Edward Said Extra  サイード・オンラインコメント

結局のところ、わたしたちは一つの民族、一つの社会なのであり、イスラエルがパレスチナ自治政府に加えた猛攻撃にもかかわらず、わたしたちの社会はいまも機能している。わたしたちが一つの民族である理由は、わたしたちにはちゃんと機能している社会があり、一つの民族としてのわたしたちが経験してきたありとあらゆる嫌がらせ、歴史の残酷な回転、不運、悲劇にもかかわらず、その社会は(過去54年間続いてきたように)これからも続いていくからだ。イスラエルに対するわたしたちの最大の勝利は、シャロンや彼の同類たちにはそれを認識する能力が欠けているということだ。それゆえに彼らは、その巨大な力と非人間的な残虐性にもかかわらず、いずれは敗退する運命にあるのだ。わたしたちは自分たちの過去の悲劇と記憶を克服しているが、シャロンのようなイスラエル人たちにはそれができていない。彼が墓場に持っていくのは「アラブ殺し」の名前だけで、政治家としては自国民に動揺と不安の増大をもたらした失敗者として記憶されることになるだろう。もちろん彼があとに残すものは一人の指導者の遺産であり、これから来る世代の足場となるもののはずだ。だが、シャロンもモファズ(参謀総長)も、また彼らと共にこの死と大虐殺のサディスト的なキャンペーンを遂行している者たちは皆、その後に残すのは墓石だけということになるだろう。否定は否定を増殖させるだけだ。


この先を考える
Thinking ahead
Al Ahram Weekly 2002年4月4〜10日 No.580号

パレスチナに少しでも関わりある者はみな現在、気の遠くなるような怒りとショックに打ちのめされている。ほとんど1982年の出来事の再現ではあるものの、現在イスラエルが(ジョージ・ブッシュのあきれるほど無知でグロテスクな支持のもとに)パレスチナの人々にしかけている全面的な植民地制圧攻撃は、1971年と1982年にシャロンがパレスチナ人にしかけた前二回の大規模な侵略よりもさらにひどいものである。政治的・精神的な状況は今日ではずっと露骨で還元主義的なものになっており、メディアの有害な役割(パレスチナ人の自殺攻撃だけをとり出して、その背景となっているイスラエルによるパレスチナ領土の35年にわたる非合法占領という文脈から切り離すという役割りにほぼ専念していた)はイスラエル寄りの偏向を一段と強めており、合衆国の力はさらに揺るぎないものとなり、テロリズムに対する戦争はすっと強力にグローバルな課題を独占するようになっている。その一方で、アラブ世界の環境はといえば、これまでにも増して一貫性を欠き、分裂を深めている。

このような条件を受けてシャロンの殺人衝動は高揚し(そういう表現が適切ならばだが)、おまけに巨大化している。これはつまり、彼は以前より処罰を恐れることなくずっと大きな危害を加えることが可能になっているということだ。しかし同時にまた、彼のこれまでの努力も、築いてきた業績も、否定と憎悪に凝り固まった政策の失敗によってずっと大きく損なわれている。そのような否定と憎悪は、結局のところ政治的にも軍事的にも実りをもたらすものではない。このような民族間の対立には戦車や戦闘機で排除できるもの以上の要素が含まれているのであり、非武装の一般市民に対する戦争は決して(シャロンがテロについての愚劣な念仏を幾度ぎこちなく吹聴して回ろうが)彼が夢のお告げで約束されたような本当に永続的な政治的成果をもたらすことはない。パレスチナ人はいなくなりはしない。おまけにシャロンはほぼ間違いなく自国民の不興を買い、退けられることになる。彼には何の計画もなく、ただパレスチナとパレスチナ人にかかわるものをすべて破壊しようとするばかりだ。アラファトとテロに対する病的な憤怒の固着も、結局はアラファトの声望を高める一方、本人の見さかいのないモノマニアぶりに注意をひきつけるだけの結果となった。


だが結局のところ、彼のことはイスラエルが面倒をみるべき問題だ。わたしたちにとって、現在の重要課題は精神的に持てる限りの力を使って次のことを確認することだ──犯罪的な戦争によって甚大な被害を被ってはいるが、わたしたちは決してあきらめない。 ズビグニュー・ブレジンスキーのように高名で尊敬できる元政治家が、イスラエルはまるでアパルトヘイト時代の南アの白人至上主義政権のようにふるまっていると国営テレビではっきり公言するようになったときには、そのような考えを抱いているのは彼ひとりではないと考えてまず間違いない。また、次第に多くのアメリカ人や他の国の人々が、イスラエルに対して、たんに幻滅するばかりでなく、合衆国にとって途方もなく高価な金食い虫の被後見人、あまりにも大きな代償を要求し、アメリカの孤立を深め、アメリカに対する同盟国や国民の評判を大きく損なう存在として愛想を尽かすようになってきていることも間違いない。問題は、この最大の難局に際して、わたしたちは現在の危機から理性的に何を学びとり、将来の計画に資することができるのかということだ。

いまぜひとも述べておきたいことは、内容は絞ったものの、アラブと西洋の両世界で育った者としてわたしがパレスチナ運動に注いできた長年の努力のささやかな成果といえるものだ。わたしはすべてを知っているわけでもないし、すべてを語れるわけでもないが、この難局にあたって自分に提言できるいくつかの考えの一部をここに挙げておきたい。以下の4つのポイントは、それぞれ互いに関係し合っている。

1)良かれ悪しかれ、パレスチナは単にアラブやイスラムの大義というだけのものではない。相異なり矛盾しながらも交差する様々な諸世界にとっても重要性を持っている。パレスチナの運動にかかわれば必然的にこれらの多様な側面への認識も強まり、それらについて絶え間なく自己啓発することになる。そのため、わたしたちには教養深く油断のない洗練された指導部と、それを支える民主的な支持が必要だ。とりわけわたしたちには、マンデラが彼の闘争について倦むことなく唱えつづけたように、パレスチナがこの時代の大きな道義的主張の一つであるという自覚が必要だ。従って、パレスチナはそのようなものとして扱わねばならない。貿易交渉や物々交換の対象などであってはならないし、出世の手段であってもならない。正義を掲げてこそ、パレスチナ人は高い道徳的な位置を獲得・維持することができる。

2)ここには様々な種類の力が作用しており、その中で一番はっきり見えるのが軍隊だ。だが、イスラエルの過去54年間にわたるパレスチナ人への仕打ちを可能にさせてきたのは、イスラエルの行動を正当化し、その一方でパレスチナ側の行動の価値を貶めて抹消しようとする、慎重かつ科学的に計画されたキャンペーンの成果である。それはただ強力な軍隊を維持するというだけのことではなく、合衆国や西ヨーロッパを中心に世論をまとめ上げるという問題なのだ。ゆっくりと整然とした活動の積み重ねにより、イスラエルの立場を共鳴しやすいものに見せる一方、パレスチナ人はイスラエルの敵であり、ゆえに「われわれ」の不快で危険な敵とみなされるよう仕向けることで生み出された力である。冷戦が終結して以来、世論や映像や思考の組織化という点でヨーロッパの退潮は著しく、取るに足らぬ存在と化している。アメリカが(パレスチナそのものは別にして)その主戦場となっている。この国においてわたしたちの政治運動を大衆レベルで系統的に組織することの重要性をわたしたちはまったく理解してこなかったが、普通のアメリカ人が「パレスチナ人」という言葉が出るたび即座に「テロリズム」を連想するなどというようなことを防ぐにはそのような努力が必要なのだ。イスラエルの占領に対する現場の抵抗運動を通じてわたしたちが獲得したものがあったとすれば、それをこの種の活動がまさに文字どおり「守って」くれるのだ。

イスラエルがわたしたちに何をしても平気なのは、わたしたちを守ってくれるような世論体系が存在しないためだ。そういうものがあれば、シャロンも戦争犯罪を犯しながら自分の行為はテロリズムに対する戦いだなどと言ってのけるようなことは憚るだろう。CNNなどが放送する映像ははかり知れぬ浸透力と執拗な反復力を持ち、アメリカの消費者や納税者の耳に「自爆攻撃」という言葉を毎時百回もたたき込む。これに対し、パレスチナ側が対抗する努力を怠ってきたのは最大の怠慢である。例えば、ハナン・アシュラウィやレイラ・シャヒ-ド Leila Shahid (PAフランス代表)、ガッサン・ハティーブ Ghassan Khatib (ジャーナリスト、Al Quds大学Institute of Modern Media所長)、アフィーフ・サフィーイAfif Safie などのような人々をワシントンに待機させ、CNNをはじめとする各放送局に随時出演してパレスチナ側の話を聞かせ、前後関係を説明して理解を求め、悪いところばかりではなく肯定的な価値も持つ存在として、倫理面や叙述的な側面も認識させることもできるはずだ。このことを、電子コミュニケーション時代における現代政治の基本的教訓の一つだと認識できるような将来の指導体制が、わたしたちには必要だ。 それが理解できていないことが、今日の悲劇の一部なのだ。

3) 唯一の超大国が支配する世界においては、その超大国を熟知し深い知識を獲得することなしには、政治的に機能し責任をとろうとしてもまったく無意味である。アメリカについて、その歴史、制度、潮流と奔流、政治と文化についての知識を備えること、そして何よりも完全に使いものになる言語力が不可欠なのだ。アラブ諸国にありがちなように、わたしたちのスポークスマンの話しぶりは、情けないほどたどたどしいお粗末な英語で、アメリカについて愚劣きわまりないことをしゃべり、そのお情けにすがり、ののしったかと思えば、またすぐ助けを請うという、泣きたくなるほど情けない初歩的な無能をさらけだしている。アメリカは一枚岩ではない。 わたしたちの友人もいるし、これから友人になってくれそうな人々もいる。わたしたちの解放運動の一環として、合衆国におけるわたしたちのコミュニティと彼らが所属するコミュニティを開拓し、動員し、利用することは可能なのだ。それは南アフリカの人々が彼らの解放闘争において用いた戦術と同じものであり、アルジェリア人がフランスで行なったものとも同じである。計画と統制と調整。わたしたちは非暴力の政治を全く理解していない。そのうえわたしたちは、ANC(アフリカ民族会議)が南アの白人たちに呼びかけたように、相互の尊重と一体化の政治の一環としてイスラエル人に直接呼びかけることの威力も理解していない。共生が、イスラエルの排他主義と好戦的態度に対するわたしたちの回答だ。これは一方的に折れることではない。団結をつくり出すことであり、それによって排他主義や人種差別主義や原理主義を孤立させようとするものだ。

4) わたしたちが自分自身を知るためのもっとも重要な教訓は、イスラエルが現在占領地で行なっている行為の恐ろしい悲劇にはっきりと現れている。結局のところ、わたしたちは一つの民族、一つの社会なのであり、イスラエルがパレスチナ自治政府に加えた猛攻撃にもかかわらず、わたしたちの社会はいまも機能している。わたしたちが一つの民族である理由は、わたしたちにはちゃんと機能している社会があり、一つの民族としてのわたしたちが経験してきたありとあらゆる嫌がらせ、歴史の残酷な回転、不運、悲劇にもかかわらず、その社会は(過去54年間続いてきたように)これからも続いていくからだ。イスラエルに対するわたしたちの最大の勝利は、シャロンや彼の同類たちにはそれを認識する能力が欠けているということだ。それゆえに彼らは、その巨大な力と非人間的な残虐性にもかかわらず、いずれは敗退する運命にあるのだ。わたしたちは自分たちの過去の悲劇と記憶を克服しているが、シャロンのようなイスラエル人たちにはそれができていない。彼が墓場に持っていくのは「アラブ殺し」の名前だけで、政治家としては自国民に動揺と不安の増大をもたらした失敗者として記憶されることになるだろう。もちろん彼があとに残すものは一人の指導者の遺産であり、これから来る世代の足場となるもののはずだ。だが、シャロンもモファズ(参謀総長)も、また彼らと共にこの死と大虐殺のサディスト的なキャンペーンを遂行している者たちは皆、その後に残すのは墓石だけということになるだろう。否定は否定を増殖させるだけだ。

パレスチナ人としては、わたしたちは、潰しにかかるあらゆる試みをかいくぐって生き延びてきた一つのヴィジョンと社会を残したと言うことができると思う。これはかなりすごいことだ。それは、わたしやあなたの子供たちの世代のためのものであり、彼らが希望と忍耐を持って批判的かつ理性的に進んでいくための出発点となるはずのものだ。

Al-Ahram Weekly Online 4 -10 April 20 Issue No.580


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