるには、あまりに政治的になってしまうのではないだろうか。会場の立命館大学の国際平和ミュージアムに行ってみた。しかし、それは「美術展」だった。言葉では語れえないもの。言葉ではなく、視覚からイマジネーションに働きかけるものがそこにあった。一方、同時に出版された写真集(カタログというよりは写真集なのだ)は、ポートレイト、遺品の写真、どんな人生を生き、どのように亡くなったのかがひとりひとり見開きでとりあげられている。8日にシンポジウムがあり、そこでこの展覧会を企画したサカーキーニー文化センターの美女所長アーディラ・ラーイディさんが言った。「パレスチナでは生きているということを実感できない。その人自身を写し出す鏡となる芸術作品、物語が表現されえないから」 The
exhibition called "Shaheed - 100 Lives" opened on 15 in Kyoto
after it held in Tokyo. This is memorial exhibition about the Shahada -
plural of Shaheed - of Intifada. Shaheed meens person who is killed for
a cause: his/her faith, homeland, or ideas. Etymologically, a Shaheed is
a "faithful witness". The exhibition is consist of photographes
and mementos of 100 shahada. This was organized by Adila Laidi, the Khalil
Sakakini Cultural Centre. And curated by the artist Samir Salameh. They
intend to show the personal lives not the number of death by the conflicts.
That's only Japan which is held expect Arabian countries. The excellent
book was also translated and published in Japan. This is an another achievement
of this project.
野村 大 人をみて自然をみるの巻 2003.8.25
Dai NOMURA I encountered individuals, and then nature
展示方法は内容と同様、本当に質素なもので、主催者としてはミニマルなものを目指しているようです。シャツや靴、ペンダント、ボクシンググローブ、コーラン、サッカーボール、そして家族の写真...それらがアクリルの箱に収められて壁をグルリと囲んでました。中でもほんとうに何気ないもの、例えば授業ノートの端に描かれた人物だか樹木だか分からないような落書きのようなものに、その人の生を実感させます。
Carlan シャヒード展を見に行く 2003.8.31
Carlan, Visiting 100 Shaheed, 100 Lives
生と死が目に見える形で隣り合わせているこの地域で、普通に生活をし、みんなみんな、誰もが夢を描くように夢を描いていた。
若者は将来への自分に夢を見、家族はそんな若者が立派に成長することを夢見ていた。
全く!
それは私たちの日常とどれだけの違いがある?
私の子どもたちはそれぞれに好きなことをし、将来に夢を馳せている。
彼らとパレスチナの彼らとどれだけの違いがある?
いつでもその夢を無残に破壊されてしまうことだ。
町田純 芸術的主張 第一回 「シャヒード、100の命」展 2003.08
Jun MACHIDA -- Artistic opinions No.1: 100 Shaheed, 100 Lives
暗いギャラリーの中で目をこらし、浮かび上がるそれらのオブジェを、我々はモダンアートのオブジェとして見ていくべきなのだ。断固、遺品ではない!そして、その視点こそが、モダンアートの欺瞞、我々の、世界の、文化の、芸術の、欺瞞に気付く唯一の道であるということだ。● 芸術か、社会的マニフェストか、アジテーションか?
そのような問いかけは全く意味がない。●それでも敢えて、頭の固い旧体制の文化愛好者に
わかるように表現するとすれば、こうだ、---- 芸術が越えられないものは、確かに存在する。-----
Toku 非在の概念を表現する 2003.08.24
Toku -- Concept of nonexistence expressed
生者と死者とが交錯する8月、「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟立ち去らでのみ」と記された京の都で、雨の中、自転車を駆っていた時、そして、圧倒的な暴力によってケースの中の遺品となってしまったものたちの遺影から見つめ返された時、私は確かに此岸に、「生の側」にあったのだ。
Toku 証言とその奥行き/モノと人間のはざまで言葉は… 2003.08.19
Toku --Testimonies and their depth: Between things and humans, words...
岡氏は、シンポジウムの会場を囲む100人のシャヒードの、遺影のそのセピア色の陰が「光なのか、闇なのか」という点から、<証言>の本質に迫ろうとした。そして次のような逸話を紹介したのであった。●シンポジウムの前日が五山の送り火だったのだが、その送り火が消えてゆく様子――光なのか、闇なのか――を観て、サミール氏が「ああ、盆は、ポンなんだね」と語ったというのだ。●ポン、つまりフランス語で「橋」である。彼岸と此岸のあいまいな時空。それこそが、「シャヒード、100の命」展の会場なのではないか、と。そして、確かに私たちは「生の側」にいるのであり、そこから彼らのまなざしに応答してゆく「言葉」を紡ぐ義務があるのではないか、と。
攝津正 ともだち100人できるかな―死者との交換 2003.08.18
Tadashi SETTSU -- Will I make 100 friends ? : Communicating with the dead
文化財は国宝として国家のアイデンティティを保持しているのだという。では、「シャヒード、100の命」展のような場合、或いはアーディラ・ラーイディさんやサミール・サラーメさんが説明してくださったようなパレスチナ芸術のような場合は? 限界状況における限界芸術。サラーメさんが語ったように、美術教師がいない、画材がない、美術館がない、芸術運動に必要不可欠である評論家がいない―にも関わらず「パレスチナ美術」がある。しかも破壊され尽くされてさえ、完璧な仕方で存在する、いや破壊し尽くされたその瞬間に完成(実現)しさえするのだ。シンポジウムで最もユーモアが溢れ、かつ最も緊張が走ったのは、岡崎さんが当日配布された資料集から次の箇所を引用した瞬間だった。
攝津正 時には立ち止まる―死んだともだち100万人 2003.08.18
Tadashi SETTSU -- I'd stop, sometimes : One million dead friends
「シャヒード、100の命」展はパレスチナという場所に固有のものであると同時にパレスチナに限定されない普遍性を提起していると考えている。例えば靖国神社に「英霊」が祀られることを通じて日本国家のアイデンティティが保持・強化されるような装置とは「別の」追悼のあり方を、実践的に、パフォーマティヴに提案していると思っている。
迷宮旅行社 お盆は終わってしまったけれど 2003.08.17
Meikyuryokosha -- Bon festival is now over
では、私たちは、身近な人を亡くした経験はあるだろうか。想像した経験はあるだろうか。他人が死ぬことではなく、自分や自分に近い人が死ぬということは、それこそ「いちばん遠く」の出来事として常にあるのではないだろうか。●いや、本当は、問題はそうではない。かりに私たちが、身近な誰かを亡くしたことがあったとして、たとえば、これほど遠いパレスチナの見知らぬの人の写真や遺品をほんの1時間でもしげしげと眺めた、その程度でもいいから、その誰かを振り返ってきただろうか、ということだ。●パレスチナがいくら身近になろうとも、それに重ねるべき身近さが自分の側にないかぎり、それはたいして意味をなさない。私たちは、なにか本当に大事なことだけは、いつもいつも見失い、見損ねてばかり、ということはないだろうか。
Alamal アラブの兄ちゃん (カタログ『シャヒードー100の命』について) 2003.08.13
Alamal --Arab
lads (comment on the Catalogue)
・・・この、浪漫ちっく好みで、ハデ好きで、というアラブ人かたぎは、写真にも現れている。アラブ人だけでなくて中東人はほとんどがそうなのだが、写真が大好き。記念写真なんかは、もう目一杯演出する。兄ちゃん連はイスに片足をかけてアゴとほおに手を当てて(これがはやりのスタイルらしい)、ニカッと笑ってこちらに流し目をくれていたりする。そして、持っている人は、しっかり皮ジャン。もう、気分は、映画スターなのだ(実際、ブロマイドを意識している)。●写真屋に行けば好みの背景をつけてくれたりする。人気の背景はエルサレムのあの金ぴかのアル・アクサ・モスク。しかし、実に遠近法を無視したような作りで、兄ちゃんがまるでウルトラマンのごとく巨大になっていて、それでもうれしいらしく、非常に誇らしげに写っている。●結婚記念の写真もこのパターンで、映画のワンシーンを意識したようなものが多い。愛し合う2人がひしっと抱き合った写真とか(ほんとうに、ひしっ、としか言えないポーズである)、希望の未来を二人でうっとりと見つめる写真とか。日本で、高校生くらいの男の子がお父ん、お母んのこんな写真をアルバムで見つけたら、ちょっと暴れたくなるのではなかろうか、という写真だ。・・・