Edward Said Extra サイード オンラインコメント | |
いちばん憂鬱になるのは、世界の中でアメリカが果たしている役割を理解することや、アメリカの東西両海岸(これが長い間、平均的アメリカ人の意識からアメリカ以外の世界をはなはだしく遠ざけ、事実上消滅させてきた)の向こう側にある複雑な現実へのアメリカの直接の関与を理解するためには、ほとんど時間が割かれていないことである。このような状況では、たいていの人々は「アメリカ」は眠れる巨人であると思い込み、じつはイスラーム圏のあらゆるところでほぼ間断なく戦争や紛争をひき起こしている超大国であるという事実には気づかないだろう。ウサマ・ビンラディンの名前と顔は、アメリカ人にはもう何も感じなくなるほどおなじみになっており、その結果として、彼や謎につつまれたその信奉者たちがこれまで何をしてきたかという歴史(彼らは二〇年前アフガニスタンにおいて、アメリカがソ連に仕掛けた「ジハード」に義勇兵として志願してきた重宝な駒だった )はいっさい消去されてしまった。これによって、共同幻想のなかにおいて彼らを、およそ忌まわしく憎らしいものすべてのシンボルに仕立て上げることが可能になったのである。 そこで必然的に、集団的な熱狂はジョウロにそそがれたように戦争熱へとなだれ込んでいるのだが、その姿は、ひたすらモービー・ディック(白鯨)を追い求めるエイハブ船長に、薄気味が悪いほど似ている。しかし現実に進行していることは、はじめて自国を踏みにじられた帝国主義の大国が、突如として仕切りなおされた世界の紛争地図のなかで、明瞭な国境も、目に見える関与者も確定しないままに、利益の追求に組織的に乗り出したという事態である。それが何をもたらすかという配慮も、修辞上の抑制もきれいさっぱりと捨て去られ、マニ教的な〔善悪二元論の〕シンボルと黙示録的シナリオがメディアに乗って撒き散らされているのである。 |
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集団熱 The Events and After(Collective Passion) Al Ahram 2001年9月20-26日号の記事 |
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ニューヨークを(規模は劣るがワシントンも)襲った壮絶な大惨劇は、姿の見えぬ得体の知れない襲撃者、政治的メッセージのないテロ活動、無分別な破壊などが起こりうる、新しい世界の到来を告げるものであった。この傷ついた都市の住民には、狼狽、恐怖、恒常的な憤慨とショックがこれからも長くつきまとうに違いない。また、これほど多くの人々がこのような殺戮に巻き込まれたことに対する偽りのない悲しみや悲嘆も、長く疼きつづけるであろう。 ニューヨーク市民が幸運だったのは、ルディ・ジュリアーニ市長という、しんらつなシオニスト的見解で知られ、ふだんは人好きのしない、不快なほど攻撃的で、時代に逆行するとさえいえるような人物が、一転して第二世界大戦中のイギリスにおけるチャーチルのような役割を果たしはじめたことだ。冷静に感傷をおさえつつも大きな思いやりをもって、市長はニューヨーク市の英雄的な警察、消防、救急部隊を現場に派遣し、彼らの中からも多大の人命の犠牲を出しながら、見事な成果を挙げたのである。パニックとジンゴイズムに基づく攻撃が、この都市の多数のアラブ系住民やムスリムに加えられることに、まっ先に警告を発したのもジュリアーニだった。彼はまた、誰よりも先に、だれもが共有している苦悶を表明し、この大きな打撃から立ち直り、日常生活を取り戻すべく努力するよう、すべての市民に要請した。 できれば、ここまでで終わっていて欲しかったものだ。だが、もちろんテレビは全国ネットを通じて、この翼をつけた巨大な破壊神の恐怖をすべての世帯に送り届けた。報道は間断なく執拗に続いたが、必ずしもためになる内容ばかりではなかった。たいていの論評は、大多数のアメリカ人が感じているであろうと予想されるわかりきったことを強調し、それどころか誇張さえしている──手ひどい損失、怒り、憤激、弱いところを叩かれたという意識、怨恨と野放しの報復願望。メインストリームの放送局は、ただひたすらに、何が起こったのか、テロリストは誰だったのか(いまだ何ひとつ証明されていないのだが、そんなことは告発が延々とくり返されることの妨げにはならない)、アメリカはどのように攻撃されたのか、などを延々とくりかえし確認するばかりで、それ以外はなにも語らない。 型にはまった悲嘆と愛国心の表出を一通り済ませた後で、政治家や著名な識者や専門家はみな、わたしたちは不屈の意思を持っており、テロリズムが根絶されるまで戦い抜く決意があると、律儀にくり返している。これはテロに対する戦争である、と誰もが言う。しかし、いったい世界のどこで、どのような領域で、どんな具体的目標を想定して戦うというのか? 答えはなにも与えられず、ただ中東とイスラームが「われわれ」の対抗する相手であり、テロリズムは消滅させねばならないという漠然とした示唆が返ってくるばかりである。 しかしながら、いちばん憂鬱になるのは、世界の中でアメリカが果たしている役割を理解することや、アメリカの東西両海岸(これが長い間、平均的アメリカ人の意識からアメリカ以外の世界をはなはだしく遠ざけ、事実上消滅させてきた)の向こう側にある複雑な現実へのアメリカの直接の関与を理解するためには、ほとんど時間が割かれていないことである。このような状況では、たいていの人々は「アメリカ」は眠れる巨人であると思い込み、じつはイスラーム圏のあらゆるところでほぼ間断なく戦争や紛争をひき起こしている超大国であるという事実には気づかないだろう。 ウサマ・ビンラディンの名前と顔は、アメリカ人にはもう何も感じなくなるほどおなじみになっており、その結果として、彼や謎につつまれたその信奉者たちがこれまで何をしてきたかという歴史(彼らは二〇年前アフガニスタンにおいて、アメリカがソ連に仕掛けた「ジハード」に義勇兵として志願してきた重宝な駒だった )はいっさい消去されてしまった。これによって、共同幻想のなかにおいて彼らを、およそ忌まわしく憎らしいものすべてのシンボルに仕立て上げることが可能になったのである。そこで必然的に、集団的な熱狂はジョウロにそそがれたように戦争熱へとなだれ込んでいるのだが、その姿は、ひたすらモービー・ディック(白鯨)を追い求めるエイハブ船長に、薄気味が悪いほど似ている。しかし現実に進行していることは、はじめて自国を踏みにじられた帝国主義の大国が、突如として仕切りなおされた世界の紛争地図のなかで、明瞭な国境も、目に見える関与者も確定しないままに、利益の追求に組織的に乗り出したという事態である。それが何をもたらすかという配慮も、修辞上の抑制もきれいさっぱりと捨て去られ、マニ教的な〔善悪二元論の〕シンボルと黙示録的シナリオがメディアに乗って撒き散らされているのである。 いま求められているのは状況を理性的に理解することであって、これ以上に戦争熱を鼓吹することではない。だが、ジョージ・ブッシュと彼の閣僚たちがのぞんでいるのは明らかに後者である。しかしながら、イスラーム圏やアラブ圏の大半の人々にとっては、公的機関としてのアメリカ合衆国は、イスラエルのみならず無数の抑圧的なアラブの政権に偽善者ぶった気前のよい援助を与える一方、本当に非宗教的な運動や不満を持つ人々が推進しているには無関心で、対話の可能性さえなおざりにしてきた傲慢な大国にほかならない。この文脈における反アメリカ感情は、トーマス・フリードマンのような権威のある識者が主張しつづける近代性への嫌悪やテクノロジーへの嫉妬に基づくものではない。その根拠になっているのは、具体的な干渉や、個別の略奪行為についての物語なのだ。アメリカによる経済制裁に苦しむイラクの民衆や、アメリカの支援のもと三十四年におよぶイスラエルの軍事占領下におかれてきたパレスチナの人々にとっては、冷血に遂行されてきた残忍で非人道的な政策の物語なのである。 イスラエルは、いまやシニカルにアメリカの大惨事を利用して、パレスチナ人に対する軍事占領と弾圧を強化している。二〇〇一年九月十一日以降、イスラエル軍はジェニーンやエリコを侵略し、ガザ地区やラーマッラー、ベイト・サッフール、ベイト・ジャッラなどの町に爆撃をくり返し、多数の民間人を死傷させ、膨大な物的被害をもたらしている。もちろん、こうしたことはみな、アメリカの提供した武器によって「テロとの戦い」といういつもの虚言のもとに、恥知らずに進められてきたのだ。アメリカのイスラエル支持者は、「今やわれわれは皆イスラエル人だ」といったようなヒステリックな叫びに訴えて、世界貿易センターおよびペンタゴンの襲撃とイスラエルに対するパレスチナ人の攻撃を結びつけようとしている。両者をつなぐのは「世界テロ」という絶対的な結合詞であり、そこではビンラディンとアラファートのあいだに何の区別もない。 今回の事件は、それが起きた原因についてアメリカ人に反省をうながすきっかけとなったかも知れないのに(パレスチナ人、ムスリム、アラブ人の多くが、これまでずっと非難してきたことだ)、シャロンのプロパガンダによる大勝利へと変容させられてしまったのである。パレスチナ人には、現在もっとも邪悪で凶暴な局面に至ったイスラエルの占領支配からも、そこからの解放を目指す彼らの民族運動に浴びせられた悪質な中傷からも、身を守るすべがまったくないからだ。 アメリカでの政治レトリックは、「テロリズム」や「自由」などといった言葉をまき散らすことによって、このような現実を覆してきた。もちろん、このような大きな抽象観念には、たいていの場合あさましい物質的利害がうらに潜んでいるものである。すなわち、石油産業、国防産業、シオニストという三つの圧力団体が手を握り、中東世界全体に対する支配を固めているのだ。加えて、日々変容する「イスラーム」に対する旧来の宗教的な敵意(と無知)もある。一番よくあるのは、おきまりの専門家(ジュディス・ミラー 、フォアード・アジャミー、スティーブン・エマーソンなど)をテレビ論評、新聞や雑誌での記事掲載、集会の開催、研究発表などに起用して、「イスラームと暴力」とか「アラブのテロリズム」といったような題目で、前後の文脈も本当の歴史もないままに、ありきたりの一般論を、尊大ぶってまき散らさせることである。キリスト教(ユダヤ教でもいいのだが)と暴力の関係についてセミナーを開こうとは誰も思わないのはなぜだろう、というのばあまりに自明な問いというものだろう。 ここで思い出さねばならないのは(誰も口にしないが)、中国が石油消費量においてもうじきアメリカに追いつくということである。アメリカにとっては、ペルシャ湾岸とカスピ海沿岸の石油供給に対する支配を強化することがこれまで以上に緊急な課題となっているのである。アフガニスタンに対する攻撃は、旧ソ連邦の中央アジア共和国を中継基地として利用することも含め、湾岸地域からその北方の油田地帯に向かって広がるアメリカの戦略地域(アーク)に対するアメリカの支配を固めることにつながり、将来だれかがそこに割り込んでくることをきわめて難しくするだろう。パキスタンに対する圧力が日々積みあがるにつれ、この地域でも政情不安と動揺が9月11日の事件の結果として大幅に増大することは確実である。 しかし知識人の責任を果たすためには、より一層批判的な現実認識が必要となる。テロという行為はこれまでにももちろん存在してきたし、近代における解放運動のほぼすべてが、どこかの段階でテロという手段に頼る時期を持っていた。このことは、マンデラ率いるANC(アフリカ民族会議)にもあてはまったし、シオニズムを含む他のすべての運動についても真実なのだ。さらに言えば、F16戦闘機や武装ヘリコプタで無防備な一般市民を爆撃することは、従来型のナショナリストが行ってきたテロと、まったく同一の構造と効果を持っているのである。すべてのテロがとりわけ悪性のものになるのは、宗教的、政治的な抽象概念や、歴史や良識から逸れつづける還元的な神話に、それが結び付けられたときである。アメリカであれ中東であれ、このような場面でこそ、宗教にとらわれない思想が前面に進み出て、その存在をアピールしなければならない。どのような運動も、神も、抽象概念も、罪のない人々を大量に虐殺することを正当化することはできない。とりわけこれを強調しなければならないのは、ほんの一握りの人々がそのような行動の指揮権を握り、選出されたわけでも本当に委託されたわけでもないのに、自分たちがその運動を代表していると勝手に思い込んでいる場合である。 一方、ムスリムのあいだでも争われているように、一つのイスラームなどというものは存在しない。いくつものアメリカがあるように、いくつものイスラームがあるのだ。このような多様性は、あらゆる伝統、宗教、民族についてあてはまることであり、一部の信奉者たちが自分たちの周りに境界線を引き、その信条をきれいに並べて固定しようとすることは空しい努力である。また、歴史というものは、デマゴーグたち(その支持者や対抗者たちが主張しているよりは、ずっと狭い範囲のものしか代表していない)が提示するようなものより、はるかに複雑で、矛盾したものである。 宗教や道徳における原理主義者の困ったところは、今日の世界では、革命や抵抗運動についての彼らのプリミティブな観念(殺すことも殺されることも厭わないということを含め)が、高度なテクノロジーや自己満足的な途方もない象徴的な蛮行とあまりにも容易に結びつくように思われることだ。(ジョセフ・コンラッドは、驚くべき先見性を発揮して、早くも一九〇七年、『密偵』という小説の中でテロリストの原型を描いている。簡潔に「教授」とだけ呼ばれるこの男は、どのような状況でも作動する完璧な起爆装置の完成のみに関心を持つ。彼は、何も知らない哀れな少年に手作りの爆弾を持たせてグリニッジ天文台に送り込み、「純粋科学」への攻撃としてこれを破壊する)。 ニューヨークとワシントンで自爆攻撃を遂行した者たちは、貧しい難民などではなく、中産階級の、教育のある男たちであったと思われる。教育や大衆動員や地道な組織化による運動の推進に力を入れるような賢明な指導体制に恵まれぬため、困窮にあえぐ貧民たちは呪術的思考に追いやられ、宗教的なでまかせの衣に包んで提供される、てっとりばやい流血の解決へと走るようになるのだ。このことは中東一般についても当てはまり、パレスチナについては特にそうなのであるが、同じことはアメリカ――世界の中でも最も宗教的な国である――についても言えるのだ。また、(宗教とは無関係の)世俗の知識人たちが、同朋の大多数がこうむっている紛れもない苦しみを軽減するため、これまで以上の努力を払って研究を進め提案を行っていくことを怠っていることにも、大きな責任がある。これらの大衆は、グローバリズムと不屈の軍備拡張主義によって悲惨と困窮のなかに陥れられ、やみくもな暴力と将来の救済についての曖昧な約束以外には、何も頼るべきものがないのだ。 これに対し、アメリカは軍事的にも経済的にも巨大な力を所有しているが、だからといってこの国に良識や道義的な理念が約束されているわけではない。頑迷が美徳とされ、自国だけは例外とすることが国家の天命とみなされている現状では、特にそうである。「アメリカ」は、きわめて不確かな根拠と曖昧な目標のもとに同盟国を無理やり引きずり込んで、国外のどこかで戦うことになる長い戦争に備えて準備を進めている。だが、この危機に際して、懐疑を表明したり人道主義を唱える声はほとんど聞かれない。わたしたちは、「文明の衝突」と言われる図式のなかへ人々をふり分ける想像上の境界線から一歩身を引いて、そのような分類のラベルを再検討する必要がある。利用できる資源は限られているのだという事をもう一度よく考えて、互いに運命を分かち合おうと決意する必要がある。事実、それこそが、好戦的な主張や信条の存在にもかかわらず、諸文化がこれまでおおむね守ってきたことなのである。 「イスラーム」と「西洋」は、やみくもに従うべき旗印としてはまったくもって不適切である。そのもとに馳せ参ずる者も当然でてくるであろうが、批判的な躊躇もなしに、相互に依存した不正と抑圧の歴史を考察することもなしに、共に解放される道を探ることも、相互の啓蒙を試みることもなしに、後の世の人々に長引く戦争と受難を押しつけるのは身勝手もはなはだしいといえよう。「他者」を悪魔扱いするような手法に基づいていたのでは、まっとうな政策の展開は望めない。とりわけ現在のように、テロの根源となっている不公正と窮乏に取り組むことが可能であり、それを通じてテロリストを簡単に孤立させ、思いとどまらせ、締め出すという別の選択肢のあるときには、とるべき手段ではない。後者の実現には多大の忍耐と教育が必要とされるが、暴力と被害をさらに一層拡大させるよりは、ずっと効率のよい投資である。 だが当面の見通しは、非常に大規模な破壊と被害の引き起こされる方向である。燃え上がる愛国心と威勢のよい主戦論を前にしては反撃を企てるものなどほとんどないだろうと、アメリカの政策当局は自分たちの支持層の心配と不安につけ込んでシニカルに確信しているからだ。当面は、このような愛国心と主戦論が反省や理解を遅らせ、常識さえも遠ざけることになるのだろう。それでもなお、わたしたちのなかで、耳を傾ける用意のある人々──少なくともアメリカやヨーロッパや中東には大勢いる──に声をとどけられそうな者は、できるかぎり冷静に、かつ辛抱強くそれを実行するようつとめねばならない。 Al-Ahram Weekly Online 20 - 26 September 2001 Issue No.552 |