欠損した「日常性」を憧憬する 〜パレスチナ・アートの現在 |
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西岸地区のラマッラーにあるサカキーニー文化センターが、パレスチナの野の花をテーマにした2004年カレンダーを出しています。毎年カレンダーを出しているわけではなくて、さるドイツの団体から資金提供があったおかげで可能になった一回きりのプロジェクトなのだそうです。でも増刷するほどの大好評だったらしいので、第二弾が出る可能性もあります。 |
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上の水彩画はLois Makhlehの作品。カレンダーにはJoan Musgraveの作品も収録されています。 painted by Lois Makhleh & Joan Musgrave, copyrights Sakakini Cultural Center, all rights reserved |
伝統タイルのパターンを配置しているところも見逃せない主張です。この土地にずっと住んできたのは誰だったのかをさりげなく誇示しているのですから。「無人の地」への入植者が「砂漠を緑に変えた」というイスラエルの建国神話への反論として、土地の自然に結びついた自分たちの伝統を強調するほど効果的なものはないでしょう。ラテン語の学名とアラビア語による呼び名が併記され、訳文には英語名も出ています。そういえば、植物画のジャンルにはキューガーデンにギャラリーのあるマリアンヌ・ノースのような人物もいたなあ。そういうものに対しては、一種のPaintng
Backになっているのでしょうか。
こういうものがシオニストにとっては一番てごわい表現方法なのではないかという気がします。非常にめざわりだけれども噛みつく隙がない。
「国際的な舞台では、パレスチナ人が物語ろうとするたびに──パレスチナの物語の中断と、そのイスラエルの物語との関係を劇的に描き出そうとするたびに、組織的な攻撃を受けるのです」(E・サイード)
パレスチナ人の視点に立った芸術表現の欧米での公開には妨害がつきもの。公開の阻止には至らなくとも、ヒステリックな糾弾や物騒な示威行動によって、すでにアートを鑑賞するという雰囲気はぶちこわされてしまいます。2003年に日本に招聘された「シャヒード、100の命」展でも、「シャヒード」という言葉が「テロを支持する」ものだとして攻撃されましたが、そのような理不尽な中傷に公に反論して筋を通せば展覧会そのものが損なわれたでしょう。そういう条件のなかで育ってきた表現活動であることも認識する必要があると思います。
つい先月も、米カンサス州のウィチタ州立大学でパレスチナ出身の美術家の展覧会が不当な圧力を受けてだいなしになりかけたという事件がありました。作品自体もとても優れたものなので、紹介しておきます。
ベツレヘム出身で現在はアメリカの市民権を持つエミリー・ジャーシルは、国際的に高い評価を受けている新進気鋭のコンセプチュアル・アーティストです。「Where We Come From」という写真展は、在外と在郷のパレスチナ人に対して「あなたの代わりにわたしがパレスチナでなにかしてあげられることがあるとすれば、それはなんでしょう」と問い、彼らのリクエストを忠実に実行しした結果(実行不能なものもあった)を、32枚の写真と関連文書、一本のヴィデオによって淡々とつづったものです。
「ハイファで最初に会ったパレスチナ人の子供とサッカーをする」、「両親の住んでいた村に行って、そこの水を飲む」など、寄せられたリクエストはさまざま。
「米国パスポートを持つエミリーはイスラエルでも占領地でも自由に行き来することができます。でも故郷を自由に訪れる権利を奪われている多くのパレスチナ人にとって、それは得がたい「特権」です。この理不尽な特権を逆手にとって、パレスチナ人の置かれた状況の悲哀をきわだたせようとする作家の意図がはっきりと伝わってきます。
エルサレムにある母の墓を彼女の誕生日に訪問して花を添えて欲しい」──そうリクエストした男は占領地であるベツレヘムに住んでおり、ほんの数キロ先にあるエルサレムを訪問するのにイスラエル当局の許可が必要です。前回の母親の命日には許可がおりませんでした。エミリーが彼に代わってエルサレムの墓地を訪れると、その隣にオスカー・シンドラーの墓があり、たくさんの観光客がたむろしていたそうです。この英雄の隣に埋められた女には、数キロ離れたところに住む息子が墓参りすることを拒まれていることには気づかずに。
このプロジェクトの背景には、ここ何年かのあいだにどんどん増殖していったチェックポイント、イスラエルと占領地の境界、占領地の地区相互の境界が、パレスチナの領土を細切れに分断し、それぞれの狭い区域に住民を押し込めているという状況があります。ニューヨークとラマッラーを行き来して暮らすエミリーは、その変化を身をもって体験してきました。サウジアラビアで育ち、高校はイタリア、大学テキサス、その後もパリ、コロラド、ニューヨーク、パレスチナを転々とし、移動を常態とする暮らし方をしてきた彼女にとって、旅すること、一つの領域から他の領域へ移動するプロセスと越境の意味をつきつめることは、つねに創造行為の中心テーマでした。ときには挑発的なメッセージを込めた作品には、悲しみと哀愁が漂っています。
この作品はこの春にウィチタ州立大学(WSU)のウルリヒ美術館で展示されることが一年前から決まっていました。ところが直前になって地元のユダヤ人団体から横槍が入りました。パレスチナの状況について一方の立場からのみ説明させることがイスラエルへの反感をあおるとして危機感を訴え、自分たちの側の見方もアピールをする機会を与えてバランスをとるべきだというのです。大学側はこの圧力に屈して、彼らの政治見解を載せたパンフレットを作品の展示会場に置かせろという要求を受け入れてしまいました。
「バランスをとる」というのは一種の決り文句になっていますが、このような主張がまかり通って、アーティストの表現の場に政治的な反対意見から干渉することが許されるのであれば、芸術表現はなりたちません。美術展は表現の場であって、論争をする場ではない。そもそもバランスが要求されるところではないはずです。さいわい今回は、アーティスト本人と美術館長の決然とした抗議を受けて大学側が上記の措置を撤回したため、逆にそのような干渉の不当性が確認される結果になりました。この問題についての一般的な認識は少しずつでも着実に向上しているのかもしれません。
ベツレヘムのルーテル教会は、ユニークな国際文化交流と地域文化振興のための施設を運営しています。宗派の違いを越えて普遍性を志向するエキュメニズムの伝統を汲み、パレスチナ社会の全体に奉仕する施設として、ベツレヘム国際センター(ICB)が1995年に正式に発足しました。フィンランドなどスカンジナビア系の資金に支えられて、宿泊施設、レストラン、シアター・ホール、ギャラリー、メディア・センターなど設備は非常に充実しており、スタッフも海外で高等教育を受けた優秀な女性が多いのが特徴です。同じルーテル教会の二つの教育機関と一体になって、学際的で地域のニーズに合致した柔軟で多面的なプログラムを提供しています。昨年秋にパレスチナを訪問した目的のひとつは、ここでオリーヴを使った紙漉きのワークショップをすることでした。
併設のダル・アルカリマ・アカデミーは、パレスチナ社会を構成するさまざまな人々に高度な教育の機会を提供することを目的とし、音楽、美術工芸、メディア、コミュニケーション、文化財管理、観光などのコースを備えています。とくに力を入れている分野は女性の社会進出の促進や、従来型ではない観光(中心産業なので)、そして最大の目玉が番組制作・放送の試みを中心としたメディア教育なのだそうです。また、ラッマーラにあるナショナル音楽学校と提携してその分校にもなっています(2004年からは故サイードの名前を冠して、エドワード・サイード・ナショナル音楽学校と呼ばれるようになっています)。
こうした活動はみな、最終的には堅牢な市民社会を築いていくことを目標としているのだというということが、明瞭に打ち出されているのが印象的でした。ここに一つの抵抗のかたちを見たような気がします。
2002年のイスラエル軍の侵攻でこの施設も甚大な被害を受けました。ルーテル教会はイスラエル軍の司令部として利用され、ここの牧師でICB所長のミトリ・ラヘブ師も危うく殺されかけるという場面もありました。その後も長時間の外出禁止令(2002年には24時間の外出禁止令が156日も出されたそうです)や交通遮断による市民生活の圧迫は続き、唯一の産業といってよい観光も氷河期の状態で、ベツレヘムの町全体がゆっくりと窒息死に向かっている感じです。それでもICBのスタッフは性根がすわっていて、なにがあってもあきらめないと言って前向きな活動計画を練り続けています。この施設を再建し、文化交流と教育の活動を維持することによって、暴力によらない抵抗の意志を表明することができるという信念が、ダル・アルカリマ・アカデミーの所長ヌハ・ホウリーの話から強く伝わってきました。
どんなに抑圧されてもこの土地を去るつもりはないし、あくまで通常の生活を維持し、コミュニティを機能させる努力を続けるという抵抗姿勢は、ICBにかぎらず占領下の人々の共通認識になっているように思われます。「ふつうの生活」というのがキーワードだなあと思ったのは、ビルゼイト大学の新設美術館のオープニングで「ステイトレス・ネイション」というインスタレーションの作品を見たときでした。市民権のフロンティアを表現するという副題のこの作品は、国のない民の存在の諸相を三画面のスライド・ショー、ヴィデオ・インタヴュー、インスタレーションという複数のメディアによって描き出したものです。インタヴューは占領地、イスラエル、パレスチナの外という異なる状況におかれたパレスチナ人の作家やアーティストたちになされたものですが、いま何をいちばん望むかという問いに対して、みな口を揃えたように、普通の生活がしたい、普通の人生を送りたいと述べていたことが印象的でした。
普通の日常生活が成り立たないような状況のなかでは、「日常性」は退屈なものどころか憧憬の対象、なによりも価値のある、失われた宝となります。そもそもパレスチナ人の語りには、自分たちには何か決定的に大事なものが欠けているという欠損意識が感じられることが多いのですが、「日常性」もある意味で欠損として渇望されているのかなと思ったりもします。
かつてのような解放闘争と一体化した直裁的なナショナリズムの表出に代わって、日常的な生活のなかの些細な喜びや悲しみを描くことがパレスチナの表現活動の主流を占めるようになってきていのですが、このような「日常性」はけっして政治性の除去とはいえないでしょう。
このような流れは美術の世界だけものではありません。ナザレ出身のエリア・スレイマン監督の映画「D.I.」も、ラッマーラに拠点を置くアルカサバ・シアターの劇「アライブ・フロム・パレスチナ」も、日常性のなかの悲喜劇をポエジーと辛らつなユーモアで描くというものでした。こうした表現の世界における傾向が、政治的な方面では非暴力主義の抵抗運動や、ナショナリズムより市民権の要求を前面に出すような動きが少数派ながらも顕在化していることと、どのように呼応しているのかは興味があるところです。
(2005年1月12日)
To be continued...